マタイによる福音書13章44~58節

天国の価値

 

はじめに

 今朝の礼拝は宗教改革記念の礼拝としてささげています。記念日は10月30日でして、マルティン・ルターがヴィッテンベルクの城教会に95カ条の堤題を張り付けたその日を記念することになっています。宗教改革の運動には、そこに根差すプロテスタント教会の信仰に関わる多くの源が見出されますが、一つの側面として、会衆に神の国を取り戻したという点が挙げられると思います。中世のキリスト教会は教職が中心でした。ローマ教皇を中心にいただく教職の段階的な制度が神の国の祝福を独占していて、会衆はその管理のもとでいわば恵みのおこぼれに与るような状態でした。16世紀のヨーロッパで起こった教会の改革運動は、教職の平等を訴え、牧師も会衆も共に御言葉の恵みに与って、力を合わせて教会を建て上げていく、神の国の本来のあり様を明らかにしました。私たちはその宗教改革の原点に立って、聖書の御言葉に常に聞き従いながら、神の御旨に適った教会の在り方を求めて、神の国の進展のために献身する教会です。宗教改革を記念する今日、もう一度、主イエスの御言葉から神の国の福音に耳を傾けて、私たちの教会に与えられている恵みを分かち合いたいと思います。

天国の至高の価値

 最初のたとえは「畑に隠された宝」のたとえです。神の国は、その畑に隠された宝が見出されるようなものだ、とイエスは言われます。このたとえ話の内容はシンプルなものでその通りですけれども、ある農夫が畑仕事をしている。土地の所有者ではないわけです。小作人だと思います。畑を耕していてたまたまそこに隠されていた宝物を発見します。「宝物」というより「宝箱」の方がよいかも知れません。これは「倉」とも訳される語ですので。中に宝がぎっしり詰まっている、そういう宝箱を発見したわけです。そうしますと、その農夫はそれを隠したままにしておいて、人には黙っていて、急いで行って畑を購入した、ということです。見つかった宝箱は地主のものですから、農夫が持ち出せば窃盗になります。宝物そのものをお金を出して買うようなことは農夫にはできないでしょうけれども、畑でしたら何とか手に入れることができる。それほど莫大な財宝が見つかったということでしょう。そうして、人には隠しておいて畑を買うことにした。そうすると地面に埋まっているものも合法的に自分のものにすることができるわけです。こういうたとえを、主イエスは神の国の出来事に当てはめておられます。

 このたとえ話のポイントは、偶然に発見されるということで、意図していたわけではありません。仕事をしていてたまたま発見した。そして、見つかった宝を全財産を費やして買い取った、ということ、これがたとえ話の強調点です。それ程の価値のある大発見をした、ということです。

 続いて、45節と46節にある二つ目のたとえ話で語られているのは、良い真珠を見つけた商人の話です。この真珠商人は、宝石商かも知れませんが、真珠のコレクターでもあって、ずっと最良の真珠を求めて旅をしていたのでしょう。そこで、ある時、素晴らしい真珠を見つけて、他のものをすべて売り払ってそれを購入しました。天の国、神の国とはそういうものでして、全財産を売り払ってでも手に入れたいものがそこにあります。このたとえ話のポイントは、先のたとえとセットになっていますが、熱意ある探求の果てに真珠を見つけた、ということ、そして、これは先のたとえと共通してますが、全財産と交換にそれを手に入れた、ということです。

 こうしてこの二つの短いたとえによって私たちに知らされているのは、天の国は、すべてのものを売り払ってでも価値のあるものだ、ということです。それは他の何にも代え難い尊いものでして、それを手に入れるためには人は何でもする、というものです。天の国とは何か。この、宝を発見する、最良の真珠を見出す、というような経験にたとえられていますが、「天国」とは、神の恵みによって生かされる場所です。ですから、イエス・キリストに出会った、イエス・キリストを通して神の救いの御業を知った、ということが、神の国に入って行くことになるのでして、そのことが思いがけず莫大な財宝を畑の中から発見することや、長年探し求めて来た素晴らしい真珠に巡り会うことに比べられます。私たちに聖書を通して知らされているイエス・キリストの救いの恵み、福音というものはこのように尊いものでして、私たちの人生に驚きと転換をもたらします。それはすべてのものを後にしてでもそれを手にしたいと思う程のもので、その喜びに突き動かされて私たちは神の国に入って行きます。そして、生ける神とともに私たちが生きて行く。すべてを治めておられる神が、私の人生をも支配してくださって、毎日の生活の中に喜びをもたらしてくれる。そういうことを信じつつ、また感じ取りつつ歩むのが、キリスト者の人生です。

 そういうふうにして、天の神は、イエス・キリストを通して、神の国をこの地上にもたらしたのでして、福音がこのような救いの喜びに溢れて、神を信じて信仰者として歩み始めるということが、イエス・キリストが世に来られて以来、起こっています。私たちは、イエス・キリストを通して働いておられる恵みの神を、ここで覚えたいと思います。

 新約聖書の他のところで、コロサイ書の2章3節ではこう言われています。

  知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

人がこの天の国の宝を見出すのは、イエス・キリストを求めて訪ねて行くときです。初めから、そのイエス・キリストの福音が素晴らしいものであるかどうか、誰にもわかるものではないかも知れません。けれども、救いの知らせを聖書から聞いて、キリストの福音について学び始めます時に、その中で最良の真珠を見出すような出会いに導かれます。その救いの恵みを受けた驚きは、たとえの中ではすべてを売り払う行為として描かれています。これを文字通り受けとめまして、実際に自分の財産をなげうって、売り払ってからでないと洗礼が受けられない、というようなことになりますと、これは大変な冒険になりますけれども、そういうことが求められる訳ではありません。先に学びましたように、神の救いを信じて神の国に入るということは、「神の国と神の義を第一とする」ということでして、そのためには家族さえも二番目のものになるのだ、ということをイエスは教えておられました。そして、実際、そういうことが起こります。それはそうしなければならないということではなくて、私たちの信仰の内に実際に起こることです。聖霊が働きます時に、イエス・キリストの救いがかけがえのないものだということが心の内に迫ってきて、この大きな恵みの発見によって私たちの人生観が変わります。何を第一とするか。それは、真の神をおいて他にない。その他のものはすべて第二・第三のものとして、後に退いていく。そういうことが、私の価値観の中に現れてきます。すべての信仰者にこの福音の驚きが約束されています。そうした出会いに導かれるまで、イエス・キリストの内に本当の宝を探し求めることが私たちに相応しいことです。

 もう少し進んで、「すべてのものを売り払う」という程の驚きが信仰の中に生じました時に、私たちは具体的に天国を発見して、そこに自分の場所を見出す時に、一体どのようにこの世で生きて行くのか、ということも、イエスはマタイ福音書で教えておられます。神の国の神の義を第一とする生き方、それが真の信仰であることはすでに示されていますけれども、もう一カ所、19章へ進みますと、これも有名な箇所ですが、主イエスが御自分を訪ねて来た青年に対して「すべてのものを売り払って、貧しいものに施しなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになる」と言われました。すべてを売り払うことが私たちに義務づけられているわけではありませんけれども、それが具体的に私たちの生活にどのような指針を与えるかと言いますと、自分のもとに物を集めるよりも、むしろそれを分かち合って生きる、というところに自分の居場所が見つかります。それが、「天に宝を積む」ことであって、神の国が来ている、ということです。神の憐れみに自分が生かされることによって、私たち自身がまたその憐れみを内に宿して人と接しながら、様々な恵みを分かち合って生きることです。それが、「神の国と神の義を第一に求める」私たちの生き方であり、キリストの教会に与えられた新しい価値観です。初めの二つのたとえから学ぶのはそうしたことです。

世の終わりの選別

 次に、「魚の選別のたとえ」が49節、50節に続きます。内容的には「毒麦のたとえ」と同じです。ここで言う「網」ですけれども、一人もしくは数人の漁師が舟に乗って海に網を投げ込むという漁の仕方ではありませんでして、引き網のことです。前もって仕掛けておいた網を大人数で浜に引き上げる地引き網のことです。ですから、ここでは教会の伝道活動全般について言われているわけです。そこで、このたとえによりますと捕れる魚は色々で、イエスのもとに集まる人々も様々であることがほのめかされます。それぞれに負っている背景が異なりますし、人種や社会的地位や様々に異なる者たちが教会には集まります。主イエスによれば、教会は初めからそういう場所です。しかし、終わりの日にそれが篩にかけられる。悪いものと良いものが選り分けられて、良いものは器に移して取っておかれますけれども、悪いものは投げ捨てられてしまう。この「悪いもの」とは、言葉の上では「食用でないもの、有用でないもの」ということでして、その背景には厳格な食物規定を設けていたユダヤの律法があると思われます。たとえば、「うろこのない魚は食べてはならない」と命じられていましたから、漁師たちは捕れた魚を選り分けて、食べることが禁じられているものは投げ捨てていたわけです。そして、「良いもの」とは、教会という器に移された新しい人々です。教会に集められて、真の義に生かされている信仰者たちです。しかし、教会には色々な人々が一緒に集まるので、悪いものもそこには混じっています。それは、教会の中で不義を働く不信仰者たちです。そのことの判別は、私たちの目には明らかではありません。しかし、神は最後にその両者を選り分けるのでして、正しい者たちを苦しめる悪い者たちは、神の手によって裁かれる、と言われます。

 こういう裁きのメッセージを聞きますと、私たちは果たして、自分は良い魚なのだろうか、悪い魚なのだろうかと自問するのではないかと思います。それは、私たちが神の御前に本当に謙遜であるならば自然と湧いてくる心情です。ただ、そこで自分は悪い者だと決め込んでしまうとなると危険です。正しく生きているかどうかは、神の御前にある私たちが心で問われていることです。神の義は聖書から教えられていて、それは隣人に対して相応しい愛の配慮をもって生きているかどうかなのですけれども、本当にそれに生きようとしている、生きたいと願っているかが、信仰の問題としてひとり一人に問われます。そこで、そうありたいと願い、祈り求めているならば、私たちは紛れもなく良い魚です。神は決して投げ捨てたりはしません。しかし、もうしそうでなくなってしまったなら、信仰を捨ててしまって、兄弟姉妹を隣人とも思わなくなってしまったなら、もはや救いの余地はないということです。私たちに求められているのは、神が定めておられる終わりの裁きを前にしての、信仰における自己吟味です。私たちはキリストを信じる信仰の故に「良い魚」とみなされます。自分がそのようにキリストにあって良いものであることを信じるように促されています。ただ心で信じるだけではなくて、良いものとして生きるように促されています。

 このたとえは、世の終わりのことだと主は言われます。ですから、私たちは神が定めておられる終末のことを覚えておかなくてはなりません。それは、この世界が終わるという終末のことばかりではありませんでして、私たち各々に分け与えられている人生は、それぞれの終わりが用意されていますから、それまでの間に私たちにまかされているものがあります。世の終わりに問われるものとは、私たちの死において問われるものです。その問われるものとは、神の恵みの中で、教会に加えられて、神の義に生きて来たかどうかです。本当に信仰によって生きて来たか、ということです。それが終末の教えを通して教会に問われていることです。ですから、信仰というものはいつでも真剣でなくてはならないものです。自分は洗礼を受けたから、後は自分なりの生き方をしていればいいんだ、という安心の中で生きることと、キリストを信じて生きることはやはり違います。それを間違ってしまわないように、福音の受けとめ方を間違わないようにしたいと願います。私たちはイエス・キリストを信じても罪人ですから、いつでも自分の罪と向き合って行かねばなりませんし、罪と向き合って行くということは、それについてキリストの十字架による罪の赦しを乞うて行くことです。そして、新しい生活の指針を聖書に基づいて受け取っていかなくてはなりません。私たちの人生は神に買い取っていただきましたから喜びに満たされていますけれども、真剣に信仰を通して私たち自身の信仰の有り様を問うて、生きておられる神に向き合っていくということがなければ、その喜びも確かなものにはなりません。世の終わりを思うことが、すべての弟子たちに求められています。

 不義に生きるものを神が取り去られると聞きますと、私たちは厳しいと感じます。しかし、「裁き」と聞く時に、私たちが想い起こさねばならないことは、その「裁き」を求めている隣人が傍らにあることです。義が失われた世の中で、不義に苦しむ人々が私たちの周りには必ずあります。イエス・キリストはまず、そうした貧しくされた人々のところに来られた、ということを私たちはいつも心に留めておかなくてはならないのだと思います。そして、そういう者の一人になられて、十字架におかかりになって死んだのがイエスです。不義に苦しむ人々の救いを語ることの中に、神の国の福音があります。裁きの神を、恐ろしい神と遠ざけるのであれば、私たちは一体自分がどういう立場の者なのかをよく考えてみなくてはなりません。教会は不義に苦しむ人々―抑圧ですとか、暴力ですとか、搾取ですとか、そういうことに苦しんでいる人々の逃れ場として、神がキリストにあってお建てになった場所です。そういう人々と私たちがもし共にいないのであれば、神の裁きは恐ろしいだけです。けれども、正義を心から待ち望む人々と共に生きているのならば、終わりの裁きは私たちの救いの完成となるはずです。

天国のことを学んだ弟子たち

 こうして、イエスと共に歩んだ弟子たちは、たとえ話を通して神の国のメッセージを聞いています。そして主は問われました。あなたたちはわかったのかと。そうしましたら弟子たちは、わかりました、と答えています。これは、弟子たちはこの時わかったつもりだったに過ぎない、などと穿った見方をしなくてよいと思います。弟子たちは主イエスと共にいて、主の御言葉を聞いて、主の御業を見て、理解した、ということです。神の国は何かということを理解した。それは、イエス・キリストにあって神が働いておられて、この世界に救いをもたらしておられるという現実を理解したわけです。ですから、弟子たちはすべてをなげうってイエスに従ったのでして、神の国を自分たちで受け取りながら、隣人たちにも分け与えてゆくのが弟子たちの新しい生活となりました。ここに教会の姿が映し出されています。これまでもマタイ福音書が語って来たことですが、理解に至るということ。福音が腑に落ちて、私たちの心となって、それによって、私たちが生きるようになる、というところまで私たちがたどり着くことが大切です。

 この弟子たちが、次の短いたとえによって、こう語られます。主イエスは、「わかりました」と答えた弟子たちにこう言っています。

 だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。

天の国のことを学んだ「学者」とありますけれども、これは弟子たちのことです。弟子たちは何も学問の場へ出かけて行って高等教育を受けた訳ではありません。しかし、イエス・キリストに寄り添って学び続けることで、御言葉を聞き理解することに努めることによって、彼らは天の国の学者だと言われます。それが所謂ユダヤ教の律法学者と違うところは、律法学者たちは旧約聖書の教えを組み合わせてそれを現実の生活に適用することに心を砕いていましたけれども、それ以上のことをキリスト教の学者たち、すなわち、主イエスの弟子たちはイエスから学んでいます。つまり、神は御言葉を通して人を信仰によって救ってくださるのであって、そのようにして神は御言葉を通して生きて働いておられる、ということを知りつつ、聖書を読み、学び、それを現実に生かし、信仰の糧とする、というあり方です。それが「天の国の学者たち」と言われる弟子たちのしていることでした。彼らは律法に通暁した知識人ではありません。勿論、律法に親しんではいたでしょうけれども、聖書の御言葉をイエス・キリストの光の中で新しく読み、それを今を生きる自分の信仰の糧とする、という仕方を知った天の国の学者たちで、御言葉に学ぶ者とされました。

 このことから、一つには、弟子たちは御言葉に学び続ける者であると教えられます。神の国は、弟子たちに理解しうるものとなりましたが、それを理解してキリストに従うためには、生涯、聖書に学び続けるのが彼らの生き方です。それは自分の知識を増し加えるために学ぶということではなくて、天の国の恵みを分かち合うため、倉から取り出して外へ持ち出すためです。

 この「倉から取り出す」たとえですが、「新しいものと古いものとを自分の倉から取り出す」と、二つのことが言われています。これが何を指すかといいますと、新しいものとは新約の福音、古いものとは旧約の律法です。ですから、イスラエルの民に委ねられている古い御言葉と、イエス・キリストを通して与えられた新しい啓示との両方を聖書から取り出して、それらを合わせて主の御旨を正しく語ることが出来る、ということを意味します。新約聖書だけでキリストの恵みを得られれば十分ではないか、と主張する人が教会の歴史には時々現れましたけれども、「古いもの」と「新しいもの」はどちらも神の言葉として教会に与えられているもので、欠かすことのできないものです。ですから、「学者たち」と呼ばれたイエスの弟子たちは、古いものにも新しいものにも注意を払って学びながら、そこから神の国の正しい教えを導き出して、周囲に語る努めに召されています。

イエスに躓く人々

 さて、53節からは、イエスの弟子たちとの対比として置かれているようですが、こうしてたとえを通してイエスは神の国の教えを語りまして、御自分を通して神が生きて働いておられることを人々に証しされたのですけれども、そこにそれを信じて集う弟子たちが現れた反面、世の多くの人々の反応はそれを拒否するものでした。それは私たちの時代に何か光を投げかける前に、イエスが活動された当時のユダヤの社会を表わしています。イエス・キリストはユダヤ人に拒否されねばなりませんでした。そして、このたとえが謎として語られました通り、信じる者には真理が明かされますけれども、初めから信じようとしない者に対しては、御言葉は隠されたまま、埋もれ宝に留まっていました。53節以下にあるのは、イエスの故郷での出来事です。どの福音書も伝えていますから、これはよく知られていることです。故郷のナザレにもどって主イエスは教えを与えるために会堂に入られました。しかし、人々はそのイエスの教えを聞いて、確かに驚きはしましたけれども、神の国が来た、というように喜んで従いはしませんでした。何故か。それは、イエスが大工の息子であり、村の人々によく知られた人間であったからです。この箇所が有名なのは、イエスは一体どんな人物だったのかと皆が関心を持っているからでしょう。どれくらいの背丈で、どんな家族構成で、どんな生い立ちだったのか、ということに、キリスト教世界は常に関心をよせて来まして、歴史的な研究も積み重ねて来られました。ただ、聖書が明らかにしているのはここに記されている通り、イエスの人となりについては極僅かなことしかわかりません。ですが、極僅かなことでも知られていますから、ここはそれ故に重要です。

 ナザレの人々はこう言っています。「この人は大工の息子ではないか」。マルコ福音書では「この人は大工ではないか」と直接的に言われていますけれども、大工でありましたヨセフの息子としてイエスはお生まれになりました。この「大工」ということも、我々が日本で思い浮かべるような大工さんとは違っていまして、パレスチナは林がないわけではありませんが、石灰岩の土壌ですから、石を切り出して家屋を建設します。「大工」と翻訳されてはいますが、元の語は「職人」です。ですから、ヨセフの職業は、金属加工業者かも知れませんし、木材加工業者かも知れませんし、石材業者かも知れません。翻訳聖書によってその辺りの扱いは違っています。カトリック教会のある翻訳を見ますと「石切職人イエス」と書いてあります。そうしますと筋骨逞しい肉体派のイエス像が浮かび上がってきます。そんな時代考証を背景にした映画もあったように思います。そんな風ですから、イエスの職業についてもはっきりしませんけれども、「大工」であるとしましても、家を建てるばかりではなくて当時は調度品なども一緒に作りますから、イエスは加工業者、職人であったということでよろしいかと思います。それが、イエスがお育ちになったヨセフの家の職業でした。ある小説の中ではイエスは十字架を作らされていたことになっていますが、それはロマンティックに過ぎると思います。

 職人ですと身分の低い職業だと思い込んでいるところがあるかも知れませんが、あながちそうとも言えないようです。技術職というのはそれなりに当時は評価を得ていて、自分で家を持つことができるぐらいの職業でした。イエスの育った家は兄弟姉妹たちもあって大家族でもありますし、父親の職業もしっかりしていて、それなりの経済規模は確保されていたろうと思われます。それと合わせて大切なのは、そういう職人に過ぎないイエスが、会堂に入って教えるなどということはおかしいと、人々が驚き怪しんだ、ということではないということです。当時のユダヤのラビたちは手に職を就けるのが常でした。パウロもテント職人でしたし、当時のユダヤ人の教師たちは自分で働きながらモーセの律法を学んで人々に教えました。それが尊いとされていました。イエスがナザレに帰って来られた時に、村の人々は、ああイエスはラビになって帰って来た、と思って会堂に迎え入れまして、説教も頼んだのでしょう。弟子たちを引き連れての帰還ですから、村にとっては誇らしいことでもあります。ですから、ナザレの人々が躓いたのは、職人であるはずのイエスが会堂で教えた、ということではありません。

 もう一つ、イエスには地上の御生涯において家族があったことがここから知られます。両親についてはクリスマスの話で皆知っていると思いますが、4人の兄弟たちの名がここに挙っていますし、また「姉妹たち」がいたとありますから最低2人はいたことになります。マリアとヨセフの家庭は6人以上の子どもがいる大家族でした。イエスはその家の長男ということになります。イエスにはこのような家族がありまして、その中で人間らしく成長していかれたことがここから知られます。私たちは信仰を通してイエス・キリストを受け取りますが、神の子であるということが一面的になりまして、まるでイエスが人間でなかったかのように捉えてしまうことがあるかも知れませんが、神の子であるイエスはこうして真の人間でもありました。ただ、神の御旨を完全に生きられたという点で他の人とは異なっていました。

 故郷の人々は、しかし、イエスが帰ってきました時に、イエスを神の国をもたらす神の子として受け入れることはできませんでした。昔ながらによく知っているイエスちゃん、ぐらいにしか見ることはできなかったわけです。イエスはナザレでも、弟子たちにお示しになったように、神の国の現れを告げたのだと思います。それが優れた教えだと思ったかも知れませんけれども、それによって村人たちの人生が変わるようなことは起こりませんでした。本当の「理解」には至らなかったわけです。

 このようにして、ここで語られているのは、イエスは一部では隠された宝のままであった、ということです。それが見出されるのはイエスが復活なさった後になります。弟子たちにしても本当の信仰の歩みはイエスが復活なさった後で聖霊をいただいてからです。イエスは隠された宝としてこの世におられましたし、また、今でもそうかも知れません。不信仰な人々の間にあっては、イエスは宝物とは映らないのが現実です。人々がその宝に気づくのは、神のもとから聖霊が送られてきたときです。

弟子たちの幸い

 世の終わりのことを考えますと、不信仰の中におかれた人々は、こうして終わりの裁きを前に立ち尽くす他はないのだということを思わされます。その中にあって、弟子たちが選ばれてイエスの真実のお姿を人々に伝えるように召されています。私たち教会に集う者は、こうして神の国の秘密を明かされまして、キリストの福音をもって、それをまだ知らない人々に伝えるように、この世に遣わされています。私たちがこうして知らされている福音には天国が啓示されています。そこでは本当に人が自由になり、神の恵みの中で生きることのできる命が約束されています。まずは、イエスを信じた私たちが、すべてのものを投げ捨ててでも手にしたい、という程の大切な宝をイエスの内に見出した、との驚きと喜びを確かに保ちたいと思います。そして、信じて理解をする、ところまで進みたいと願います。わかったつもりで留まらないで、イエスの言葉を自分の人生に当てはめて、それがどのように力を持つのかということを確かめながら、聖書に学び続けることです。御言葉が自分の内に実を結ぶのを確かめるようにして、信じて理解をする信仰をもって主イエスに従いたいと思います。その理解は私たちの信仰生活を通して体得されるものです。御言葉を生きることがなくては真理はわかりません。敵をも愛せよ、という恐るべき愛のあり様が語られました。そんなこと無理に決まっていると遠ざけてしまえば、イエスの言葉の真理はわからないままです。無理だと思いながらもそれに向かって行く。破れるかも知れませんけれども試みて行く。御言葉が私をそれに向けて押し出してくれる、と信じての取り組みが理解へと私たちを導きます。キリストにある義、を実際に私たちが生きることを通して神の言葉は私たちに理解されます。主が弟子たちに求めたのはそうした理解に違いありません。教会で学び取られる知識は、実践を欠いては実を結びません。生活を通して御言葉を理解することが、私たちに備えられている信仰の道です。世の終わりが定まっているということも繰り返し聖書から学びます。不義に生き続けるならば救いはない、ということは罪ある私たちに対する変わらない警告です。そこにある裁きに対して恐れを持たずに生きて行くことは、かえって信仰を失ってしまうことにつながります。パウロの手紙にはそうした警告が繰り返し現れます。それは、神の御前から教会が失われてはならないからです。私たちが失われてはならないからです。そのために世の終わりに向かう緊張感も教会生活には必要です。終末を覚える時に、今の生き方が大切になります。今、キリストに対して、天の神に対してどうあるかということを問い続ける、静かな弛まない努力が私たちの信仰を確かにします。

 宗教改革は私たちひとり一人が主の召しに応えるようにされた、時代の大きな節目でした。そこから私たちの教会は歩み始めて今日に至ります。プロテスタント教会は世界に福音を広めるために大きな働きをしてきました。その一つの枝として、私たちもこの地域に送られました。御言葉に仕える者として、御言葉を伝えるために、地域に対する伝道にも励みたいと思います。宗教改革に働いた聖書の言葉の力は、聖霊とともに今も私たちの内に働くと信じて、力を合わせて奉仕したいと願います。

祈り

 

天の父なる御神、あなたの御前にあって不信仰でしかなかった私たちを、何の資格も問わずに選んで、主イエスの弟子としてくださる恵みに感謝します。私たちが素直に聖書から学び、心を開いてあなたの御存在と救いのお働きを理解することができるように聖霊の助けをお与えください。そうして、尚も天の御国を思うことなく滅びに向かう世の中に向かって、隠された宝であるキリストの救いを、あなたの愛をもって人々に伝えることができるように導いてください。私たちが持とうとしています特別伝道集会を祝しきよめてくださって、あなたが働かれる場としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。