コリントの信徒への手紙二 4章1~18節

私たちの新しい出発

 

はじめに

 今日から皆さんと共に聖書の御言葉に学んでまいります。私たちが聖書を学ぶのは、単にそれを知識として蓄えるだけではありません。私たちの主イエスが、聖書の言葉によって私たちの命を養い、私たちの日々の生活を形作ってくださいます。そのために、私たちは神の御前に自分をささげて、語られる神の言葉に静かに耳を傾けます。

落胆する日常の中で

 今朝一緒にお読みした聖書の箇所は、使徒パウロが記した手紙の一部です。そこで、まず1節に「わたしたちは落胆しません」とありまして、終わりの方でも16節に「だから、わたしたちは落胆しません」と言って締めくくります。キリストを知った者は落ち込まない、と言っているわけです。そして、その理由を述べることにここで言葉を費やしています。

 ですが、いろいろと落ち込むことが多いのが私たちの日常です。パウロはそう言いますが、キリスト者だって本当は落ち込みます。自分の思うようにいかないことが多くありますし、思いもよらない事件に突然巻き込まれたりします。地震や台風の被害をニュースで聞くたびに、私たちの暮らしの基盤の脆さを間近に知らされます。実際、そうした災害や事故に遭いますと、普通に平和な暮らしができることが特別なことであって、また、人が生きることの苦労を思い知らされます。そうでなくても、些細な失敗で落胆して、自分など生きる価値もないと、人生を諦めてしまう人の多い世の中です。

パウロは何故落ち込まないか

 ここで私たちは、何か心理学的なセミナーを行っているわけではありません。何事にも動ぜずに、人生落胆しないで過ごす何がしかのコツがあるのかも知れません。しかし、聖書が教えてくれるのは、もっと違う何かです。使徒パウロは「落胆しない」と言っています。8節と9節ではこうも言っています。

 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

「わたしたち」と言っていますから、パウロ一人のことではないわけです。パウロと一緒にイエス・キリストのことを伝えようとしている仲間たちがいます。この人たちは他人とは違う不屈の精神を持っている。それは何故なのか。今朝、お話ししたいのはそのことです。

 パウロとは誰なのか。「落胆しない」と言っている「わたしたち」とは一体誰なのか。5節に自己紹介がされていて「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」とあります。この人たちは、イエスの僕であり、あなたがたの僕だと言っています。パウロという人はユダヤ人で、若い頃はキリスト教撲滅に情熱を燃やした青年でした。ところが、あるとき復活したイエスに出会って、自分の信じていた信仰を覆されました。そして、彼自身キリスト教徒になって、今度は熱心にイエス・キリストの復活を説く伝道者になりました。

 パウロはそこで、いわゆる「回心」を経験しています。「回心」とはまさに新しい出発です。それまでの自分と決別して新しい命に生きる者となりました。

 復活したイエスに出会うとか、回心するとか、よく分からない話かと思います。復活について言いますと、イエス・キリストはユダヤ社会の指導層の嫉妬を買ってローマの手によって十字架で処刑されたのですけれども、三日目に墓から甦って弟子たちの前に姿を現しました。死人の復活などは二千年前の当時も笑い種に過ぎませんでしたけれども、復活したイエスと出会った弟子たちは、そこからイエスを真の救い主と信じて、キリスト教会を建て上げました。神がイエスを復活させた、という信じがたい出来事を信じたところに、キリスト教の新しい出発がありました。

 回心とは、その信仰に目覚めることです。復活などという馬鹿な話を広めてもらっては仕方がない、と、熱心なユダヤ教徒であったパウロはそれに激しく反対する立場にいました。それでキリスト教徒を捕らえては獄に引き渡すようなことをしていました。中にはステパノという名のキリスト者のように、人々の目の前で石で打ち殺された人もありまして、そういう私的な殺人にもパウロは手を貸していました。ところが、ある日、復活のイエスの声を聞いて、彼は真実を悟りました。それは、イエスの弟子たちが語っている、あの十字架で死んだイエスが、神から遣わされた本当の救い主であり、復活して今も生きておられる方だということです。

 ということは、彼のそれまでの生き方は間違いであったことが分かった、ということです。彼はキリスト教を迫害する先頭に立っていたのですが、それはイエスを世に遣わした神に対して敵対していたわけです。神に敵対する人間に生き延びる術はありません。たとえ長生きしようと家族に看取られて安らかな死に方をしようと、最後には神が決算を求められます。パウロはそこで自分の過ちに気づいて神の裁きを覚悟したことでしょう。けれども、イエスが復活して生きておられると知った時に、彼の人生は終わったのではなくて、そこから新しい人生が始まりました。

 今朝の御言葉の初めに、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」(1節)とあります。この人たちが「憐れみを受けた」と言うのは、皆、パウロと同じような経験をしているからです。自分は今まで本当の神を知らずに、神に逆らった生き方をしてきたのだけれども、神はイエス・キリストの真実を知らせてくださって、わたしを赦してくださった。これが「憐れみを受けた」ことの内容です。そして罪を赦されたとき、「あなたがたの罪も赦される」ということを伝えるための務めを、この人たちは神から受け取りました。

 何かを新しく始めるためには、それまでのあり方を中断しなければなりませんけれども、パウロとその仲間たちは、それを自分の人生において経験しました。「回心」したわけです。2節から4節で、彼らが以前に身を置いていた状態のことが述べられています。「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず」とありますけれども、以前は、卑劣な隠れた行いをし、悪賢く立ち回り、神の言葉を曲げるような世の中に自分を合わせて生きていた。そして、神の真理など知らないとうそぶいていたわけです。それで、キリストの福音には覆いがかかっているようで理解できず、滅びの道を辿っていた。真の神ではない「この世の神」に心を支配されていた。けれども、そのところからイエス・キリストの福音を通して、神の憐れみによって信仰に目覚めさせていただいたのでした。

心の内で輝く光

 7節では、「わたしたちは、土の器です」とパウロは言っています。地面に落とせば壊れてしまうような、脆くて大して価値のない道具に過ぎないとのことです。ここには、今まで自分は神に逆らって生きてきたという彼らの反省も表れていますが、同時にそれは神の裁きに直面しているすべての人間に当てはまる喩えです。世の中のムードに合わせて、その根拠もよく確かめずに、自分で自分を特別だと思っていると「人間」が分からなくなってしまう。パウロは、自分は土の器に過ぎないと言います。そして、その土の器に過ぎない自分に神の憐れみが注がれていて、神は宝をそこに盛ってくださる。はかない器を神が大切に用いてくださる。だから、「落胆しない」でいられます。

 「落胆しない」でいられる秘密は、その盛り込まれた「宝」にあります。その「宝」は、「わたしたちの心の内で輝いて光を放っている」と言います。6節によれば、それは「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」です。また、4節では「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」と言い表されています。パウロの言葉遣いはややこしいのですけれども、ここではまず、イエス・キリストには神の栄光が輝いている、と言います。イエス・キリストは貧しい人々とともに生きて、神のみもとに導いた愛の人でした。そこには、人間の勝手な判断ではなくて、神の目から見たところの人の正しさがあります。イエス・キリストは、神の正しさを生きた人でした。そして何より、イエス・キリストの十字架は、救いを求める人々の罪を赦し、神の憐れみのもとへ導くための身代りの犠牲でした。神は土の器に過ぎない人々の罪を赦して、ご自分の憐れみのもとで新しい命に生かすために、キリストの十字架を用意してくださいました。そして、十字架で死んだイエスを死者の中から復活させて、罪を赦された人々に新しい命の保証をしてくださいました。

 これが、イエス・キリストに現れた神の栄光です。人間の罪のために救い難い暗闇の世界に輝いた、愛と正義に満ちた救いの光です。この福音、良い知らせを聞いて、私たちがそれを信じるときに、私たちの心の中でその福音が光を放ちます。「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」とパウロは言いますけれども、福音を聞いて、それを理解して、信じるその信仰が光となって、土の器に盛り込まれている。それが宝物のように輝いて、自分を内側から明るく照らしている。だから、わたしたちは「落胆しない」とパウロは証します。

 精進に精進を重ねて人間が立派になるとか、もって生まれた才能が開花するとか、キリスト教はそういう教えではないことがお分かりになるかと思います。神がキリストに現された十字架と復活の福音を信じる信仰が、たとえどのような境遇にあってもその人を内側から支えます。信じる力、というのが分かりづらいところがあるかもしれません。パウロはそれを「悟る光」と言い、それを神が宝として与えてくださったと言います。信仰とは、ですから、神の力なのであって、結局、それは神がわたしたちを内側から支えてくださるということです。パウロは「落胆しない」というのですけれども、神がそこで生きて働いておられるとするならば、自分たちの方で勝手に落胆することができないということでもあります。「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでない」(7節)とパウロは証言します。

日々新しくされる

 桁外れに大きな神の力が自分たちの内に働いている。だから、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と言えるわけです。それも神がわたしたちを憐れんでくださってそうなった。ここに信仰者がもつ特別な強さがあります。パウロは、信仰によって人は苦しみから解放される、とは語っていません。また、災難に見舞われて途方に暮れるようなことはない、とも言いません。この世で生きて行く限り、人は何がしかの苦しみ悩みに直面せざるを得ないのですし、誰しもが必ず死なねばなりません。そこで信じれば何もかも上手くいくというような安易な誘いをかける宗教はたいてい紛い物なんだと思います。神は真実ですから、真の神への信仰は真実に向き合うことなくしてはあり得ません。

 11節で、パウロは、自分たちは生きている限り、絶えず死にさらされている、と言います。彼らの周辺にはいつも死の危険が付きまとっていました。それはキリスト教の宣教者という立場にあってこそでしょうけれども、何も特別ではないはずです。誰もが死の危険に晒されながら生きています。ただ今の平穏な状況に慣れていますから、日常的な緊張から逃れているだけです。けれども、パウロはそこで「イエスのために」と言うことができます。命の危険を察知して、ただただそれに怯えて、苦しみ悩むのではない。「イエスのために」この世界の罪の悲惨を引き受けています。それは、イエス・キリストが、その罪の悲惨を引き受けて、十字架で死なれたのに倣って、そう言っているわけです。イエス・キリストは死への恐れと苦しみを通り抜けて、神から与えられた復活の栄誉をいただきました。それと同じように、イエスのために、どんな困難も引き受けて行くのならば、やがてたどり着く先には復活の栄誉が待っています。イエス・キリストの復活は、ただ一度、神が決定的に見せてくださった奇跡ですけれども、それは、私たちがそれを信じて、復活に向かって生きるようになるためです。

 「死ぬはずのこの身に、イエスの命が現れるために」今の苦しみを背負うのだとパウロは言います(11節)。この約束がありますから、キリスト者は落胆しない。14節ではこう言います。

 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

復活の希望をかすかに抱いて信じようと思いますぐらいの信心では力にはならないでしょう。パウロは「知っています」と言います。復活することは、曖昧なことではない。なぜなら、キリストが復活したことは曖昧な話ではないからです。神がイエス・キリストを復活させたことは、驚くべき信じ難い出来事です。それが、しかし事実としてパウロにも認められたので、その並外れて偉大な力が自分の内に宿っていると、パウロは認めることができています。これが、落胆しない理由です。

 16節で「だから、わたしたちは落胆しません」と話を締めくくりながら、パウロは信仰に生きる人の有り様を次のように語っています。

 たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

生活の苦労の中でわたしたちは疲れます。幸せで苦労知らずの暮らしをしていたとしても、誰しも歳をとって生きる力も衰えます。けれども、イエスの命、復活の新しい命に向かって生きるキリスト者にとって、それは人間の外側に過ぎません。「土の器」と喩えられたように、それはやがて土に還る定めにあります。しかし、神がその器に盛り込んでくださった新しい命は、決して古びることがありません。なぜなら、神は永遠に変わらない方ですから。そして、イエス・キリストもまた、復活して永遠に生きておられますから、その命はもはや死を脱ぎ捨てた永遠の若さを保ちます。

 復活のイエス・キリストを信じるとき、人の心の内でキリストの命が息づきはじめます。その「内なる人」新しさが、苦しみを乗り越えて生きる力の源となります。そうして人生の終わりに待っている復活と永遠の命の重さに比べれば、今直面している問題が、たとえそれが生死に関わるようなことであっても、一時の軽い艱難に過ぎないとパウロは言います。この信仰は、他の誰が証明してくれるものでもありません。科学が証明してくれるのでも、国が補償してくれるのでもありません。ただ、神の言葉である聖書が、これを真実として私たちに証言しています。信じるならば、内なる人の永遠の若さを私たちは手にします。そして、神の偉大な力によって、残りの人生を終わりまで生き抜いて、復活の祝福へとゴールすることができます。

 この宝が、神からすべての人々に差し出されています。私たちが生き生きとした信仰生活を送ることで、福音が地域にも伝えられてゆきます。まだ、私はここへ来たばかりですけれども、希望をもって伝道の働きに就きたいと願っています。そして、主の日ごとに佐久と長野で皆さんとお会いするのを楽しみにしています。

祈り

 御子キリストの十字架と復活において、ご自身の栄光を現されました、生ける真の御神、わたしたちはあなたの憐れみなくては身元に立ち返ることのできない罪人ですけれども、聖書の福音を通してイエス・キリストによる救いを知らされ、あなたの御前に赦されて喜んで生きる、希望のある新しい命をいただくことが出来ます。どうか、その恵みの宝を進んで受け取ることができるように、私たちの心に働いてください。パウロを回心させたあなたの偉大な御力を、ここに集う一人一人の内に示してください。そして、聖霊の促しによって、今週も一歩を踏み出すことができるよう勇気を御与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。