マタイによる福音書1章18~25節

神は我らと共にいます

 

 世界の救い主であるイエス・キリストとは誰か、ということを、今朝もマタイ福音書から聞きました。その名は「イエス」と呼ばれます。「救い」を意味する言葉です。その名を信じる者は誰でも罪から救われます。そしてもう一つの名がそこに加えられます。「キリスト」は名前ではありません。メシア―救い主を表す称号です。もう一つの名は、預言者によって語られていた「インマヌエル」との呼び名です。「神、我らと共にいます」という意味です。イエスは、私たち罪人を、神と共におらせてくださる救い主です。

 信じる以前には、神は共にいなかったのです。むしろ罪の世界を孤独にさまよう羊でした。或いは群れてはいても神の御前から失われた存在でした。私たちの方では、神を意識したことがあったかも知れません。風に乗ってどこにでも漂っているような存在と思えたかも知れません。或いは、宇宙の遥か彼方、我々の手の届かない何処かにおられて、私たちをじっと見つめている存在、と感じられたかも知れません。しかし、確かに私たちはそれを捕えることができませんでした。そして、大抵の場合、それを捕えようともせず、偶然起こった出来事に一喜一憂するだけの、不安定な今日・明日を生きていました。

 けれども、神は御自分のお造りになった世界を見捨ててはいませんでした。神には御自分のもとから離れて行った人を救う御計画がありました。それは古くから実行に移されていて、多くの人の気付かないところで着実に実を結んでいました。それが最終的に、世界に向けて知らせるように、神が用意されていた「救い」が「イエス」という名で呼ばれます。そして、その名を信じて、神に立ち帰った者たちのところで、「インマヌエル」が実現します。神は信じる私たちの神となり、信じる私たちは神の民となる。「共にいる」ということは、そうした確かな交わりを意味します。真心をもって礼拝をささげている今、そして、神の言葉に耳を傾けている今、神は確かに私たちと共にいます。

 

 イエスがこの世にお生まれになった、その最初の出来事が語られています。神はヨセフとマリアの夫婦にイエスをお与えになりました。それはかねてから選びの民イスラエルに告げられていた約束に適ったことでした。イエスは約束されたメシアとして「ダビデの子」ヨセフのもとでお生まれになり、神が定めたすべての業を果たされて、イスラエルの救いを実現します。

 マリアがそして母として選ばれました。初めての結婚ですから、ユダヤの慣例に従ってまだ10代だったかも知れません。そしてまだ婚約中に、マリアは聖霊によって身籠りました。

 

 先の系図に示された細い線は、何度も切れかかった危ういものでしたが、その都度、神の奇跡的な恵みと配慮によって保たれて来ています。系図の始まりにある「アブラハムはイサクをもうけ」という一言の内に、すでに神の奇跡的な摂理の御業が含まれています。イサクが生まれた時、アブラハムは既に100歳、妻のサラは90歳、加えてサラは子どもが産めない身体でした。ですから、「イサクを与える」との約束をサラは信じることが出来ず、笑うしかありませんでした。しかし、イサクは神の言葉に従って、確かにサラの胎から生まれました。こうした誕生の出来事は、創造者である神の偉大な御業です。

ヤコブはその12人の子どもたちと共に、年に亘る大飢饉によって荒れ野で死に絶える寸前でした。そこでも系図は途切れかけました。しかし、その内の一人ヨセフが兄弟の憎しみを買ってエジプトへ売られるところから、神の摂理によってヨセフはエジプトの宰相になり、家族はエジプトに逃れて命を救われ、約束はさらに未来を目指しました。

 ダビデ王から続くユダの王国は、バビロニア帝国が世界を手中に収めてゆく中で解体させられ、国は滅び、ダビデの王座は失われ、主だった人々は神から受け継いだ土地を離れて、強制的にバビロンへ移住させられました。それはソロモン以降、偶像崇拝に侵された王国が悔い改めて立ちかえることがなかったためでした。神から遣わされた預言者たちは、王国の滅亡と神との契約の破棄を王と民衆とに告げていました。けれども、神は生き残った御自分の民に悔い改めの道を備えたばかりでなく、エコンヤによって王家の血筋を保たれて、ダビデに与えた約束をマリアの夫ヨセフに至るまで保たれました。

 系図に含まれた人の女性たちについては前回もお話ししたところです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻はそれぞれ人生の苦悩を背負いながらも、神の自由な選びによって神の御計画を実現するための器とされた女性たちでした。そして、終わりにマリアがそこに名を連ねます。ここに加えられるヨセフとマリアの出来事も、神の特別な配慮の下で実現された、神の救いの歴史の一コマです。

 

 マタイはマリアの状況を詳しくは語っていません。マリアにまつわるクリスマスの物語はルカ福音書によります。マタイで告げられるのは「ダビデの子ヨセフ」の物語です。

 律法に則ったユダヤのしきたりでは婚約は結婚とほぼ同じで、互いの契約関係が既に結ばれたと看做されます。ですから、婚約中の不実は姦淫に相当します。マリアの妊娠に気づいた時、ヨセフにはまだその真の原因を知らされてはいませんでした。「ヨセフは正しい人であった」ということは、多くのクリスマス物語が想像力を働かせてきたように、ヨセフが思いやりのある人であるとか、愛情深いということを直接意味してはいません。それはまず、神の目に正しいということで、神の言葉に従っていることを指しています。ヨセフが知っているはずの掟では、申命記2223節以下で次のように定められています。

 

ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。

 

ヨセフが破談を決心したのは、妻の姦淫によって結婚関係が破れたと思ったからに違いありません。ただ、幸い未だ婚約中でしたから、彼女の妊娠が人に知られる前に婚約を解消して去らせておけば、町の晒しものにならずに済みます。姦淫は結婚に対する暴力ですから、未婚の女性の場合は直接的には問題にならないからです。ヨセフはマリアを気遣って、それらを秘密裏に実行しようとしました。杓子定規に律法に従うことが義ではないのも確かです。

 こうしたヨセフの無理もない思い込みを天使が解消してくれました。しかし、誤解が解けて安心してはいられません。天使のお告げは、ヨセフに「ダビデの子」としての使命を果たさせようとするものでした。ヨセフもまた、マリアと同じように神に選ばれた器として、神の救いの御計画に用いられます。主なる神が、かねてから預言者を通して語っておられた御言葉を実現させるために、ヨセフには命じられた通りに行動することが求められます。夢のお告げを受けてから目覚めて直ちに、ヨセフはマリアを妻として迎え入れ、その子に「イエス」と名付けました。本当ならば、子どもの名前は母親が着けるのがユダヤの通例です。しかし、ヨセフには特別にその責任が与えられました。彼は血のつながりによってではなく、神の定めに従って産まれてくる子の父親にならねばなりませんでした。ヨセフはその召しに忠実に従った正しい人でした。こうして、主イエスは預言者の語った通りにダビデの家系から生まれることになりました。

 

 イエスの誕生について私たちに告げられているのは、神の確かな約束が旧約の長い歴史を経ていよいよこの時に成就した、とのことです。主イエスは「自分の民を罪から救う」ために世に遣わされた方です。マタイは主イエスがなされた救いの御業を余すところなく福音書に記しています。主イエスは、神の国の到来を告げながら、病を癒し、御言葉を説き明かし、弟子たちを集めて行かれます。そして、御自分に従うすべての者が神の御前で罪を赦していただけるように十字架で死なれ、三日目に復活されて民の復活の保証となられました。「自分の民を救う」とありますように、主イエスは神の約束に基づいてイスラエルを救うために世に来られた方です。その約束を信じて長い間待っていたユダヤの人々のところへイエス・キリストはまず来られました。けれども、罪の赦しは主イエスの復活によって新しく生まれた弟子たちの交わりを通して、世界のすべての人々に向けられることになりました。今や、キリストを信じてその教えに従う弟子たちによって「民」は新しく造られます。主イエスの民とは、主イエスの言葉によって命を養われる教会のことです。キリストの教会において、神はわれらと共にいますお方です。

 

 さて、旧約の預言の成就として証されていますこの出来事は、23節にあります引用によって証拠づけられています。これはイザヤ書7章にあります「インマヌエル預言」と呼ばれる教会ではよく知られた箇所です。1節から17節までをお読みしますので、どうぞお開きください。

 

ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する) 。エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」 主は更にアハズに向かって言われた。 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

 

 この預言者の言葉は、ただ単に未来の出来事を見通して語ったのではありませんでした。神はまず、預言者を通してその時代の人々に対して語られました。旧約聖書に描かれている古い時代に、たびたび戦争がありました。節には、ユダの王アハズの時代とありますが、これは紀元前世紀の頃です。このとき、東方のアッシリアが強大な力をもつようになり近隣諸国を次々と征服して行きました。パレスチナの諸国もアッシリアの脅威に晒されて、降伏して従うか、対決をするかとの選択に迫られました。そこで、北のイスラエル王国はアラムと同盟を組んで反アッシリア連合を結成します。そして、南のユダ王国も連合軍に引き入れようとするのですが、アハズ王がこれに応じなかったため、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカは、ユダに傀儡政権を打ち立てようとエルサレムに攻め上って来ました。ユダの国の人々は、こうした戦争の脅威に晒されて、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺し」た、のでした。そのときに神から遣わされたのが預言者イザヤです。神はイザヤをアハズ王のもとへ送り、落ち着いて静かにしているように、敵の計画は実現しない、と神の定めを告げられました。

王と人々に求められたのは神への信頼です。神は人々に平安を約束されました。後は信じて、落ち着いて待っていればよい。大切なことは、預言者の語った言葉を信じることです。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と言われます。預言者が語った言葉が確かに実現すると信じる、その信仰によって、人々の動揺は取り去られます。

預言が語られたとき、その時代の問題はとても具体的でした。しかし、そこで示される信仰のかたちは、時代を超えて現代の人々にも当てはまる信仰のあり方です。神は聖書を通して約束の言葉をくださいます。それは、様々な不安の中で神が与えてくださる落ち着きと平安の根拠です。有事にあっても、落ち着いて確かな歩みをなすことができるかどうかは、その言葉を信じるかどうかにかかっています。

 アハズ王はこのとき、預言者の言葉に従わなかったことが、別の書物である列王記から知らされています。アハズは反アッシリア連合軍の脅威に対して、アッシリアに援軍を要請することで解決を試みました。言葉しか与えない神を信頼することが出来ずに、アッシリアの強力な軍事力に頼ったのです。人の目にはそちらの方が確かであると映りました。その結果は、確かにアラム・イスラエル同盟の攻撃は免れましたが、今度はアッシリアの脅威に晒されることになりました。

 アハズ王の選択は、神の約束という目に見えないものを信ずることができず、目に見える力に頼ってしまう人間の弱さを明らかにしています。誰もがそのように、目に見えるところの表面的な判断によって、本当の解決を逃してしまいます。

 神はアハズに「しるしを求めよ」と促されましたが、アハズはそれを拒みます。「主を試してはならない」とモーセの律法にありますから(申命記16節)それは、アハズ王の信仰であったかも知れません。しかし、アハズの本当の心を知り、人間の弱さを知っておられる神は、彼の拒否を越えてご自分からしるしを与えると約束されました。それが、「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というしるしでした。

 「インマヌエル」とは、旧約聖書が書かれているヘブライ語で「神は私たちと共にいます」という意味です。新しく生まれる男の子にその名が与えられて、神が共にいる、ということのしるしとなる。言葉だけではなく、目に見えるしるしとなる。それは、預言者の言葉を聴いた人々が信じないものにならないで、信じるものになるためでした。

 「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」-このしるしは、アハズ王の後継者となるヒゼキヤ王の誕生によって、ユダの人々を励ましました。しかし、神が自ら人に与えたこの「インマヌエル」の約束は、そのとき以来、ユダの人々に「神が共におられる」ことを思い出させるしるしとなりました。そして、やがて、その預言の本当の意味が明らかにされる時がやって来ます。それがイエス・キリストの誕生です。

 

神は私たちと本当に共におられるとは思えない時があるかも知れません。災害にあった方々に「神があなたと共におられます」などと不用意に声をかけることも躊躇われます。けれども、私たちが今とても満たされていて、生活も安定しているから、神が共におられるに違いない、ということではありませんし、家も無く家族も無い、仕事も無い、一体どうしていいかわからないから、神はおられないのでもありません。むしろ、途方にくれてしまったような時にこそ、神がお与えになったイエス・キリストに目を留めるように御言葉は呼びかけています。聖書が語るキリストは、「神が共にいる」ことの確かなしるしです。私たちの先行きを見通す力はごく限られています。どんなに優れた学者でも政治家でも、未来を正確に予測することはできません。「信じなければ、あながたは確かにされない」と神の言葉は告げています。

ユダのアハズ王に「落ち着いていなさい」と言葉をかけたような、歴史のとても具体的な状況に言葉を与えるのが、インマヌエルの神です。神は目に見えないお方で、どこにいるそこにいると指差すことの出来ないお方に違いありません。けれども、聖書を開けば、そこにキリストの姿があります。そこに描かれたお方は、単に昔生きておられた方ではありません。今も聖書を通して神を示し続けておられて、今も生きておられるお方です。

神がわたしたちと共におられるとは、神が私たちを愛してくださっていることの証です。それを知るとき、世界の意味が変わります。一見、意味の無い無味乾燥な世の中でも、冷たい人ばかりが蠢いているように見える世界でも、神はこの世界を諦めてはおられない。そこに生きる小さな一人をも無視してはおられません。インマヌエルの神は私たちと共に生きようとしておられます。

神は私たちにかけがえのない言葉をくださいました。それはインマヌエルであるイエス・キリストを証しする聖書の言葉です。御言葉には生命があります。信じる人には新しい命が宿ります。御言葉を心に留めて、今週も神と共に歩んでまいりたいと願います。

 

 祈り

人の思いを越えた永遠の御計画によって、主イエス・キリストを私たちにお与えになった父なる御神、私たちに御言葉を信じる心をお与えください。あなたが共に生きてくださることを毎日の生活の中で確かめさせてください。一人でいることの寂しさを覚えている方々に、御言葉をもって近づいてくださり、慰めをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。