マタイによる福音書11章20~30節

キリストのもとで憩う

  主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に、ガリラヤで弟子たちを召されて、公の宣教活動を始められまして、神の国の到来を語り、多くの奇跡を行いました。そのガリラヤでのお働きの総括が、今朝のところでなされています。宣教の結果として、それは一見不成功に終わったのでして、イエスは厳しい言葉で悔い改めなかった町々に対して裁きを告げています。

 イエスのお働きは、洗礼者ヨハネの場合もそうだったのですけれども、この世界に神の力を啓示するためのものでした。時折、巷に現れる似非宗教家のように、自ら奇跡を行ってみせて多数の信者を獲得しようとする企てとは異なります。イエス・キリストは、そのお働きによって神の言葉を伝えるためのメッセンジャーで、旧約の預言者たちを越える神の子の権能をもって貧しい人々のところへやって来られました。

 ガリラヤの町々で、多くの人がイエスに命を救っていただいて、健康が回復されたのは確かですけれども、全体として見ますと、ガリラヤは神に立ち返ったとはとても言い難い状況でした。イエスのお働きになった三つの町が、最も多く神の力が現わされた場所として、ここに名を連ねています。コラジン、ベトサイダ、カファルナウム―いずれもガリラヤ湖周辺に位置する町です。福音書ではこれらの町は―コラジンという名はここにしかでてきませんが―イエスや弟子たちの活動拠点としてよく知られていますが、その後の教会が宣教を進めた地域としては、使徒言行録はガリラヤに触れていません。イエスと弟子たちの故郷として、後々までキリスト者の憧れを呼び覚ますガリラヤ湖畔の町々は、主イエスからは「ソドムのほうがまだまし」と酷評されてしまいます。

 ガリラヤの町々に比較されるのは、まずティルスとシドンです。ガリラヤに隣接する、地中海岸に位置するフェニキアの古代都市です。この二つの都は王国時代のイスラエルと交易関係にあったこともありましたが、イスラエルに敵対する偶像崇拝国家として旧約の預言者たちから破滅が宣告されていました。そしてもう一つ、カファルナウムと比較して挙げられているのがソドムです。かつてアブラハムの甥ロトの一家が住んでいたこの都は、その倫理的退廃のため、ゴモラと共に神によって滅ぼされたことが創世記19章に記されています。

 まさに神の裁きに値するそれら三つの町々が、ガリラヤの町々よりもまだましと評価される理由は、悔い改めを拒んだ場合にやがて訪れる、神の裁きの深刻さを際立たせるためでしょう。洗礼者ヨハネを通して、また、イエス・キリストを通して、神の力は町の只中に現わされました。しかし、病が癒されても、死人が甦っても、「粗布をまとい、灰をかぶって」真に悔い改めた町は、ガリラヤには見られませんでした。

 ここに期待されている悔い改めは、おそらく、旧約聖書のヨナ書に記されたアッシリアの都ニネベのようなものでしょう。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と呼ばわった預言者ヨナの言葉を真剣に受けとめた人々は、「神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」と、その即座の反応が記されています(節)。そして、ニネベの王も自ら衣を脱ぎ捨てて、粗布をまとって灰の中に座し、断食の布告を国中に出したとあります。神はこうしたニネベの悔い改めを御覧になって、町を滅ぼすのを思い止まったのでした。

 福音が、これほど鮮やかな反応を一つの町全体に呼び起こすことは、聖書には他に事例がありません。歴史の中を探してみても、武力によって改宗が強制されたような例はあったとしても、ヨナ書のニネベのような国中が悔い改める事例は殆どないだろうと思います。イエスの嘆きはあまりにも感情的で、神はもっと忍耐をもって、一人ひとりが悔い改めるのを待ってくれはしないものかと思いもします。

 けれども、悔い改めることのない町、また国を待ち受ける「裁きの日」の深刻さは、私たちの思いで些かも軽減できるものではありません。またそれは、歴史に学ぶ私たちの経験からしても、イエスの言葉を過小評価することはできないのだと思います。悔い改めることをしない、つまり、人間の罪を深く悔いて、真の神に従うことを拒んだ世界は、その自らの罪によってソドムやゴモラに匹敵する壊滅を幾度も経験したのではないでしょうか。

 今月、私たちは75回目の原爆記念日を迎えました。75年前、広島と長崎は、天から降り注ぐ原子の炎によって焼き尽くされました。原子爆弾そのものが神の裁きではもちろんありませんし、米国が裁きをもたらす神の使いであろうはずもありません。ですが、戦争という巨大な罪の力が支配する場所で、ニネベの王のように衣を脱ぎ捨てて天の真の神を仰いだ指導者は一人もおらず、人は自らの手でソドムにもまさる恐るべき地獄をこの世界に出現させました。

「カファルナウム、お前は、天にまで上げられると思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」(23節)。この言葉は、かつて預言者イザヤを通して、イスラエルの王国を滅ぼしたバビロニアの王に向けられたものです(イザヤ書14章13-15節)。バビロニア帝国が強力な軍事力によって多くの国々を制圧した時、その戦争の最中で命を失った多数の人民のことなど、政治的組織の頂点に立つ王が気にかけるはずもありませんでした。人間の命を自分の所有物のように扱う帝国の驕りに対して、神はイスラエルの預言者を通じて徹底した裁きを予告しました。

イエスは、その言葉をガリラヤの町カファルナウムに当てはめます。カファルナウムはイエスの働きを通して神の力を目の当たりにしたはずです。しかし、町が悔い改めて神に立ち返ることはありませんでした。そうした人間の驕りに対して、イエスを通して先の預言が差し向けられます。その言葉は今や、福音が届けられたすべての町々、国々にも当てはめられます。「地獄に落とされる」との宣告を、人類の歴史は聞き逃すことができません。天からの硫黄の火によって焼き尽くされるような経験を、これまで世界の幾つもの町が経験してきたからです。

 イエスが叱責なさった町々で、イエスの内に現わされた神の力を見えなくしていたものは何でしょうか。それは、自分たちはティルスやシドンとは違う、今のままで問題ないのであって、ソドムのようなことにはならない、とタカをくくって安心しきってしまったことだと言えるでしょう。そうした真の悔い改めを伴わない安心の中に、「天にまで上げられるだろう」驕りも生じてくるものでしょう。さらに加えて、イエスがやって来られた場所、つまり、力のない小さな者たちへの無関心がそこにあります。

 「悔い改める」ということは、「粗布をまとい、灰をかぶる」という振舞いによく表れていますが、綺麗な着物を脱ぎ棄てて、まるで死人のように自分をとことん低めることを意味します。自分の心や生活の中で共有されている、この世界の罪深さに心から嘆いて、神の裁きを思って、灰の中から赦しと助けを願うことです。国家の政治的な目標を達成するためには民衆の犠牲をも顧みない、経済的な繁栄を身近なところで確保しておくためには一部の地域が見捨てられても構わない、努力をしない者や出来ない者は迷惑だから出ていってもらいたい。こういう社会の姿勢の内に、神が求めておられる「悔い改め」は見当たりません。

 25節でイエスはこう言っておられます。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。「これらのこと」とは、イエスが町々で行った奇跡が意味するところの、神の力の啓示です。イエスは神の子キリストであって、罪の裁きを逃れさせ、人間を滅びから救うお方だとの秘密を明かされるのは、神の力を否定して自分で賢いと思っている大人たちではなく、純真な心で真っすぐ神を受けいることのできる幼子です。この幼子の心をもってイエスに近づいた者たちは、病を癒され、身をもって神の力を知ることになりました。

 この世の中は、イエスが憤られた程に、神の裁きを恐れない、悔い改めのない世界です。それは、貧しい者たちが切り捨てられるだけの、救いの見えない世の中です。けれども、そこにイエス・キリストによって神の救いの道が備えられました。イエスが父と呼ぶ天の神の御心は、この世の低さを身をもって経験した、周りからは疎まれるような人々のいるところで明らかにされることでした。それは、神の憐れみがこの世界に表示されるためです。イエスはこうも言っておられます。「すべてのことは、父からわたしに任されています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。天の神と、父と子の関係にある、イエス・キリストが、救いの見えないこの世界を救う鍵を握っておられます。

 そして、ここには信仰の神秘が明らかにされています。「悔い改めよ」と呼びかけられて、悔い改めることができないのが人の世です。純真な思いでイエスの業を見よ、ということなのですが、そのような思いでイエスに癒してもらった人も大勢いたのですけれども、本当に悔い改めてイエスに従った者は僅かで、最後には弟子たちでさえイエスを裏切ったと伝えるのが聖書です。ですから、こうした聖書の言葉を何度か聞いたとしても、無理だと、信じたいとは思うのだけれども出来ないと、自分について、または誰か周囲の人について、思ってしまうこともあると思います。しかし、ここでイエスは、神の御旨を知らせる、という働きを、私たち受けての理解に委ねてしまってはいません。すべてのことは自分に任せられていると言いまして、子が示そうと思う者に父を知らせる、と、御自分の主導権をはっきり主張されています。ですから、イエスの内に神を見えなくしているものを、私たちの内から取り除いてくださるのも主イエスのお働きです。神の裁きに服したこの世界に、真の信仰と悔い改めによる救いの道を切り開いてくださるのは主イエスですから、この世の中の現状に絶望してしまうのは誤りです。

 旧約の預言者たちの言葉と同様に、イエスの叱責は、人が時折行うように斬って捨てる断罪とは違います。父親が子を諭すように、救いの知識が伝達されます。28節以下の言葉は、おそらく福音書の中でも最も良く知られた御言葉の一つでしょう。

  疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

主イエスはここで、「すべてを任されている」御自分の権限でもって、御許に来る者を拒まずに、休ませてくださる、安らぎを与えてくださる、と言っておられます。この文脈でこう語られているところの意味は、ユダヤの民衆の生活を厳格に規定していた律法からの解放です。この問題は、続く12章から安息日論争という形で論じられることになります。ですから、「疲れた者、重荷を負う者」とは、律法の重い軛に喘いでいた、小さな者たちを指しています。イエスは御自分の弟子たちの小さな信仰を御覧になって、時々、「小さな者たち」と呼んでおられました。また、天国に入るのは幼子のような者たちだとも、別のところで言っておられます。今日の25節の言葉遣いと同様です。そのようなものが、イエスによって呼びかけられて、休息を約束されています。ユダヤの社会にあっては、そういう「小さな者たち」は律法に適わないのであって、律法に従い得ない罪人は天国に入ることはできないとされました。

 しかし、イエスによって神が示される御旨は、誰であれ、自分一人で自分の重荷を背負って天国に行きつく者はいない、ということです。律法の規定に厳しく従って、正しい社会を自分たちで作ろうという試みは、高い志だということも出来ます。律法には、神の義が表されていますから、その意図するところが正しく読みとられて、それが間違いなく実践されるならば、神の御旨に適う愛と平和が世の中に実現します。けれども、聖書の規範に基づいて厳しく生活を律することの成否でもって、神との契約が固く保たれ、救いが確かになる、という救いの理解は、結局、その達成度による差別化を内に呼び起こして、社会の中に裁きを引き込むことにもなりました。そこで見失われたものは、もとより律法を愛の掟として与えておられる神の憐れみでして、本来ならば神の義には憐れみが同時に含まれているはずのものが、ただ、弱い人々の生活を苦しめるばかりの重い冷たい軛になってしまいました。いわゆるファリサイ派の律法主義ですが、今の時代のネオ・リベラリズムと呼ばれる風潮によく似ています。

 律法の重さは裁きの重さです。神がお示しになった正しさの基準に一つでもそぐわないようなことがあれば、裁きの日に滅びを免れることができません。この重い律法の軛に繋がれているのは、ですから、ユダヤ人ばかりではありません。この世界全体の上に、裁きの重さがのしかかっています。悔い改めない世界は、神の律法によって罪に定められていて、その重い軛から逃れることのないまま裁きの日を待っています。

「疲れた者」とは、疲れ果てるまで苦労した人ということです。その苦労や重荷は、自分から望んで負ってしまったものではないのだと思います。生まれながらにして背負っている重荷がありますし、次第にそうならざるを得ないで積み重ねた苦労や重荷があるのだと思います。そうした一つひとつが、私たちの世界が罪のゆえに担わされている重い軛です。その重さの故に自ら命を断ってしまう人が実に多い世の中です。

だから、イエスは「わたしの軛を負いなさい」と言われます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言っておられます。イエスは柔和で謙遜な方です。この世界の罪に対しては、先に見たように恐ろしい言葉で叱責されるような方ですが、御自分のもとに逃れて来る者に対しては、御自身を同じ低みに置かれて、苦しみを共にしてくださるお方です。

「軛」とは、私たちの生活の中ではあまり見かけないものだと思いますけれども、牛の力を農作業などに用いる時に首にかける木の枠です。イエスは「わたしの軛」と言いますから、「軛を取り払って自由にどこへでも行きなさい」と言っておられるのではないことが分かります。ここでは、律法の軛か、イエスの軛か、のどちらかです。何にしても宗教なんかに縛られるのは嫌だ、ということですと、結局、安らぎは得られないのだということになります。先にお話しした通り、何にも縛られない私を大切に生きる、という現代的な価値観は、この世に罪ある者として生まれて来たからには負わねばならない軛に気づかないふりをするだけのことです。人間の自由は神に繋がれてこそ確保される、というのが聖書の教えです。

今朝の御言葉はその「自由」には触れていませんでして、むしろ、イエスの軛に繋がれて安らぎを得よと言われます。イエスの軛とは、何でしょうか。それは、イエスに学ぶことだと言われます。先には、自分の十字架をとってついて来なさい、と言われていました。イエス・キリストを信じて、その教えを聖書から学びとりながら、イエスの弟子として生きていくことです。イエスが柔和で謙遜であられるということは、私たちもそのように柔和で謙遜になることを意味しています。イエスに繋がれることで、私たちはこの悔い改めない、希望のない世界にあって、確かな導きを与えられます。たとえどんな境遇が待ち受けていても、どんな苦労をしてきたとしても、イエスに結ばれた人の人生は、裁きの日を耐え抜いて、最後に神のもとで憩うことが出来ます。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。学ぶ、ことに関しては、私たちの社会は実に熱心で、子どもたちも早くから受験のために競争に追いやられます。皆が良い社会的なポストを得ようと、将来についての備えをしようと必死です。けれども、それと同時にもっと大切な学びがあります。それは、生き延びるための学びです。自分一人が生き延びるためではなくて、世界が生き延びるための学びです。イエスについて学ぶことは、裁きの日に備えるための、命の学習となります。そこからもたらされる安らぎは、天国での休息までとっておかれるものでもありません。「休ませてあげよう」という言葉は、「元気づける」という意味ももっています。イエスについての命の学習は、競争に追いやられて嫌でも勉強するような類のものではなくて、神に生かされている命を自分の内にじっくりと確かめながら、何が本当に幸せであって、何が神の御旨に適って人間らしい生き方なのかを体験して行く歩みです。イエス・キリストは、そういう新しい人生へと、私たちを招いておられます。「疲れた者、重荷を負っている者」は、積極的にイエスの軛を負うことで、思いも寄らなかった安息を人生の中に与えられます。

八月は、世界の平和を願いつつ過ごす時です。キリストの教会に託されているのは、まずそのために祈ることでしょう。真の平和は神の国の内に約束されています。戦争のもたらす傷は世代を越えた痛みとして私たちにも届いています。私たちの罪がもたらすこの重荷に耐えて、未来へと希望をつないでいくために、神の赦しと憐れみを願いながら、主イエスの後に従う思いを新たにしたいと願います。

 

祈り

天の父なる御神、悔い改めを知らない私たちではありましたけれども、あなたの憐れみによって、聖書の御言葉に導かれ、罪を悲しむ思いを与えられて、主の十字架による赦しを信じさせてくださいましたことを感謝致します。その真の悔い改めをもって、あなたは世界に希望を与えようとしておられます。どうか、私たちを用いてくださって、あなたの平和を世に実現させてください。あらゆる面で競い合い、戦い、争うこの世界で、多くの人が疲れ果て命を失って行きます。すべてはあなたの御旨にあることですが、どうか、あなたの憐れみによって、この世界に休息を与えてください。主イエスの十字架のもとにある、真の休息に、どうぞ疲れた一人ひとりを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。