マタイによる福音書10章34節~11章1節

キリスト者と隣人

 教会の主であられるキリストは、これから福音を宣べ伝えるために、迫害をも耐え忍ばなければならない弟子たちがその備えをすることができるように、励ましの言葉を送っておられます。キリストの十字架に示された救いを信じて、キリストの弟子として、また神の子として新しい人生を歩み出すことは、人間が自分の力で獲得することのできない、特別な祝福をいただくことです。けれども、その信仰のゆえに負うことになる苦労もある、ということを主イエスは隠しておられません。私たちはこの世界の苦しみを何らかの形で味わったからこそ、救いを求めて主イエスのもとを訪ねたものと思います。そして、主イエスのもとで罪の赦しを得て、自分が背負いきれない罪の重荷をおろして、神の御前での魂の平安をいただいています。しかし、それによって私たちの暮らすこの世界が、楽園に変わった訳ではないと知っています。罪を宿した身体をもって、この地上のしがらみの中で生きてゆく限り、キリスト者にも同じように苦難は襲って来ます。ただそこでの違いは、キリストを信じるが故に、私たちの命はキリストの内にあって、神に守られているということです。

 それにしても、今朝の御言葉は、私たちのキリストに対する理解を揺さぶるものではないかと思います。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」と主は言われます。「平和ではなく剣を投げ込む」。例えば、聖書が来るべきメシアについて語っている御言葉を思い起こせば、預言者イザヤによって、それは「平和の君」と呼ばれています(9:5-6, 11:1f.)。クリスマスの度に聖書から語られるのは、幼子イエスと共にこの世界に平和の希望が生まれた、というメッセージです。また、キリストの十字架に現わされた神の愛が人類に及ぶ時、互いに争い合うこの世界は敵をも愛す愛によって平和を実現するようになる、とはキリスト者ならば誰でも信ずるところではないかと思います。キリスト教は愛と平和の宗教だ、という世の人々の期待もあることと思います。そういう人の思いに対して、「私は剣を投げ込む」と主が言われるのを、私たちはどのように受け止めたらよいかと悩みます。

 しかし、ここで主イエスが語られているのは信仰の真実です。ですから、私たちも心して、ここで語られていることに耳を傾けなければなりません。主イエスが、天の神のもとから来られた平和の使者であることは間違いありません。けれども、その平和は、私たちが安直に受け取ることのできる、わが身の平安とは異なります。主イエスがもたらす平和とは、終わりの日に、キリスト御自身によって完成される、真の平和です。その平和のために、キリスト者は自分の十字架をとってキリストの後に従うように召されています。

 「剣を投げ込む」と言われますが、ここで言われているのは宗教戦争を正当化するようなことではなくて、家族間の問題です。36節で「自分の家族が敵となる」とある通りです。キリストを信じるが故に、家族の絆に亀裂が生じることがある、ということは、実に私たちの間でも経験されている方は多いのではないでしょうか。このところでの主の御旨は37節で明らかにされています。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。

わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

つまり、迫害の最中で、わたしを取るか、家族を取るかと迫られたら、あなたはどうするか、と主は御自分に従う弟子たちに問われます。イエス・キリストを選ぶのか、それとも自分の親を選ぶのか。或いは、キリストを選ぶのか、それとも息子・娘を選ぶのか。家族の絆が強調される現代では、これが究極の選択問題となるやも知れません。

このことは初めて弟子たちに問われたのではなくて、先にも21節以下で、弟子の覚悟を問うておられました。あなたについて行く前に、まず「父を葬りに行かせてください」と願った弟子に対して、主イエスは「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われて、この世の事情が何であれ、すべてそれらを脇に置いて、御自分に従うことを優先せよと説かれました。その時に、家族の絆という、たいていの人が最も大切にしているものが、その思いを確かめる手立てになります。キリストが求めておられる私たちの愛は、御自身に対する一途なものです。

38節と39節では、今度は家族が自分の命と置きかえられます。わたしよりも自分の命を大切にする者も、わたしにふさわしくない、ということを別の言い方で述べておられるに過ぎません。自分の十字架を担う、とありますが、ここは積極的に十字架を取り上げて身に担いでという行為を指していますから、その決断が求められるところでしょう。キリストの負われた苦難を自分のものにして、神に従うが故に身に降りかかってくる困難を積極的に受け止めることです。そのつもりがなければ、「わたしにふさわしくない」と主は言われます。39節の御言葉は十字架の救いを語っています。自分の命を救おうと自分自身で躍起になっている人は、やがて訪れる死を避けようもなく、滅びる他はない、ということを身をもって知るようになります。しかし、キリストを信じて、たとえ地上の命をその信仰のために失うようなことになったとしても、その人の命はキリストの内に守られていて、永遠に保たれる―これが、イエス・キリストを通して私たちに約束されている、救いの真実です。ですから、家族であろうと自分自身であろうと、それを差し置いてもイエス・キリストを第一とするのでないならば、やがて家族も自分の命をも失うのが、この世の人間の定めだということを私たちは世の現実としてよくよく悟らねばなりません。

そして更に、ここではっきりするのは、この地上の何にも優ってイエス・キリストを大切なものと思うことなしに、真の平和は地上に実現しない、ということです。今日の御言葉の背景には、ミカ書章があると考えられます。ミカは預言者イザヤとほぼ同時代に南ユダ王国で活躍した預言者ですが、その時代、イスラエルの民は信仰を失い、人心荒れ果てた混沌とした時代だと預言者の目には映りました。節・節でこう言われます。

悲しいかな

わたしは夏の果物を集める者のように   ぶどうの残りを摘む者のようになった。 

もはや、食べられるぶどうの実はなく     わたしの好む初なりのいちぢくもない。

主の慈しみに生きる者はこの国から滅び  人々の中に正しい者はいなくなった。

皆、ひそかに人の命をねらい   互いに網で捕えようとする。

神への信仰を失った世界は、神の義を失った世界です。社会を指導する立場に置かれた者たちは私利私欲に走り、彼らが公表する言葉は一つも信用できなくなった。そういう世の中になって、預言者は次のように語ります。節からです。

隣人を信じてはならない  親しい者にも信頼するな。

お前のふところに安らう女にも  お前の口の扉を守れ。

息子は父を侮り  娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。

人の敵はその家の者だ。

主イエスがこの預言をそのまま用いておられることは見ての通りです。つまり、ここには神がご覧になっている混沌とした世情があるのでして、預言者ミカの時代も主イエスの時代も、罪に囚われた世界が神の義を失っている事情は変わりがありません。「わたしは平和ではなく、剣を投げ込む」と主は言われますけれども、現に世の中は平和の無い世界であって、剣を頼みとして争う世界です。

家族の大切さ、人の命の大切さを主張する聖書の言葉は幾らでも見出されます。キリストが世に来られて、それを破壊されるおつもりではないことは、他の聖書の箇所から明らかです。もとより、人の命も家族の絆も神が人に良いものとして与えられたものです。例えば、夫婦関係とは何でしょうか。それは自分自身に最も近い、体を分けた隣人であって、神がアダムのもとにエヴァを連れて来た時に、アダムは「これぞ私の肉の肉、骨の骨」と叫んで、真のパートナーを見つけた喜びを表しました。「あなたの父と母を敬え」とある十戒の普遍的な教えを引き合いに出さなくとも、家族は人間社会の基盤として神の前に認められています。ですが、人間が堕落して以来、人の命は死に定められ、家族の関係も罪によって歪められました。アダムとエヴァの子孫が最初に犯した罪は、カインとアベルの間で起こった、兄弟殺しだと創世記が語る通りです。

家族が大切である、その絆を拠り所としたいという人の思いは、正しく聖書が認めるところと思います。ですが、そういう人の思いでもって、それを守ることが出来るものではないのが、この世界の罪の実情です。一見、平和が保たれていると思われる、どんなに強い絆で結ばれた家族でも、罪ある人間社会にあっては絶対的な拠り所とはなりません。それは昨今の新聞記事でも日毎に確認されていることだと思います。キリストが投げ込む剣は、そういう家族の関係を断ち切ってしまいます。預言者ミカが「隣人を信じてはならない」と言ったように、それは、あらゆる隣人との関係を断ち切ります。それは、神を差し置いて人間に依存する関係、とした方が精確だと思います。しかし、それは、そこから始まる、新たな絆の修復がなされるためです。

主イエス・キリストは、「敵を愛しなさい」と言われました。今日の御言葉と併せれば、家族が敵となるのですから、そういう敵となった家族を愛する、ということになります。人が当たり前と思っている絆は、実は当たり前ではなく、罪のために傷つき、直ぐにも断ち切れてしまう性格のものです。その脆さを身をもって経験した人は心に深い傷を負っています。ある牧師が、教会を家族共同体などとは言ってくれるな、とネットで発言していました。そんなあやふやなものに例えられてはかなわない、と言います。痛みに満ちた言葉だと私には聞こえるのですが、そこには聖書に則した真理も見えます。

人と人との間に結ばれる絆は、まず、神と人との関係が修復されねば確かにされません。イエス・キリストはそのために世に来られた和解の子羊です。主イエス・キリストは、神の怒りを解くために、自らを十字架にささげたお方です。それによって、人は罪を赦されて神との絆を取り戻します。そうして、信じる私はキリストとの切れない絆に結ばれた神の子としてこの世に新たに生まれます。キリスト者はこの世の何ものにも支配されない命をいただいて、この世界の人々の間に送られます。自分の命はそうして信仰の内に新たに獲得されます。そして、家族もまた、そこから新たに獲得されるものです。

キリストを信じる者にとって、人と人とを結ぶ絆はキリストです。血縁はもはや拠り所ではありません。この地上で最も親しい隣人であるのは確かです。多くの生活を私たちはそうした血縁に頼って共有しているのだと思います。しかし、キリストに結ばれる絆はもっと自由で大きな広がりをもっています。血が通うのではなくして、霊が通うつながりです。私たちには、血のつながった兄弟姉妹、親や子供たち、親類たちがあります。けれども、キリスト者は血のゆえに縛られているのではなく、キリストのもとからそうした家族の中へ派遣されたものです。キリスト者はキリストのものとして、家族を愛するように遣わされています。

今朝の御言葉の40節以下には、キリストから遣わされた私たちと新たな絆に結ばれた人々がどのように現れるかが記されています。40節では、「あなたがたを受けれ入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」とあります。つまり、私の信仰を認めて受け入れてくれる人があれば、その人はキリストを受け入れたことになる。キリストを受け入れたということは、父なる神を受けれたことになる。私はそういう目的で、家族のもとに遣わされ、世の人々のもとに遣わされる、ということです。つまり、キリストの弟子たちは、汚れた世を嘆いて自分たちだけ清く生きるために隠れて生活をするように召されたのではなくて、例え敵に囲まれるような事態であっても、隣人の間にあってキリストの証しとして生きるように召されているわけです。そこで、預言者を預言者と正しく評価する人が現れれば、彼はキリストに触れたのであって、神はその信仰に報いてくださる。正しい人の生き方を見て、それが神の御旨に適った正しさだと認めることの出来る人は、イエス・キリストの正しさを受け入れる人であって、神はその人を受け入れてくださるに違いない。そして、弟子である私は何のとりえもない小さな者に過ぎないのだけれども、キリスト者だからということで冷たい一杯の水をもってきてくれるような親切な人がいれば、その人も神の招きに与っている。人が願う人の絆は、キリスト者のもとで、このように徐々に広がってゆくもので、それは神の恵みによって、確かにされると約束されているものです。

キリスト者の平和は、平和でない現実を信仰によって平和だと思い込むようなこととは違います。自分がこの世界で手にした幸せを、自分一人のものにしておくことができるように、キリストが来られたわけではないのです。「平和ではなく剣を投げ込む」との発言は不吉な文言です。けれども、そうして、人間は一旦自分が手にしたものを手放して、神の裁きに服して自分の命を失っていることを知るまでは、新しく生まれることは出来ません。やがて、自分の命も頼りにしている家族の絆もすべて奪われる時が来ます。

本当は、剣は、神に愛される人間の命を失わせるためのものではありません。命を滅びに定めている罪を断ち切るための剣である。御言葉の剣によって刺し貫かれて、罪に定められた命が死んでこそ、復活の新しい命が生き始めます。その命を獲得させるために主イエスは十字架を背負われました。また、召された小さな者たちを通して、新しい命を生みだすべく神の国の宣教へと送り出されます。キリスト者の人生もまた、この世と真摯に向き合って生きるならば多くの苦しみと無縁ではありません。人から責められ、自分で躓き、生きる上での苦しみに欠くことはありません。けれども、信仰のゆえに直面する苦しさは、すべて十字架に値します。その困難には、すべて意味があります。それは、神の手による真の平和を生みだすための産みの苦しみです。

神はキリストによって、それは同時にキリストに属する私たちによって、失われた民を集めておられます。私たちがこの世で臨む人と人との間に生じる絆も、それが偽りの無いものとなるには神の力が必要です。それは、私たちの信仰にかかっています。私たちの宣教は、単に教えを広めることではなくて、キリストによる人間の絆の回復を託された神の働きです。キリストにふさわしい者とされて、キリストの平和と愛とに希望をもって、私たちの家族と隣人のもとへと今週も遣わされて参りましょう。

 

祈り

 

天の父なる御神、どうか私たちをこの世に働く肉の支配から解放してくださり、あなたの霊によって隣人の傍らにあることが出来るようにしてください。血によって結ばれた家族を、あなたの恵みによって霊の家族としてください。また、教会に与えられたキリストによる絆によって、私たちが真の人間関係を回復することができ、平和の礎となることができるように、私たちをキリストへの信仰に生かしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。