マタイによる福音書15章1~20節

心から神を信じよう

 

アドベントに寄せて

 今日から教会の暦はアドベントに入ります。神の救いである主イエス・キリストの御降誕を待ち望む時をこれから過ごしてまいります。その待望の思いは、教会の今を生きる私たちにとって、主イエスの再臨を待ち望む思いと重なります。夜の闇が寒さと共に深まってゆくこの季節は、この世界を包む罪の暗さを思い、救いの光が差し込むのを世界のすべての人々と共に心待ちにする時です。イエス・キリストが再び来られる時、この世の悪が滅ぼされて神の救いが完成します。

 かつて主イエスがお生まれになった時、救いの受け皿になったのは神の約束を信じて、その成就を待ち望んだ人たちでした。救いを求める貧しい人々のもとへと神の子は降って来られました。主が再び来られる時も、それと同じに違いありません。時代の暗さに気がつかないで、今の自分に満足しきってしまった人々は、かつてと同じように、救いを見ることはないのだと思います。今朝の箇所にもキリストを受け取り損ねた人々のことが書かれています。エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者たちです。

イエスに躓く人々

 イエスは御許に集った5千人以上の人々にパンを与え、湖を歩いて渡り、ガリラヤの村々の病を負った人々を、服の裾に触れただけで癒されて、神の力が御自身と共にあることを現わされました。その噂を聞きつけてでしょうか、エルサレムの中央から信仰熱心なファリサイ派の人々がイエスを訪ねてやって来ました。しかし、彼らが見たのはイエスの内に働く神の業ではなく、手を洗わないで食事をする弟子たちの姿でした。来たタイミングが悪かったのではないと思います。彼らの関心が、そうした些細な弟子たちの振舞いに向かってしまっていて、イエスの業の方へは向かなかったということでしょう。昔の人の言い伝えを固く守ることこそが、ファリサイ派の人々の信仰上の重大事でした。

 食事の前に手を洗うことは、私たちの常識では衛生上の問題ですが、当時のユダヤ人にとっては宗教上の規定でした。旧約聖書の律法にあるのは祭司が祭壇の務めを果たす際に身を清めたり手を洗ったりする規定だけです。民衆が押し並べてそれを実践するといういわれはありませんが、「昔の人の言い伝え」に従って、日常生活の中で知らずと手についてしまった汚れが、食事を通して身に及ぶことが無いように、食前には手を洗うことになっていたとのことです。

 「昔の人の言い伝え」とありますが、長老たちによって伝承された宗教上の規定のことです。当時のユダヤ人たちは、旧約聖書の律法をその時代に活かして実践するために、優れた教師たちの元で聖書を学んで信仰生活のルールを定めていました。そこでもはや定まって伝統となっていったルールには権威が備わって、やがて、旧約聖書の律法と同じモーセの名が冠せられるようになりました。これを、「モーセの口伝律法」と言います。後にこれが全6巻からなる法典に編纂されて、キリスト教と相並んで成立するラビ・ユダヤ教の聖典となります。

 ですから、ファリサイ派の人々にとって、「昔の人の言い伝え」は聖書と同等の権威を持ちます。その規則を破るということは、神との契約違反になり、イスラエルに裁きを招くことになります。ファリサイ派の人々がイエスのもとにやって来て最初に目に留ったのが、手を洗わない弟子たちの不埒な振舞いでした。そして、それに対するイエスの対応は、弟子たちを擁護するばかりかファリサイ派の信仰を手厳しく批判する類のものでした。こうして、中央からやってきたユダヤ人たちはイエスに躓いてしまいます。

伝承の重要性

 主イエスはファリサイ派の伝承をここで「あなたがたの言い伝え」と言い、イザヤの預言を借りて「人の教え」だとして、その権威を否定しておられます。主イエスが神の言葉として認めておられるのは、4節に引用されているような聖書の言葉のみです。けれども、「言い伝え」「伝承」というものが、おしなべて人の業に過ぎないのであって、そういう伝承だとか伝統に従う姿勢がすべて誤りだということをここに読み込むのも間違いです。キリスト教にも「言い伝え」があります。それは、主イエスから使徒たちを通じて教会にもたらされた伝承です。その中に福音書に記された主イエスの教えや十字架と復活の証言が含まれています。それが後に編纂されて新約聖書が成立し、キリスト教の聖典となります。パウロはこの「言い伝え」を固く守ることを教会に強く求めています。例えば、テサロニケの信徒への手紙二2章15節では、「兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」と進めていますし、また3章6節では、「わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」と述べています。パウロが言う「わたしたちが伝えた」または「わたしたちから受けた」教えと言うのは、パウロも含めた初代教会の指導者たちが、使徒たちから受け継いだ主の教えとして権威をもつ伝承のことです。ユダヤ教であろうとキリスト教であろうと、教会が先祖の言い伝えに頼ることは当然のことであって、そうした姿勢があったからこそ聖書も最終的な編纂を経て正典となることができました。ですから、ファリサイ派に対するイエスの批判は、彼らの保守的な態度に向けられたのではなくて、その伝えられた教えの中身と、その教えを実践する彼らの信仰心に対してなされたものです。

本当の問題の所在

 イエスは「昔の人の言い伝え」に従うファリサイ派の信仰を「偽善だ」と糾弾しました。そこで口伝律法が一例挙げられています。5節です。

父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい。

この規定は誓いに関するものです。「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」というのがその文句です。マルコ福音書はもう少し詳しくここを述べて「コルバン」「ささげもの」という術語をヘブライ語のまま紹介しています。つまり、本来、親のために取っておいた蓄えや何かを、神へのささげものとして神殿に納める、と誓ったならば、それを必ず果たさねばならない、ということです。神よりも父を尊んで、その誓約を破ってはならない、という意味です。そして、この誓いは、そう述べられた時点で効力を発揮しますから、実際には神殿に携えて行かなかったとしても、それを親のものにすることができません。ですから、この決まりを悪用すれば、親子喧嘩をした際に、これは「コルバン」だと言って、親を扶養する費用などすべてを取り上げてしまうことができます。そうしますと、本来は神への誓願の厳粛さを保つためであり、また、身内よりも神を尊ぶべしという、聖書の教えに則った教えであるものが、規則の文言に従っていればいいという形式主義と内面の世俗化のために、その本来の意味や効力を失っていることが問題だと分かります。口伝律法は、書かれた律法、つまり聖書の解釈として生まれたものです。その解釈は、実際の必要から生まれます。それが大元の基準を失って、解釈だけが独り歩きを始めると、人間に都合のよい道具になり果ててしまいます。イエスはその大元である聖書の基準をお示しになって、あなたたちの大事にしている言い伝えは、人間の教えに過ぎなくなってしまっていると批判されたのです。

イザヤの告発

 ファリサイ派の人々の躓きはどこにあったのでしょうか。それは、私たちの教会とも関わる律法主義の問題です。鍵となるのは主イエスが引用されたイザヤの預言です。これは、今朝一緒に交読したイザヤ書29章からの引用です。もう一度、そこを開いてみたいと思います。

 13節は主イエスが直接引用された箇所です。イスラエルの民の信仰はもはや口先だけのものになってしまった。礼拝をささげたり、祈ったり、賛美をしたりする姿を見れば信仰深いように見えるけれども、それは「人間の教え」―つまり、教え込まれたからそれをただ繰り返すだけのことであって、本当の心は神を知らない。さらに14節以下のような続きがあります。

  見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか」と。お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が年度と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか、「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか、「彼には分別がない」と。

イエスはこの御言葉の内に、御自身を取り巻く群衆とファリサイ派の人々を見ています。イスラエルの指導者たる人々にはもはや預言も幻も現わされず、神の啓示を受け取ることもできないで、神を畏れる心を失い、自らの業を闇の中に落とし込んでいる。彼らの語ることも行うことも虚しく人の教えをもてあそんでいるのに過ぎない。その闇の中での彼らの振る舞いは実際のところ、暴虐であり、不遜であり、災いをもたらすものとなっている、と20節から読み取ることが出来るでしょう。これはイエスの受難において働く彼らの仕業と一致します。

  彼らは言葉をもって人を罪に定め、町の門で弁護する者を罠にかけ、正しい者を不当に押しのける。(21節)

イエスは彼らの前で驚くべき奇跡を重ねて民衆を驚かせています。けれども、ファリサイ派の人々の知性にはそうした神の業は隠されたままです。彼らが気づくのは「食事の前に手を洗わない」という些細なことに過ぎなくて、神の心であるイエスの業には目を止めません。イザヤは同じ29章でイスラエルに現わされる救いをこう語っています。18節からです。

  その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。

ファリサイ派の人々には、この約束を心待ちにするアドベントがありませんでした。取るに足らない者たちを、その些細な行いの故に切り捨て、その些細な行いを形ばかり守って自分は満足し、貧しい者たちと共にその貧しさを共有しながら神の救いを待ち望むことをしませんでした。その時、イエス・キリストを目の前にしても、彼らには躓きしか見えませんでした。

心の汚れを清めるために

 人を汚す者は食べ物ではない、とイエスは言われます。細心の注意を払って、ユダヤ人たちは汚れから身を守ろうとしました。食前に手を洗うばかりでなく、信仰のために食用に適する者とそうでないものを厳格に選り分ける、食物規定も持っていました。異邦人とは食事をしないという規則も設けていました。しかし、主イエスは「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか」と、信仰は飲み食いではないことをはっきり言われます。「外に出される」とは、敢えて遠まわしに翻訳された表現です。イエスの言葉を直接訳せば、「便所に捨てられる」です。

 人を汚すのは心の内にある人の汚れだ、とイエスは言われます。汚れた心から出てくる汚れた言葉が人を汚す。神の御心は、自分の親に対する尊敬を踏みにじって、神に仕えるというような倒錯したものではありません。御自身だけを神とせよと命じる神が、父と母を敬えとお命じになります。神が人に求めておられるのは、人が汚れない心で神に近づき、人と人とが互いに尊敬をもって愛することです。19節に列挙された悪徳は、モーセの十戒に対応しています。これらの悪徳によって人は神の心から遠ざかり、口から出る言葉によって人を汚します。イエスが批判されたファリサイ派の人々は、聖書の律法が本来教えているところの心の汚れについて、自分で気がつかなくなる程に世の力に呑み込まれてしまっていました。心の内から促される愛に基づいた細かい配慮ではなく、自分で自分を立てるために、自分や隣人を責めながら頑なに規則を守ろうとする方法では、心の汚れは取り去ることができません。ファリサイ派の人々だけではありません。キリストの教会に集う私たちも同じです。彼らの躓きは他人事ではなくて、様々な取り決めや伝統や、信仰生活の型をもった私たちにも起こり得ることです。その汚れから清めていただくために、その心の悲惨を知り、悔い改めて神に立ち返ることが私たちにも必要です。心を清めることは手を洗うように簡単なことではありません。イエス・キリストが不信仰な者のために十字架におかかりになって、神の力が聖霊を通して人の内に働く時だけ人の心は清めていただけます。私たちは、既にキリストを信じて聖霊の清めに与っていながらも、尚も汚れた心から出てくる言葉や振舞いに気づかされて、救いを必要とする貧しい者の一人です。主の到来を待つアドベントは、私たちのアドベントです。悲しみを負った多くの人々と共に、私たちもその一人であることを覚えて、神の憐れみを願いながらこの時を過ごしてまいりたいと思います。

祈り

 

天の父なる御神、私たちの信仰は、ともするとあなたの御旨と関わりの無いところで自分勝手な信心に陥り、隣人を顧みるどころか、非難の言葉によって人の心を汚す罪を犯してしまいます。どうか、聖霊の力によって私たちの思いを清め、あなたの心に近づかせてください。あなたの憐れみが現れる日を待ち望む、このアドベントの期間を、どうか、自分自身の悔い改めと、世の救いとを願う時として、相応しく過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。