マタイによる福音書14章22~36節

イエスと共にある平安

 

イエスが共にいない現実

 11月も最後の週となりましてクリスマスの準備に追われる日々がそろそろ始まろうとしています。今日の午後にもたれる運営委員会では予定されている諸行事の詰めを行わなくてはなりません。私共が近隣の方々をも招いて救い主の御降誕を心からお祝いできるように、十分な備えをして臨みたいと思います。

 クリスマスで特に想い起すのは、インマヌエルの恵みではないかと思います。主イエスがこの世に来てくださって、「神、我らと共にいます」ということが現実となりました。それは、イエス・キリストを救い主と信じてこの世の生涯を送ることが許された、キリストの教会に与えられている恵みです。私たちはそう信じて、この礼拝の中で聖書の御言葉を通じてその恵みに与ります。

けれども他方、イエスは私たちと共にいない、という現実にも直面しているのではないでしょうか。教会は世の中で孤立しているかのようです。今のところ信教の自由が保障されていて、西洋文化としては幾分好意を持たれているとはいえ、教会を訪れる人は僅かですし、多くの人はキリスト教の教えに救いを求めてはいないようです。そういう世界に対して教会が宣教を試み、信仰を守って生きていくことは実に多難です。私たちには、天におられるキリストとの間に、ある距離感を感じざるを得ないような状況も起こって来ます。

 教会はキリストと共に歩む交わりですが、キリストから離れて地上で暮らす共同体でもあります。私たちが共に乗り込む舟は、目に見える形でキリストが共にいる訳ではない現実の中で、世の荒波にもまれながら、必死に舵取りをして向こう岸を目指して行くようなものです。主イエスはそういう私たちのために、一つの出来事を残して行かれました。それが聖書に書きとめられて、福音の一部として私たちに伝えられて、私たちの小さな信仰が励まされるためです。

繰り返される湖の奇跡

 ここに記された記事は、既に8章で伝えられている記事と多くの部分が重複します。嵐を静める奇跡を通して、主イエスにあって働く神の力が証しされ、それに対する弟子たちの信頼が求められる、という主要なメッセージも共通しています。湖での奇跡がこうして繰り返されるのは、「水の上を漂う船」というモチーフと共にそれが後の教会へメッセージを伝える格好の舞台となるからでしょう。

 今回の出来事では、イエスが水上歩行という奇跡が特に印象的です。それを見た弟子たちが「幽霊だ」と騒ぎだす姿も活き活きしています。人間に出来ないことをイエスがなさった、というだけでしたら先の8章に描かれた出来事の単なる反復になります。けれども、ここは先に記された5千人の供食の奇跡から続いて起こったこととして、そのつながりをよく考えて受け止めたいと思います。

イエスへの信仰のテスト―復活に備えて

 「5千人の供食」が行われた後、イエスは直ちに弟子たちを舟に乗りこませて、先に向こう岸へと送り出されました。他方、集っていた群衆は解散させて、御自分は一人になって山で祈っておられました。そうして日は暮れて夜の闇が訪れます。「5千人の供食」はその後に弟子たちに現わされる最後の晩餐の前触れでした。イエスと弟子たちとの間で持たれたその晩餐の席が、後の教会に与える意味を、前もって知らせる意義がそこにはありました。やがてキリストは御自身が制定された聖餐式によって、5千人以上の多くの人々を御自身の体であるパンで養われることになります。聖餐式は、イエス・キリストの十字架による死を記念するものです。

 主イエスは十字架で死んで墓に葬られます。イエスの下に集った多くの群衆はもはや離散し、弟子たちもイエスを離れて、十字架の影に怯えながら隠れて集っていました。彼らはその時、不安と闇に包まれて身動きが取れない状況でしたが、イエスが死んでから三日目の朝、夜明けと共に事態は全く新しく変わります。

 「5千人の供食」の後、イエスは一人で暗闇の中に留まっておられました。それは、弟子たちと遠く離れておられたことを一方で意味しています。弟子たちはイエスのいない湖を、小さな舟で漕ぎだして行かねばなりませんでした。しかし、イエスは弟子たちを決して見放した訳ではありません。祈るために一人になられました。その祈りは御自身の務めのために違いありません。そして、その務めとは、弟子たちと羊飼いのいない羊のような群衆を、御自分の血と肉で養うことでした。遠く離れてはいても、イエスは弟子たちと共にいない訳ではありません。イエスは弟子たちのために常に最善を尽くしておられます。ただ、そうした神の側での計らいについて、弟子たちには知らされていませんから、彼らは不安と闇の中に取り残されています。舟は逆風に晒されて思うようには進まず、結局、弟子たちは舟の中で一晩を過ごすことになります。

 しかし、夜明けと共に、イエスが姿を現わします。イエスにとって何スタディオンも離れているという距離は問題ではありませんでした。更に、地上と湖上を分け隔てている水の深みも障害にはなりません。主イエス・キリストは、御自身の定めておられる時に、全く自由に、まっすぐ弟子たちのいる場所へ向かって行かれます。嵐も、波も、大水も、何ものもそれを留めることは出来ません。そして、死さえも、イエスの歩みを留めることは不可能なのです。

 イエスが墓に葬られている間、弟子たちは死んだイエスとの間に絶望的な距離を感じていたに違いありません。望みをかけていた救い主が、今ここにいないという現実に打ちのめされて、自らの身に及ぶ命の危険に怯えていました。しかしそれは、イエスが強いて弟子たちを送り出される一時の試練の時です。やがて、イエスは御自身から弟子たちの進む先へ追いつかれます。

 教会の中にイエスがいないという現実は、時に私たちを失望させます。所詮、小さな力しか持たない人間が乗り合わせた小舟が、自然の巨大な力に襲われたらひとたまりもないのと同じように、所詮、罪人でしかない人の集まりである教会が、不信仰な時代の流れに呑み込まれようとする時、持ちこたえようとする気力も失ってしまうかも知れません。しかし、そんな私たちの不安に関わらず、イエスは教会を訪れます。聖霊によって、私たちの舟に乗りこんで来られるばかりでなく、世の終わりには御自身から再び私たちの下へ来られます。

 イエスが共にいない現実に右往左往するのは、私たちの信仰が小さいからです。舟に近づいて来られたイエスを認めた弟子たちは、「幽霊だ」と叫んで恐怖にかられました。イエスの内に神の力を信じる信仰が確かではなかったからです。彼らが知るイエスは、血肉を備えた自分と同じ人間に過ぎませんでした。イエスが行っていた数々の奇跡は、まだ、弟子たちの内に信仰の確かな実りを生みだしてはいませんでした。不合理なものを信じきれない人の弱さがそこにはあります。十字架で死んだイエスが墓から甦った時、復活の主イエスに出会う弟子たちもまた同じ試練に直面します。死んだ人間が姿を現わせば、普通誰もが「幽霊だ」と叫ばずにはおれません。しかし、そこにいるイエスを見て信じきれないでいる弟子たちに対して、イエスは「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」、と言葉をかけます。弟子たちはイエスから言葉をかけていただいて、今そこにいるのが幽霊ではなく、生きておられるイエスであることを認めます。

 片や、弟子の筆頭株であったペトロがそこから一歩踏み出します。イエスに対する信仰を自分の行動で証明しようと試みます。けれども、そうした勢いも波風に煽られた恐怖心によって一蹴されてしまいます。ペトロは弟子たちの代表です。彼は十字架の際にも死を恐れてイエスに躓きます。しかし彼らが真の信仰者に生まれ変わるには、不信仰の故に沈みそうになったところを、復活の主によって引き上げていただくということを経験しなくてはなりませんでした。自分の力でいくら勢い込んでイエスに従うといっても、自分を過大評価しているだけの場合もあります。かつて嵐を静めた時と同じように、この時も「信仰の薄い者たち」と言ってイエスは弟子たちをお叱りになります。ですが、その信仰の薄い者たちであるとの自覚から、主の助けによって歩む信仰者の本当の歩みが始まります。

イエスと共にいる平安

 こうした湖での出来事によって、主イエスの復活が弟子たちの内に予め示されています。尤も、そのことを知るようになったのは、復活した主に出会った後のことでしょう。弟子たちが湖で経験した出来事は、後の教会が直面する信仰の問題に結びつきます。教会にはイエスが共にいない困難な現実の中で、復活した主イエスに出会う準備が求められます。それは、復活という不合理をもって教会に近づく主イエスを認める信仰が求められるということです。そして、弟子たちに励ましの言葉を与えるイエスの言葉によって、生きておられる主をそこに認める、ということです。また、自分の信仰を過大評価せず、主イエスが救ってくださる、その憐れみによって、小さな信仰を確かなものに変えていただく心づもりが必要です。そうして、主イエスが舟に乗りこんでくだされば、舟を悩ました風は静まります。「本当にあなたは神の子です」との信仰告白によって、イエスのいない現実に立ち向かうことができます。

いやしを求める民衆のもとへ

 イエスと共に渡った向こう岸では、やはり大勢の人々がイエスのもとに集うことになりました。そしてまた、イエスの下で多くの病人が癒されました。その服の裾にでも触れさせて欲しい、という切なる願いが、すべて聞き届けられました。神の憐れみが示される、このイエスの働かれる場所に、小さな信仰をもってイエスに従う弟子たちも共にいます。イエスの復活を信じて、「本当にあなたは神の子です」との信仰告白に生かされるようになった弟子たちは、ただ神の力に頼って、イエスと共に働きます。イエスは今、御言葉をもって、イエスの弟子たる私たちの間で、救いの御業を果たされます。その救いを求めるものは誰でも、イエスによる魂の癒しが与えられます。教会はそのために用いられる器です。まず、イエスを信じた私たち自身が、そうして復活の主イエスによって、死から命へと贖い出していただきました。私たちの小さな信仰は、「勇気を出せ、私だ、恐れることはない」と御自身が私たちの間に臨んでおられることを証しする励ましの言葉によって強められて、魂の平安を得ています。もしも、教会の現実が困難であって、イエスがいないことが重く心に圧し掛かっているようであれば、今も生きておられて、私たちのために常に執り成しをしてくださっているイエスは、いつでも、私たちが何処にいても、真っすぐ私たちのもとへ来ることのできるお方であることを想い起したいと思います。また、今、主が共にいてくださることの平安を覚えているのであれば、主が大きな憐れみをもって土地の人々に仕えておられたように、私たちも福音をもって地域の人々に仕える伝道の働きに努めたいと思います。伝道の業は、言葉によるだけではなく、無償の愛の業にもよるということを、先週の御言葉から学びました。私たちも地域への奉仕として、どのように神の憐れみを伝えて行くかを考えたいと思います。クリスマスが近づいています。キリストの救いを胸の内で切に願う人々がこの町にも多くいるに違いありません。そうした一人ひとりのところにキリストの福音が伝わるように祈り願いながら、教会のクリスマスの準備も進めたいと願います。

 祈り

天の父なる御神、あなたは時に教会を遠ざけられて、この世の試練を通して私たちの信仰を確かにするよう求められます。どうか、そのような時にも、私たちが主イエスの御支配を信じて、あなたが共にいますことに平安を見出すことができるよう支えてください。そして、今も聖霊と共に働いておられる主イエスの御業に私たちを召して、助けを必要とする人々の側におらせてください。主の御降誕を祝う季節が近づきつつありますけれども、この機会にあなたの御旨を地域に広く伝えることが出来ますように、私たちの献身を励まし、お用いになってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。