信教の自由を守る教会の務め

イザヤ書62章1-12節

 

信教の自由を守る教会の務め

 毎年2月11日は「信教の自由を守る日」と定めて多くの教会ではそれに相応しい行事を行います。改革派教会では中会毎に2・11集会を開き、講演を通して信教の自由の大切さを学び、教会の一致をはかります。他教派でも同じような集会が各地で催されます。

 2月11日は、かつては日本建国の神話に基づいて「紀元節」と呼ばれたのですが、1966年から国民の祝日に加えられて「建国記念の日」となりました。「建国記念日」ではなくて「建国記念日」であるのは、神武天皇によってこの日に建国されたということが史実ではないため、あくまで国が始まったという出来事を記念する日にすぎないからだそうです。

 キリスト教会がこの日を敢えて選んで「信教の自由を守る日」としているのは、「紀元節」に表されるような神道のイデオロギーが政治的に利用されることに反対するためです。日本国憲法で保証されている信教の自由と、政教分離の原則とが正しく守られる民主的な社会を日本のキリスト者たちも望んでいます。

 政教分離と言えば、政治は宗教に干渉せず、宗教は政治に関与せず、とそれぞれの領域を弁えることになりますが、宗教が文化や教養としてしか評価されない今日のような時代には、政治の優先が当然と思われてしまいかねません。私たちキリスト者でありましても、政治の問題は深刻だけれども宗教は後で構わない、というような風潮に流される危険がありますから、信仰の根を深く掘り下げておかなくてはなりません。宗教は政治に関与せず、とは制度上の問題です。神を信じるということは私個人の全人格と生活全体とを規定しますから、信仰の内には政治もまた視野に入ります。信仰者は皆、各々の信仰に基づいて政治的判断をも下します。それは、神道であろうと仏教であろうと、真面目な宗教であれば他のどの宗教でも同じはずです。そこで政教分離の原則は、各宗教が互いに平和を保つためにも確保されていなければなりません。

 

国家に対する見張りの役割-30周年記念宣言

 国家と宗教との間にある緊張は、日本の社会においてはいわゆる「ヤスクニ問題」に先鋭化して現れますが、日本の教会は憲法で保証された「信教の自由」と「政教分離」を盾として「見張り」の役割を果たします。ここには先の大戦下で経験した教会の大きな躓きに対する悔い改めという信仰による動機が働いていますし、私たちキリスト教会が聖書の福音に則って教会を建て挙げて行くことが、平和な日本の国をつくるために欠かせないと謳った、改革派教会創立宣言の精神とも関わります。

「改革派教会創立30周年記念宣言」では、国家に対する教会の義務について、こう述べています。

あがない主イエス・キリストは、人間生活の全領域にわたってわれわれの主であられる。われわれがこの主のものでないような生活領域は、どこにもあり得ない。したがって、キリスト者は、政治・経済・文化・その他の社会活動や社会奉仕に、キリストのしもべとして参加する。キリスト者は、主のゆえに国の法律を尊び、財的にも、身をもって直接的にも、あらゆる法定義務を果たすため、常に最善をつくす。また、立法・行政・司法における不正、良心の侵害などの弊害を矯正するために常に努力する責任がある。さらにキリスト者は、国民として、イエス・キリストの主権を奪おうとする政府や権能機関にたいしては、義務を拒否することばかりか抵抗することをも神のみことばによって求められる。

 私たちの信仰は、自分の身近な生活領域にだけ関わるのではなくて、個人個人を教会に束ねて、一人一人を世界的な脈絡の中に繋ぎます。関心があるかないか、はそれぞれに程度があるとしても、キリスト者であるということは、既に一人一人が教会を通して、社会に向けて福音の証をする者であることを意味します。私たちの信仰は、いつでもどこでも、あらゆる場所で、あらゆる人との繋がりの中で試されています。「あなたがたは地の塩である」という主イエスの言葉はそういう意味です。

 

預言者的教会への召命

 教会の「見張り」としての役割は、旧約聖書から幾通りか示されます。『イザヤ書』62章6節は次のように始まります。

  エルサレムよ、あなたの城壁の上に、わたしは見張りを置く。

「見張り」とは城門や塔に昇って、城壁に囲まれた町や陣営の内外を監視する役割です。戦のときには敵の襲来に備える、ということもありますが、「見張り」つまり「門衛」には、町の人々に時刻を告げるという日常的な役割もありました。特に夜明けを告げる彼らの働きは、イスラエルの信仰者たちによって救いの到来を指し示す重要な象徴となりました。『詩編』130編には次のような美しい詩が生まれています。

  わたしの魂は主を待ち望みます、

見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。

『讃美歌』176番にも「起きよ、夜は明けぬ」と歌われますように、夜明けの太陽の到来は、救い主の到来を表します。そして、長い夜を待って、暗闇の中に光が差し込んできた時に、見張りの役割はその光の到来をいち早く人々に告げるために、大きく呼ばわることでした。

「見張り」の役割は、確かに目を凝らして「見る」ことから始まりますが、その実際の働きからは更に二つの特徴を挙げることができます。まずは、今お話ししたように、「見張り」はしるしを見つけてお終いではなくて、見つけた後は伝えなくてはなりません。「見張り」は同時に「伝令」です。

 今日の箇所の6節では、続けて二度も「決して沈黙してはならない」と繰り返されます。これは、「主に思い起こしていただく役目の者」と言われる「見張り」に呼びかけられた言葉です。

 ここでの「見張り」は預言者です。『ハバクク書』2章でも、預言者が「見張り」と呼ばれています。

わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、

神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

預言者が「見張る」のは神の答えを見るためです。そして、預言者は見たこと、聞いたことを、神の言葉として人々に語り告げます。

「見張り」である預言者は、彼が見たしるしの中に神の言葉を聞き取ります。その言葉は人々が神に背いた時には警告となります。捕囚期にバビロンで活躍した預言者エゼキエルもまた神から「見張り」に任命されました(3章17節)。そして彼の役割は悔い改めない民に対して警告を発することでした。後には彼の仲間であった別の預言者が見張りとされますが、そこでは次のように振る舞えと命じられます。

彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。                                             (33章3節、5節)

エゼキエル自身もまた、見張りとして民に警告を発し、神の言葉を伝える役目を同じように果たすよう求められました。

 教会が見張りの役目を果たすという時に、まず私たちが心に思うのは、この「警告を発する」という預言者の働きについてでしょう。語った言葉がどう相手に通じたかはともかくとして、語らなかったために相手が罪に陥ったというような場合には「見張り」の責任が問われます。警告を発するのは流血を避けるためです。それが、神が求めておられることです。しかし、教会が恐れて語るのを止めてしまうならば、それでもし血が流されるような事態に陥った時、責任は語らなかった私たちにあります。教会はそういう預言者的な使命を与えられているがために、世の動きに対して敏感であらねばなりません。「決して沈黙してはならない」のは、まずはそのように警告を発するという務めのためです。

 しかし、教会が預言者として社会に対して語り続けるのは、もう一つ積極的な側面があります。しるしを見て、神の言葉を伝える見張りの役割は、救いの到来を知らせること、すなわち、福音宣教です。イエス・キリストのうちに、神の救いが現れました。それは、暗闇に光が差し込んだ出来事でした。聖書からそのしるしを受け取った私たちは、それを語るために黙ってはいられません。これもまた「見張り」の役割に違いありません。

 そもそも、エゼキエルが語ったような警告も、イザヤが伝える福音の告知も、実に一つのことを語っています。つまり、神の到来です。神に背いた結果、悲惨が身の上に及ぶという裁きの警告を聞くことがなくては、救いの来る方向に向き直ることもありません。太陽が昇ったことを知るためには、今まで闇夜の中にいたことを知らなくてはなりません。イザヤが救いの到来をエルサレムの人々に語った時、彼らは捕囚の裁きを十分に味わっていました。捕囚の時代には「主の沈黙」がありました。神の言葉が聞けなくなってしまう。神からの答えが途絶えてしまう、ということです。イザヤは、そうした神の沈黙を招かないように、語り続けよ、と見張りの者に呼ばわりました。

 「見張り」が「主に思い起こしていただく役目の者」と言われているのは、そこに「見張り」のもう一つの働きがあるからです。「見張り」は預言者として、人々に語るばかりではありません。神に向かって語る役目もあります。それは民を代表して、ということですが、教会は世を代表して神に呼ばわる「見張り」の務めを負っています。「主に思い起こしていただく役目」とは、もはや、翻訳というよりも解説になっていますが、元の語は、「主に思い出させる人々」ということです。いつも主に覚えていただかないと沈黙を招いてしまう。では、どうすれば、いつも思い出していただけるのか。一つは、預言者たちのように、民の執り成しの祈りをささげることによってです。教会は、執り成しの祈りをささげることで、神に覚えていただけるようになります。世に対して警告を発するばかりでなく、福音を積極的に示しながら国家と為政者たちのためにも祈ります。

 さらに、もう一つ「見張り」ということから示されるのは、そもそも「見張る」という語は「守る」という通常の言葉です。この語で示される「守る役割」については、門衛、守衛が具体的な仕事の一つですが、その門衛の仕事にしても、『ネヘミヤ記』13章を見ますと、安息日を正しく守るために門の開け閉めを行う役割となっています。警備だけが任務ではなくて、むしろそれよりも、安息日に商売をさせない、というような、民の務めを守ることがその役割でした。『歴代誌下』13章には、聖所で日毎の務めを守る人々のことが書いてあります。日毎の犠牲をささげ、香をたき、テーブルにパンを供える。夜になれば燭台に火を灯す。そういう神に対する務めを忠実に守ります。城壁の上で見張る役割にしても、それは長い時間、外を見守る弛まない働きです。うっかりしるしを見逃すと、町が危険に陥ります。つまり、「見張り」は神と民に対する忠実な務めであって、そういう神に対する働きかけがあってこそ、神の沈黙を招かないで済む。神の言葉が語られない、聞かれない、と言う事態が避けられる。そういう私たちの弛まない礼拝、忠実に行い続ける礼拝行為が、すなわち、神に対しても社会に対しても沈黙しないで語り続ける、私たち教会の「見張る」行為だと言えるでしょう。

 

キリスト者の社会的使命

 私たちは、教会の内外に対して「見張る」役割を神から委ねられています。それは、キリスト教会の社会的な使命です。私たちの弛まない礼拝と、この世に対する働きかけとは一つにして、神の言葉を語り続ける働きです。「決して沈黙するな」と預言者は語っています。それは、まだ救いが完成していないからです。やがて、神の真実がすべての人々の目に明らかになるその日まで、教会は沈黙してしまうわけにはいきません。神が求めておられる平和と自由とが脅かされる時には、臆せずに教会は警告を発することが必要です。そして、キリストによる救いの到来をはっきり告げて、罪の重荷に苦しむ人々に自由と解放とを語って行かねばなりません。信教の自由を守るために集会を開くということも、教会の宣教の業の一つに数えられます。「見張り」の役目を積極的に果たすために、私たちはもっと行動的になってよいと思います。聖霊の賜物を願って、神の宣教のお働きに、もっと積極的に用いていただきましょう。

祈り

すべての御支配を御子に託しておられる天の御神、信教の自由が政治の現実の名のもとに、危うくされそうな今日です。あなたをおいて他に、何かもっと大切なものがあるかのようです。しかし、あなたは私たちをお見捨てにならず、イエス・キリストを通して語り続けてくださいます。私たちが主の口となり足となって、日本の社会で「見張り」の役割をきちんと果たすことができますように、あなたに忠実な者となさせてください。日本の教会が語るべき時期を逸してしまうようなことになりませんように、一致して世に訴えることができるよう力をお与えください。本日・明日と2・11集会が各地でもたれます。どうか、一つ一つの集会に祝福を与え、集う兄弟姉妹を励まし、すべての集会を通してあなたの言葉を伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。