コリントの信徒への手紙一3章1~23節

神のために力を合わせて

 

序.定期会員総会を終えて

先週私たちは今年の定期会員総会を行いました。そこで2018年度の歩みを振り返って、一年間に注がれた神の恵みに感謝をし、今年一年の活動計画を予算計画と共に神にささげました。二つの伝道所が合併して長野佐久伝道所となって以来、私たちが掲げる目標は教会設立です。一つの独立した教会として自立することが、キリストから求められていると私たちは信じます。そのために私たちは今年、特に祈りを合わせて行きたいと願います。今年の年間標語は「神のために力を合わせて」としました。これは今読まれたコリントの信徒への手紙にあるパウロの言葉から取ったものです。この言葉に込められているのは、神のために力を合わせて働く者たちによって教会が建てられる、ということです。そのことを今日は聖書から聞いて確かにしておきたいと思います。

 

1.教会はただの人の集まりか?

 キリスト教会は神を信じて救われた聖なる人々の集まりのはずですが、実際に来てみると、それが普通の人の交わりに過ぎないことが段々分かって来て、何だかがっかりしてしまってもう来るのが嫌になってしまった、などという人が時折教会の中に出てきます。現代における信仰の躓きは、世の中で迫害を受けたから、ということよりも、そんな人間関係の不和だったり、信頼関係を築くことができない心理的な問題が主ではないかと思います。そこで、いや、教会はそもそも世の中と同じ罪人の集まりで、愛に満ちた人々の交わりだと勘違いしては困る、と開き直ってしまうこともあるかと思うのですが、そういう姿勢は神の教会に相応しくない、ということも御言葉に則して弁えていたいところです。パウロはそういう人の態度を「肉の人」「ただの人」と言って、信仰者とは区別しています。

教会が「ただの人」の集まりであるだけならば、誰も自分の好きな文化サークルなり何なりを探せばいいことで、わざわざ教会に来なくてはならない理由はありません。では、「ただの人」の集まりではないのかと言うと、現実を見れば、教会の外の人との違いはそんなにはっきりしているわけでもないのが事実です。キリスト者は未信者とは違うことを強調する人ほど、自分がその真ん中にどっかりと腰を据えている構造的な罪に無頓着であったりします。

そうしますと、教会は何が違うのかといいますと、人間に違いがあるのではなくて、教会に働いている霊が異なります。ここに集うのは、同じ罪人でも神の恵みに生かされている罪人です。罪人であることを御言葉に指摘されて、それを悔やみつつ、しかし十字架を仰いで、神の赦しによって生きている罪人の集まりが教会です。ですから、キリスト者は世の中の人とさして変わらないとしても、ここで崇められているイエス・キリスト、生ける真の神が働いておられることが他との違いです。

それが見えないのが問題なのかも知れません。そうであるならば、尚更、教会を訪れる者は誰であれ、信仰の拠り所がどこにあるかをはっきりさせなくてはなりません。それは、教会に集う人を見ていてもなかなか分かりません。では、生ける神はどこで確認されるのかといえば、礼拝の中です。礼拝で執り行われる礼典と説教を通して、私たちは神の生きた働きに接することが出来ます。それは、そこで語られる神の言葉を信じることなくしては分かりません。しかし、イエス・キリストが十字架におかかりになって私のために死んだ、それ故に、私の罪は許されて、復活の希望が与えられたとの福音を信じて受け入れるならば、そこから生ける神との交わりが始まります。霊の働きを教会の中に認めることが出来るようになります。世の人々の集いとキリスト教会の違いは、人間の違いではなくて、神がそこに特別な恵みを与えておられるかどうかという霊の違いです。

ですから、未信者の方の躓きはある部分避けられません。礼拝の中でまさに礼拝されているお方に出会う前に、そうして、心から悔い改めて御言葉を聞くようになる前には、どうしても「肉の人」として教会を判断してしまうからです。そうした求道者の方々やまだ本当に回心したわけではない兄弟姉妹を躓かせないようにとの配慮は欠かせませんけれども、神を見ないで人間を見る限り躓きは避けられません。

 

2.教会は神の神殿

今日の箇所でパウロが明らかにしているのは、教会はただの人間の集まりではなくして、神の神殿である、ということです。つまり、人間が主なのではなくて、神が主体であられます。そのことが教会観として確立していませんと、「肉の思い」によって教会の交わりは揺らいでしまいます。

9節ではこう言われています。

わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

「パウロとは何か、アポロとは何か」。教会に遣わされる御言葉の奉仕者たち・伝道者たちは皆、「神のために力を合わせて働く者」です。賜物は異なっていても、一人のお方に仕える僕に過ぎません。日本の教会では、牧師が一国一城の主によく例えられるのですが、そうした発想は聖書にはありません。主は飽くまでも主イエス・キリストお一人であって、牧師は単独で召されているのは無くて、御言葉の奉仕者たちと互いに協力して教会のために奉仕をする者です。

 他方、教会は「神の畑、神の建物」と言われます。「神の畑」とはここだけで見られる珍しい表現ですが、或いは聖書に散見される「葡萄畑」が相応しいのかも知れません。ともかく、ここでは「畑」は耕されて作物を生みだすもの、「建物」は材料を用いて建て上げられるものです。どちらも、奉仕者を用いてそれらを作りあげるのは神御自身である、という点で共通しています。送られてくる奉仕者も、教会に属するすべてのものも、すべては神のものであると認めることが教会を建て上げるための出発点です。

 この点は、16節と17節でも強調されています。「あなたがたは神の神殿であり、聖なる者だ」と言われています。一人ひとりが聖霊を宿す宮とされるというばかりでなく、あなたがたコリント教会の交わりがということですから、教会が、神の神殿であり、聖なるものだと言われます。そこで、神の神殿を不和によって崩壊させてしまう者は神がその者を滅ぼすと、教会に不和をもたらす罪に対してパウロは威嚇します。

 

3.キリストの土台の上に注意深く立てる

 こうして、教会とは何かということの原則が、建築物の例えで示されているのですが、さらにパウロは、10節から教会の土台について注意を促しています。パウロはコリント教会を設立するに当たって、自分は「熟練した建築家のように土台を据えた」と言っていますが、それによって自分自身の知恵を主張してはいません。「神からいただいた恵みによって」とありますから、すべてはパウロを指導者として選んだ神の恵みの下で、神の賜物によって、教会が立ち上がります。「熟練した建築家」というのは「賢い設計家」とした方が意味は汲み取り易いと思うのですが、勿論、ここでの「建築」は例えですから、教会を立てると言っても、それは礼拝を中心とする聖徒の交わりを形づくることに他なりません。ですから、「賢い設計家」としてのパウロの働きは、実際は教育事業であったと言えます。そうしますと、土台は何かといいますと、11節で土台はイエス・キリストだとはっきり言っていますが、それは信仰の対象としてのイエス・キリスト、つまり、イエス・キリストについての教理です。尤も、後の教会が確立する公同教会のキリスト論はまだありませんが、そこで明らかにされるのは、使徒たちが受け継いだイエス・キリストに対する信仰告白でして、イエス・キリストが神の御子であること、そして十字架による贖罪を果たされたメシアであり、復活された主権者であられること、等を含む正しいキリスト理解です。これが教会の土台にある。他の土台は教会にはあり得ないのでして、その唯一の土台の上に、建物が立ち上がります。

 パウロが据えた土台の上に、「おのおの」が家を建てると言われていますが、この「おのおの」はパウロに続く指導者とも考えられますが、16節以下への繋がりを考えますと、やはり各々の教会員と受け取るべきでしょう。パウロは家を建てる責任をコリント教会全体に問うているわけです。

 その教会を建てる仕事は「おのおの」異なる可能性があります。それがどう違うかということに、ここではまだパウロはあまり関心を払っていないようです。要点は、その仕事の出来不出来が、「かの日」に明らかにされる。つまり、終わりの時に吟味されて、不適切な建て方をされていれば、その仕事は土台の上に残らないで、結局働きが無駄になってしまう。ただ、建てた人だけが自分の信仰によって救われるだろう、ということです。ですから、パウロが土台を作る際に入念にキリストの真理を語り、弟子の教育に力を尽くしたのと同様に、家を建てる際にも、キリストの証しに頼って、終末の裁きに堪え得る教会を建てて行かねばならない、ということになるでしょう。

 裁きの炎に焼き尽くされてしまわない教会、とはどのような教会でしょう。それは、神の神殿として、聖霊の住まいとして立ち続ける教会。神のものとして、聖なるものとされた教会でしょう。肉なる者が、この世の知恵を働かせて、家を建てたとしても、それがキリストの土台の上にあったとしても、ただの人間がそれを建てるかのように教会の交わりを作っていれば、それは狼が来て息を吹きかければ飛んで行ってしまうような建物になる。けれども、キリストという土台の上に、神の霊が住まう神殿を建てるならば、神は御自分の教会を焼き捨てはなさらない。私たちが、私たち自身を神のものとしておささげして、御言葉を真剣に魂の養いとして受け止めて、互いに仕える交わりを作ってゆくのならば、終わりまで教会は守られています。私たち一人一人の信仰にそれは掛っている。

 

 18節から改めて「知恵」の問題が取り上げられています。議論は先のところからずっと続いています。だれも自分を知恵ある者だと欺いてはならない。そうして、自分が持っているこの世の知恵を誇ってはならない。そういう殆ど防衛本能のようになってしまった「馬鹿にされたくない」ための自分の知恵や誇りを捨て去りなさい、とパウロは言います。「愚かな者になりなさい」とはそのような意味です。つまり、本当は自分は賢いと思ってはいても、「能ある鷹は爪を隠す」とも言うように、大人しく謙遜にしていなさい、ということではないようです。19節にある通り、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだ」と言われていますように、この世の知恵と神の啓示の前に服従させることとです。学歴社会への反発から、キリスト者は勉強しなくていいんだなどという短絡を起こさないように注意したいと思いますが、神が人に信仰を通して与える知恵と、人間が神を抜きにして経験的に考え出す知恵とのはっきりした区別がここで求められています。世の中で学者や教養人が尊ばれるのにはそれに理由があると思います。人間が理性的であることは、世界が平等な社会を実現し、平和を築き上げて行くために必要だと考えられています。しかし、人間は誰も神を僭称することは出来ないのであって、驕れば愚かな結果を生むことは、原子力時代の現代ではもう常識とさえ言えると思います。神の目の前にあって、人に賢く見られたいとの欲求は、自分自身を偽る行為であって、不当で愚かだとされます。人が生きるための知恵、世界が存続するための知恵は、神が霊によって人に与える知恵ですから、人が人に対して誇る必要のないものです。

 実践的に応用すれば、医師や弁護士や大学教授は、この世の知恵のお陰で人々の尊敬を受けるに値して当然といえば当然です。それらの知識人たちが誠実な仕事をし、それが評価されることは、私たちの暮らす社会の成熟のためには必要なことです。ただ、そこでなされる人物評価が、神の前で人間の価値に差を生みだすような、決定的な評価にはならない、ということです。どんなに知恵深い人であっても神の目の前には罪人の一人であり、その知恵にしても、世界を創造し、キリストの救いを表された永遠の神の知恵に匹敵すべくもありません。ですから、世の中で身に付けた「知識人」や「教養人」というような人間の誇りを教会の中に持ちこんで、あれこれ奉仕者たちを好みで選り分けたり、主の兄弟姉妹たちを色眼鏡で選り分けるようなことをしてはならない、ということになります。

 これは、世の中で指導的な立場に置かれた人々が特に注意すべきことと言えばそうですが、実際にはすべての教会員が自分のこととして反省すべきことと思います。上に立つ者が人を見下す危険があるとすれば、才能に恵まれない人が逆に教会で強く自己主張するのも同じ過ちなのではないでしょうか。パウロが植え、アポロが水を注いだ、というように、賜物にはそれぞれの役割があります。それぞれに自分の役割をよく理解した上で、それを主にささげて、協力して教会を建て上げることが、「誇りを捨てて」すべてを主のものとする、ということになるでしょう。

 

 こうして、教会をただの人の集まりではなく、神のものとされた人の集まりとして信じ、これを神の神殿としてささげていくところに、真の教会が立つのだと教えられます。すべては神のものと信じて、自分自身をもささげていく。あなたはただの人と同じではないかと、人に言われながら、それでも、主がそうした私を選んでくださったのだから、私はここにいますと告白して、主の前に進み出るのがキリスト者であり、キリストの教会です。

 しかし、パウロは最後に逆のことを言うのですね。すべては神のものだと自覚しなさいとたたみかけるのではなくて、「すべてはあなたがたのものです」といいます。パウロが好い、アポロが好いなどと言っているけれども、「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、現在も未来も、一切はあなたがたのもの」だと言われています。その理屈は簡単です。パウロがここに書いていることを逆に辿ればいいわけですが、すべては神のものです。神はそのすべてをキリストにお委ねになりました。そして、キリストは私たちをお選びになって、兄弟姉妹としてくださいましたから、私たちはキリスト共に神の所有しておられる一切を分け持つことになります。

 ここには人が持つことのできる誇りの最高度のものが現れていると言えるのではないかと思います。誰も小さな自分を大きく見せようとすることから、傷つきやすい誇りを抱えて必死です。そして、それが傷つけられてしまうと人生が終わってしまうような感じも受けて、自暴自棄にさえなります。けれども、キリストを信じて「愚か者」になったものは世界のすべてを手に入れます。キリストが私の誇りになり、それをだれも傷つけることはできません。「愚かになる」とは「命を失う」ことだとも言えます。キリストの十字架によって古い自分が死ぬ時に、キリストにあって私たちは新しい命に甦ります。

 自分を立てるためにあれも欲しいこれもしたいと焦るのが私たちの肉の思いですが、すべては主のものとして自分を任せてしまって、すべてのものを恵みとして受けて立てていく自分は、キリストにあって世界のすべてを手にしています。教会もそのようにして建て上げられていくものです。私たちの教会も主イエス・キリストにあって、実は、もうすべてのものをいただいています。私たちの目指す教会設立は、主の御業がそういう形を取るために、私たちがささげていく過程に自然に立ち上がるものと思います。小さな交わりであっても、私たちは既に神の神殿としてここに教会をいただいていますから、それを信じて、神のために力を合わせて、キリストの教会を建て上げて行きたいと願います。

 

祈り

天の父なる御神、あなたはすべてのものを復活された御子イエス・キリストに与えて、世界を支配しておられます。その栄光を分け持つことを許された私たちは、その栄誉を思わずに、肉の思いに囚われて、この世の誇りを求めてしまいます。どうか、その弱さを聖霊によって取り去ってくださり、主イエスの恵みに豊かに与らせて、私たちの間にあなたの栄光の満ちた神殿を建て上げさせてください。互いに仕える愛によって、あなたの教会をつくらせてください。そのために各々注意深く、聖霊の助けを願いながら、奉仕をすることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。