マタイによる福音書15章29~39節

神の国の到来

 

山上の供食

 アドベントの三週目を迎えて、来週はいよいよクリスマスです。神の救いである主イエスの到来を共にお祝いしたいと願っています。神の御子は夜空に輝く星のように、救いの見えない世の中に神の救いをもって現れました。私たちの方が探し求めて発見したのではなく、神の側から行動を起こして御子による救いを用意してくださったのですけれども、救い主をお迎えするのですから、恵みを受け取る私たちの方にもそれ相応の備えが必要です。異邦人であった東方の博士たちが最上の贈り物を携えて遠方から旅をして来たように、私たちも自らをささげものとして、信仰をもってイエスに近づいて行くことが、クリスマスの祝福を受けるために求められています。

 今朝の御言葉では、イエスが再びガリラヤ湖に姿を現わされて、偉大な奇跡を行ったことが記されています。イエスは山に登って座られたとあります。そこで、イエスが多くの人の病を癒されたことは、かつて旧約の預言者たちが告げていた通り、神が予め定めておられた終末の救いの時が、イエスと共にやって来たことを告げています。神が力を発揮して人々を御許に集める、神の国がそこに到来しています。

 マルコ福音書を下敷きにこれを記しているマタイの視点では、「ガリラヤ湖畔」が意味するところは異邦人の町です。先に舞台となったティルスやシドンという外国とは異なりますが、それらと隣接してギリシア・ローマの文化的影響を深く受けている、ユダヤ人と異邦人とが入り混じる地域です。32節以下に記される「四千人の供食」の奇跡が、先の14章に記載されていた「五千人の供食」の奇跡とほぼ同じようにここに現れるのは、先の記事がイスラエルの失われた羊の群れの中で行われた出来事であるのに対して、今回の出来事が異邦人の間で示された奇跡であることを意味します。神の国は、ユダヤ人から異邦人へ、一民族から世界の民へと救いの輪を広げて行きます。

 山の上で癒しの業と供食の業が行われるのは、5章にある「山上の説教」に対応します。かつて主イエスは山の上に登り、そこに腰をおろされて、御許に集う弟子たちと群衆に神の言葉を語りました。その言葉によって、信じる者たちは神の国の到来を知り、命の回復へと向かう救いの道へ招き入れられました。この15章に記された「山上の奇跡」もまた、イエスが示される神の力ある業を通して、御国の到来が告げられ、信仰による命の道がすべての人に開かれています。

イスラエルの神の顕現

29節から31節にある「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった」出来事は、洗礼者ヨハネが生前イエスのもとに弟子たちを遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか」と質問した時に、イエスがお答えになった答えとほぼ重なります。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(11:3-6)。そして、その背後には旧約聖書にある預言者イザヤやミカが告げた預言があって、山の上でイエスが行った業は神が引き起こした世の終わりの出来事であると知らされます。その驚くべき事態に直面した群衆は、「見て驚き、イスラエルの神を賛美した」のでした。

「イスラエルの神」とあるのは、異邦人世界に対しては特別な意味を持ちます。「天地を造られた神」でしたら、世界の各地に創造神を崇める宗教が存在します。けれども、「イスラエルの神」はただお一人だけです。旧約聖書に書き記された、選びの民イスラエルの歴史を通じて御自身を現わされた神です。イエスの行った癒しの奇跡が素晴らしいから、人々は神を信じた、というだけではありません。自分を病の苦しみから解き放ってくれるならばどんな神でも構わない、との辛い思いを持っている人もあるかと思います。けれども、真に赦しを与え、この世の苦しみから解放することのできるお方は、イエスにおいて力をお示しになったイスラエルの神をおいて他にありません。昔からイスラエルの民に言葉を与え、人の歩む正しい道をお示しになった神は、救いの約束を忠実に果たすことで、すべての人の希望となられたお方です。クリスマスは人の心を映すメルヘンではなくて、このイスラエルの神の啓示であることを覚えたいと思います。私たちもイエスのなさったすべての業を思い起こして、イスラエルの神をほめたたえたいと思います。

異邦人に対する神の憐れみ

イエスを求めて山に登った群衆は、三日間の間イエスのもとに留まっていました。そこは荒涼とした場所で、弟子たちがパンを買い求めようとしても何もないようなところでした。やがて、弟子たちはこの三日間の苦しみをイエスと共に味わいます。イエスが逮捕され、十字架で処刑されて、三日目に甦るまでの間、弟子たちは罪と死の重さに打ちひしがれて、霊の渇きに苛まれます。けれども、三日の後、復活されたイエスは弟子たちのところへやって来られて、彼らに命の息を吹き込んでくださいました。イエスを求めて山に登った群衆は、救いのために三日間の空腹に耐えねばなりませんでした。イエスは失われたイスラエルの羊の群れのために遣わされた牧者であるから、異邦人には分け前がないのか、という問題に対しては、先にカナンの女性がそうではないとの答えをイエスから引き出していました。イエスは、信じて求める群衆の苦しみを知っておられ、深い同情をもって「群衆が可哀そうだ」と言われます。「可哀そうだ」との言葉は、度々紹介しますように腸がちぎれる思いがするとの表現です。人の苦しみを見て体に痛みを覚えるような、深い同情の示し方です。そうした憐れみに基づいて、イエスは四千人の人々をパンと小魚で養われました。前にも触れたとおり、四千人とはそこに居合わせた男性の数ですから、子どもや女性を含めますと実際は数倍の規模になります。イエスの祝福は、僅かなものを必要以上に十分に増やし、飢えたすべての人を満腹させました。

数字のマジックにはあまり引き込まれない方がよいと思われますが、五千人の供食との間にある違いについては、幾らか推測することが可能です。五千人と五つのパンはモーセ五書に因んだ5という数字でユダヤ人を表し、四千人の4は世界の四方を表し、7つのパンの7は使徒職を補佐して異邦人改宗者の食事のするために選ばれた7人の執事と符合するため、4と7は異邦人を象徴する、という説明があります。

イエスは、異邦人である群衆をも深く憐れんで、それらの者たちのために、終末の宴である主の食卓を開いてくださいました。イエスの祝福に与るのは、主の言葉を求めて集う群れ、そして、主の力ある業を求めて集う群れです。世に来られたイエスのもとには、すべてのものの命を十分に養うだけの豊かな祝福が蓄えられています。信仰をもってイエスに近づくものは、ユダヤ人であれ異邦人であれ、その出自がどのようなものであっても、この主の食卓に受け入れていただけます。

イエスは誰を憐れむか―クリスマスに寄せて

救いの見えない世界で、救いを待ち望んでイエスのもとに集い、そこに留まる人々に、神は惜しみない祝福を与えてくださいます。それは、私たちの困窮を御存知の神の憐れみに基づくものです。イエスの足元に投げ出された病人たちは病を癒していただきました。三日間、イエスのもとに留まり続けた群衆は祝福された食事で飢えを満たしていただきました。イエスの憐れみは罪の困窮の中にある私たちに対する神の憐れみの表示です。

 ここで、私たちは自分自身のことを振り返ってみます。イエスが心を動かされたのは、自分の困窮を知るが為に山の上におられる御自身のもとへ集ってくる健気な人々によってでした。これらの人々のことを聖書では「貧しい人々」と言います。聖書の「貧しさ」は経済的な貧困ばかりを意味してはいません。それは生きることの難しさに直面したすべての人々を指しています。健常者として一定の水準と平穏が確保された暮らしをしていて、生活の不便や心の不満ばかりを神に申し立てるようになっている時に、果たしてそういう信仰でイエスの心は動くだろうかと心配になります。「あなたの信仰は大きい」と主イエスに評価していただいたカナンの女性は、真の信仰者のひな型を作ります。小犬のような私だからこそ主の食卓からこぼれ落ちるパンをいただくのです―そんなふうに自分の姿の真実を神の前にさらけだした人が、神に憐れんでいただくのに相応しいのではないでしょうか。勿論、ふりをしても始まりません。「あの人は謙遜ですね」などと人に評価されても神はすべてを御存知です。心の底まで御存知の神を前にして、「憐れんでください」と真実に叫ぶことのできる信仰だけが、イエスの言葉と業を神の力の顕れとするのではないでしょうか。私たちは自分の罪のゆえに貧しい者であることに気づかされて、社会の歪みに落ち込んだ世の貧しい人々に近くある所でしか、神の憐れみに触れることは無いのだと思います。

 今日は衆院選挙の投票日ですけれども、私たちが日本の政治に求めるものは一体何かと考えます。もし、今回の選挙で日本の社会が相変わらず富める者の利益のための政治を志し、貧しい者を見離す社会を選択するのであれば、この国は神の憐れみの対象からは外れることになるのではないかと思います。原子力発電所は一体誰の利益のために造られて来たのでしょうか。安全の確保がされないまま、放射能汚染に晒されることになったフクシマ他の地域は、沖縄と同じく損な役割をあてがわれたまま、結局は「周辺」として、見捨てられ続けていくのではないでしょうか。私たちはこの世界で貧しくされた人々と共に生きる社会を目指すのでなければ、イエスの心を動かすことはできない。神の憐れみによって命を確保することはできないでしょう。

 クリスマスが到来した場所はどこであったかと思います。約束の言葉を与えられながらも、満たされた生活の中で真剣にメシアのことなど考えなかった人々のところは、最初のクリスマスは通り過ぎて行き、御子イエスは貧しさを纏って地上に降り立ち、飼葉桶の中に力の無い赤子として寝かされました。本当に救いが必要である人の処にだけクリスマスは真実として訪れます。教会はイエスが心を動かされるそこにこそ立っています。神の憐れみを受けるに相応しく、罪を悔いる心で自分の貧しさを知って、確かな救いを求めてイエスに近づく私たちでありたいと願います。その時、イエスが私たちの命を配慮し、神の祝福をもって答えてくださいます。聖餐式の食卓が、私たちの命を養うものとなります。次週訪れるクリスマスを、そうした真実の信仰をもって受け取りたいと思います。

 祈り

 

天の父なる御神、あなたが主イエスの言葉と業においてお示しになった救いの力を、私たちが真の信仰をもって生活の中で受け止めることができるように、聖霊の助けをお与えください。私たちの暮らすこの日本の社会が、あなたの憐れみを受けるのに相応しくあることができるように、己が弱さ・罪深さに目覚めさせてください。キリストの教会が、あなたの心を動かす人々に近くあって、あなたの祝福を受け止める器となることが出来るように、道をお示しください。次週、共に迎えるクリスマスを、自分自身の貧しさの中で、真に救いとして受け止めることができ、あなたの憐れみに感謝することができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。