ルカによる福音書12章54節―13章5節

 

悔い改めの道

 

時代を見分ける

 今日は秋の特別伝道礼拝として、地域の方々に呼びかけて礼拝をささげています。教会がこのような取り組みをするのは、是非、多くの方々に聖書の言葉に触れていただきたいからです。そこでイエス・キリストのことを知っていただいて、人生の「新しい出発」をしていただきたいのです。キリストは、私たちがそれぞれにもっている不安や淋しさ、虚しさに対する神のお答えです。そこから始まる人生がある、ということを今日は心に留めて聞いていただければ幸いです。

 「新しい出発」と言いましたけれども、キリスト教信仰の言葉で言い換えれば「悔い改め」です。これまでの自分の人生を振り返って、改めて方向を見定めて新たな道に踏み出すことです。他人にそんなことを言われれば余計なお世話かもしれませんが、聖書から私たちにそう促しておられるのは神です。これを聞き流してしまえば決定的な時機を逃してしまいます。

 今読まれました箇所に、「(あなたがたがは)どうして今の時を見分けることを知らないのか」という、世の中に対するイエスの訴えがあります。「時を見分ける」ことが大切だ、と言います。作家の内田樹さんが、ある本の中で日本の現状を見つめながらこんなふうに書いています。

 日本はこれからどうなるのか。まっすぐに「滅びの道」を転がり落ちてゆくのか、どこかでこの趨勢に「歯止め」がかかるのか。正直に言ってよくわからない。今この文章を書いているのは3月末だけれど、本が出る頃に日本の政治がどうなっているか、私には予測がつかない。


もちろん「たいしたことは起きやしない」とクールに構えることもできるだろう。けれど、そういうことを言う人は「たいしたこと」が起きたときには仰天して絶句することになる。そのくせ、しばらくするとまたしゃしゃり出てきて、「きっと『こんなこと』が起きると思っていた。こんなのは想定内」としたり顔で言うのだ。そういうのを若い頃から腐るほど見てきた。


驚かされると人間の心身の能力は著しく低下する。だから、武道家にとって、「驚かされること」は最大の禁忌のひとつである。それに処するための方法も経験的に知られている。

 逆説的なことだが、「驚かされない」ための最も有効な方法は「こまめに驚く」ことなのである。「驚かされる」のは受動的なふるまいだが、「驚く」は能動的なふるまいだからである。ふだんからさまざまな種類の微細な変化に細かく反応していれば、地殻変動的な変化についてもそのかすかな「予兆」を感じ取ることができる。「風の音にもおどろかれぬる」詩人はいざ「秋が来た」ときにはそれほど驚かされずに済む。


 私が時事問題について論じるときに自分に課している心構えは「人が驚かないときに驚き、人が驚かされるときに驚かされないこと」である。それは要人警護のSPの心得とそれほど変わらないと思う。彼らは警護すべき人の通り道を毎日歩き、そこに何があるかを記憶する。それはリスクというのはつねに「ないはずのものがある」か「あるはずのものがない」というかたちで徴候化するからである。彼らのセンサーはそのいずれにも反応して、アラームを鳴動させる。それは言い換えれば、日々「風の音に」驚くということである。人が気づかない変化に気づくこと。それが巨大な危険を回避するためにもっとも有効な備えであることを経験は教えている。

内田さんによれば、時を見分ける方法は、「日々『風の音に』驚くということ」「人が気づかない変化に気づくこと」です。それが、取り返しのつかないカタストロフを回避するために有効だと言いますが、聖書でイエスがなさっている警告と相通じるものがあります。イエスの言葉によりますと、人々は雲の行方や風向きによって天候の予測をする程には、世の中のことに敏感ではありません。内田さんの言葉によれば、今の私たちも同じようだということなのでしょう。そういう時代にあって、世の中の動きに合わせて悪い方へ悪い方へと流されていかないように、私たちは敏感に時を見分けて備えておかなくてはならないわけです。ただ、イエスの教えは神の教えでして、そこには私たちの人生に関わる重大なメッセージが込められています。時を見分ける必要があるのは、日本の今の時代に対する危機管理の方法を学ぶばかりではなくして、私たちの命の行方に関して知っておかなくてはならないからです。今日読まれました聖書の箇所の最後に、イエスはこう言っておられます。

  言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。(13章5節)

悪い時代を見分けて、自分の人生についてしっかりと考えておきませんと、最後には滅びは避けられない、ということです。

判断の基準

 12章57節では、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われています。時を見分ける、ということは、何が正しいことで何がそうではないかを見分ける、自分で判断することです。「時を見分ける」とか、内田さんの言う、「日々驚く」とか、「風の音を聴く」とかは文学的表現でよろしいと思いますけれども、少し違う角度から、私たちの日常的な振る舞いに関わることで言えば、善悪の正しい判断を持つ、ということになります。弱い者が踏みにじられたり、不正が容認されているようなところに時代の悪さが認められて、来るべき破綻が予想されますけれども、それをきちんと見抜く目が必要になります。判断する能力というよりも、それを判断することのできる規準が自分の内にあるかどうかです。私たちの人生の中にどんな価値規準が打ち立てられているかという、道徳的・倫理的な問題です。先ほど紹介した文章に続いて、内田さんはこうも言っています。

 自分のふるまいについて個人として責任を引き受けることを免ぜられるときに、どこまで卑劣にふるまえるかで人間の質は考量できます。これは若い頃から経験を通して学んできたことです。「何をしても処罰されない」という条件を示されたときに「悪いこと」を思いつく人間がいます。その人が「そういう人間」だということはそのときまで、まわりの人間も、本人さえも知らなかったのです。〈中略〉それまでごく穏やかな人間に見えた人が、「処罰されない」という条件を示されると、どれくらい卑劣にふるまうか、僕は知っています。

周囲に合わせて自分の振る舞いを決める、というアジア的な生活感に慣れている私たちは、各々自分の内に価値規準をもち、正しく判断力を働かせるということが難しいのかも知れません。しかし、そこに落とし穴があって、「何をしても処罰されない」ということになりますと、人間の卑劣さ、愚かさによって、時代の流れに抗うことができなくなってしまいます。

 聖書の中で、「何が正しいかを自分で判断しなさい」と言われる場合には、あいまいな規準が考えられているわけでありません。聖書に書き記されている、神の掟が規準です。例えば、旧約聖書にはモーセの「十戒」を始めとする道徳的な規準がありますし、新約聖書にはイエスが弟子たちに教えた隣人愛の掟があります。そういう規準をもたないで、ただ、自分の良心に従って、というだけで、正義が確保出来るものかどうか、私たちはよく考えてみなくてはならないと思います。実際、法があっても守らないで良しとされてしまう政治家たちが国を動かしていたりしますし、人の見ていないところで良心的であろうとする人がどれほどいるかと心もとない時代です。

 ここで、聖書が語っているのは神の裁きについてです。聖書から学び取られるところの「正しい」規準とは、何が神の御心に適い、何がそうでないかを判別する指標となる教えです。神は地上の人間に正義を求めておられます。モーセの十戒には、「殺してはならない」とあります。人間の命は神のものですから、それを誰かの所有物のように消費することは、してはならないことです。会社が従業員を捨て駒のように扱って、若者たちの命を金儲けのための手段にしたり、多数の人の命を与る交通会社が、利益優先のずさんな安全管理によって大事故を起こすことなども、神の掟に反します。また、「盗んではならない」と教えられています。裕福な者がさらに裕福になり、貧しい者の生活がかすめ取られるようにますます貧しくなっていくような社会構造は、神の御旨に反しています。「姦淫してはならない」とあります。本来は神の祝福であるはずの男女の性が、単なる欲望のはけ口となって商品化して行くような時代は、神の求める正しさを損なっています。「偽証してはならない」とあります。偽りの証言によって不正な裁判を行い、人を貶めることは、弱い者の権利を守り、人と人との間に真実な関係を保とうとする神の御旨に反します。「貪ってはならない」とあります。神が日々、自分の命や家庭を養ってくださることに感謝せず、飽くなき欲望に心を奪われている人間の様子は、「正しい」人の姿ではありません。

 聖書は、さらに深く人間の実情をご覧になって、懇切丁寧な言葉を私たちに示してくれます。イエスが「時代を見分けよ」と、「自分で判断せよ」と人々にお語りになった時、イエスの周囲にいた人々は聖書をもっていたはずです。それで、そのまま世の中の悪い状況に無頓着でいては滅びを招くことになるからと警告なさったわけです。今日でもそれは同じです。私たちが自分自身の内に規準をもたず、今の時代を見分けることをせず、何が正しいかを判断しないで流されるままであったら、破滅は避けられない、ということをやはり真面目に考えなくてはなりません。

 イエスの教えは、私たちそれぞれの人生に対する問いかけとして投げかけられています。私たちそれぞれが、聖書に示されている神の規準を真剣に受けとめて、自分自身の生き方を顧みることが求められています。「悔い改めなければ、皆滅びる」と言われています。

災害から学ぶこと

 13章1節で、二つの事件が取り上げられています。最初に報告されている「ピラトがガリラヤ人の血を生け贄に混ぜた」という出来事は、時の為政者であるローマ人の手によってガリラヤの民衆が迫害を受けて殺された、ということです。もう一つの出来事は、シロアムに建てられた塔が倒壊して、18人が下敷きになって死んだという事故です。こういう犯罪や事故による不慮の出来事が新聞記事のように伝えられています。おそらく、こうしたニュースを聞いた人々は、今日の私たちのように、それを聴いたときは心を痛めたかも知れませんが、所詮は他人事としてやがて忘れてしまいます。あるいは、そうして死んだ人たちは天罰が下ったのだと、心の底で思っていたかも知れません。しかし、イエスは、こうした事件をとりあげて、それを自分のこととして思うように促しておられます。他人事ではなくて、自分にも同じ運命が待っているということを真剣に考えなくてはならない。日本でも続く災害によって多くの犠牲者が出たことを私たちはいつもニュースで聞いています。それが一体、どのような神の御旨だったのかと問い返すこともあろうかと思います。しかし、その災害は他人事だったのではなくて、あなたのこととして考えてみなさい、とイエスは私たちに促しておられます。福島の原発事故によって大勢の方が放射能に汚染された故郷を捨てなければなりませんでした。どうしてそのようなことになったのだろうと、災害にあった方々の運命を人は云々するかも知れませんが、イエスは、それは他人事ではないといいます。

 事故であるか、犯罪であるか、災害であるかわかりませんけれども、それらが悲惨なこととして報道される一方で、実に誰もが同じように死と隣り合わせに暮らしていることをそこから知らされます。ここに「時を見分ける」視点があります。そして、そこから「何が正しいかを自分で判断する」タイミングが生じます。事故や災害は悲惨です。しかし、私たちの誰もがそうした悲惨な死に向かっています。確かに、家族に看取られて、静かに世を去る仕方が理想的な死の迎え方かも知れません。しかし、死に方がいかようであろうとも、神に対して犯された人間の罪は、人間の命を滅びに定めています。「あなたがたも悔い改めなければ皆同じように滅びる」とイエスが言われる通りです。

 風のそよぎにも似た、世の中の一つ一つの事件を通して、私たちは今日の時代を見分けます。一人の人の自暴自棄によって多数の人の命が失われるような時代です。世の中のお荷物と看做された人々の命が粗末に扱われる時代です。ナチスの強制収容所ではガス室に送られるユダヤ人が「丸太」と呼ばれましたが、それと少しも変わらないような差別意識が世の中に根深く残っています。たとえそのようなところで、自分は何も関係がないかのように穏やかな人生の終わりを迎えても、行き着くところは滅びだ、と神の裁きは厳然としています。

悔い改めという転換点

 「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とイエスは言われます。滅び行くこの世界から逃れうる道は「悔い改め」です。「悔い改め」とは、人間の罪深さを深く悟って神に救いを求めることです。12章58節で記されているのは、それを意味するところのたとえです。「仲直りしなさい」とあります。私たちは丁度、裁判に訴えられて法廷に連れて行かれる途中にある人のようです。そこで、裁判が始まる前に和解が成立すれば裁きは回避できますが、自分が訴えられていることすら気にかけない様子であれば、裁きは必定です。だから、「何が正しいかを、自分で判断して」神との和解を求めて、悔い改めなさいとイエスは言っておられます。

 悔い改めは、すべての人に求められている人生の転換点です。犯罪に巻き込まれて死ぬことが悲惨なのではありません。悲惨なのは犯罪が起こるこの世の中そのものです。そして、死を免れることのできない人間の定めです。しかし、悔い改めることによって人生は変わります。聖書は真の神を私たちに伝えています。そして、イエス・キリストが私の人生にかけられた罪の呪いを取り去ってくださって、神のもとに導いてくれる、救いの道を示しています。イエス・キリストの十字架についてはどこかで聞いたことがあるのではないかと思います。日本風に言えば磔(はりつけ)です。しかし、その刑罰は、私たちの身代わりとして神が備えたものであったと聖書は語ります。イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対する神の罰を受けてくださった。これを信じないならば荒唐無稽なお話にすぎませんけれども、これを信じるものは罪が赦される、と聖書は語ります。立派な人間だから赦される、とか、社会の役に立ったから赦される、のではありません。イエスが身代わりになってくださったから赦される。誰でもです。神が信じる私たちを認めてくれます。

 そこから私たちの新しい人生が始まります。悔い改めることは、こうして、イエス・キリストによる救いを信じて、真実な命の道を歩み始めることです。もとより、聖書では「悔い改める」という言葉は「向きを変える」という語です。よく、自分自身を信じる、と言います。ドラマの主人公の決め台詞ですね。しかし、そのような確信には根拠がないことを本当は皆わかっているのではないでしょうか。多くの人は、「あいまいな私」を生きていて、自分の人生を他の誰かに委ねてしまっています。自分には確信がないから誰かを頼らざるを得ないのが人情ですけれども、そこで頼るならば神を頼るのが正しい道だと聖書が教えてくれます。聖書から私たちは生きる指針が与えられます。何が正しくて何がそうでないかと見分け、判断する、規準がそこから与えられます。そして、世界も、またそこに生かされている自分も滅びないで済むように、未来に向かうことのできる方向も、聖書から与えられます。

 私たちが今を食いつぶすことで精一杯になってしまって、やがては無気力になり、自分の命を何者かに売り渡すことの無いように、聖書の言葉と真剣に向き合っていただくことを願っています。私たちの命の行方は神が握っておられます。人は世の中の動きについても、自分の人生の行く先についても、自分の思うままに動かすことはできません。しかし、神が私たちに示してくれたイエス・キリストを正しい導き手として自分に与えられた生涯を全うするならば、たとえどんな終わりが私たちに待ち受けていようと、私たちは正しい終着点にたどり着くことができます。神が祝福してくださるハッピーエンドが約束されます。うわついた話で話ではありません。それが、聖書が私たちに教えてくれる、最高の知恵であり、揺るがない人生観です。

今日、ここに集った皆さんすべてが、神に向かって、真実に向かって、真の幸福に向かって、新しい人生の歩みをされることを心から願います。

 

祈り

天の父なる御神、どうか、私たちが置かれたこの世界の行方を正しく見分ける知恵をお授けください。そこで私たちが滅びることなく命を得るために、正しい判断を下しながら行動することができるように助けてください。そして、どうか、心の目が開かれて、聖書に示されているあなたの御旨を信じて、悔い改めてイエスと共に歩み始めることができるよう励ましてください。罪の裁きに服したこの世界が、イエス・キリストの内に真理を見出し、あなたの御前に救われて生きる道を選び取ることができますように、聖霊なる御神が働きかけてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。