第9回信州神学研究会 2021年2月26日(金) 於長野佐久伝道所佐久会堂

 

R.B.カイパー『聖書の教会観』を読んで/牧野信成教師

 

聖書 エフェソの信徒への手紙章11-22

 

1.R.B.カイパーとその時代

1)著者の略歴とその教会的背景

 一昨年の祈祷会で、R.B.カイパーの『聖書の教会観』をテキストにして学びました。教会設立に向けて、教会とは何かという根本的な信仰の問題を一緒に確認したかったからです。その本を学び終えた時点で、まとめをしておきたかったのですけれども、時機を逸していましたので、改めて振り返って置きたいと思います。祈祷会で一緒に学んでいない兄弟姉妹方も増えていますから、復習するのにも良い機会です。

 R.B.カイパーという人は、20世紀前半の米国の改革派教会を指導してきた優れた教師です。改革派系の三つの教派で牧会した後、ウェストミンスター神学校やカルヴィン神学校で神学教授として教鞭をとった方で、この書物からもわかるように、大変明晰な頭脳をもった方です。『聖書の教会観』という書物は、1950年代にキリスト教関連の雑誌に連載された記事を後にまとめたものですが、元の題名は「Glorious Body of Christ キリストの栄光のからだ」です。当時の教会は、リベラリズムとリバイバリズムの嵐に見舞われて、多くの教会員や牧師たちまでも、キリストの教会を重んじなくなっていた危機的な状況でした。それは、少し前の時代に活躍したグレシャム・メイチェンも「キリスト教とは何か」という本で訴えていたキリスト教世界の状況と同じですけれども、その中で、改めて聖書に基づく教会理解の重要性を、聖書の教理と実践の両面から丁寧に論じたのがこの本です。

 「教会論」のテキストは、組織神学の一部門ですから、神学校で組織神学を学んだ教師たちは一通り学んでいるはずですけれども、R.B.カイパーが実践神学の教授であったことから、この書物には教会政治や戒規などの実践的な問題も取り扱われているので、私たちが教会で学ぶにはうってつけです。特に、その宗教改革の伝統に固く立つ信仰からくる、現代教会の問題点の指摘は、日本の教会にも相通ずるものがあるので、自分の信仰を確認するためにも有益です。

米国ではいまだによく読まれている本だと思いますが、時代性もあって一昔の本でもありますから、今日の私たちはこれを批判的に、よく吟味して読むことができると思います。日本語ですと、神学校で教会論を講じておられた市川康則先生の『教会論』が読めますが、この本と似た問題意識で論考を続けられた先生は、先日お亡くなりになった渡辺信夫先生です。『綱要』を訳したカルヴァン研究家として有名ですが、渡辺先生の最大の功績は、日本に真実な改革派教会、つまり、聖書に基づく確かなキリスト教会を植え付けるための著作を続けたことではないかと私は思っています。『カルヴァンの教会論』という立派な著作がありますが、多くの人に読まれて影響を与えたのは、信教新書で出された『教会論入門』のシリーズです。一度、そのさわりの部分だけ祈祷会で扱ったことがありますが、この本を読んで人生観が変わったと言っている牧師は結構います。私もそうですが。

ある福音派出身の神学生が神学校に入学した時に言っていたことですけれども、改革派教会の信仰の特徴は真剣であることだ、と言いました。それで改革派教会に加入されたのですけれども、渡辺信夫先生やメイチェン、R.B.カイパーの本を読んでみれば、それはよく分かります。信仰は人の心の問題であって、教会がどうであろうと重要じゃない、という風潮に対して、そうではないということを、あくまで聖書に基づいて徹底的に論じる姿勢が、この本によく表れています。

 

2)聖書的教会論の必要性:世俗化、リバイバリズム、教理的無関心

 冒頭の「序説」で、カイパー先生は「栄光は消えたのか」と題して、当時の教会を取り巻く状況とその問題点を3つ指摘しています。それは、「世俗化」「リバイバリズム」「教理的無関心」です。リベラリズムの大きな問題は、科学的知識が増すと同時に聖書やその著者である神に教会員が尊敬を払わなくなってしまって、そこへビリー・グラハムなどによる大衆伝道ブームが沸き起こって、キリスト教信仰が形ばかりのものになってしまったところにあります。カイパー先生の言葉ですと、教会員になることが流行となって、名目ばかりのクリスチャンが増えてしまった。人々が何で教会に来るかというと、自分の精神安定のためであって、神の言葉に真剣に向き合おうとしないので、信仰が長続きしない。説教もそのように大衆向けに受けのいいものになってしまって、教会はもはや無害無力な慈善団体に変貌してしまった、と指摘します。この序文だけ見ても、日本宣教の状況とあまり変わりがないと思えるのですが、これは渡辺信夫先生が『教会論入門』で指摘している日本の教会の教理嫌いの状況:個人的・情緒的・審美的傾向と関連があることがわかります。それは、日本のキリスト教会もまた、米国のリバイバリズムの影響を深く受けているからです。

 「世俗化」という表現は難しい問題点を含んでいて、何をもって「世俗化」とするかが立場によって異なります。例えば、アーミッシュのように文明を拒否して謹厳な生活を信条としているグループから見ますと、この世の大抵の教会員は娯楽に興じていたり、服装の流行に追従していて過度に世俗化していると看做すでしょうし、福音派の教会から見れば、禁酒禁煙も進めない改革派などは世俗化した教会と見られるでしょう。けれども、カイパー先生が指摘するのは、教会が表面的な勢力の拡大のみに努めている点に世俗化が顕著に見られるといいます。立派な会堂を求めたり、客寄せのためのイベントを開いたり、礼拝の出席率ばかり気にしたり、会員を獲得するためにその資格を厳密に問うことを怠ったり、会員を訓練するための戒規を等閑にする。他方、牧師の説教も神の言葉を忠実に伝える努力をせず、祈ることもしない。こういう霊的な衰退が「世俗主義」だと言われます。今日の教会に広くみられる状況は、旧約のイスラエルが神に選ばれた民としての自覚をおろそかにして、隣人であるカナンの宗教に感化されていき、やがては神の裁きを招いたことと相通じるといいます。

 「リバイバリズム」の問題は、米国で急速に拡大した大衆伝道のブームが、教会の世俗化を促進したことですが、ここには「契約期分割主義 ディスペンセーショナリズム」という具体的な神学の問題があります。この神学は、「スコフィールド聖書」と呼ばれる聖書の普及と密接な関連があって、福音派の多くの教会がこれに影響されています。その特徴は、神の救いの歴史を7つの時期に分割して考えるところにあって、選びの民イスラエルと教会とを分けて考えます。聖書の解釈は基本的に字義通りの解釈を重んじますが、旧約のイスラエルが預言者の告げたとおりに終末に千年王国を作りあげると主張して、その時には地上の教会は取り除かれると考えます。この神学は福音派の出版社などを通じて書物が翻訳されたりしましたので、日本の福音派教会にもだいぶ浸透していますが、改革派教会の伝統の中には「契約神学」という立派な聖書の読み方がありますから、従来からそれに反対してきました。ディスペンセーショナリズムが教会に与えた悪影響は、教会の教理を健全に教えることを教職に放棄させたこと、や、恵みの契約を軽視することで、契約の子の会員資格と教育に失敗したことだ、とカイパー先生は指摘します。

 そして問題の3点目は「教理的無関心」です。聖書によれば教会の使命は真理の言葉を宣べ伝えることです(1テモテ3:15、マタイ28:18-20、使徒1:8)。ところが、聖書の真理を言葉にした根本的な教理を否定する教職たちが教会内部に現れました。そこで叫ばれたモットーは「キリスト教は生活であって教理ではない」という主張です。これはリベラル陣営の旗印で、キリスト教は愛の宗教なのだから、愛に基づく実践こそが本質だ、という姿勢になります。聖書の教えによれば、生活と教理は分離できないもので、神の言葉に行かされる現実がキリスト者の生活となり、救いの証となるということですが、その「教理」=「神の言葉」の部分が欠落してしまいます。米国はポピュリズムの支配する国と言われますが、リベラルであれ、エヴァンジェリカルであれ、キリスト教が人々の受け入れやすいように大衆化していく過程で、深刻な世俗化に陥った、ということではないかと思います。そこに竿を指すように、カイパー先生はこの書物を記して、聖書に基づく教会の栄光を訴えています。

 

2.『聖書の教会観』にみる教会論の特徴

1)聖書の救済史に位置づけられた選びの民=教会

 聖書の教会観、すなわち聖書的な教会論とは、聖書全体をどのような枠組みで読むかにかかっています。ディスペンセーショナリズムはそれを7つの時代に分割して論じるわけですが、改革派神学では、永遠の聖定に基づく救いの御計画から始まって、旧約におけるイスラエルの選びを通り、御子キリストによる教会の選びを通過して、終末の完成に至るという、一貫した歴史としてこれを受け止めます。これを「恵みの契約による救済史」と言います。キリストの教会が誕生したのはペンテコステに聖霊降臨が起こった時ですが、それは旧約の啓示と無関係に起こったのではなくて、旧約のイスラエルの延長上に起こったことを聖書は告げています。聖書を一か所指摘すると、最初にお読みしたエフェソの信徒への手紙21221節が適当ではないかと思います。聖書が語る教会は、永遠の聖定から存在し、神との契約において人類の全歴史を貫く選ばれた民の共同体です。だから、カルヴァンも旧約聖書の説教をしながら、イスラエルのことを「教会」と呼ぶわけです。

2)神の栄光に満ちた教会:神の主権性、キリスト王権

 教会についての聖書の教理は、ウェストミンスター信条から学ぶことができます。それに則った形で、カイパー先生は「見える教会・見えない教会」「戦闘の教会・勝利の教会」などの教えをコンパクトに解説しています。さらに、教会の「超越性」「唯一性と多様性」「一致と分離」「聖性」「公同性」「使徒性」「照明性」「進展性」「不滅性」などの諸性質を、聖句を引きながら数え上げます。

 ここで押さえておきたいのは、教会の「超越性」で述べられている、教会の神的起源です。教会は所詮人間の集まりだと言われかねない世の中にあって、「教会は神が始めたものである」と確信するところに教会の信仰があります。カルヴィニズムの術語によって言い換えれば、「神は御言葉と聖霊によって教会を不可効的に有効に召す」となります。この世のあらゆる社会制度の中で、キリストがお建てになったのは教会だけであり、教会は国家や家庭をも超越しています。ここに、教会が教会を尊ばねばならない根本の理由があります。

 そして、教会は「キリストのからだ」と呼ばれて、キリストがそのかしらです(エフェソ4:15、コロサイ2:17,19、ヨハネ15:5)。教会の栄光とはキリストのからだとしての栄光であって、キリストが教会を治める王であり、その統治権を教会役員に与えて実行します。

3)教会の本質と現実とを見極める冷静さ:理想的現実主義

歴史を歩む地上の教会は、初代教会以来、見える教会と見えない教会を一致させる努力を続けてきました。一致を目指す理想主義と、一致できない現実主義の狭間で考え続けてきたわけです。教会の内部に分裂が起こる原因は罪のためですから、この現実は世の終わりまで変わらないことをカイパー先生は受け入れています。その上で、教会が取るべき姿勢は「理想的現実主義」だと静かに訴えます。理想主義は現実主義的でなければならず、現実主義は理想主義でなければならない。真理を犠牲にしない一致の理想に向かうために努力して次のような姿勢を保つこととして、5つの具体的な提案をします。

まず、① 自己流のキリスト教会を拒む勇気をもつこと。教会についての聖書の教えも信仰箇条ですから、人間のカリスマで勝手にこうと定めることは本来できないはずです。ところが、制度としての教会の弱さから、それが神に由来する制度であり、神の言葉に規定されていることを受け入れない自由主義の立場が今日では盛んです。そこから、教職のみならず教会員までが思い思いの教会観で礼拝に出席している現状が生じています。礼拝に出席するのも献金をささげるのも自分の気持ち次第、という自己中心です。

 ② 自由主義的教会が教理に関して行う論争に注目し、真理と虚偽を見分ける。これは、主に教会の神学を委ねられている教職が注意すべきことですが、例えば、自由主義的教会では、もはやキリストの復活は信じられていませんから、牧師も復活はなかった、という前提で説教するのですが、そこはそういう説もありうると超然としていてはダメなのでして、真理に関わる事柄ですから、何を言わんとしているのかを理解して、その前提となる哲学は何なのかを見極めて、聖書の教えを擁護するのでないと、教会はいずれ飲み込まれてしまいます。今論争になっているのは、イエス・キリストの十字架による罪の贖いについてです。パウロの使信の解釈が少しずつ変わってきて、罪の贖いが十字架の教えの中心ではない、というような議論がN.T.ライトら米国の学者たちの間で始まっています。

 ③ カイパー先生は、保守主義的な教会にも罪の告白が必要だとして、以下のような諸点に注意を向けています。第一に、聖書より人間理性を上に立てようとする試み。これは、自由主義的教会のモットーとするところですが、私たちは真理を識別するために理性を用いるのは当然ですが、イエス・キリストが神の子であったとか、十字架で死んだイエスが復活しただとかの理性を超えた神の言葉については、そのまま受け入れる用意が必要です。保守的な教会の聖書解釈には、何でも理性的に判断しようとして失敗している例をよくみます。

 第二に、人間の伝承を神の啓示と同等にすることの誤りです。ここは注意が必要ですが、カイパー先生の念頭にあるのはカトリック教会の教義ではないかと思います。聖書の啓示と教会の伝承には同等の価値があるとして、教会の歴史の中で蓄積した様々な教師たちの教えを教義に取り入れています。宗教改革者たちはこれに対して反対したわけです。煉獄の教えやマリアの無原罪・被昇天などはそういう類のものです。

 三つ目に挙げられているのは、分派主義です。プロテスタント教会はもとよりカトリックから袂を分かって出てきたのですから、分派の傾向があるとは言えますけれども、「教会の一致」というテーマでカイパー先生が論じていますように、プロテスタント教会は分派主義ではありません。一つの公同教会を願う点では、カトリックとも共通する立場を持ちます。カイパー先生が指摘する分派主義の問題とは、教会の公同性を重んじない立場で、様々な対立を内部に生じさせてしまう、極めて人間的な罪による分裂です。パウロの書簡でもそうした問題はよく扱われていますが、例えば、偶像にささげられた肉を食べるか食べないかで教会が分裂してしまうような事が、地上の教会にはよく起こります。私たちの身近なところでも、例えば、日本長老教会などはウェストミンスター信条を採用していますし、そこから神戸改革派神学校へ教師候補者を送り出してもいて、私たちと大変近いところで教会形成をしています。そこで、日本長老教会のある教師が話していたことですが、教理的には何も問題はないと思うけれども、最後の問題は禁酒禁煙だ、と言っていました。日本長老教会は福音派の教会ですから、福音派の他のグループと同じように教会で禁酒禁煙を取り決めています。私たちの伝統では、これもカイパー先生が紹介してくれていますけれども、「アディアホラ」という受け止め方があって、これは聖書が命じても禁じてもいない事柄を指します。パウロが論じて、飲み食いで信仰が定まるわけではないと言っているように、神が直接命じていない、個人に任されている生活文化もあるわけです。そういうところで対立して教会を分裂させてしまうのは保守的な教会の罪だ、と言っています。

 ④ さて、5つの提案の4つ目に数えられるのは、聖書の基本教理を受け入れ、解釈の異なる重要点について学び合い、協働することです。聖書の基本教理は、私たちの教会では、ウェストミンスター信条を受け入れることで用意ができていますが、その上で何かの問題で解釈が分かれるような事態が生じることもあります。それは、先に述べたような分裂のきっかけにしないで、互いに謙虚な姿勢を保って、学びあうことで、一致を図る、ということです。例えば、私たちの教派では、女性長老・教職の問題が長年論じられてきて、今は憲法を改正して、認められています。これも聖書の解釈に相違が出ていました。そこで、互いの一致点を図るために、委員会に任じられた先生方を中心に学びが進められまして、全員が一致して承諾したわけではありませんけれども、最後は会議の承認を得ることができました。こうした長すぎるぐらいに思われた手続きでしたが、教会的には正しい姿勢であったと振り返ることができます。

 ⑤ 最後はこうです。聖書の解釈に一致している教会は組織的統合に向かうこと。キリストの教会は普遍的教会であり、主の選びにあって本質的に一つですから、地上で多様な形態持つのは仕方ないとは言え、本来なら一つでありたいと願います。ですから、以上のような努力を重ねたうえで、一致できる教会は一つになった方がよい。一口に「改革派・長老派教会」と言っても、米国には無数の教派がありますし、日本にも多数あります。組織的統合が考えられそうな教会としては、先ほど上がりましたような日本長老教会ですとか、日本キリスト教会のことが考えられます。私の生きている内にそれが実現するかどうかわかりませんが、そういう努力は必要なことで、私たちの教会にもある、ということは知っていてください。

4)カルヴィニズム:カトリックと近代主義の狭間で考える

 R.B.カイパー先生が本書で語る改革派教会の立場は、初めに触れましたように正統長老教会を立ち上げたメイチェンの立場とも共通しますし、『カルヴィニズム』を表した、オランダのアブラハム・カイパーとも通じます。合わせて、カルヴィニズムの教会観、としてもよいだろうと思います。アブラハム・カイパーが論じるところでは、時代の問題は近代主義(モダニズム)にあるとしますが、その講演でカルヴィニズムの立場を論じる際にも、近代主義を正面に捉えながら、カトリック教会の信仰(カトリシズム)をも念頭に比較しています。そうして幾つかの思想的な潮流の中でカルヴィニズムをどう位置付けるかが課題です。それは、私たちの信仰の立場もそうなのでして、方や現代の問題としてリベラリズムの影響がある。もう一方で、規範原理の異なるカトリック教会がある。その狭間に我々が起これていることを意識して、比較検討することが、有益な議論になるのではないかと考えます。キリスト教会が保守化してリベラルな思想に影響されながら個人主義的信仰に閉じこもり、教会の教義や制度を教会員が手放すようになると、教会はカトリックの側に傾くのではないかと思われます。また、リベラルな教会は、その信仰を生活道徳に堕とし、制度としての教会はますます形骸化するのではないかと思われます。私たちは、そのどちらでもない、宗教改革の信仰に立つ、カルヴィニズム・改革派の伝統から学んで、より確かな聖書的教会を目指しています。

 

3.教会と真理

1)神の真理に仕える教会

 カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で、聖書の真理と教会との関係をこう述べました。「真の教会の第一にして最も顕著な標は神の言葉への忠誠である」。真理とは、神が聖書を通して民に語った御言葉で、聖霊がそこに証印を押したものです。ハイデルベルク信仰問答54問の言葉によれば、「神の御子は、世の始めから終わりまで-御霊と御言葉によって全人類の中から永遠の生命に選ばれた教会を集められる」。教会は、その真理を委ねられて、世界にそれを伝えるべく地上に集められた群れです。聖書の真理は、歴史を通じて信仰告白文書として蓄えられて、それによって教会が建てられ、宣教の務めが果たされます。

 

2)キリストと教会

 教会の栄光とは、キリストのからだとしての栄光です。教会の生命はキリストを離れては存在しません。そしてキリストは今もかしらとしてご自身のからだである教会を治めます。そこでキリストの治める教会には調和が生まれます。実際には教会内部に紛争が起こったりして調和を乱しているのですけれども、そこで使徒たちは不調和の原因となっている罪を取り去るための努力を幾度も手紙でしています。カイパー先生は、調和は多様性を前提としている、と言います。罪を犯さない教会員など一人もいないのはその通りでしょうけれども、だからと言って、不和をそのまま放置しておくことはキリストのからだに相応しくない。そこで大事なことは、初代教会に見られるすぐれた模範に従って、真理における一致を求めながらも互いに遜って忍耐し、受け入れあう努力をすることです。

 イエス・キリストによる救いの真理は、教会と無関係ではありません。ローマ・カトリック教会では、教会がキリストの救いの仲介者だとしていますが、神との人間との間を仲介するのはキリストだけです。リベラルな教会では、救いの理解が個人主義的なので、キリストの救いと教会との関係が曖昧なままですが、聖書の真理が語るところでは、救われた皆は教会に属する、ということです。信じた者は教会で洗礼を受けますが、洗礼は教会へ受け入れられたことの証です。キリストを信じてその体に結ばれたものは見えない教会に所属します。教会の会員となることは救いの条件ではなく、必然的結果です(ウェストミンスター信仰告白25章2項)。

 

4.教会の務め

1)キリストの職務

イエス・キリストは、ご自身のからだを治める権威を教会役員に託して統治を行います。ですから、教会役員にはこの世の他の組織体とは異なる特別な栄誉が与えられます。ただし、教会役員はキリスト自身と全く同じになったのではなく、ローマ教皇のように無謬の判断を下すことができると考えてはなりません。

聖書から教えられるキリストの務めは、預言者・祭司・王の三つの職務ですが、これを教会は牧師・長老・執事の働きによって実践します。教会員もまた、選ばれた役員と同じようにキリストの務めを負っています。宗教改革時のルターによる「万人祭司」説はよく知られているかと思いますが、祭司だけでなく、預言者・王としての務めもすべての会員が負います。これが意味するのは、役員が聖書に従わない教理を主張した場合に、信徒はそれに抗議する権限を持つ、ということです(ハイデルベルグ信仰問答32問)。現代の潮流の中でキリストから委託された教会員の務めが軽視された結果、どのようなことが生じたかをカイパー先生は以下のようにリストアップしています。

・教会員が聖書を真剣に学ぼうとしない。

・クリスチャン・ホームで家庭礼拝が行われない。

・説教を聞いても聖書を読んで確かめない。

・成人男子の活動的組織を維持できない。

・聖書研究を行う婦人会が少ない。

・公同の集会で祈りを導ける教会員が少ない。

・教会の若者たちを教えることのできる会員が少ない。

・盲目的に教師に従うのではなく、自分で研究して発言する会員が少ない。

・宣教に積極的に従事する会員が少ない。

これに私たちの教会が当てはまる場合もありますし、そうでない点もあります。けれども、日本のプロテスタント教会全体を見渡せば、確かにこのような傾向が認められるでしょう。

2)最も重要な任務:宣教

 キリスト教会の最も重要な務めは、神の言葉を教え、宣べ伝えることであることは、宗教改革諸信条の中に現れる教会の定義からして明らかです。例えば、ルターによるアウグスブルク信条では、こう言われています。

「教会は、その中で福音が正しく教えられるところの聖徒の集まり」

(アウグスブルク信条、1530年)

この意味では、伝道しない教会はありません。この務めは包括的にとらえるべきもので、教会員を無視して伝道ばかりを強調する教会は自殺するようなものだとカイパー先生は大衆伝道に浮かれた時代の空気を読んで警告します。宣教は、信者の信仰の確立と未信者の改宗の両方を目指して推し進められます。これを私たちの教派では「教育的伝道」と言い慣わしてきました。さらに、宣教は、個人の救いだけ語るのではなくて、キリストは万物のかしらなのですから(エフェソ1:22)、社会的な福音をも語る務めを負います。このように福音宣教は包括的であることを改めて確認したいところです。

 また、神の言葉の宣教は、組織された教会にだけ委ねられた特別な任務です。主日礼拝の中心には、御言葉の説教が置かれています。その説教によって天国の鍵が開かれ、また閉じられます。それゆえに、教会は他の仕事に気取られてはなりません。教会を社交クラブにしてはなりませんし、政治・経済・自然科学に溺れている暇はありません。イエス・キリストによる救いを語る福音に集中します。

 

3)宣教の内容:キリストの王権

福音の内容としてカイパー先生が挙げているのは、「悔い改め」「よきおとずれ」「恩恵的救い」「キリスト教的感謝」ですけれども、加えて「キリストの王権」を宣教する必要を説いています。特にこれが、現代教会の弱い点です。マタイ福音書の末尾にある大宣教命令によりますと、イエス・キリストを王と認めることは万人に求められていることで、これをしないのは教会の怠慢だとカイパー先生は指摘しています。社会的関心の強いリベラルな社会福音の捉え方では、弱者の地上的救済に傾くことによって、イエス・キリストがすべての罪びとの魂を救うために十字架に上り、その贖いの御業によって万物の主となられたことが見落とされます。方や、ディスペンセーショナリズムの影響を受けた福音派の教会では、罪の贖いばかりを強調して、社会的無関心を引き起こし、キリストの王権を事実上否定しています。キリストを王とする、ということは、地上での生活をキリストの言葉に従わせることですから、生活のあらゆる領域で、それが生きてくるはずです。例えば、夫婦の関係について、労使関係について、文明が直面する命と死の問題について、政教分離について、これらは皆聖書から導かれるキリストの御支配に関係する領域です。これらについて語らない、もしくは語るのを躊躇うのは、キリストの務めに対する無理解と言わざるを得ません。

 

4)宣教の方法:教育

マタイによる福音書の2818節以下に、「イエスの大宣教命令」があります。

わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい

 これが、イエスが弟子たちに最後に言い残して行かれた伝道命令であることはご承知の通りです。ここで注目しておきたいことは「弟子にする」ということが言い換えられて、「洗礼を授け、教える」と言われていることです。つまり、伝道とは洗礼を授けておしまいではなく、むしろ、洗礼を授けることと教えることによってイエスの弟子をつくることだ、ということになります。聖書の記すところを追っていきますと、それはよくわかります。聖書の説き明かしがまずあって、それに続いて洗礼が授けられています。時によって事前の教育に費やされる時間は長短あるようですが、使徒の時代には独特の聖霊の導きがあって受洗者が増やされました。大衆伝道の時代には、この教育が蔑ろにされます。わかりやすい、受け入れやすい、話で人を呼び寄せて、洗礼を授けて信者を獲得しておしまいです。今でもそうした類の教会がありますが、教会が常に新しい信者で満ちている、と聞いたことがあります。つまり、入れ替えが激しいので、2・3年経つと教会を卒業していってしまう、とのことでした。現代のプロテスタント教会には信仰の知識を軽んじる傾向がある、とカイパー先生は言っていますが、現代の日本でもそうでしょう。信仰は賭けだ、とか冒険だ、と言われることもあります。これに対してメイチェンは「聖書知識をより多く持っている者が、より純粋で強い信仰に至る」と述べています。私たちはその確信に立って今日まで教育的伝道に勤しんできました。日本ばかりではなく、キリスト教国においても聖書的無知が広がっているとカイパー先生は述べていますが、それによって恵みによる救いを知らずに自己救済を信じる教会員が大半になってしまったと嘆いています。「未来の会員を教え導かず、神の言について全く無知な者を教会員とするようなことが、多くの教会の現在の無気力をもたらしたのです。教会が必要としているのは、教育的伝道の健全なプログラムであり、根本的なキリスト教教理を告白できる人々のみを教会員として受け入れる確固とした決意です。そのことが、現在、教会を揺さぶっている退廃と崩壊の波を静めるばかりか、キリスト教会の栄光を高く純粋に輝かすことになるでしょう」(207頁)。また、キリスト教教理を軽んじる大衆伝道者に対して、カイパー先生はこう答えています。「歴史的キリスト教諸信条を語らずにキリストを宣べ伝えることはありえない」。なぜなら、キリストとは誰か、救いとは何かについての様々な見解に対する聖書的回答がそれであるからです。

 

5.教会政治と戒規

 (1) 牧師・長老・執事

 教会員全員がキリストの職務を負うとは言え、その中から牧師・長老・執事という特定の職務に召される兄弟姉妹があります。これを否定する人々もあるのですが、私たちは聖書に基づいてこのような職務の必要を認めています(エフェソ4:11-12、使徒6:6,14:23,20:28、1テモテ5:17)。この特定の職務には次のような付帯条件があります。① 教会員が役員を選出する。② 教会員は同意のうえで役員による統治を受け入れる。③ 教会員は自分たちの中から役員を選ぶ(長老・執事の選挙、牧師招聘)。このような統治形態は、教会はカトリックのような聖職政治でないという意味で民主主義であり、キリストの主権を掲げる点では君主制です。それで、会員総会を最高議決機関とする会衆制と長老制とは異なっています。

 キリストの代理を務める特別な職務として筆頭にかかげられるのは「牧師」です。日本キリスト改革派教会「政治基準」にはこう記されています。

教師の職務は,その重要性の故に教会において第一位を占めるものである。

日本キリスト改革派教会『政治基準』第8章教師第43条

牧師の正式名称は「教師」でして、教師は「教える長老」を意味します。教師は治会長老と一緒に牧会の責任を負いますが、神の言葉を教えることが第一の職務ですから、長老の中にあっても特別な権限を持ちます。それ故、誘惑も多く、自分がキリストと教会に使える僕に過ぎないことを忘れないでいることが求められます。カイパー先生によれば、牧師の自己吹聴癖・独裁・多くのことに手を付けすぎる便利屋には注意が必要だとのことです。

 治会長老は、キリストの王としての職務を実行する職務です。長老もまた牧師であって、御言葉によって群れを養う責任があります。そして、牧師の生活と働きを監督する役割を持ち、説教が聖書的でない場合には誤りを正す責任を持ちます。群れに対する責任として大きな仕事は、受洗の認可と戒規の行使です。長老は、受洗志願者が真の信仰を得たかどうかを見極めなくてはなりません。また、戒規は聖書が命じる重く不快な務めですが、臆してこれを怠ってはなりません。さらに、教会財政に関しても指導・管理を行うのが長老の務めです。

 長老になる資格も、牧師と同じく厳格に問われます。社会的評価を第一とするのは米国教会の誤りだとカイパー先生は指摘します。第一の条件は「敬虔」であり、続いて「謙遜」が求められます。治会長老は神を敬う知恵を高度に必要とするため、聖書や神学書を勤勉に学ぶことが必須となります。

 執事の働きは、教会内の福祉に関わる仕事を担当しますが、カイパー先生は、これを「自然的な事柄」と呼んでいます。聖書の教えは自然的なものに霊的なものが織り込まれていて、神の創造が霊的な恵みの背景となっています。執事の職務にある権威も、牧師・長老と同じくキリストに由来しますから、教会がその尊厳を貶めることのないようにしないといけません。執事職は愛の務めです。キリスト教会による慈善の働きは、キリストの名による奉仕として独特です。特に教会外への援助は宣教のわざとして重要です。聖書によれば、執事に選ばれたステファノとフィリポは伝道者でした。

 

(2) 戒規の意味するもの

 私たちが持つ『教会規程』には「訓練規程」として戒規が含まれていますが、これを実行する例はあまり多くありません。それで、経験不足から戒規が遠ざけられてしまう傾向もあるのではないかと思います。しかし、改革者たちが「真の教会のしるし」として挙げる項目の中に「戒規」も含まれます。カイパー先生は、「戒規」が等閑視されている現状が、教会内外で教会の尊厳が失墜している理由だとしています。つまり、戒規を回復することが、教会の健全化に欠かせない、とのことです。

 戒規を行わないようになる理由としては、問題が起こっても神が教会を守っておられると言い訳したり、戒規を受けた教会員がその意味を真摯に受け止めようとせず脱会してしまったりすることが挙げられます。しかし、聖書の教えによれば、イエスもパウロも霊的な賜物を貶める人間を排除するのに躊躇いは見せていません。教会にはキリストの権威のもとに鍵の権能(マタイ16:19)が与えられていて、ある者を締め出すことが求められます。

 この戒規は霊的なものですから、その実際には殊更注意が必要です。戒規を執行するに当たっては深い謙遜を伴わなくてはなりません(ガラテヤ6:1)。腹立ちまぎれに罰を与えるようなものとは違います。また、教会に与えられている権威は霊的なものですから、教会は力の行使はしません。つまり、罰を与えるのではないわけです。戒規の実際には訓戒や倍散停止・除名などの譴責で行います。さらに、戒規を受けた会員のために祈り、悔い改めが認められれば、除名になった会員を復帰させなければなりません。戒規の目的は違反者を救うことであって、教会全体の純潔と健全さを増進させることにあります。

 カイパー先生は、戒規の二大原則として次のように述べています。

    戒規は、教会の純潔と平和の両者に関わる重大事である。その純潔を犠牲にした平和はない。

    戒規は、公正と同情をもって行わなくてはならない。公正を欠いた同情は、浅薄なセンチメンタリズムに過ぎない。

教会の法的理解が行き渡っていないアジア的な教会の現状では、なかなか難しいかもしれませんが、私たちも見直すべき点がないかと考えます。

 

(3) 神の民・キリストの群れであることの真実

 キリスト教信仰が個人の内面にだけ関わるものとする現代の教会の潮流に対して、キリスト教会はあくまで神の御業によって立つ、とするのがカイパー先生が強調するところの教会論です。私たちも同じ宗教改革の伝統によって立つ教会ですから、このことはいくら強調してもしすぎることはありません。つまり、キリスト教信仰とは、神が選んだ民の信仰なのであって、それは聖書から教えられるところの真理に基づいています。地上の教会は完全ではなく、罪を赦されて神と和解させていただいたにしても罪を犯しながら歩む限界があります。それでも、神の民・キリストに養われる群れとして、真実であることを求めてゆくのが真の教会の姿勢です。

 そこからくる教会の姿勢について、カイパー先生は「世と教会の関係」について数章を割いて述べています。

 まずは、教会は世に対立する。世とは神から離れた社会のことですが、教会は世の対立者として現実に地上に置かれている。教会が世の対立者でなくなれば、もはや教会ではなくなる。世に同化して教会ではなくなった教会も現代には多いということです。エフェソの信徒への手紙2章1節によれば、世は「罪過と罪によって死んでいる者たち」の属する世界です。教会は、キリストの恵みによってそこから救われ、再生して霊的に生きている者たちです。その両者の間には絶対的な対立があります。しかしながら、世に対する教会の姿勢は行動的であって、世からの迫害に忍耐しながらも、愛と宣教の業を通して積極的に働きかけます。

 教会は世と対立しながらも、世にあって「地の塩・世の光」であることによって、祝福の基ともなります。神の言葉の宣教によって、教会は世にあって防腐剤的塩として働き、罪と死の暗黒の中で輝く命の光となります。

 教会は、聖書で「召しだされたもの=エクレシア」と呼ばれます。つまり、世から分け取られたものです。それゆえに、教会は世と対立すると同時に、分離されたものです。

 この分離は空間的なものではなく霊的なものです。これを空間的に誤って捉えると、世からの逃避となり、社会的無責任を生じさせます。この分離によって、生活の中から異教性を排除する努力が始められます。

 そのように世との関係を常に吟味する教会には、信仰を条件とする洗礼の規定を通して、排他性と包容性が認められます。排他性は、真の信仰者だけが教会に入ることのできる点に現れますが、包容性は真の信仰者はあらゆる人種・階層・労使関係・学力などを超えて、すべてキリストの体に受け入れられることに現れます。

 これを正しく理解するためには「見える教会・見えない教会」の教理を十分に把握することです。「見える教会」は「見えない教会」がこの世に具現したものですが、そこには信者と不信者が混在します。そこで教会の排他性を極端に押し出すのではなく、受洗の際には試問を行って、できる限り不信者を会員としないことを教会の義務とすることが聖書的な理解です。試問されるのは救いに至る信仰の知識です。聖書の教えに同意しないで神への信頼はできないからです。信仰の必要条件となる教理の知識は必須で、キリストの神性や十字架による代償的贖罪、罪の確信などの基本教理を洗礼に当たっては習得しておくことが欠かせません。ウェストミンスター小教理問答の問86にある次の問答を忘れずに置きたいと思います。

 

問86  イエス・キリストへの信仰とは、何ですか。

      イエス・キリストへの信仰は、救いの恵みです。それによって私たちは、救いのために、福音において提供されているままにキリストのみを受け入れ、彼にのみ寄り頼むのです。

 

受洗志願者の試問で問われるのはこの点です。洗礼に厳しい条件をつけるのは伝道の妨げになるとの意見が時折聞かれますが、聖書はそれとは逆のことを私たちに教えています。使徒言行録5章にはアナニヤとサフィラの事件が書かれていますが、そこで教会に偽った夫婦に裁きが下った後、人々に恐れが生じ、教会員の数はますます増えていった、とあります。

 神は永遠からキリストにあって選んだ人々を愛されました。その愛に基づいて、聖霊が選民に新しく生まれる恵みを与え、教会を建てあげます。信仰者の救いは初めから終わりまで神の主権的恩恵と無限の愛によります。エフェソの信徒への手紙2章10節によれば、教会員は善い行いをするように、キリストにあって作られた神の作品です。神は主権的な愛をもって教会を選び、御子はご自身の血をもって教会を贖い、聖霊は教会が証をするために教会の内に宿っている。こうして、神がまず教会を愛されたゆえに、三位一体の神を愛し仕える人々によって教会は形作られています。

 

6.R.B.カイパー『聖書の教会論』の今日的意義

(1)   問題意識は共有できるか

 R.B.カイパー先生の教会論は、私たちが教会で学んできた伝統的な教えです。古い本でもはや絶版になっていますから、読んだことのない教会員も増えているのではないかと思いますが、この本で開陳されている教会についての教理は、日本キリスト改革派教会の教会員となって信仰生活を送るときの基本として理解しておきたいことです。キリスト教会の教理とは、カイパー先生がしきりに「真理」と言っているように、時代によっておいそれと変わるようなものではありません。ですから、確かに時代を感じさせる本ですけれども、丁寧に読み取って私たちの教会形成に役立てることが必要です。

 しかし、このような教えが生きるのも、カイパー先生と同じような信仰の熱心をもって問題意識を共有できるかどうかです。すでに、リベラル化してしまったり、大衆伝道に慣れ親しんでしまった現代の潮流にいる自分を変えようとしない意固地な態度では、こうした教えも生かされないでしょう。私たちの時代は「ポスト・トゥルース」という真理をもはや重んじない時代になっています。つまり、それぞれの受け止め方が皆真理なのだから、何が真実なのかを突き詰めることはしない、という割り切りです。それで政府の詐欺的な行為さえ許されてしまっているのが現状です。けれども、聖書が語る神と人間との関係は、普遍的なものであって、人間一人一人が真理を持つなどということはあり得ません。ただ神のみが真理であると聖書は訴え続けます。そこに遜ることがなければ、キリストが来られたところで、そもそも人間の救いなどはないわけです。

 カイパー先生の時代の問題意識は、教会が真実に教会でなくなってしまうことを間近に見て、その問題点を誠実かつ率直に、キリストに召された一教師としてこうして訴えたのだと思います。今の時代は、米国であってもさらにそれが悪い方向に進んでいるように思うのですが、それを私たちが共有できるかどうかが問題です。たとえば、米国のプロテスタント教会が直面した大きな問題は、大衆伝道がさらに増幅して、数万人の会員を擁するメガ・チャーチが出現したことです。一度に数千人を収容する会場が用意されて、礼拝のステージはもはや演出の凝ったショーとなって観客を魅了するようになりました。今は下火になったといいますが、そういう教会での問題は、権力や金銭を巡る大きな問題にもなり、政治的な様相も帯びてきています。

 日本キリスト改革派教会の課題の一つは信仰の継承でしょう。教会論についての問題意識の希薄なムードが次世代に受け渡されて、教会の根幹が崩れていきはしないか心配です。

 

(2)   『聖書の教会論』の問題点

時代の古さを考えると、刷新しなければならない点もいくらか見受けられます。特に、学問的な立場については、改革派神学の動向も良い意味で今は幅が出てきているように思います。「聖書に基づく」とは言っても、その聖書に対する理解が、カイパー先生の立場と私たち日本キリスト改革派教会の立場も幾分違ってきているように思います。OPCなどは今でも変わりませんが、そこが変わってきているからこそ、私たちの教派では女性長老・教職が可能になったわけです。また、K.バルトの立場についても、カイパー先生はリベラルと切って捨てますが、私たちはスイスやオランダなど大陸の改革派神学も学ぶ努力をしてきましたから、バルトはリベラルなどとは思いません。宗教改革の伝統を如何に消化して継承するかは、やはり地域による違いもあります。

 

(3)   真のキリスト教会であるために

 

 私たちがこの書物で問われるのは、私たちが真のキリスト教会であろうとするか否かです。教会は腐敗する可能性があることを真摯に受け止めて、絶えざる改革に臨むかどうかです。「御言葉によって常に改革し続ける」という看板に間違いないように、真剣に説教に臨み、この世の諸勢力に抗う力をいただくことが重要です。そのために、この本に啓発されて、取り組みを見直すことから、私たちの教会建設を始めなくてはと思います。(了)