マタイによる福音書15章21~28節

小犬の信仰

 

異邦人の街で

 主イエス・キリストは、同胞であるユダヤ人たちのもとを離れて、異邦人の街へと足を運ばれます。それは、エルサレムからイエスを訪ねてやって来たファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの言葉に躓いたからでした。「躓いた」ということはイエスを受け入れなかったということです。自分たちの今の在り様を変えようとしない頑なな姿勢が、聖書をそのまま生きているイエスを結局は拒んでしまうのでした。ここに現れているユダヤ人たちの拒否の姿勢は、やがて、イエス御自身がエルサレムへ赴いて行かれる時、イエスを十字架の死に追いやることで決定的なかたちをとります。また、主イエスこそ神の子メシアであると福音を告げて廻った使徒たちを迫害する、ユダヤ教会の態度へと続いて行きます。福音書記者のヨハネが、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と語る通り、救いの約束の成就として来られたキリストは、古いイスラエルの民から拒否されて、異邦人の道へと歩みを進めます。しかし、それによって世界の万民へ救いが開かれることになるのは、歴史を支配しておられる神の深い御計画でした。

 ティルスとシドンは地中海東岸に位置するフェニキアの古い港町です。2つの町が対で出てくるのは、旧約聖書の「ソドムとゴモラ」と同じで、それで一つの意味合いを持つからでしょう。マタイ福音書では11章でも「ティルスとシドン」への言及がありました。「裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む」とイエスがガリラヤの町々の不信仰をお叱りになった場面です。この二つの町は、旧約の預言者たちが対決したカナン宗教の典型的な町でした。ガリラヤ地方とも近接していてユダヤ人のコミュニティがそこにもあったろうと思われますが、マタイ福音書はこれを典型的な異教徒の町として記します。

そこでイエスは「カナンの女」に出会いました。「カナン」とは、かつて神がモーセを通じて「滅ぼせ」とイスラエルにお命じになった民族の名です。神に選ばれていると自負するユダヤ人からすれば、救われるはずもない異教徒の女性が、この時イエスに近づいて来たのでした。 

イエスはイスラエルの牧者

 「ティルスとシドン」「カナンの女」という名称に表された旧約的な背景を理解すれば、ここでイエスが示された一見、無慈悲な対応の仕方も分かるのではないかと思います。その女性は自分の娘を苦しみから救ってもらいたい一心でイエスのもとを訪れました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と彼女は叫んでいました。一回限り叫んだのではなくて、原文では「叫び続けた」という言葉遣いです。けれども、イエスは何のお答えもなさいませんでした。イエスは愛に溢れたお方ではなかったのでしょうか。弟子たちもまた、その女性を疎ましく思ったのでしょうか、「この女を追い払ってください」とイエスに懇願しました。或いは、早くこの女の願いを叶えてやって、さっさと返してしまえばいい、という思いであったかも知れません。女性の叫びに対して大声で言われたのか、弟子たちの願いに対してお答えになったのか定かではありませんが、イエスは御自身の沈黙の理由について24節で「わたしは、イスラエルの家の失われた羊の群れにしか遣わされていない」とはっきり言われました。

 イエスは、イスラエルの家の失われた羊の群れのためだけに遣わされた真の羊飼いである、ということを私たちはどう受け止めたらよいでしょうか。アドベントに入って私たちはクリスマスの福音に思いを馳せます。イエスは全世界の救いのために世に来られた神の子ではなかったでしょうか。けれども、イエスは、私はイスラエルの牧者だと言われて、娘の救いを願う女性を放っておかれました。

 先にイエスは十二人の使徒をお選びになり、汚れた霊を追い出す権能をお与えて、宣教の働きへ派遣されたことがありました。10章に記されています。その際、イエスは弟子たちに次のようにお命じになりました。

異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。(5-6節)

イエスのお働きは、囲いから迷い出た小羊を探し求めて元の家へ連れ戻す、神の羊飼いとしてのお働きです。そして、神が養われる羊の群れとは、神がお選びになったイスラエルの民です。この群れを養い、育てて来たのは主なる神であって、御言葉に背いて散り散りになったイスラエルを、やがて一つの民へと回復してくださる、との約束を、旧約の預言者たちが終りの幻として語っていました。イエスは、その神の約束を果たすために、イスラエルの民のもとに遣わされたダビデの子孫です。かつての歴史の中で、ダビデ王のもとでイスラエル王国が統一を果たしたように、エッサイのひこばえである約束のメシア・イエスが、神と契約を結んだ民を再び集めようとしている、ということが、これまでガリラヤでの働きを通して示されました。

イエスがなさった奇跡の数々は、神がイスラエルになさった救いの約束の成就です。神がイスラエルと結ばれた契約は、神の側からは決して破られない、という神の真実がイエスにおいて証しされています。それを弟子たちは理解して宣教の業に出て行かねばなりませんでしたし、また今ここで、異邦人の女性に対してとった態度を通して、弟子たちが学ぶようにされたのです。

弟子たちが心しておかねばならないことは、神の救いとは目先の救いではないということです。病気は治ったからお帰り、では済まないことです。多くの奇跡を見て、弟子たちはそう勘違いしたかも知れません。しかし、神の救いは神の御計画に基づく目的を持っています。人のそれぞれの願望が満たされることが救いなのではなくて、神の目的が果たされる時に人は救われます。その神の目的とは、イスラエルの家の回復です。神と人間との間にある契約の絆が回復されて、ダビデの子イエス・キリストのもとで、契約の民が再び姿を表すことです。

信仰による救い

 しかし、イエスは御自分から異邦人の町へと道を行かれました。弟子たちには「行くな」とお命じになりましたけれども、その本来の羊の群れが飼い主を拒否したことから、あえて囲いを破って外へと出て行かれました。そして、「カナンの女」との出会いは、弟子たちのもう一つの大切なことを教える重要な機会となりました。

 イエスに無視され、救いを拒否されても、母親は娘のために決して後へ引こうとはしませんでした。むしろ、イエスの前に出ていって、身を投げ出して拝みながら、「主よ、わたしを助けてください」と懇願しました。何故、「娘をお救いください」ではないのかとも思います。22節でも「わたしを憐れんでください」でした。娘の苦しみは私の苦しみです、という母親の愛の表れとも受け取れます。けれども、それ以上のことが彼女の言葉に現れています。異教徒であるはずの彼女は、「主よ、ダビデの子よ」とイエスに向かって叫んでいます。「主」も「ダビデの子」もイエスが聖書に約束されたメシアであることを直接言い表しています。ファリサイ派の人々や律法学者たちの口からは聞かれなかった呼び名です。また、「わたしを憐れんでください」「わたしを助けてください」との呼びかけは、イスラエルには親しい、詩編にある神への呼びかけです。異教徒であるはずの女性が、イスラエルの信仰をもって主なるイエスに救いを求めています。イエスは彼女の言葉を聞いていてそのことをご存知であったはずです。

 26節と27節で交わされるやり取りは、譬えを用いた知恵の問答のようです。イエスは母親の願いを断固として聞き入れないかのように「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになりましたが、実際には、その神の救いの現実に対してあなたはどう答えるかと問われたのでしょう。イエスはイスラエルの命を養う主です。神の子らを養うためにはイエスは5つのパンと2匹の魚を増やして五千人に振舞うこともなさいますが、一つのパンをも無駄にすることはなさいません。

「小犬」とはひどい言い草にも聞こえます。誇り高い現代人には受け入れられそうもない言い方です。しかし、母親の方はどこまでも謙虚にイエスに向かいました。「小犬」との言われように躓くこともなく、それをそのまま受け止めて「その通りです」と答えます。そして、彼女が示す知恵の中にその謙遜さと信頼が光ります。

しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。

イエスの衣の裾に触れさえすれば癒される、と信じた女性の信仰や、一言だけいただければ僕は癒されます、と信じた百人隊長の信仰にも通じる、神の力に対する一途な信頼がここにあります。また、彼女は、人のことを「犬」だなどといっていないで、さっさと救ったらどうだ、などと傷ついた自尊心をたてに噛みつくようなこともなく、パン屑を拾い食べる小犬の卑しさに甘んじる心の砕かれた人です。このような信仰者の心を歌った詩編の一節が想い起されます。

 主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。….イスラエルよ、主を待ち望め。

 イエスは彼女にお答えになりました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そして娘は癒されました。

 「立派だ」とある元の言葉は「大きい」といことです。イエスの内に神の言葉が生きていることを認めなかったユダヤ人たちは不信仰でした。そのことをまだ良く分からないながらもイエスに従っている弟子たちは「信仰の薄い者たち」つまり「小さな信仰」だと度々叱られました。けれども、神との契約の外にありながらも、一途にイエスを信じて助けを求めたカナンの女性は、「大きな信仰」だとのお褒めに与ります。「小犬」と呼ばれた人の卑しさが、その卑しさゆえに蔑まれることなく神の栄誉に与ります。イエスの弟子たちもまた、このカナンの女の謙遜に学ばねばなりませんでした。

世界に広がる新しい契約の民

 そして、この出来事が示すのは、旧約聖書の中では選びの民の敵とさえ看做された異教徒さえも、神の救いに与ることの啓示です。カナンの女性の内に真のイスラエルの信仰が見出されました。イエスを通して与えられる命の救いは、もはや古い民の垣根を越えて行きます。神による選びの民は、古い言い伝えを厳格に守っているから選ばれているのではなくて、心から神を信じるからこそ選びの民と看做されます。イエスが「イスラエルの家」に拘ったように、選びの歴史には順序があります。創造者なる神の憐れみを受けたのは、まずは貧しいイスラエルの民でした。しかし、神の永遠の御計画の中で選ばれている羊の群れは、イエス・キリストに至るイスラエルの救いを通して神を信じるすべての人々です。たとえ異教の土地に生まれた者であったとしても、聖書が証しするイエスを神の子と信じて、心から救いを求めて近づくならば、神の憐れみによって命を救っていただけます。

 神の選びの民であるイスラエルが廃れた訳ではありません。イエス・キリストへの信仰によって、神の救いをいただいた者たちが新しい契約の民となりました。私たちもまた異教の地に生まれ育っています。私たちには本来、神の子たちのパンの分け前はありませんでしたけれども、今やそうした生まれは問題ではなく、信仰によって主の食卓に備えられた命のパンをいただくことができます。イエスから「小犬」と言われて「もっともです」と答えた婦人は、その信仰が本物と認められて主の食卓に連なることが許されます。イエスを真の救い主と信じたその時から、もはや「小犬」ではなく、正当な神の子どもの一人です。イエスを信じて、新しい契約の交わりに入れられた一人ひとりが、イエスの兄弟姉妹と呼んでいただけます。その広がりはもはやユダヤ民族の枠を越えて、イエス・キリストの教会として世界全体に広がって、主の食卓へとすべての人々を招くまでに至りました。

アドベントを過ごす

 主イエスの御降誕へと向かうアドベントの期間にあって、私たちは神による救いを切望する、私たちの信仰の純粋さについて思い巡らして過ごします。「小犬」と呼ばれて素直にそれを受け入れ、しかも卑屈な人間にならずに、謙遜に神を頼りにするような、信仰の本当のあり方が、今日は一人の母親の姿を通して示されました。私たちも「憐れんでください」との祈りをもって神に近づく謙遜な心を与えられたいと思います。カナンの母親は、娘のためを思って必死にイエスに助けを求めました。たとえ自分がどんなに惨めな姿を晒そうと、娘を救ってほしいとの一途な思いと、主イエスにすがる一途な信仰とが一つになっているのではないでしょうか。神の憐れみを求める純粋な心は、自分だけの救いを求める利己心からも清められているのではないかと思います。主よ、憐れんでください―キリエ・エレイソン―との祈りは、世界の祈りです。神の救いは今世界の至る所で待ち望まれています。その祈りに合わせて、私たちの信仰も、真に神の救いに与ることのできる純粋な信仰へと導かれたいと願います。

 祈り

天の父なる御神、私たちの思いは本来の小ささを越えて神の御前に高ぶり、御子の救いを遠ざけてしまう弱さをもっています。どうか、罪深い私たちを憐れんでくださって、私たちの心を清めてください。そうして、小犬に過ぎない私たちを、主の食卓に連なる子どもとしてくださるあなたの大きな恵みに感謝して、主イエスと共に、あなたにも人にも謙遜に仕えることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。