マタイによる福音書13章24~43節

刈入れの時に備えて

 収穫祭の季節に

 10月に入ってようやく秋らしい季節になったように感じます。いつも散歩をする櫨谷川沿いの田畑では稲刈りも進んで、収穫の秋を思わせる風景を目にすることができます。刈り入れの季節は聖書の中でも盛大なお祭りを行って祝います。春の収穫と秋の収穫がありますが、秋の収穫祭は「仮庵祭」と呼ばれて、新年から15日後に行われます。今年は10月1日がそうであったのではないかと思います。収穫の季節は一年の内でも楽しいひと時です。祭の規定が記されている申命記16章14節以下には、次のように書いてあります。

麦打ち場と酒ぶねからの収穫が済んだとき、あなたは七日間、仮庵祭を行いなさい。息子、娘、男女の奴隷、あなたの町にいるレビ人、寄留者、孤児、寡婦などと共にこの祭を喜び祝いなさい。あなたの神、主があなたの収穫と手の業をすべて祝福される。あなたはただそれを喜び祝うのである。

イスラエルの祭は神である主のための祝いであって、その日には汗を流して働いた労苦が報われて、豊かな収穫物によって神の祝福が民全体に及びます。

 他方、聖書では刈り入れに人生を映してみる場面もあります。ヨブ記5章26節では、「麦が実って収穫されるように、あなたは天寿を全うして墓に入る」と言われます。刈り入れる人に身を置くのではなく、刈り取られる麦に自分の身を映して人生を見ています。同じくヨブ記の24章22節以下では、神を恐れず自分の力を過信する人間に対して次のように言われています。

権力者が力を振るい、成功したとしてもその人生は確かではない。安穏に生かされているようでも、その歩む道に目を注いでおられる方がある。だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され、麦の穂のように刈り取られるのだ。

「刈り入れ」に際して人が思うことは、このように聖書では二通りです。一つは、神の祝福が満ちる収穫祭の喜び。もう一つは、神が刈り取られる人の命の終りについてです。

 

麦畑のたとえ―善と悪の混在する世界

 福音書から読まれました今朝の御言葉は、「毒麦のたとえ」と標題が付けられていまして、通常そのように呼ばれています。ですけれども、内容からしますと必ずしもそれは相応しくないようにも思われます。譬え話には伝えたいメッセージの中心があるのですが、その中心を外さないように理解することが大切です。そのために、先の「種まきのたとえ」と同じように、たとえの解説が後半に続いてます。前半には三つの譬えが連続していまして、それぞれ、「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」となっていますが、後の二つは最初の譬えを補う形で添えられた一組だと考えることが出来ます。そこで最初のたとえである「毒麦のたとえ」が伝えているのは、後の解説で詳しく述べられる通り、最後の刈り入れが待っている、ということです。この「刈り入れ」とは、主イエスが再び世に来られて、すべてに決着をつけられる、最後の審判を指していることは明らかだと思います。

 では、なぜ毒麦かと考えますと、先の「種まきのたとえ」では、土地の違いが神の言葉を受け止める人の現実をよく捉えていましたが、この「毒麦のたとえ」では別の角度からこの世の現実を捉え直しているわけです。つまり、こちらのたとえは、御言葉を受け取る土壌が違うのではなくて、蒔かれた種がそもそも違うという設定です。そこで、どんな状況が現れるかといえば、畑には良い麦と毒麦とが混ざり合っている、という現実です。

 先の「種まきの譬え」が土壌の違いによって表していたのは、聖書の言葉を受け止める人の心が実際にそのようなものだ、ということでした。同じように、この「毒麦のたとえ」も、聖書の言葉を語った世の中の現状を表しています。つまり、そこですくすくと成長していく麦もあれば、姿形は麦に似ているけれども全く別物の毒麦もある、ということです。そして、それぞれが違う畑で育つわけではない、ということを表しています。

 たとえを理解するために、幾つかの説明が必要かと思います。まず、「毒麦」とは何でしょうか。私も聖書以外に聞いたことがなかったのですが、今やインターネットで検索すると図版がポンと出てきます。「ドクムギ」とは翻訳上の造語ではなくて、そういう植物が日本名としてあるのだと知りました。説明は聖書辞典で調べればよいのですが、見かけは麦とそっくりで特別に毒性は無いのだけれども、虫に噛まれたりして病気になると神経性の毒を持つようになるそうです。成長して穂をつけるようになりますと、色の違いから見わけがつくとのことで、収穫時にはそれを選り分けることが可能になります。僕たちが主人に言いましたように、ドクムギを途中で抜こうとしますと、根が絡まっていたりして、良い麦の方にダメージが生じることもありますから、他の雑草はきれいに取り除いたとしても、ドクムギは収穫まで放っておくのだと云います。

 そして、「畑」は何を指すのかということも議論があります。イエスは「畑は世界だ」と説明しておられますが、「世界」とは一つの訳で、「この世」という意味でもあります。問題は、「畑」を「世界」全般と捉えるか、「教会」と捉えるかの違いです。畑が世界全般であるならば、毒麦は神の言葉を受け入れない人々ということになりましょう。しかし、畑が教会と捉えるならば、毒麦は形ばかりの教会員ということになります。榊原康夫先生は、「世界」とあるところは「この世」と読むべきで、それは永遠の天と比べられるところの、この時間的な世界を表すものだとしています。つまり、「時代」とか「世代」と理解してもよい、旧約的な捉え方です。そうしますと、「畑」とはこの時代における神の働きの中心となる教会を表すものでして、「毒麦のたとえ」は教会の内部に起こる困難を表している、ということになります。

 けれども、やはりそれはたとえ話の一つひとつの象徴に引きずられた解釈であって、それが全体として言わんとしていることに注意しなくてはならないと思います。このたとえは、イエスの解説にしてもそうですが、麦と毒麦を見分けなさいということを教会に問うてはいません。「毒麦」と聴きまして、果たして自分がそうではないか、心苦しく思う人もあるかも知れません。それは、先の種まきの土地と同じでして、そういうことをたとえは目指しているのではありません。

 イエスがお語りになる神の国のたとえでは、神の国、つまり、神のお働きそのものが語られます。聖書の言葉が語り伝えられる現状は、畑に麦と毒麦が一緒に成長するのと同じような有様です。その様子は、成長過程においては全く見分けがつきません。神は福音の種を蒔いて御国の子らを成長させるのに、土地を分けて、一箇所に集めて育てるという方法を取りませんでした。むしろ、世界の至る所に気前よく種を蒔いて、至る処に信仰者を起こして、教会を建てさせます。良い麦は良い実によって世界に良い感化を与えますが、毒麦はサタンの誘惑によって躓きと不法を蔓延らせます。この世界は、そのように善と悪とが入り混じってある、ということを、このたとえは当たり前のように表しているのに過ぎません。教会の中であってもそうだ、ということです。

 

刈り入れの譬え―世の終わりに臨む裁き

 キリスト教に対して、よく、神がおられるのにどうしてこの世に悪が存在するのか、とか、キリスト教は良い教えをもっているのに、宗教が戦争の原因になったりするのは何故なのか、という問いが出されます。けれども、キリスト教はユートピア思想ではなくて極めて現実的にこの世を見ています。聖書があれば世界から悪が無くなるわけではありませんし、教会は清められて罪を犯さない聖なる領域ではありません。「毒麦のたとえ」が私たちに語っているのは、そういう私たちの時代にも良い種は蒔かれているのであって、すべてが毒麦に支配されてしまっているのではないということです。良い麦であるかのように偽って、悪い企みが世界にのさばる様なことがあっても、最後には神御自身が決着をつけることになっている。今はその猶予の期間に過ぎません。

 やがて刈り入れの時が来て選別がなされます。その時、良い麦は喜びをもって大切に倉に仕舞い込まれ、毒麦は根こそぎにされて、束ねられて焼かれてしまう。このたとえが語るのは、そうした神の定めについてです。そこから、このたとえを御言葉として聞く者の信仰が問われます。私たちは、このたとえから、自分の人生の刈り入れ時に対してどのような備えをしているか。自分の人生の決着については、誰もが自分で決断しなくてはなりません。

 前回学びましたように、イエスは民衆にたとえで語られました。たとえは神の言葉を真実と受け止めない人の間では謎に留まります。35節で引用されているのは詩編78編2節ですが、マタイは詩編の作者をも預言者と言っています。イエスは旧約聖書に示された神の御旨に従って、人々にたとえをもって神の国の秘密を語られました。

 信じない人々の間ではたとえは謎のままですが、イエスのそばに来てその意味を問う弟子たちには秘密が明かされます。すべてを捨ててイエスに従って来た、その弟子たちこそ、御国の子らに相応しい者たちです。彼らの内にも裏切り者のユダがいたということを考えれば、イエスの弟子の中にも毒麦は蒔かれたのであって、弟子であるからといって天国の権利を安易に主張するわけにはいかないとの反省も働きます。けれども、イエスの言葉を聞いて行う弟子たちが、この世に蒔かれた良い種であることはイエス御自身がよく御存知です。この弟子たちにとって、刈り入れ時とは、この世での労苦が実を結んで、神の祝福が満ちる祝いの祭を行う時に違いありません。

 

成長のたとえ―神の国の生命力

 からし種とパン種の二つのたとえは、イエスの言葉とそれに聞き従う弟子たちを通して、良い実りをこの世界に生み出す、神の国の生命力を二つの側面から表したものです。畑に毒麦が育ったとしても、この神の国の生命力を阻むことは出来ません。

 からし種がどんな植物なのかは、はっきりしません。それらしきものはパレスチナで見つかっていますが、精確には「からし」では無いことが知られています。他の植物に比べて殊更小さい、芥子粒よりも小さい種が、小鳥が巣をつくる程の木になる、という驚くばかりの生命力がこの譬えで強調されます。

 パン種は小麦粉の生地を膨らませる酵母のことで、あまり説明は要らないと思います。ただ、「3サトン」という分量はおよそ40リットルになりますから、ここでのイメージは大量のパン生地です。皆で祭を祝うための分量なのかも知れません。ともかく、少量の酵母がパン生地を大きく膨らます、という、酵母の目に見えない不思議な力を、神の国の生命力として表しています。

 

良い種として生きる

 神の国の生命力とは、人間に本来の良い命を回復させる神の力です。それは、一人の人を生きさせるばかりでなく、まさに「国」と言えるほどの領域をつくります。それは、政治的な国家とは異なりますが、キリストを中心として人と人とが互いに結ばれた関係の中に現れます。それは、その関係の中に生きる人を、目に見えない、不思議な力で支えて、大きく成長していく、新しい命の交わりです。

 主イエスは弟子たちに、今日のたとえの最後にこう言います。

そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。

かつて預言者ダニエルに告げられた言葉がイエスの口から弟子たちに語られます。毒麦に対して、良い麦はと言われてよいところが、「正しい人々は」と言われます。イエスの弟子たちは良い実が約束された良い種です。その信仰に基づく神に従う生活が、この世の躓きや不法に立ち向かう希望です。ここで言われる「正しさ」は、神の国の生命力によるものです。それは、イエス・キリストが弟子たちのために十字架で死んでくださったことによって、弟子たちの罪が赦されて、キリストが復活されたことで弟子たちに新しい命がもたらされた、その救いが成就して、弟子たちの内に与えられる「正しさ」です。ですから、イエス・キリストを信じる者たちは、イエス・キリストに買い取られた良い種として、世界の土壌に蒔かれます。神の憐れみと赦しによって、新しい命に生かされる弟子たちが、正しく神の御心を行って生きるところに、人の命がやがて太陽のように輝くという、明るい未来が約束されます。

 誰にもやがて訪れる刈り入れの時を、どのようにして待ったらよいか、これではっきりしています。キリストのもとへ来て、御言葉を聞き、それを信じて生きる、神の力に支えられた人の生き方が、世の終わりに向かう正しい人の生き方です。人生の終わりを、刈り取られてしまう後悔と自責の時にしてしまわないで、収穫の喜びを神と共に分かち合って、太陽のような輝きに満ちた終りにするために、キリストの弟子として生きる道を共に歩むものでありたいと願います。

 

祈り

 

天の父なる御神、私たちはあなたの御国の活き活きとした力を知りませんでした時に、人生の終わりを儚むしかない毒麦のような生活をしておりましたけれども、あなたの憐れみによって福音に触れ、信じる信仰をもいただきましたことを心から感謝致します。願わくは、その確信をすべての兄弟姉妹にお与えくださり、一人もこぼれることなく、栄光に満ちた天の御国に辿りつくことが出来るよう、主の召しを確信させてください。そして、この世に蒔かれた良い種として、御国の進展のために、私たちの献身をお用いになってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。