マタイによる福音書10章26~33節

人間を恐れない

 

 私たちは、主イエスから教会に対する宣教への励ましを今日の御言葉から受け取りました。「人々を恐れてはならない」と主は言われます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と、私たちを励ましてくださいます。これを受け止めて、福音に生きる私たちの生活を確かにして、周囲の人々にイエス・キリストの恵みを証しして参りたいと願います。

 自分の信仰を公にする、というのは勇気のいることかも知れません。何か周りの人と違ったことをするのが恥ずかしく思われるような社会に私たちは暮らしています。そうした中では協調性が大切です。大切というよりも、協調性がない人は変な目で見られたり疎まれたりします。ですから、周りに合わせていないと実際暮らしづらいということもあると思います。しかし、そういう弱さを主はよくご存じです。よく知っておられるからこそ、言葉を与えて、励ましてくださいます。「恐れるな」といつも呼びかけておられる主イエスの言葉を、毎日の暮らしの折々に思いだしたいと思います。

 今朝の御言葉からは、まず福音の本質について教えられます。それは、公に表される類のものです。聖書に記された救いの真実は、十字架と復活の出来事を頂点にして、すべての人に公開されるためのものです。これを、個人個人が心に宿す神秘のように閉じ込めてしまう類のものではありません。世の中にはそういう密教の教えもあります。只管、人の目から隠されている、神の神秘が人を救う、というようなものです。その秘密を握る聖者がどこか遠くの山奥や砂漠の果てに住んでいる、というお話しは、紀元前2000年の大昔から今にまで伝わっています。けれども、聖書の神は、イスラエルの歴史を通じて世界に御自身を公表されて来たお方です。尤もそれには、古代の中東に生じたイスラエルという一つの民族から、その周辺の地域へ、更に地中海世界から全世界へと徐々に広がって行く段階があります。そのようにして、神は御自身を世界のすべてに公表されることを御旨とされました。

 ですから、神の救いであるイエス・キリストを、主イエス・キリストの十字架と復活を、人々に知らせることは、初めからの神の御計画に則したもので、福音そのものが持っている性質です。「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」とは、そのことを指しています。初め、キリストの福音は、主イエスが召された使徒たちの間でのみ明かされました。聖書の教えはユダヤ民族によって伝えられていましたが、そこには来るべき時に実現する、主イエス・キリストの御業はまだ預言のもとに隠されていました。主イエスに従った弟子たちは、その秘密をひそかに主イエス御自身から教えられました。主イエスは多くの人々の前で奇跡を行い、神の国の福音をご自身で説教されましたが、十字架と復活が成就するまでは、周囲の人々は神の真実に目が開かれることはありませんでした。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」との命令が実際に果たされるのは、ですから、主イエスが復活された後のことです。聖霊によって地上に建てられたキリスト教会が、この実行を託されています。

 ここで主イエスがお命じなっているのは、福音が「光のもとで語られ」たり「屋根の上で言い広め」たりされることです。それは、もはや耳元で囁かれたり、密かに語り伝えられるものではありません。福音は、公に発表されねばならないものです。福音の伝達が、信徒の生活の証しを通じてそれとなく伝わったり、愛の業を通してじわじわと浸透していく、ということはあるのだと思います。そういう働きも「宣教」という言葉の範疇には含まれます。文化を通じて、キリスト教が広く世界の人々に伝達される事実も見逃せません。けれども、神の福音の本質として、また主イエスの命じておられることとして、私たちが覚えておかなくてはならないことは、「屋根の上で言い広める」程に、福音が広く宣伝されることです。

 それは、イエス・キリストの十字架と復活が、人類の歴史の上に引き起こされた、人類全体の救いに関する出来事であるからです。聖書は、その神の救いが、旧約のイスラエルから新約のイスラエルである教会へと限られた領域で成就する道筋を描いていますから、一見それは狭い一部の人々だけの救いを書いているように見えますけれども、よく注意して読めば、それが世界全体を視野において、民族や国境を越えた、すべての人々に向けられたメッセージであることが分かります。そういう、すべての人に関わる救いの出来事として、聖書の福音は公表されねばならないものです。その意味では、神の救いの真実は、自然科学が明らかにした真実と、同じ価値を持っています。それを真実の性質と、それを認識する方法が、両者は違っていますけれども、それがすべての人に共通して関わる真実ということでは同じです。真理はそれが真理であることで証明される、とは学問の世界でよく言われることです。26節のイエスの言葉からしますと、同様に、それが福音についても言われます。

 しかし実際は、そのニュースを聞いてすべての人が信用するわけではありませんから、福音の真理を真理として受け止めるのは教会だけです。つまり、福音の真理は人間の肉体的な性質に基盤をおく経験や理性によって認められるものではなくて、信仰によってのみ受け入れられる真理です。そこが、公けの発表だからといって、世の中の社会的な仕組みの中に上手く乗せることが出来ない理由でしょう。ですけれども、それは今の世界が神を前提としないで通常の物事を判断して行く仕組みを作ってしまったからであって、聖書が語っている福音の真理が、公表されなくてよいことになったわけではありません。私たちは聖書に示された神の御旨に従いますから、キリストの救いが真実であることを、今の世の中の状況に合わせて躊躇って入られません。私たちは恐れずに、この世に向けて、キリストの福音を語るように召されています。

 

 この宣教への召しに対して、私たちの信仰に主は訴えておられます。まず、「人間を恐れてはならない」と言われます。福音を広く伝えようと努力しても、それは「キリスト教」というあなたがたの宗教だし、私たちには別の考えがあるからといって、受け入れてもらえないのが通常です。聖書が神の真理であるとは言っても、それを人に理解してもらうのは多くの困難を伴います。イエスにあって福音が明らかにされた当初、それは旧約の伝統に立つユダヤ人たちにとっては古い体制を覆す脅威でした。また、ローマ人にとっては十字架の贖いも復活も理解不能な出来事で、それによってローマ世界の秩序が乱されることはやはり脅威でした。ですから、福音宣教によってキリスト者たちはたびたび激しい迫害を受けました。

28節にある御言葉も、直接的にはそうした教会の実情を反映したものです。キリスト教会に対する迫害は、今でも世界のどこかで起こっています。近いところではインドのある村で迫害が起きて、多数のキリスト者の家族が失われ、また難民生活を余儀なくされました。信教の自由を保証できない社会ではいつでも宗教弾圧が起こる可能性があります。私たちは今のところ、そうした迫害からは免れているかも知れません。或いは、明日、日の丸・君が代問題についてのシンポジウムが神港教会を会場にして行われますが、信仰と良心の自由を訴えて国旗掲揚・国歌斉唱の強制に反対の態度を示した教師たちが、今の日本でその迫害の前面に立っているようにも見えます。そういう現実に直面して、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」という言葉が繰り返し想い起されるのではないかと思います。この言葉には、それに命をかけた信仰者たちが流してきた血の重みが加わります。キリスト者の誰もがそこまで追い詰められた経験をもっているわけではないとしても、実際に、この言葉を信じて、信仰を貫き通した大勢の先人たちがあります。私たちは、そのことを思い起こして、信仰とは一体何かを知ることができるように思います。それは、自分の魂を神に委ねてしまうことだと言えます。「魂」とは、難しい表現です。今日の私たちの人間理解そのものを改めて篩にかけて見ませんと捉えきれません。旧約聖書では「魂」とは「いのち」と訳される場合が多くあります。ギリシャ的な肉体と霊魂という二元論的な区別とは異なります。「魂」とは、わたしをわたしたらしめているいのち、といったらよいでしょうか。本来、それは体とも区別できるものではありません。ですが、ここで主イエスが言われている通り、罪の故に死に定められた体は、やがて朽ちて滅びます。しかし、いのち=魂は、神が手にしておられるものであって、それで終わりではない、というのが聖書が教えている人間理解です。これを教理と併せて理解しておきますと、人間の命はやがて復活させられます。それは、キリストを信じた者ばかりではなく、信仰を持たずに死んだすべての人が、最後の審判の時に復活させられます。そして、キリストへの信仰に従って両者はより分けられ、罪を赦された者は裁きを逃れてキリストと共に永遠の命に生かされ、信じることを拒否した人々は永遠の滅びに引き渡されます。この終わりの命をどう受け止めるかが、信仰についての一つの要となります。迫害の中にあって信仰を貫いて、人間を恐れず、体を殺す者たちに立ち向かって行ったキリスト者たちは、この最後の審判における魂の裁きを思って、死を乗り越えていったわけです。そして、「わたしの命は神が握っておられる」と信じる信仰に、キリスト教会が世界宣教に出て行って今日、世界宗教となった力があると言うことが出来ます。この信仰は、他人事ではなくして、実に私たちの日常に作用する、信仰と同じものです。

28節の言葉のリアリティーは証しの生活によって獲得されるものですから、口で説明して腑に落ちるものではないかも知れません。「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とある中で私たちに示される神は、慈愛に満ちた方というイメージとは正反対の審判者です。しかし、イメージでどう捕えるかではなく、聖書で明らかにされる神の真実に、まっすぐ向き合うことなくしては、私たちの内に信仰の確信は生まれません。「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」とは、人間のいのちを最終的に左右されるのは神である、ということです。そうした全権をもっておられるお方を、私たちは「神」と呼んでいます。その全能者にわたしの命の行方は掛っている、と信じるところに、私たちの信仰があります。

翻ってそれが、29節から告げられる神の憐れみに全面的に触れることになります。人の魂をも地獄で滅ぼすことのできるお方が、私たちのいのちに対してもっておられる細やかな慈しみが、ここに示されます。雀を見なさい、と主は言われます。空の鳥を見なさい、野の花を御覧なさいと、導かれた先の主の言葉と同様です。二羽の雀が一アサリオンで売られているだろう?「一アサリオン」とは一日の収入の十六分の一に当たりますが、ある先生の翻訳を見ますと「300円」とありました。コーヒー一杯ぐらいでしょうか。つまり、雀の命など、それ程価値の無いものとしか世の中ではみられていないでしょう、ということです。けれども、考えてごらんなさい、そんな雀の一羽でさえ、天の父の御旨によらないでは、地に落ちて死ぬことはない。雀一羽のために葬式を出してくれる人はいません。けれども、神はちゃんと一羽の雀の最後まで看取っていてくださる。神が人のいのちに注がれている眼差しとはそういうものです。神は魂を滅ぼすことのできるお方なのですけれども、いのちに無関心な、冷酷なお方ではありません。主イエスは丁寧に「あなたがたの父のお許しがなければ」と言っておられますから、審判者である神は、キリストを信じる者たちの父になられるということです。父親の子に対する配慮の中にキリスト者のこの世の生涯があります。

私たちの髪の毛までも一本残らず数えられている、と言われます。私たちは、自分の髪の毛がどれだけ抜け落ちたかなどと数えることさえできませんが、神の細やかさは完全で、人の比ではない。それが、私たちに対する神の関心の持ち様です。宗教の故に、体を殺そうとはかる人の試みとは対極にあります。アウシュビッツの強制収容所に入れられた囚人たちが「丸太」と呼ばれていたように、この地上に罪の支配を打ち立てようとする人間の試みは、人間のいのちを無にします。神はそのようなお方ではありません。一羽の雀の一生にも注意を払い、私たちの体の細胞の一つひとつをも数えて知っておられるお方が、私たちのいのちについて配慮しておられます。

だから、大声で呼ばわらなくてはならないわけです。人間は人間のいのちに対して、神のように深い関心を保つことはできません。この世で自分を中心にしてどれだけ無難な生活を確保できるかというような関心の持ち方で、人が人の魂を守ることには望みはありません。魂を滅ぼすことの出来るお方を恐れて、つまり、信じて、そのお方にいのちを委ねる他に、この世にあっても、来るべきに日にも、人が生きながらえる術はありません。主イエスはそのことを知らせるために世に来られた救い主です。そして、十字架と復活の御業をすべて果たされて、その救いをすべての人に延べ伝えるようにと私たちを召されました。

ですから、わたしたちに対して主は、信仰を隠していないで人前で公にすることをお求めになります。「自分をわたしの仲間であると言い表す」ことですが、元々の言葉では「キリストにあって告白をする」ということですから、私たちの日常生活にあってキリスト者としての信仰告白に生きるということです。人前で信仰を言い表すことと、神の御前で言い表すことは一つのことです。人前で神を知らないと言うことは、神の前であなたは知らない言うことに等しい。ですから、天の父は、この世で私たちの忠実さを見ておられます。子としての父に対する真の愛情です。父を裏切って、この世の力により頼めば、私たちのいのちは失われます。

ただ、33節にある人の姿が、実際の人の罪だと気づかされます。これを聞いて、主イエスの一番弟子でありましたペトロのことを思わずにはおれません。主御自身に召されたお弟子でありながら、十字架の苦難を前に人を恐れて、ペトロは主イエスを三度も「知らない」と否定しました。ですから、ここで言われている信仰告白に本当に生きるには、誰もがキリストの十字架による赦しに与らねばなりません。弟子たちは、わたしは裏切らないと思ってイエスに従って行ったのですけれども、ペトロもユダも、トマスも、すべての弟子たちは苦難を前にしてイエスを見捨てました。魂を滅ぼすお方を恐れ、人を恐れず大胆に信仰を言い表すという信仰者の態度は、人の決断力や強靭な忍耐力に頼って維持されはしません。キリスト者は、ただキリストの十字架によって罪を赦していただいて、その赦しの中で、ここに表された信仰告白に生きるものでしかありません。悔い改めのない信仰告白はないということです。

だからといって、主イエスがここで言っておられるのは、力のない信仰告白の在り方ではなく、真の悔い改めがもたらす、人を恐れない本当の信仰告白です。先にも次のようにありました。19節と20節ですけれども、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。自分の罪を知って、悔い改めたキリスト者には、聖霊が与えられます。聖霊を通して、私たちの内には天の父の愛が注がれます。そうした時に私たちは、父の信頼を受けて、この地上に送られて来ている子どもです。人に対する恐れは、そのようにして聖霊の働きによって取り去られます。

主イエスは弟子たちに、出来ない要求を突き付けているのではありません。すべての重荷を御自身が負ってくださった上で、私たちが自由に天の父の憐れみの中で生きることができるように言葉を与えてくださっています。聖霊の賜物を願って、どんな場所でも、どんな時にも、信仰の証しをすることが自然と出来るような自由な信仰生活へと導かれたいと願います。また、個人的な生活ばかりでなく、教会としても、福音を広める働きをしながら、どのような圧迫があってもキリストへの信仰を証しする姿勢を保ちたいと願います。

 

祈り

父なる御神、あなたが天でもっておられる、真の権威に基づく裁きと憐れみとは、私たちの思いを遥かに越えていますけれども、主イエスの贖いによって、あなたを父と呼び、私たちへの限りない慈しみと細やかな配慮とを注いでいただけますことを心から感謝します。どうか、私たちの内から罪に汚れたこの世に対する恐れを取り除いてくださり、どんなときにも福音を語り、あなたの真実を証しすることができるようにしてください。主イエスから与えられた尊い務めを、教会として果たすことのできる力を、聖霊を通してお与えください。今、信仰の試練に立つ、あなたの教会を助けてくださり、弾圧を仕掛けてくる獰猛な人々の手から、兄弟姉妹たちの小さないのちを守ってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。