マタイによる福音書11章2~19節

笛吹けど踊らず

  「笛吹けど踊らず」という格言は一般にもよく知られています。インターネットでその用法を調べてみますと、会社関係で上司が部下にものを言う状況に用いられている例が多いようです。社員にしきりに檄を飛ばすのだけれど一向に士気が上がらないのに悩む社長の愚痴に出てくるとか。この格言は、新約聖書の主イエスの言葉から来ています。今朝の17節にこうありました。

『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』

今の時代は、広場の子どもたちがこんな風に歌っているのに似ている、とイエスがたとえていわれた言葉です。

 時々、私たちにも「笛吹けど踊らず」という経験をすることがないでしょうか。私にも度々あったように思うのですが、もっともそれはいつも自分の笛の吹き方やタイミングが悪いのだと気づかされるのですけれども、例えば、大会の憲法委員会で『ジュネーブ詩編歌』を出版しまして、これを全国的に広めようと願ったのですが、「笛吹けど踊らず」、暗いとか難しいとかの批判が相次いで、なかなか皆さん歌ってくれないということがありました。そういう煮え切らない反応にぶつかって、イライラしたり、ため息を付いたりした経験がもしあれば、この諺に託された気持も理解していただけるのではないかと思います。

 しかし、聖書では、この諺に映し出されるのは、主イエスの思いです。天の神は古い時代には預言者をお遣わしになって、人が御自分のもとに立ち返るように呼びかけました。新しい時代には主イエス・キリストが遣わされて、人々に救いの道が示されました。けれども、「笛吹けど踊らず」、世の中は神のもとから送られて来たメッセンジャーを喜んで受け入れはせず、むしろ、厄介者と看做して無視したり、排除しようとしました。16節にある「今の時代」とは、イエスがその言葉を話された時代に違いありませんが、時代の状況は私たちの暮らす「今の時代」もたぶん変わらないと思います。

 けれども、聖書はイエス・キリストと共に救いの時が来たことを告げて止みません。その言葉を聞いて、信じるか、信じないかは、いつでも自分で決断しなければならないことです。「耳のある者は聞きなさい」とは、聖書に触れるすべての人々に対するイエスの呼びかけです。「聞くか」「聞かない」かは、私たち次第です。

 今朝の段落では、洗礼者ヨハネのことが中心に取り上げられています。洗礼者ヨハネは時の領主ヘロデによって幽閉されていました。ですから、イエスに洗礼を授けたのはヨハネでしたが、その後の活躍については直接見てはいなかったのでしょう。けれども、ガリラヤを中心にしてイエスがなさった奇跡の数々や天国の教えの評判は、牢の中にいるヨハネのもとにも届きました。洗礼者ヨハネ自身は、イエスに洗礼を授けた時点で、その方が特別な方であることは分かっていたと思います。しかし、そのイエスが、旧約の預言者たちが語っていた世の救い主であるかどうかは、まだ見て確かめた訳ではありませんでした。洗礼者ヨハネにも、イエスと同じように弟子がいましたから、ヨハネは弟子たちを送って、イエス御自身に尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。この質問は、ヨハネの弟子たちも聞きたかったことに違いありません。また、イエスの出来事を目撃した多くのユダヤ人たちも、確かめたかったことのはずです。

 主イエスは、御自分のもとを訪れたヨハネの弟子たちに対して、御自分が救い主だとも何だともお答えにはなりませんでした。その返事は節から節にある通りです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われます。つまり、答えは、ヨハネの弟子たちが既に見聞きしていることの中にあります。節によれば、それは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という、イエスがなさった御業の数々で、それについては、これまでのところでマタイは一つひとつ記しています。

 このイエスのお答えは、ただ、イエスのなさった奇跡を並べただけではありません。これは、旧約聖書の預言者がかつて語った終わりの日の出来事を並べたものでもあります。主にイザヤ書から取られていますが、いわば、これは旧約聖書の引用なのです。つまり、ヨハネとその弟子たちに対するイエスのお答えは直接的なものではなくて、間接的な表現をとっています。それは、何を信じるべきかという信仰の拠り所をはっきりさせるためです。イエスはただ、神の力を借りて不思議な業をなさった行者ではありません。天の神の御心を行うために、神の言葉を実現するものとして、天から送られた救い主です。ですから、既に告げられていた預言者の言葉を信じていれば、イエスが来るべき方か、そうではないかが分かります。そこで、イエスは御自分のなさったことと、預言者が語ったことは、一つのことだとここで伝えたわけです。ヨハネと弟子たちが、聖書の御言葉を信じるのであれば、イエスが来るべき方だと分かります。しかし、聖書を神の言葉と真剣に受け止める信仰がなければ、イエスを来るべき救い主と信じる手立てはありません。

 これは私たちにとっても同様です。私たちがイエス・キリストを、人間を罪の裁きから救う方と信じるかどうかは、聖書がこうして告げている、キリストについての証言をそのまま受け入れるかどうかです。人間イエスが誰だったかと、科学的な方法で細かく分析してみても、はっきりした答えは得られません。今日の私たちにも伝えられている、この聖書全体を通して知らされている、神の御業に触れることが、救い主を知る唯一の手段です。

 7節から14節で、イエスは洗礼者ヨハネが誰であったかを明かしておられます。ヨハネは旧約の預言者の中で、最も重要な役割を果たした、最後の預言者だと言われます。尤も、時代的にはヨハネはイエスと同時代の人ですから、旧約聖書に名を連ねるイスラエルの預言者たちとはだいぶ時を隔てています。けれども、人々を悔い改めに導くために、神の言葉を取次いだという働きからすると、ヨハネもまた預言者でした。

洗礼者ヨハネが荒れ野に姿を表した時、ユダヤの人々はこぞって彼のもとを訪れたと福音書は記しています。人々は神の預言者の姿を確かめて、来るべき裁きの日に備えようとしたのでしょう。あなたがたは風にそよぐ葦を見に行ったのか、しなやかな服を着た人を見に行ったのか、と幾分皮肉に聞こえる言い方がなされていますが、そういう仕方でイエスは群衆に向かって、ヨハネが誰だと思うかと問うておられます。そして、多くの者がうなずくであろう「預言者」という答えに加えて、彼は「預言者以上の者」だったと明かされます。10節で引用されているのは出エジプト記やイザヤ書の預言を合わせたものですが、ヨハネはただの預言者ではなくて、旧約聖書によって予め告げられていた、救い主の前触れであることです。洗礼者ヨハネの役割は、来るべき救い主の到来を今この時と示すことであって、ヨハネに続いて来る方がキリストだということになります。その意味で、洗礼者ヨハネは「およそ女から生まれた者のうち、最も偉大な者」と言われます。

14節では、ヨハネは再来のエリヤと言われています。エリヤとは列王記に登場する英雄的な預言者ですが、そのエリヤの再来について語ったのは旧約聖書の一番最後の書物を記した預言者マラキです。マラキ書3章23節以下にはこのようにあります。

見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。

確かに洗礼者ヨハネは、荒れ野で「大いなる恐るべき主の日」の到来を告げました。人々はそうしたヨハネの姿に預言者の姿を認めたかも知れませんが、大切なことは、その主の日と共にやってくるメシア=キリストを思って、罪を悔い改めて、心を神に向けることでした。

 「あなたがたが認めようとすれば分かるが」とイエスは言っておられます。マラキ書の預言に真に心を傾けていれば、ヨハネがエリヤであることが分かるとのことです。それは、イエスを約束されたメシアと認めることと共通しています。神の裁きを恐れて、真剣に神の言葉を信じて、救いを待ち望んだ人々のところに、イエス・キリストは来られました。そして、主の日はイエスと共に到来しました。イエスが「来るべき方なのかどうか」。それを判別する手段は、神の言葉に対する信仰次第です。

 「わたしにつまずかない人は幸いである」とイエスは言われました。このように主イエスが言われるのは、実際に、つまずきが人々の間に生じたからです。どんな躓きであったかということが18節以下に記されています。洗礼者ヨハネは荒れ野で断食をしていました。それを見聞きしたある人々は、「あれは悪霊に取りつかれている」もしくは「あれは気が違ったのだ」といったとあります。また、「人の子」とはイエスが御自身を指して言う言葉ですが、イエスについては、イエスが飲み食いする様子を見て、「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言ったとあります。どちらにしても、先にイエスが言われたような、御言葉に真剣に向き合っていれば、洗礼者ヨハネが誰であり、イエスが誰であるか分かる、ということがなかった例です。このような態度を採った人々は、当時の有力者たちやファリサイ派の人々ですが、彼らはイエスに躓いた人々でした。

 片や、イエスに躓かない幸いな人たちがあります。それは、イエスによって目を開いていただいた人であり、足の不自由を癒していただいた人、皮膚病から解放された人、耳が聞こえるようになった人、命を甦らせていただいた人々です。これらの人々は、イエスに救いを求めてやって来て、神を信じて助けてもらった、貧しい人々でした。必ずしも経済的に貧しい人々ばかりではありませんでした。しかし、人生の絶望に直面して、自分の貧しさ、力の無さを思い知った人々が、イエスを通って天の国に入りました。

 ヨハネもイエスも拒否した人々は、結局なんだかんだと文句をつけて、初めから信じようとはしませんでした。18節と19節にあるモノの言いは心理学的に言えば、ダブルバインドを引き起こすものですね。結局、どちらにしても否定されてしまいます。そのように拒否されたのは、ヨハネとイエスだけでなく、最終的にはこの二人を世に送られた天の神です。神の国が否定されてしまいます。こうして、「笛を吹いても踊らない」世界は、天の国の到来を知らず、主の日の裁きに直面しています。

 「わたしにつまずかない人は幸いである」とイエスは言われました。神はこの世界の貧しい人々、罪の重荷に苦しむ人々、自分の弱さに打ち砕かれてしまった人々に、まず近づかれました。何故なら、神は正しいお方だからです。自分自身に満足し、自分の正しさを主張する、自分の力で生きていると信じている人は、人間イエスに躓きます。それは、イエスはただの人間としか映りませんから、そこに神を見ることはできないでしょう。

 「つまずき」ということでは、いつの時代も、人の罪は深刻です。聖書が語る人の躓きは、信じるか信じないかの二者択一で取り去られるようなものではありません。確かに、イエスの地上のお働きで、イエスに癒してもらった人々は多数ありました。しかし、真にイエスを神の子と認めて、最後までイエスに従った人は誰もなかったことを福音書は語っています。もっとも近くにいた弟子たちでさえ、最後はイエスの十字架に失望して、信じることが出来ませんでした。しかし、信仰はそこから始まります。誰もが救いに関して自分自身の力の無さを知るまでは、イエスに対するつまずきをとりさることは出来ません。聖書の言葉は、私たち自身と今の時代の暗さ・弱さの中でこそ正しく聴きとられます。

 キリストへの信仰を選びとるのも、それを拒むのも、ある側面からすれば、私たちの知恵の働きです。私の知恵が聖書の言葉を否定し、神の裁きを知らぬものとして、何も良いものを生みださなかったとすれば、それは正しい知恵とは言えないはず。イエスは、「知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言われます。イエスは聖書にある神の知恵をもって働かれます。それは、人々の間に癒しと救いをもたらしました。聖書は私たちに与えられる神の知恵です。それは、キリストを信じることによって良いものを私たちの世界に生み出す正しい知恵です。私の知恵によって神の呼びかけを無視するのか、神の知恵によって呼びかけに応えて天の国の幸いを味わうのか、その選択は、自分自身の貧しさをよく思いめぐらしたうえで、各々がなしてゆかねばならないことです。そして、信仰の選択をなした時には、初めの躓きの背後にも、天の神の初めからの配慮があったことに気づかされます。聖書を通して私たちに知らされている、神の愛の表示であるキリストの御業と、十字架に至る受難とを思い返して、私たちの信仰による選択を確かにして、神の呼びかけに応えたいと願います。世の中は、相変わらず「笛吹けど踊らず」のままです。けれども、聖書の知恵を選んでキリストを信じた私たちは、聖霊の促しによって喜び踊ります。それが、キリストに躓いている人々に対する、私たちの証しです。

 

祈り

父なる御神、救いを願いながらも道を失った世界にあって、主イエスが天に至る真っすぐな道を切り開いてくださったことを感謝致します。昔も今も、御許に立ち返れとのあなたの御声を聞くことができないでいる時代は変わりませんけれども、神の国をもたらしたあなたのお働きは、私たちの信仰を通して、着実に進展していることを信じます。どうぞ、私たちの内からつまずきを取り去り、御言葉を聞かせてくださって、あなたの救いを待ち望む、悩み苦しむ人々と共にあなたの祝福に与らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。