マタイによる福音書10章16~25節

最後まで忍耐する

 

 主イエスが十二使徒を召して御自身の宣教に派遣されるに当たって語られた説教が、この10章にまとめられています。今朝の箇所は、いずれ教会を見舞うであろう迫害に対して相応しい信仰の備えをするようにとの警告がなされています。マルコ福音書ではこれが終末時の迫害と述べられているのですが、マタイ福音書では派遣の場面に置きかえられていまして、教会は初めから迫害という極めて困難な状況を予想してこの世に遣わされているものだと教えられます。何があっても想定外ということにはならないように、信仰上の危機管理を主は教会に求めておられるとも言えましょう。

 第一に、心に留めて置きたいことは、「わたしがあなたがたを遣わす」と主が力強く言っておられる点です。教会は主イエスのもとからこの世に遣われた共同体です。共になすべき働きがあります。主イエスがそうなさったように、弱い者の傍らにあって、罪に苦しむこの世界にキリストの愛と平和を伝える役割を持っています。そのために礼拝に集って、御言葉の教えを通して祝福をいただき、この交わりを主のお働きの拠点としていただきます。また、一人ひとりが主イエスの弟子として、それぞれに与えられている生活領域で、神と人とに仕えつつ証しの生活を送ります。こうして、私たちをこの世に送り出しておられる主人を忘れないでいることが、信仰生活の秘訣だと言えます。そして、遣わされたそもそもの目的である、神の国を宣べ伝えるという務めを果たすための鍵です。この主人を忘れてしまうと、教会は迫害に耐えることが出来ず、救いの道を見失います。

 16節でこう言われます。「狼の群れの中に羊を送り込むように、あなたがたを遣わす。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。もはや格言のように言われる主イエスの言葉ですが、17節以下は、この言葉の具体的な展開です。ここで、狼や羊、蛇、鳩といった動物の象徴が用いられますので、それに則して、今朝の御言葉を受け止めたいと思います。

 私たちの宣教は、狼の群れの中に羊を送り込むがごとくになされる、と主は言われます。それは、飢えた獣に餌を与えるがごとく、ということです。教会がここに立っている状況はそんなに切迫した状況には思われませんし、日本社会でのキリスト者の立場を考えても、そんな風に思いつめては周囲と良い関係を持てなくなってしまうのではないかとも危惧します。けれども、主イエスが復活なさって以降、キリスト教会がまだ出来初めの頃は、実際にそういう状況があったことは、使徒言行録からも知られます。

 キリスト教という宗教が、ただ自分の信仰を心の内に守って静かにしていればそれでよい、という宗教文化に過ぎないのでしたら、迫害はおよそ避けられるものかも知れません。けれども、「わたしがあなたがたを遣わす」と主イエスが言っておられる通り、私たちの信仰は、イエス・キリストを通して唯一の真の神を信じることにありますから、宗教を生活のお飾りにしておくことはできません。真の神への信仰を生活を通して表してゆかねばなりませんし、主イエスのもとから派遣されて福音を伝えることにも積極的に取り組みます。そのことが迫害を生みだすきっかけとなります。

 主イエス御自身が「地方法院に引き渡され、鞭打たれ、総督や王の前に引き出され」るという苦難を受けられたのも、また、使徒パウロが召されて同じ主の道を辿って苦難を味わい、異邦人にキリストの復活を証言することになったのも、どちらも「宣教」の働きがあってこそでした。神の救いを宣べ伝えるということは、世間のニーズに応えて、受けの良い慰めやお守りを提供する商売とは異なります。それは、天から下される一方的なものであって、人間の都合に関わらず告げられる真実です。その神の光の下では人のすべての罪が明らかにされ、終わりの裁きが告知されます。その上で、救いの道として神が準備された、キリストの十字架による赦しが示されて、その道を辿る者だけが裁きを逃れて神の祝福の中に受け入れられます。そういう一方的なことを、語り伝えるという単純な方法で、キリスト教会は世に出て行くのですから、人々はこれを簡単に受け入れる訳にはいかないとしても当然です。それが、時代や地域の利害に反するようであれば、迫害もそこで起こって来ます。

 世の中が狼の群れのごとくに変わるとき、教会は羊の群れのように力がありません。キリスト教宣教の歴史を振り返ってみますと、必ずしもそうとは言えず、キリスト教社会が時の権力と結びついた時は、教会が狼のごとくに振舞いました。けれども、そういう時はもはや教会がキリストの教会なのではなくして、狼の群れたる世の中に属してしまったと見る他はありません。主イエスが遣わされる教会は、羊のように、愚かで力がありません。狼に襲われれば餌食になるばかりです。しかし、それは、主イエスがそのようであったのと同じです。祭壇にささげられる子羊のように、黙って神の定めを受け入れて苦難を忍ばれた主の御姿は、教会の模範であり続けます。ただ、そのところでの主の勧めは、だから「人々を警戒しなさい」とのことです。ただただ、無言で狼たちの餌食になっていくのが羊たる教会の役目ではないからです。

 おそらく、警戒しないでいて教会が被ることになる恐ろしい結果は、狼の餌食になってしまうよりも、自分が狼になってしまうことかも知れません。キリスト教会の歴史の中にそうした証言は多々あります。人々を警戒することの根底には、人間の罪に対して楽観的になることができない、聖書が教える人間観があります。神が創造なさった人間は神の愛の対象です。そのようなものとして、私たちも「隣人愛」たる「人間愛」をもつことは大切です。けれども、それは人間にまるで無垢な生き物であるかのような素朴な信頼を寄せることとは違います。人にある善い性質もまた、神の恵み現れです。誰もがそれを当てにするようなことのできるものとは違います。むしろ、罪によって堕落した人間性の根本には「狼」としての性質が備わっています。それによって人間嫌いになったり、懐疑主義に陥ったりするのは間違いですが、迂闊な人間性への信頼をもってしては、教会は終わりまで持ちこたえることが出来ません。より一般的に言えば、そういう素朴な性善説に立つ人間主義には希望がない、ということです。

 「だから」と主は言われます。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。蛇がどうして賢いのか、直ぐには腑に落ちないようにも思います。一つには、ここには聖書の伝統があります。古代オリエント世界では、蛇は知恵を司る神でした。聖書では創世記に記されたエデンの園の出来事で、蛇が重要な役割を演じています。そこで蛇は女に語りかける知恵の象徴として描かれています。その場面も含めて、通常蛇は悪者で、蛇の持つ毒は毒舌や批判的な言葉に例えられたりもします。ただ、蛇には神秘的な力がある程度認められているようで、出エジプトの立役者であるモーセが手にした杖は蛇が変わったものでしたし、民数記に記された「青銅の蛇」の記事にある癒しの出来事からは蛇そのものに否定的な意味合いはなさそうです。そうした、聖書の中でのイメージを引き継ぎながら、ここでの蛇は、その自然の在り方から、つまり言葉なく素早く、地を這いながら人に気づかれないように行動するその様が、迫害の手を逃れるキリスト者の行動に合わせられているものと思われます。ですから、緊急の時には、羊は蛇にならなくてはならない。それは、人を騙すためではなくて、危険を逃れてキリストの務めを続けるためです。23節では、「逃げなさい」と命じられています。羊ですから戦わないのですが、ただ殺されてもなりません。

 そのように教会は危険をよく見抜いて賢く行動することが求められますが、一方で「鳩のように素直になれ」とも言われます。「鳩」は、では素直なのかと言われますと、あるいは伝書鳩のことが思い浮かぶかも知れません。聖書では、創世記の章にありますノアの箱舟の話の中にこの鳩が登場することはよく知られた通りです。洪水が弾いた後、乾いた土地が現れたしるしとして、鳩がオリーブの枝をくわえて帰って来たというところから、鳩は平和の象徴ともされています。また、律法では鳩は犠牲の獣に指定されています。牛や羊は高価な献げ物でしたから、本来庶民にはなかなか手の届かないものです。そうした場合に、安価な鳩も認められていて、神殿に詣でる際には人々はそこで鳩を購入してささげものとすることが出来ました。その意味では鳩は羊と同じということも出来ます。他にも雅歌という書物では「鳩」は王の恋人を表します。心に情熱を持って王に対する愛を告白する恋人に、王は「わたしの鳩」とやさしく呼びかけます。新約聖書では、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったとき、聖霊が鳩のように下った、と言われて、鳩は聖霊の象徴となります。「鳩のように素直に」とありますけれども、その「素直さ」とは、弱く小さな生き物でありながらも、神にささげられる、純真なものという意味でしょう。蛇のように賢くなっても、邪悪な者の仲間になってはならないのでして、キリスト者は己が心を純に保って、あらゆる場面に対処しなければならない、ということです。19節以下に、法廷に引き渡されても、「何をどう言おうかと心配してはならない」とあります。自分の命を守るために、どういったら相手を丸めこむことが出来るか、権力に阿って機会を伺うのか、と心を煩わすのではなくて、素直に、率直に、まさに訴えられている理由である、自分の信じている信仰を語ればよい。その時には、私の内なる鳩のような心である、「父の霊」が、つまり聖霊が、証言をしてくれる、と主イエスは約束されます。

 使徒言行録によりますと、パウロはこれを忠実に実行しているように見受けられます。パウロはローマの市民権をもったユダヤ人であり、ファリサイ派の高名なラビのもとで指導を受けた若きエリートでした。その彼が異邦人の使徒として小アジアの伝道旅行に出かけた時、パウロはその二つの立場を上手に利用して、ローマの法のもとで安全を図り、ファリサイ派の信仰にも訴えてユダヤ人たちの攻撃をかわしました。だからと言って、パウロが政治的に働いたり、賄賂を遣って活路を見いだしたりすることは一つも無かったのでして、いつも聖霊の助けが与えられて、彼が法廷で言葉を語る際には、自分が出あった復活のキリストと、キリストの十字架と復活に示された神の真理とを包み隠さず、大胆かつ率直に語りました。

 弁明する際に聖霊が語ってくださるというのは、何も自分の意識が無くなって自動的に言葉が出てくるというようなことを意味していません。わたしが信じていることを率直に話すところには、実は聖霊がおられて働いているということです。信仰に素直に生きているところでは、父なる神がいつどんなときも共におられると信じていなさいとのことです。ですから、人前で話すすべを持たない者でも、これは同じことが当てはまります。何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことはそのとき教えられる。これは祈りにも通じることだと思います。

 さて、最後にもう一つのたとえで語られているのは、私たちは「僕」であるということです。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」。弟子は師にまさるものではない、ということは直接に主イエスと弟子たちの関係を表しています。弟子は師を真似ればよいのであって、それを越えようとする必要はない。一般的には、弟子が師匠を越えて有名になるなどということもあるのでしょうけれども、そういう野心をキリストとの関係に持ちこむのは相応しくありません。弟子と師匠との関係は、僕と主人との関係に置きかえられます。僕の仕事は、主人に仕えることです。つまり、主人の代理に仕事の多くをこなします。主人の思いを越えることをなそうとする必要はありません。弟子たちに必要なことは、一家の主人であるイエス・キリストの僕に徹することです。

 主イエスが悪霊を追い出して、ものが言えなかった人の口を開いてくださったのを見て、ユダヤ人の指導者たちは妬みから「悪霊のかしらが悪霊を追い出している」と言ったとのことが先に記されていました。その通り、どんなに神の業を行ったとしても、キリストを憎む人々からすればそれは悪魔の仕業と言われてしまいます。「ベルゼブル」とは、サタンのことです。一家の主人がそんな風に言われるならば、その家にいる者はサタンの手下に過ぎませんから、あらゆる非難・中傷を浴びることになります。主イエスと教会とはそういう関係に立つ、ということです。主イエスは教会の主人であり、そこに集うわたしたちは家族の者です。主イエスの名が尊ばれないところでは、わたしたちが尊ばれることもありません。

 世の中が狼の群れのようになり果てるときが或いは来るかも知れません。21節によれば、それは「兄弟が兄弟を、父が子を死に追いやり、子は親に反抗して殺す」ような時代です。家族の絆は断たれ、互いに裁判で訴え合い、命さえ奪いあうようなことが起こるというのですが、そういう殺伐とした社会がもう既に来ているのではないかとも思えます。それが極まれば、私たちがキリスト者だという理由で、家族のものを初めとして、友人たちや知人たちなど、全ての人々が私たちを憎むようなことがあるかも知れません。けれども、「わたしがあなたがたを遣わす」と言われる主イエス・キリストが、私たちをこの世に送り込んでくださって、神の国を打ち立てようとなさっていると信じるところに、私たちの信仰があります。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と主は言われます。終わりまで忍耐して、神の国を待ち望むのが私たちの信仰です。

 その終りは、主イエスが再び世に来られることによってもたらされます。23節に、「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と言われる通り、主は再び世に来られます。そのとき、私たちの忍耐には終わりが訪れます。けれども、23節はこう書いてあるのですね。新共同訳は意訳してしまっているのですが、「人の子が来るまでに、あなたがたがイスラエルの町を回り終わることはない」。つまり、教会は主イエスが来られる時まで、忍耐して福音を語り続けなくてはならないということです。この地上を歩む限り、伝道の働きが終わることは無いということです。

 私たちがこうした忍耐によって信仰が支えられるのは、私たちを遣わしておられる主人をよく知っているからに他なりません。そうでなくては、信仰ゆえに降りかかってくる様々な困難を乗り越えていくことはできないことです。イエス・キリストは、羊を狼から守る羊飼いとして、御自分の命を捨てて一匹の羊を守る羊飼いとして、世に来られたお方です。このお方が十字架にかかって死んでくださったことによって、私たちは神の御前に罪を赦していただきました。そして、このお方だけが、私たちの命を最後まで握っていてくださいます。ですから、私たちの命は、たとえ時代が悪くて狼の餌食にされようとも、キリストの内に保たれて傷つくことがありません。その恵みと真理に生かされているからこそ、最後まで耐え忍ぶ力が与えられます。信仰そのものが神の賜物であるとすれば、聖霊が私たちの信仰を最後まで保たせてくださるということです。生涯の終わりまで私たちは神に守られているのだという約束が個々にはあります。今はまだ、私たちは個別の状況の中で信仰の戦いを続けています。そういう場所でも、私たちを派遣しておられる主イエスは、その困難をすべてご存じの上で、私たちの忍耐を支えてくださいます。主イエスの十字架を共に負う栄誉をそこで覚えながら、日々、聖霊が語るままに私たちの生活の上に主の御業を表していただきたいと願ってまいりましょう。

 祈り

天の父なる御神、主の派遣を生きるには、私たちはあまりに拙く弱い者ですけれども、あなたは御言葉を通して賢く生きる知恵を与え、また人に対する恐れをも取り除いていただいて、信仰に率直に生きる平安をもいただいています。どうか、主イエスの使命を果たすべく、私たちの日常生活をあなたが守り、信仰を終わりまで保たせてください。あなたの約束してくださった終わりの救いを信じて、日々直面するすべての困難に打ち勝たせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。