マタイによる福音書10章1~15節

神の国の十二人

 

 主イエス・キリストは御自分に近づいてくる様々な病を負った人を癒されまして、そうした人々を「飼い主のいない羊のよう」だとご覧になり、深く憐れまれました。主イエスはそうして、信じてやってくる人々の期待を裏切ることなく、すべての人を癒してくださいましたけれども、御自分と共に神の業を行う働き手が少ないのだと仰って、働き人が起こされるよう祈りなさいと弟子たちに教えられました。今朝のところでは、主イエスが自ら十二人の弟子たちをお選びになって、御自分の働きを委ねておられます。

 主イエスはこれまで、弟子たちの前で、神の子としてのお働きを存分にお示しになりました。権威ある言葉でもって神の国の教えを説かれました。また、その言葉の力が嵐を静め、悪霊を追い出し、死者を甦らせました。その権威が集められた十二使徒にも与えられます。彼らは、イエスの分身のようにして働くことができます。それは、神の憐れみが失われた羊たちのもとに広く届くようになるためでした。

 選ばれた12人の弟子たちは「十二使徒」と呼ばれます。「使徒」とは遣わされた者という意味です。主イエスから権能を授かって、主イエスの御業をなすために、各地方へ派遣されます。後にこの使徒たちは主イエス・キリストの十字架と復活の証人とされて、キリスト教会の礎とされます。今や使徒たちの権能は、キリストへの信仰を公に表した教会の内に委ねられています。キリスト教会は、主イエスのもとからこの世に派遣されて、神の憐れみを示す為に力のない人々に寄り添いながら、福音を宣べ伝える働きを与えられています。

 「十二」という数字は、旧約聖書にあるイスラエル十二部族を引き継ぐものとの意味合いがあります。つまり、イエス・キリストに結ばれた新しい共同体の内に、旧いイスラエルが再生されます。神はアブラハムとの契約の中で、イスラエルの民を御自分の民とされて、御言葉によって教え育んで来られましたが、神との契約を破ったイスラエルの民は世界に散らされました。罪を悔い改めることによってユダヤに残ったイスラエルは、やがて離散の民が結集してイスラエルが復興するとの希望を預言者によって与えられていました。その預言の成就が、世に来られた主イエスのもとで始まりました。主イエスは十二人の使徒をお選びになって、そこから新しいイスラエルを形づくられます。

 十二使徒の顔触れは二節から四節にある通りです。すべての者が同じように聖書でよく知られている訳ではありません。バルトロマイやタダイのような使徒たちは、後に成立した教会の伝承以外では、こうしたリストの他では働きが知られてはいません。二人一組で紹介されていますが、筆頭に掲げられるのはシモン・ペトロです。ペトロが使徒たちの中でリーダー格でしたが、ペトロがただ一人キリストの権能を受け継いだというカトリック教会に流れ込む理解は、聖書からは支持されません。ペトロとアンデレ、そしてゼベダイの兄弟たちは、福音書の初めの部分で書かれていたように、漁師であったところを主イエスに召されて弟子になりました。徴税人のマタイは収税所に座っているところをイエスに呼びかけられて弟子になりました。ローマの手先と見られた徴税人がいるかと思えば、もう一方では熱心党員だったシモンがいます。熱心党とは反ローマを訴えて過激な活動にも及んだユダヤ人組織です。漁師たちがおり、徴税人がおり、過激派がいる、この使徒たちのグループは、特別な地位や才能が買われて選ばれたものではなく、ただキリストが召してくださったからこそ成り立つ奉仕者集団で、それ自体が和解のしるしでもあります。リストの最後には、イスカリオテのユダの名が置かれます。ユダは弟子グループの会計を担当していたようですが、最後は、銀貨30枚と引き換えにイエスをユダヤ当局に引き渡しました。

こうした十二使徒の在様が教会のかたちをよく表しています。キリスト教会はメンバーの社会的地位や才能が評価を受けるエリート集団ではありません。イエス・キリストを飼い主としていただいた、失われた羊たちの集まりです。そうした者たちから、キリストの召しによって働き手が起こされます。それらの者たちが、ただキリストから与えられた賜物をもって主イエスの業に奉仕します。

裏切り者のユダがそこに含まれているのも示唆的です。ユダは自分の意志でイエスを売り渡しました。彼にとってイエスはキリストではありませんでした。ですから、その裁きは彼自身の責任によるもので言い逃れはできません。けれども、ユダの裏切りはキリストの十字架による贖いが実現するために無くてはならない要素でもありました。神の深い御計画によってユダは使徒の内に含まれていました。神が召されたキリストの教会に、教会全体を揺るがすような躓きを与えるような人物が登場したとしても、それを神がご存じないわけではありません。その背後には、私たちの知りえない神の御旨があります。教会は、そういう人間をも含みながら、キリストに召されている弟子たちの交わりです。

 5節から、使徒たちを宣教に派遣する際に語られた主イエスの説教が始まります。10章の終りまで続いていますが、今日は15節までを見ておきたいと思います。宗教改革者のカルヴァンによりますと、ここのところは、この時ならではの具体的な勧めを主イエスはなさったので、そのまま今日の教会に適用しようとするととんだ思い違いが生じる、ということです。これは、後の教会のことをも踏まえて主が弟子たちのお語りになり、聖書に残されたものには違いありませんから、カルヴァンの言うように一時的なものと看做すわけには行きませんが、内容としては確かに今日の教会でそのまま実践できるものではありません。そこを弁えながら、今日の教会とそこで働く教職のために語られていることに心を留めたいと思います。

 まず、この時、主イエスのもとから派遣された十二人の使徒たちは、異邦人への伝道の道を閉ざされました。「サマリア人」はユダヤ人からすれば兄弟関係になりますが、当時は異邦人と看做されていました。この道が実際に開かれるのは、主の復活が果たされて、聖霊が使徒たちに降った後の事となります。主イエス御自身が宣教されたお働きは、まずは旧約の民イスラエルの下で行われます。「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とありますが、誤解の無いように改めて翻訳しておきますと、「イスラエルの家の破壊された群れのところへ行きなさい」ということです。信仰の絆が断たれてしまって、飼い主のいない羊の群れのように彷徨っている、憐れむべき同胞たちの処へ行って、その破れを繕いなさい、ということになります。ですから、ここからも主イエスのお働きが何であったかが分かります。主イエスは、御自身が召しておられる弟子たちによって、真のイスラエルを再生しようとされていた。それが、イエスをキリストと、神の子としての権威を持っていると信じている者たちの内に実現していました。その主イエスのお働きをそのまま受け継ぐ働きに、使徒たちが送り出されます。

これはキリストが教会に与えておられる伝道の働きです。イスラエルは、その後、異邦人をも含むところのイスラエルに拡大されて、キリスト教会はこの世の失われた羊たちのもとへ派遣されます。

そして、使徒たちが為すべきことは、「宣べ伝える」ことと「癒す」ことです。どちらも、主イエス御自身がなさったこととして、これまでマタイは記して来ました。『天の国は近づいた』との言葉づかいは、主イエスが宣教の初めに述べた言葉そのものです。8節に並べられた、いやし、生き返らせ、清め、追い払う、という働きは、主イエスの奇跡そのものです。使徒たちの働きは、主イエスの働きと全く同じです。

 ここに並べられた宣教と癒しとは、一つに結びついたこととして理解すべきでしょう。イエスがなさったこの二つのことは、「神の国が近づいた」と語ったことが、その癒しの奇跡によって実った、ということでしょう。宣教の言葉が、信仰の内に実ることが働きの目的です。神の憐れみが、実質をもった形をとって、救いを求める人のところに届かなくてはなりません。宣べ伝えるだけで通り過ぎてしまうわけにはいかない。また天の国の言葉であるイエスの御言葉を語ることなくして、罪に病んでいる人の回復は起こらない。正しい意味での御言葉による牧会が教会には命じられていると言ってよいでしょう。私たち長老主義の伝統に立つ教会では、キリストの権能を委ねられているのは小会です。小会の重要な働きは、語られた御言葉がきちんと教会員に届いているかどうかにいつも注意を払っていることです。そして、それができるように相応しい配慮をすることが群れを牧する「牧会」です。単なる、教会員さんのお世話ではありません。

 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とここで言われていることは、教職者の報酬に関することと受け取られて来ました。主イエスが言われたのは、「いやし」や「清め」と表現されている、罪の赦しと汚れの清めは、全く神の憐れみに基づく恵みなので、それを伝え、届ける働きに、代価を要求してはならない、ということでしょう。主イエス・キリストの恵みを、私たちは恵みとして隣人に届けなくてはならない。教会で洗礼を受ける時、だれも「洗礼料」を支払う必要はありません。礼拝に出席するのも、説教を聞くのも無料です。「献金」は、支払いが求められる代金ではありませんから、お間違いの無いように。私は青年の時代に、「献金を払う」と表現して仲間からたしなめられた経験があります。献金は「ささげる」ものです。

 伝道者の無償の奉仕については、キリスト教会の初期の頃の理想的なかたちが、ここに示されています。マルコやルカが記すところとここは若干食い違うのですが、マタイの伝えるところによれば、働き人は持ち物を一切持たずに旅に出よ、と命じられます。履物や杖は旅に最低限必要と思われますが、マタイではそれさえもいらないといわれます。つまり、それらは必ず備えられるとの信頼をもって、無償の働きをもって主イエスによる恵みを伝えるようにとのことでしょう。「信頼」というのは、勿論、伝道者を召してくださった主イエスへの、また天の父なる神への信頼に違いありませんが、それと同時に、教会の共同体への信頼も含まれてくるはずです。旅先には、「ふさわしい人」が起こされる、と11節以下にあります。伝道の働きは無償でなされるべきですが、「働くものが食べ物を受けるのは当然」とも言われています。つまり、伝道者の働きというのは、金銭を得るため、自分の生活のためになされる職業とは違いまして、純粋に神の恵みの業として行う奉仕職です。一方で、そういう働き人は、ではどのようにして生計を立てて行くかというと、共同体全体で、そのような働き人の生活を支えます。その理解が教会に徹底していれば、伝道者は何も持たないで旅をすることが可能です。行く先に見いだされる兄弟姉妹の家が、その伝道者を支えてくれるはずだからです。

 教会では、各個教会が牧師にサラリーを払って雇っている形になりますが、その意味はよくよく注意して置きたいところです。牧師は給料のためにこの職業を選んでいる訳ではありませんし、教会は給料次第で牧師を雇ったり雇えなかったりする訳ではありません。牧師は教会で働く公人でして、その務めはキリスト教会という信仰共同体が、責任をもって支えて行かなくてはならないものです。旧約の時代でも、レビ人には土地の配分は行われませんでしたけれども、彼らは十二部族の中で神への礼拝に関する特別な奉仕をする部族とされまして、民から寄せられた献げものが実際にはレビ人と祭司たちの生活に用いられました。教会というのは、古くからそうした伝統的な社会形態を今日に至るまで持っているのでして、神に働き手を求める一方で、教会では実際にその働き手たちを自ら養って行かなくては、教会という社会を支えていくことが出来ません。国民の税金が、公務員を養って、国の公的な職務を遂行させるのと考え方は同じだと思います。

 さて、11節を見ますと、旅の際には「ふさわしい人」が見出されることが前提になっていますが、それは「福音を語るのに相応しい人」ということになるでしょう。まずは語られる福音に耳を傾ける人を見出し、その人の家に留まって、村や町全体に福音を語り伝えていく、という初めの頃の伝道旅行の仕方が浮かび上がって来ます。12節に「平和があるように」と挨拶の言葉が記されていますが、これは実際には本文にありません。13節とのつながりから翻訳者が補ったものです。この所で、「平和」のことが取り上げられています。挨拶の言葉の内に込められた「平和」は、ここではやり取り可能なもののようにいわれています。イエスのもとから遣わされた使徒たちは、ここからしますと平和の使者です。そして、「平和」は神からのプレゼントです。

平和を携えて来た伝道者を迎え入れる家にはそれが留まることになります。しかし、残念なことに、それを拒む人々は大勢です。「ふさわしい人」はよく調べないと見つからない、と言われている通りだと思います。しかし、福音の担い手であるキリスト者を受け入れるかどうかということには、終わりの日の裁きがかかっていることを主イエスは厳しく警告しています。キリストの使徒たちには、その最後の部分での責任までは負えません。御言葉を聞くかどうか、使徒たちを神から送られて来た平和として受け入れるかどうか、はあくまで聞き手の責任です。もしも「ふさわしい人」が見つからず、使徒たちのいる余地がないならば、町を出て行く際に足の埃を払い落せと命じられていますが、これは絶縁を表すしるしです。ソドムとゴモラは、旧約聖書の創世記19章にある神に滅ぼされた町の代名詞です。こうした威嚇さえおそらく届かないのがこの世界の一般的な状況だと思います。

そうした世界にあって、私たちキリスト教会は、神に召されて平和の使者とされた者の集いです。神が定めておられる審判の前に真に謙遜になれるのは、まずキリストの権能を委ねられている教会自身だと思います。私たちには、私たち自身を滅びから救うキリストの福音が与えられているのと同時に、隣人に差し出す「平和」も委ねられています。これを手渡す為に、私たちの伝道の働きがあります。使徒の働きは、信じて集う私たちの交わりの内に、癒しと和解と平和の実をもたらします。イエス・キリストの権能を通して、神の国の完成を目指して進む神の救いの大きなお働きの中に、私たちも召されていることを心に留めて、ただでもらった大きな恵みを、それを必要とする人々にただで分け与える、日々の私たちの生活へと送り出されたいと願います。

祈り

憐れみ深い天の御父、御子イエスが12人を選んで使徒とされたように、罪深い私たちを罪の裁きのもとから贖いだし、主の僕として召し上げてくださいました恵みを心から感謝します。しかし、その召しに応えていくために、私たちには聖霊の助けが常に必要です。あなたが主において約束された平和を私たち自身がこの教会の内に確かに保つことが出来ますように。そして、主イエスに表されたあなたの憐れみを私たちも心に抱いて、救いを待ち望む隣人のもとへ遣わされて行くことが出来ますよう勇気を与えてください。また、私たちは御言葉の教師をいつも必要としています。あなたが相応しい者を選んでくださって、教会の中に働き人を備えてくださり、教会があなたの召しを信じて、そうした働き人を確かに支えていくことが出来ますようお導きください。今から主の晩餐に与ります。私たちを御言葉に相応しく整え、見える御言葉の恵みに与らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。