箴言1章8-19節

子どもを育てる聖書の知恵

 

はじめに

今朝は当教会の春の特別伝道集会にようこそお越しくださいました。キリスト教会の礼拝は、毎週休むことなく、こうして日曜日に行われていますが、キリスト教に興味はあっても、なかなか敷居が高くて教会堂に入ることができなかった、という方もおられたのではないかと思います。しかし、教会では、いつでも初めての方を歓迎する用意をしています。最初は牧師がする聖書の話は難しくて分からない、と感じる方もあると思います。それでも、聞き続けるとだんだん聖書のことが分かってきます。また、はじめは賛美歌を歌いたい、などの理由だけでも構いません。礼拝は、本来、全ての人に開かれた公のものですから、いつ来ていただいても構いません。

いつもの礼拝では、聖書の特定の箇所から続けて学ぶようにしています。私たちの教会では、今、新約聖書の『ヨハネによる福音書』を学んでいます。今日は、特別な機会ですので、多くの方に関心を持っていただけそうなテーマを選びました。今日のテーマは「子育て」です。私はその専門家ではありませんが、キリスト教でも子育てはとても大切なことですから、聖書の教えに基づいて教会が蓄えている知恵があります。それを今日は皆さんにお分かちしたいと思います。その全部をお話しする時間はありませんので、今回がさらに深く学ぶためのキッカケになればと願っています。

現代社会における子育ての悩み

 子どもを育てる苦労は親の特権とも言えると思いますが、子育ての悩みも尽きません。現代社会では子育てに関する情報が溢れていて、かえって親御さんたちの不安をかきたてている、とも言われます。臨床心理士の信田さよ子さんによりますと、「子育てとは、日々の対応に追われながら、明日はどうなるだろう、これでいいのかという不安を抱えながら行われているものなのです。それでももっと大きな喜びや楽しみによって、かろうじてバランスをとっていくものだと思います」とのことです。

 また、京都大学教授の落合恵美子さんは、「日本はなぜ子育てが世界一難しい国になったか?」という記事で、子育てに不安をもたらす要因として、第一に「父親の協力の欠如」があり、第二に、母親が社会的に孤立しがちなこと、という研究結果を紹介しています。落合さんは、「昔も今も、家族だけで立派に子どもを育てられた時代など無かった」と指摘します。世の中が近代化してゆくにしたがって核家族化が進み、子どもの数が減少する中で、地域の育児ネットワークの在り方もまた変わってきています。そこで十分なサポートが得られないまま孤立したお母さん方が沢山いるのが今日の日本の状況です。

 そうした中で、カウンセリングの立場からは、具体的な対処療法として、夫婦間・親子間に生じている機能不全を解消したり、言葉による抑圧も含むところの虐待防止を図る努力がなされます。他方、教会で、私たちが聖書を通して学んでいるのは、そうした対処療法ではなくして、もっと大元に関わることです。昨年105歳でお亡くなりになった日野原重明さんをご存知の方も多いと思いますが、日野原さんが書かれた本に『子どもを育てる聖書の言葉』という小さな本があります。今回の集会のテーマと似ていますけれども、たまたま同じになっただけで真似したわけではありません。その本の中で、日野原先生はこう言っておられます。

 子どもたちが、いのちを愛する大人に成長していってほしい。それが、私の切なる願いです。もし友だちに殴られることがあっても、「それは赦すが、二度とやってくれるな」と強く言える子どもに育ってほしいのです。赦す気持ちを持つ子どもが大きくなって、いじめや、大人のけんか、国と国との争いなど、人間同士が殺し合うことを避け、世界平和の為に生きる人となっていくことを望みます。そのような意味で、子どもこそは私たちの希望の星だと私は思うのです。(60頁)

 こうした日野原先生の思いの根底にあるのは、聖書から教えられるところの人生観です。私たちは子どもをどう育てていったら良いのか。親として子どもに何を伝えたら良いのか。そもそも、神さまは私にどうして子どもをくださったのか。私の子に何を望んでおられるのか。そうした問いに対して、聖書の言葉が時に応じて光を与えてくれます。

子どもを授ける神

 子どもは授かりもの、と昔からよく言われてきました。確かに、聖書からもそのように教えられます。旧約聖書にある『詩編』では次のように歌われます。

  見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。(127編3節)

 他方、聖書の話では子どもが出来ないで苦しんだ女性が頻繁に現れます。例えば、『創世記』30章をお開きください。ここに登場する族長ヤコブには、ラケルとレアという二人の妻がありました。旧約聖書の昔は一夫多妻であった時代もあります。ラケルとレアは姉妹でしたが、ヤコブは本当のところ妹のラケルと結婚したかったのですが、伯父に騙されて、姉のレアを先に娶ることになりました。そこで神は、夫に愛されないレアを憐れんで子どもを授け、ラケルには子どもを与えませんでした。そこで、ラケルはこう言ったと記されています。

 ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」(1−2節)

 子どもは神からの授かりものです。それは夫にもどうにもならない事柄でした。今でも不妊治療が盛んで、教会でも子どもができないで悩んでおられるご婦人が時々おられますが、聖書の昔では妻の立場はもっと深刻だったと考えられます。

 他にも似たような例があります。同じく旧約聖書の『サムエル記』です。『サムエル記上』を開いていただきますと、冒頭にエルカナと二人の妻、ハンナとペニナの話があります。エルカナはハンナの方を愛していましたが、子どもができたのはペニナの方でした。4節あたりから読んでみましょう。

 いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」(4−8節)

夫の言葉はあまり気が利いたもののようには思えませんが、いかがでしょうか。そこで、ハンナは神殿に祈りに出かけ、神に願をかけて子どもを授けてもらえるよう訴えます。すると、ハンナの祈りは聞き届けられて、ついに男の子が生まれます。この子が、後にイスラエルに王をもたらす大預言者サムエルになります。

 ここには聖書ならではの特別な意味があって、不妊の妻が懐胎して男の子が誕生する出来事は、不可能を可能にする神の奇跡的な力がそこに働いたことを表します。そうして生まれた男の子には、単に不幸な立場にあった女性への神の憐れみばかりでなく、その男の子を通して神が閉塞した時代を切り開いて未来を導いてゆかれることが意図されています。日野原先生が言われた通り、子どもは未来への希望なんですね。

子どもを育てる親の義務

 だからこそ、子どもを大切に育てることが親の務めです。聖書では、子どもを育てる親の義務に先立って、両親に従う子どもの姿勢の方が強調されます。有名なモーセの十戒が旧約聖書にありますが、まずそこを開いて見ましょう。『出エジプト記』20章です。2節から十戒の本文が記されますが、12節からをご覧ください。

 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

これは、神とイスラエルとの間で結ばれた契約の言葉ですが、こういうことを小さい頃から教えられてイスラエルの人々は育ちます。それを教える責任は親にあります。ですから、子どもたちは家庭にあって両親を尊敬しなければなりません。「土地に長く生きることができる」とは、そこに将来にわたる平和がかかっている、ということです。

 この教えが重要なのは、単に家庭の秩序が守られる為である以上に、言葉を介しての教育にはこのような権威付けが必要になるからです。ここにある父母と子との間にある関係は、神と人との関係にも置き換えられます。神は人間に言葉・教えを与えて、人間が正しく生きることができるように育てます。神と人間とはそのような関係にある。それは親子の関係に例えられるわけです。そこで言葉を語る者・教える者には権威があります。神が権威をもって語るとは、そこに責任があるということです。父母を敬え、そうすれば、土地に長く留まることができる、とは、神が責任をもってそうされる、ということです。ですから、親の権威というのもそれと同じで、子どもを従わせなければならない。躾なければならない。それは、ただ単に親だから、産んでやったのだから偉いというのではなくて、責任があるからです。また、子どもがその言葉に従えば、まともな大人になれるという報いがあるからです。

 初めに読んだ『箴言』1章8節はこうでした。

  わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。それらは頭に戴く優雅な冠/首にかける飾りとなる。

父の諭し、母の教えが将来の宝となる。だから子どもは聞かなくてはなりませんし、親はそうした知恵をもって語らなくてはならない。

 最初に紹介した心理療法士の信田さんは、キリスト教の教育に触れながら、具体的な子どもの躾についてこう述べておられます。

 「~しなさい」というとき、親は規則や行為を押し付けるのですから、当然押し付けた責任を背負うことになります。キリスト教圏では、神様という存在が命令を正当化します。神様が見ている、神様の許しを乞うのだ、という視点があるために、親は明確に子どもに「~すべき」と伝えて、「やめなさい」と断定して命令できるのです。神の存在が親の正しさを保障してくれるということです。

 いっぽう、日本では、親の命令は単に権力乱用であり、威張っているだけだ、つまり虐待だと考えられがちです。また、子どもに嫌われるのが怖いというのは、判断の主体を子どもに押し付けて、拒否した子どものせいにしていることになります。このように、親が責任をもって子どもに「○○してはいけません」「○○しなさい」と発言しないことから見えてくるのは、責任をとることに対する不安や怯えでしょう。もっとはっきり言えば、責任逃れの姿勢が「お願い」口調にあらわれていると思います。

 周囲の人がいやがるからやめて、とは、何とも卑怯な言い方に思えます。「おまわりさんが来るよ」と脅す親は昔からいましたが、その場にいる周囲のひとたちのせいにするなんて、大きな迷惑以外の何物でもありません。神様が見てるから、と言えないので、「みんなが迷惑するから」という言い方になるのでしょう。これも、親の責任逃れです。育児だけではありません、あらゆる場面で現代は「引き受ける」ことを怖れるようになっている気がします。神や仏ではなく、日本には「世間」しかないといった学者がいましたが、こんな身近な言葉からもそれを感じとることができます。

教会で学ぶことの必要

 キリスト教では、子どもに教えなければならないことは聖書の教えです。聖書には神について信じなければならないことと同時に、人間について学ばなければならない道徳的な教えがあります。そこには先に紹介しました十戒のように、私たちが常識的に理解できるような普遍性をもった教えに加えて、イエス・キリストが新約聖書で語られた「罪を赦す」ことのような、極めて高度な倫理性をもった教えもあります。それらを自分の子どもに適切に教えることは、両親の手に負えることではないかもしれません。日野原先生は牧師の子でしたけれども、自分が教会で育ったのではない両親であれば尚更です。そこで、まず次の箇所を参照してみようと思います。旧約聖書の『申命記』21章です。その18節以下を読んでみましょう。

 ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。(18−21節)

 恐ろしい話だと思われるかも知れませんが、本当にこの通りのことが実施されたとしたら、現代の世界ではどれほどの子どもが死ぬことになるだろうかと思いますね。しかし、これは聖書の法ですけれども、実際にはこういうことにならないように、という掟です。そして注目すべき要点は、子どもを教育する責任の全てが両親の手に委ねられているのではなくて、町の責任になっていることです。とても両親の手には負えない、という事態も想定されているわけです。

 実際、聖書には子育てに失敗した例もたくさん出てきます。例えば、先に見た『サムエル記上』では、預言者サムエル誕生の次第がありましたが、そのサムエルが老人となって二人の息子が父の仕事を引き継ぎます。8章のところです。ところが、その息子たちについて聖書は「この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」と書いています。それで、人々はサムエルに代わって新しい王が必要だと迫りました。そして、その後に現れるのがダビデ王です。ダビデは神に選ばれて王になったイスラエルの英雄です。彼は苦労して王座に就きますが、不倫を犯した罪の呪いが息子たちに降りかかって、4人の息子を失う羽目になります。

 残念ながら、神の教えである聖書があれば、家庭の問題や子育ての問題が全て片付くわけではありません。教会に通っている信者の家庭であっても子育ての悩みは深刻です。けれども、やはり私たちは、教会に来て、聖書から学んでいて本当によかったと思える点が多々あります。

 「父と母を敬え」と十戒にありますけれども、子どもたちは常に親を見て成長します。先ほどはお読みしませんでしたが、十戒には次のような言葉があります。『出エジプト記』20章5節以下です。

 わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(5−6節)

つまり、親の影響は子孫に及ぶとのことでして、ここから親たちは、子どもが将来どうなるかと考える歳に、まず自分のことをよく吟味しなければならなくなります。自分の信仰が確かで、神の教えを忠実に守るなら、それを見て子どもたちは健全に育つでしょうが、自分が神の教えを蔑ろにして生きているのであれば、その報いが子どもたちにも世代を越えて伝わってしまう。だから、親がまず、聖書の教えに学び続けなくてはならないわけです。子どものことを思うなら尚更、まず自分のことに気を配らねばなりません。

 教会は、その意味では聖書に学ぶ学校です。実際にはそれ以上のものがありますが、まず親たちがキリストを模範にして生きる仕方を学ぶために集っています。そこで子育てについて大いに助けになるのは、子どもを育てるのは親だけではないことです。

 これは教会で育てていただいた私にも経験があります。教会に行くと父や母がたくさんいます。私の母はもう数年前になくなりましたけれども、今でも元気でいてくれる同世代の方々がいて、時折便りをくださいます。キリスト教会にも色々ありますが、私たちの教会は、改革派教会と言いますが、この点かなり自覚的です。例えば、私たちの教会には幼児洗礼というものがあります。生まれて間もない赤ちゃんに洗礼を授けます。その意味は、信者の子どもは信者として育てられるということです。もちろん、子育ての第一の責任は両親にあります。その特権を、教会でも国でも誰も取り上げることはできません。しかし、同時に教会はその洗礼を受けた子を、共同で育てて行く責任を持ちます。だから、大抵の場合、子育ての不安に陥った母親が、社会的なネットワークを失って孤立するという事態は避けられます。

 子どもたちは教会で自分の親のようなたくさんの大人たちを観ながら育ちます。さらには、その親から「父なる神」のことを教えられて育ちます。私が初めにそれを聞いたとき変な気がしたのを何となく覚えています。私の父親は家庭の中でやはり権威ある人として存在していました。厳めしい感じの人ではありませんでしたが、それは家庭の雰囲気でした。けれども、その父にも、さらに上の父がいる、とはどういうことなのか。確か、本当のお父さんは誰、と母に聞いたような気がします。その時、納得のいくような説明は両親からは得られませんでしたけれども、少なくとも、神さまの前ではみんな子どもであって、父は親であっても子どもなんだ、ということ。だから、父親も自分も子どもであることでは同じなんだ。でも、家にあっては父が父であって、自分が子どもなんだ、という家庭の構造を何となくイメージすることができました。これはおそらく、私が最も幼少期に抱いた社会認識だったろうと思います。

 さらに、教会に行くと兄弟姉妹がたくさんいました。現代社会の特徴の一つは少子化に伴う兄弟姉妹の減少です。ひとりっ子が増えました。私は4人兄弟の長男でしたから、仕事で不在の父に代わって自然に私が父のような役割を果たしていました。「俺の言うことは聞かなくてもお前の言うことは聞く」と兄弟たちについて父から言われたこともありました。教会には私を可愛がってくれた兄や姉たちが沢山いて、私は皆が大好きでした。自分より年下の弟・妹たちもいましたが、年が経つにつれてだんだん減って来たようにも思います。

 近年、教会に通う子どもたちの数がめっきり減っているのは残念なことです。けれども、今でも教会は子どもたちのセイフティ・ネットとして用いられているように思います。家庭に色々な問題を抱えた子がふとしたきっかけで教会学校を訪れます。そうすると年配の先生たちが子どもたちを心から歓迎してくれます。私が前に勤めた教会では、先生たちは皆60代のベテランでした。小学生の相手はキツいだろうと思ったのですが、先生方の愛情は子どもたちに確かに伝わりました。家庭に理解が得られたのが幸いでしたが、その後、長きに渡って教会に通い続けた子どもたちも、今年で中学生になりました。中には洗礼を受けた子どももいます。

 子どもを育てるのは確かに親の責任です。けれども、「私が何とかしなければ」と言う思いから一旦解き放たれて、神さまが子どもを育ててくださる自由の中で、改めて親としての自分の位置付けが出来るのも教会ならではの恵みです。

子どもを愛する親であるために

 私たちはどんな親になりたいでしょうか。自分の子に、どんな子どもに育ってほしいのでしょうか。当たり前のように、子どもを愛する親でありたいのであれば、まずは自分自身が愛されている子であることに気づくべきではないでしょうか。今日では、子どもへの愛が、かえって抑圧となり、その子を虐待している可能性もあります。しかし、聖書から私たちが教えられる神の愛は、決して押し付けがましくはありません。天の父は、私たちの罪や失敗をゆるして、私たちをいつも背後から支えてくださるお方です。聖書には、私たちがどのようにして生きるべきかも書かれています。そして、何が子どものためになるかは、私の思いよりも天の父がよくご存知です。だから私たちは、聖書の知恵に学び、子どものために祈って神を頼りにしながら、子育てに取り組みます。

 子どもを愛する親にとって、我が子と生きることこそが喜びであるはずです。未熟な子どもたちは手がかかります。私の時間を奪って行きます。けれども、それが、神が私に分け与えられた分と知って、子どもと過ごす時間を楽しむことが出来るならば、それは私たちが人生で味わう最も幸せな経験ではないでしょうか。そして、それは、神が私たちに教えておられる最も大切な教えの一つです。イエス・キリストは、大人たちが煩わしいと追い払う小さな子どもたちを身元に招いて、「天国はこのような者たちのものである」と言いました。子どものように、自分からは何もできない、小さな者たちこそが、ただ神がしてくださるままに、自分を天国に明け渡すからです。そこに罪人に過ぎない私たちの、人間としての本質が現れています。私たちが自分の子どもを喜んで育ててゆくことと、この世界でハンディを負っている人々を、同じ家族と認めて生きることが出来るかどうかとは、神の目の前では結び合っています。

 子どもの成長を祈りながら、その子と共に生きて行くことは、天国に至る道行です。多くの子どもたちが親の祈りに支えられて成長を果たしています。私たちが子育てにあって、子どものためにできる最も小さな、また、第一のこととしてすることは、神に祈ることでしょう。「母の祈りによって今の自分がある」と言う証は、教会の中で幾人もの方から聞きました。また、親が祈る姿を見て、子どもたちは親の愛情を確かめるのだと思います。あえて見せることが必要なのではありませんが、その祈りはキリストを通して確かに神に届きます。

 そして、子育てに疲れ、追い詰められた時、真に助けてくれる助け手は誰でしょうか。子どもが健全に成長を果たすために、2歳頃までに不可欠なのは、絆づくりだと言います。つまり、親がいつもそばに居てくれる安心感・安全感がそこで得られると言います。そうすると、子どもは他人や世界に対して安定したイメージを抱けるようになるそうです(前出、信田氏)。今は親となった自分が、そうした絆を与えられていなかったと気づくことがあるかも知れません。けれども、天の父は地上の誰よりも私たちの信頼に足るお方です。神は私たちの祈りを全て聞いておられます。イエス・キリストを信じるならば、私たちはキリストと結ばれて、神の子になります。天の父は、自分の子に対して、試練は与えても、最も良い道を備えていてくださいます。信仰に生きる人にとっては、天の神こそが、真の助け手であり、逃れ場です。

 今日は多くのことをお話ししたようですが、聖書のこと、キリストのことはまだまだ語り尽くせません。どうか、これからも礼拝に参加して、聖書の教えに触れ続けてください。そうすれば、子育てに悩む日々も、その他のことで悩む毎日にも、明るい光が差し込んでくるはずです。お祈りします。

 

天の父なる御神、子育てに悩む全ての親たちにあなたの励ましをお与えください。あなたがお望みになる通りに、子どもたちが与えられた命を喜んで生きていくことが出来るように、全ての家庭を祝福して居ください。将来に希望の持てない時代であるからこそ、あなたの助けが必要です。どうか、聖書に示されたあなたの真実な知恵が、多くの親たち・子どもたちの知るところとなりますように。今日、ここで礼拝を共にすることのできた方々を特別に祝福してくださり、その願いに答えてください。そして、長野佐久伝道所の交わりにこれからも加わることが出来るよう励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。