ヨシュア記1章1〜18節「インマヌエルの確信に立つ」

 

世代の継承

 このヨシュア記の冒頭が記していますのは、ひとつの時代の転換点です。主の僕モーセに導かれて、エジプトの強制労働からの解放を経験した最初の世代が終わり、新しい指導者ヨシュアに率いられた次の世代が約束された安住の地を目指します。神の御旨の内にある大きな御計画は一つであって変わりません。それはアブラハムに与えられた祝福の約束です。創世記の12章の初めにこう書かれています。

 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。(2—3節)

 ここにイスラエルが選ばれた理由が示されています。神はすべての人間に祝福を与えようとなさっています。罪によって堕落した世界が、天地創造の初めにあった完全な祝福へと還って行くことがアブラハムに示された神の御計画です。そしてアブラハムに続くイスラエルの歴史は、その御計画が実現する一つ一つのステップとして聖書に記されます。モーセの世代は、出エジプトという大きな救いの出来事を体験して、主なる神と契約を結んで神の民となりました。神の民イスラエルは地上に置かれた祝福の源として、モーセを通じて語られる神の言葉に従って旅をします。主なる神はアブラハムに対して土地を与えるとの約束をされました。創世記15章では、「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」と、その土地が示されています。モーセに導かれた民は、アブラハムに約束されたその土地を目指して旅を続けましたが、最初の世代にあってはその目標は達せられませんでした。モーセを含めて初代のイスラエルは、約束の地を目の前にしながら、そこに入ることなく地上での役割を終えました。

 一つの世代が終わっても、神の約束は次の世代に受け継がれます。モーセの後継者にはヨシュアが選ばれていました。今度はヨシュアに率いられた民が、約束の土地を目指してヨルダン川を渡ります。川を渡りきれば、そこがカナンの地、アブラハムに与えられた約束の土地です。モーセの世代が川を渡れなかったのには理由がありました。それは、神の約束を信じきることができなかったからです。そこがどのような土地であるかを偵察したのですけれども、その土地の人間には敵わないと恐れをなしてエジプトへ帰ろうとしました。そこで初代イスラエルは荒れ野で生涯を終えることとなり、初めの志は次の世代に託されました。

 モーセの後を継いで先頭に立つヨシュアに対して、神は「強くあれ、雄々しくあれ」と繰り返し呼びかけます。「うろたえてはならない。おののいてはならない」(9節)。前の世代は、うろたえ、おののいて、安住の地を目の前にしながら世を去りました。ヨシュアはそれを反面教師にして、神が定めた次の目標へ敢然と向かいます。

 ヨシュアを始めとする新世代の者たちは、モーセの世代に優る力を持っていたわけではありません。特に、モーセとヨシュアの関係を問えば、ヨシュアはモーセの「従者」に過ぎません。それは、モーセが世を去った後もそうです。「強く、雄々しく」振る舞うことのできる理由は、ヨシュアの指導力や人々の経験や才能にあるのではありません。そのことは、この1章にも明らかにされています。新しい世代がヨルダン川を渡って土地を獲得することのできる理由は、ただ神にあります。

 今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。

「わたしが与える」と神が言われます。つまり、それは神がすでに決めておられることです。だから、ヨシュアたちに求められているのは、その通りに従うことです。年間聖句に選んだ5節・6節では、次のように告げられます。

 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。

ヨシュアの任命は神によるものであって、神がヨシュアと共におられて、かねてからの約束を必ず果たされます。「強くある、雄々しくある」とは、ですから、信仰のことを指しています。神を信じる心のありようです。むやみに自分の力を過信するのでもなく、時の運に任せるのでもなく、神がお告げになったことは真実であると確信して目標に向かって進んでゆくことです。

 私たちが今年の聖句から心に留めたいのは、まずこのことです。私たちの信じる救いは確かです。ヨシュアと同じ名を与えられたイエス・キリストが私たちの導き手です。イエスは真のインマヌエルであって、人が探し求める神はイエスと共にあります。主イエスが私たちになさせてくださることは、すべて御旨に適って神の国のためにささげられます。私たちが自分で立てた計画がその通りになるとは限りませんが、私たちが願うのはそのことではなく、神の御旨が果たされることです。神がアブラハムに示された大きな目標は、キリストの教会に引き継がれて世の終わりを目指します。私たちはキリストにあって祝福の源とされて、世の終わりに至るまで福音を宣べ伝え、神の愛を手渡してゆきます。そうして、神の祝福を携えて世界の至る所に遣わされているのが私たちです。私たちが希望を失わないで、挫けないでいられるのは、神が私たちを通してそれをなしてくださると信じるからです。

御言葉に導かれて

 ヨシュアに与えられたのは、ただの励ましの言葉だけではありません。8節にありますように、ヨシュアの手元には「律法の書」が残されています。モーセは「顔と顔とを合わせて神と語り合った」特別な僕でした。その偉大なモーセが語り伝えた神の教えが「律法の書」となってイスラエルの新しい世代を導きます。「強く雄々しくある」ことのできる第二の理由は、聖書にあります。ヨシュアがモーセの従者であり続けるとはそのような意味です。ヨシュアはモーセに優ることを求められてはいません。むしろ、「わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」と命じられます。実際、このあと『ヨシュア記』で記されるのは、モーセの律法に忠実に従って土地を獲得して行くイスラエルの姿です。

 御言葉と共に歩むことが勇気の秘訣です。

 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。

詩編の第一編は御言葉を昼も夜も口ずさむ人の幸いを、豊かな水の流れのほとりに植えられた木に喩えて歌っています。自分や他人を頼みとして人生に指針を失っているこの世界に、人が生きる目的を示し、人生の確かな方向付けを与えてくれるのが聖書です。旧約の律法はイスラエル民族の掟として歴史に限界づけられていましたけれども、キリストの福音は律法の精神を万人に開放して、すべての人が神とともに生き、神に生かされ、神のために生きる喜びを与えられるようにしてくれました。「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」とは、現実の味のない口約束ではありません。聖書を通して「昼も夜も口ずさむ」ことのできるほどの近さで、神は私たちに寄り添っていてくださいます。私たちが「強く雄々しくある」のは、聖書の励ましがあるからです。

インマヌエルなるイエスに従う

 こうしてヨシュアは主の僕モーセの言葉に従って、強く雄々しく、約束の地を目指しました。志を新たにしたのはヨシュアばかりではありません。イスラエルの民には結束が求められました。ヨルダン川を越えてカナンの地を獲得することは新世代に託された事業に他なりません。それはイスラエルの民自身のためであるとしても、それは神が行う事業です。そして、それを実行するにはイスラエルの結束が必要でした。イスラエルの人々は、このとき志を新たにしてヨシュアのもとに結束しました。民の役人たちは「三日のうちにヨルダン川を渡る」と、民の隅々に至るまで備えをするように呼びかけました。ルベン人、ガド人、マナセの半部族は、既にヨルダン川手前の土地を与えられていて、自分のためには川を渡らなくてもよいのですけれども、民全体が安住の地を獲得するために一致するよう求められました。そして、人々はその呼びかけに答えてヨシュアへの服従を誓いました。モーセに従うヨシュアを通して神がお語りになり、ヨシュアとともに神がおられることを信じたからです。

 神の御業を為すために、私たちにも結束が求められます。ひとり一人が遣わされている場所は違っていても、教会にあって私たちは一つの体に召されています。「主が共におられる」との確信は、イエス・キリストが私たちの主であり、私たちの間で生きて働かれるとの信仰に基づく、この交わりの中で与えられます。また、ここで共に集って聖書の教えを聞き続ける、御言葉に対する信仰からもたらされます。「インマヌエルの確信に立つ」ことを目標に、ここに集うすべての兄弟姉妹に信仰の導きが与えられることを心から願います。私たちの先頭に立つ主イエスほど「強く、雄々しく」この世の現実に立ち向かっておられる方はありません。私たちはその後に従って、どんな困難の中でも、ただ信じて、主と共にあって、勇気を保ちたいと願います。

祈り

救い主イエス・キリストにあって、確かな祝福を備えておられる天の父なる御神、私たちはあなたの御言葉に従って、今年も教会の営みを通してあなたに仕えて参ります。その志をいただいたひとり一人にインマヌエルの確信を与え、すべての困難に立ち向かってゆく勇気と力を与えてください。西神教会に召された私たちが力を合わせて、あなたの御国を目指して歩みを進めることができるように、キリストにあって一つであらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。