マタイによる福音書12章15~32節

『悪霊』の嘘

 神の国は信仰の内に密かに始まる

 今朝の御言葉の18節から21節にかけてイザヤ書の預言が引用されています。先程ご一緒に交読した42章の節から節です。その初めの言葉は、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者」とあって、福音書記者はこれが神の僕として世に遣わされたイエス・キリストのことだと証言します。

 この言葉は、既に17節で、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に天から聞こえた声と同じものです。また、後ほど17章へ参りますと、山上の変貌と呼ばれる出来事が起こりますが、そこでまた同じ言葉が光り輝く雲の中から聞かれます。イエスは神に選ばれた僕であり、神の御旨を果たすために遣わされた、天の父の愛する子でありました。

 しかし、このことはイエスが地上を歩まれた当時、人々の目からは隠されていました。大勢の群衆が病を癒していただいて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と熱狂しましたが、イエスの言葉を信じて、罪を悔い改めたわけではありませんでした。また、ファリサイ派の厳格なユダヤ人指導者たちは、イエスの新しい教えと業とに躓いて、イエスを殺そうと企てました。十字架を目指して歩まれるイエスの道行は、弟子たちと群衆とに取り囲まれながらも、誰にも理解されない神の御業を孤独に果たすためにささげられた、神の僕の密かな献身でした。

 ファリサイ派の殺意を感じ取って身を引かれたのも、癒した人々の口を厳しく封じたのも、それがイエスに定められた献身の道であったからです。「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにいない」。偽りの宗教家たちなら不思議な業を行って民衆を扇動して党派を作るかも知れません。しかし、イエスはそのような宗教家ではありませんでした。自分自身の名声や利益を求めて働いているのではなく、ひたすら神の御旨を果たすために御自分をささげておられました。

 その神の御旨とは、18節と20節にある「正義」です。イザヤ書では「裁き」とありましたが、マタイの言葉づかいでも「裁き」と訳して構わないところです。聖書では「正義」と「裁き」は別のことではありません。「裁き」とは神が憐れみによって力のない者を救うために世の不正を決定的に処断することです。すると、世の不正に対する「正義」がそこに現れます。イエスの働きは、その神の義を世界にもたらすためのものでした。

 その証しが癒しの出来事です。20節ではこう言われています。「彼は傷ついた葦を折らず、燻ぶる灯心を消さない」。水際に生えた葦も傷ついては役に立ちませんから人はそれをへし折って脇へやります。消えかかった灯心は煙を出すばかりで役に立ちませんから、人はそれをさっさと揉み消します。或いは、この「灯心を消す」という行為は、犯罪人を処刑する際の行為であったとも言われます。しかし、神はそのように弱った者たちを見捨てることをせず、僕イエスを送って正義を行わせます。その正義が最後の決着を見るまでです。15節に、イエスは「皆の病気をいやした」とあります。それは、治るかどうかやってみなければわからない、人が不思議に思う魔術の類ではなく、神の力によるいやしであることを意味します。

その力の源は、神の霊でした。「この僕にわたしの霊を授ける」。イエスが洗礼を受けた時、鳩のように神の霊が下って来るのを御覧になったと章にありました。地上のイエスのお働きには聖霊が伴っておられて、神の力を発揮していました。このイエスの内に、神の正義/裁きが表示されており、イエスの内に聖霊が働いている。そして、このイエスの名にこそ異邦人の救い、世界の救いがかかっている―ということを、神は予め預言者イザヤを通じて語っておられた。ですから、人はイエスの業を見て、聞いて、信じる決断をしなければなりません。

 しかし、人が信じるかどうかに関わらず、神の言葉は真実で、イエス・キリストを通して、神の国は密かにその力を顕わしていたことが、ここで告げられています。人々は奇跡に熱狂し、ある者は反発して殺意を抱くほどの全面的な否定をした。けれども、世界の望みとなる神の義は、イエス・キリストによって勝利を目指して進み始めています。人が神を見失ってどんなに失望していたとしても、神の憐れみは未だ止まず、終りの完成を目指して進んでいます。

 

ベルゼブル論争

 この前に記された箇所が「安息日論争」と言われますように、22節からの箇所は「ベルゼブル論争」と呼ばれます。勿論、「論争」とは研究者たちが付けた名称ですから、実際イエスは争いをしているわけではありません。イエスの教えはファリサイ派の教えと対等に議論される類のものではなく、神の国の真実を一方的に伝えるものです。

 今回の「論争」にも安息日問題の場合と同様に実例が伴います。それは、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が癒された、という出来事です。この奇跡の意味は先に触れたとおり、はっきりしています。それは、聖霊の力によってイエスが悪霊を追い出し、その癒された人の上に、神の正義を表された、ということです。目が見えずモノも言えない、暗闇と沈黙の世界からの解放はまさに象徴的に、サタンの支配からの解放を表しています。

 この出来事に接した群衆は「皆驚いた」とありますが、「驚いた」とは本来「正気を失いかけた」という言葉遣いです。ですから、ある研究者の翻訳によれば、23節は、「この人はダビデの子ではないだろうか」と群衆は皆熱狂した、としています。

 そして、群衆の教師であったはずのファリサイ派の人々が、この熱狂に反応したものと思われます。人々が口々に「イエスはダビデの子か」つまりイエスが待ち望んでいたメシアかと叫んだのを聞いて、ファリサイ派の人々は「あれはベルゼブルの仕業だ」と腐したわけです。イエスが見せた聖霊の力を、悪霊の頭の力だと言ってのけたのでした。

 これは、実際、イエスは魔術師だと言われたのも同然です。そして、律法の教えに従えば、魔術を行う者は死刑とされていました。他方、ユダヤ人たちの間では、当時悪魔祓いが行われていました。悪魔祓いと魔術がどう区別されるのかは難しい問題ですが、ユダヤ人たちは指輪や器など道具を用いたとのことです。そして、ユダヤ教徒たちの間では、その後も暫く「イエスは魔術師だった」との非難がなされました。その意味では、ここでの議論はその後のキリスト教とユダヤ教の議論を先取りしています。

 イエスの反論は次のようなものです。まず、25節と26節では、悪霊で悪霊を追い出すような内輪もめは、結局、その悪霊の力を無効にするものだから、今現実に悪霊の支配に苦しんでいる人々がいることの説明がつかない、ということです。或いは、悪霊同士が互いに勢力争いをしているのが実情なんだ、との抗弁が帰ってくるかも知れませんが、そんなことが分かるのは悪霊自身をおいて他にないでしょう。

 もう一つは27節で言われていることですが、もしもイエスがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのだとしたら、同じように悪魔祓いをしているファリサイ派の仲間たちもまた、悪霊によって追い出していると言われかねないではないか、とのことです。あなたがたが言っていることは、結局、自分で自分の首を絞めるようなことになる。

 このようにイエスは言葉を返しておられますが、実際、「ベルゼブル」などという発言も根拠のない中傷に過ぎませんから、わたしが正しくてお前が間違っていると初めから決めつけている議論に、合理的な決着はありません。むしろ、ファリサイ派の人々の無暗な中傷の言葉が、いかに浅墓なものかという点を指摘するのに留まります。

 積極的な突き付けは28節以下です。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と、イエスは言われます。この終りの「来ている」というのは、「出現した」とのことで、終末の裁きを暗示するものです。つまり、「神の国」と言いますけれども、その含みには終りの神の国が実現する時に果たされる神の裁きがあって、それを目の前にしての覚悟が問われていることになります。イエスの内には神の霊が働いている、とは、イザヤ書の御言葉の支持がある。そして、神の国の証しとして、目の見えない人が見えるようになり、口が利けない人が言葉を話すようになる、ということが現に起こっている。29節では、その聖霊の力の及ぼし様が、強盗の例えで説明されています。「悪霊」という酷い言われ方に対するシニカルな答え方なのでしょうか。強盗を働くには、家に押し入って、まず抵抗する力を奪ってからでないと、仕事は果たせないだろう、と、まるでファリサイ派の人々が強盗であるかのように語られます。しかし、この例えでイエスが仰っているのは、実に神の国では、ベルゼブルが縛りあげられるような事態になるのであって、イエスが聖霊の力でもって、その家財道具に相当する、サタンの捕らわれ人たちを奪い去っていくのだ、ということです。そこで、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。つまり、イエスと共に神の国が来たからにはもはや猶予はないのであって、聖霊によって悪霊を追い出すイエスと共に、神の民を集める働きにつくか、それともそれを邪魔する悪霊の働きに加担するか、どちらかしかないとイエスは迫ります。

 イエスにつまらない中傷を浴びせたファリサイ派の人々は、その考えの浅はかさを見抜かれてしまったのでして、そこにある嫉妬や悪意がかえって彼らが悪霊の支配下にあることを暴露されてしまっています。

 

聖霊の力

 彼らの内にある深刻な問題は、彼ら自身、気がついていないのかも知れません。「あれは悪霊の力で悪霊を追い出している」との軽率な中傷は、単に人を貶める言葉では済みません。「人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦される」とイエスは言われます。人間の弱さをご存じである神は、赦しを与える憐れみの神として旧約でも知られています。特に主イエスの十字架に示される神の赦しは、人間のあらゆる罪に適用されますから、どのような罪であっても、その重さを受け止めて神に赦しを乞うならば、人は御子の十字架によって赦していただけます。「人の子に言い逆らう者は赦される」とイエスは言われます。「あいつは大食漢で、大酒飲みだ」などとの中傷も、イエスの人となりに対してのものですから、後で執り成すことが可能です。けれども、「霊に対する冒涜は赦されない」「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」。ファリサイ派の人々は、イエスを攻撃したようでいて、実に、イエスを通して働いている聖霊を冒瀆してしまいました。聖霊に対して、悪霊だと言ったわけです。そして、聖霊を送られた神を、ベルゼブルだと言ったに等しい発言をしたわけです。神を冒瀆すれば、赦されるどころか滅びは必定です。軽率な言葉で自分の悪意を露わにした彼らは、その深刻さに気付かないまま、言葉の責任を問われることになります。

 ファリサイ派の人々への反論から、逆に私たちが積極的に知らされるのは、わたしたちの救いは聖霊にかかっているということです。神の霊が私たちの内に働く時、その力が私たちをサタンの支配から解き放ってくれます。人はそこから解放されるまで、悪霊の働きから自由ではありません。イエスに敵対する者として、この地上に既に実現し始めた神の国に逆らっています。自分では気づかないまま、「散らす」働き、つまり人を神から遠ざけようとするサタンの働きに加担しています。けれども、聖霊の力が効力を発揮する神の国は、真の悔い改めと信仰を通して、地上に姿を現わしつつあります。新約聖書で明かされる通り、神の国は、イエス・キリストの十字架と復活、そして、聖霊降臨によって、教会の内に姿を現わし始めました。神はキリストのもとに、御自身のお選びになった者たちを集め始めておられます。聖霊が人の内に力を及ぼすとき、今日の御言葉のようにイエス・キリストについて聖書が告げていることが、そのままに受け止めることが出来るようになります。イエスのお働きは密かに進められて、その本当の意味は人々の目から隠されていましたけれども、聖霊によって信仰の目を開いていただいた者たちは、もはや公然と行われる神の御業を聖書に見るのでして、さらに、キリストと一緒に集める働きに自分自身をささげるようになります。

 神の霊は、今、御言葉を聞いて、イエスの御業について知らされたわたしたちの内に働きます。それは、自分の罪が赦されるか、赦されないかを決定する、重大なことです。イエスにあって働いた、癒しの力は、果たして聖霊によるものか、悪霊によるものか、その答えを私たち誰もが持たねばなりません。選択は二つに一つです。

 そして、聖霊を信ずるのであれば、その聖霊がわたしの内にも働いて、悪霊から守ってくださると信じることが出来ます。私たちの内には、わたしたち自身を苦しめる悪意が生じます。それは、嫉妬であったり、人を蔑む思いであったり、冷酷であったりします。悪霊は、そのようなわたしたちの思いを左右して、神のお働きを見えないようにし、神の正義に敵対させます。それによって私たちが自分自身を滅ぼしてしまわないように、十字架で死んで復活されたキリストが、聖霊を私たちに送って、私たちを悪霊の支配から解き放ってくれます。

 キリスト者となっても完全に清められて、悪霊を防げる訳ではありません。けれども、聖霊の力は信じる者に常に働きます。この世に行われる善の内に、神の国の到来を見ることが出来ますから、この世界のどんな在り様にも失望せず、キリストの名に希望を置いて、キリストと共に集める側に立つことが出来ます。

 

祈り

天の父なる御神、主イエスの内にあなたの憐れみの業を見出すことが出来なかったこの世界に、聖霊による目覚めを与えて、希望の火を灯してくださった恵みに感謝します。イエス・キリストが十字架によって果たしてくださった贖いを信じて、既に赦された者として、私たちを聖霊の力に活かしてください。主イエスが地上でなさった憐れみの業を、拙いながらも私たちの力によって果たさせてくださり、力のない隣人に寄り添うことができますように。そうして、人を暗闇に落とし込む悪霊の支配から、私たちの暮らすこの世界を、あなたの愛の御支配の中へ解き放ってください。今朝、ここに集う一人ひとりに、あなたの霊の力をお授け下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。