マタイによる福音書16章1-12節

誤った教えに注意する

 

 イエス・キリストが世に来られましたのは、天の神が御自分のお創りになったこの世界を憐れんでおられて、罪のために苦しむ私たちを永遠の命の中へ解放してくださるためでした。聖書に記されているイエス・キリストのなさったことは、すべてそのことを証ししています。イエス・キリストの内に神の力が働いていて、多くの人々が病を癒され、罪の赦しをいただいて、この世の苦しい現実の中にも生きる力を与えられました。そういうキリストの救いを、聖書の御言葉に触れて、今も多くの方々に受け取ってほしいと心から願うのですけれども、見えないものを信じるということはなかなか難しいものでして、人の信仰とは人の思いのままにはならないものと思わされます。これは案外、教会へ通い始めても信仰が確かにならないということがあるのでして、洗礼を受けてキリスト者になってからも、救いを確かにするために聖書の言葉に聴き続ける努力が欠かせません。今日の箇所でも8節で弟子たちが主イエスから「信仰の薄い者たちよ」と言われまして、こっぴどく叱られているのですけれども、そういう拙い歩みをしながらも、それでもイエスを信じてついていくのがイエスの弟子たるキリスト者なのだと思います。私たちにとって注意しなくてはならないのは、そんなふうにイエスに叱られるなどということを考えてもみなくなってしまうような自分の信仰についての驕り高ぶりであって、私たちは聖書の導きに従って、いつも自分の信仰によく気を配っていることが求められます。

 ファリサイ派の人々と並んで、今日の箇所ではサドカイ派の人々がイエスを試みる者として現れます。どちらも旧約聖書の教えを説くユダヤ人のグループです。日本語訳では「~派」と教派・宗派を指すような表記で定着していますけれども、当時のユダヤ人たちは皆がどこかの教派に属さなければならなかったことはありませんでした。ユダヤ人歴史家のヨセフスによれば、それらは「哲学」と呼ばれていまして、人々はファリサイの教えや、サドカイの教えなど様々な教えに耳を傾けながら、それぞれにユダヤ人として聖書の律法を重んじる生活をしていたようです。そういう中に、イエス・キリストは弟子たちを従えて、御自分の教えをもって来られました。

 ファリサイ派というのは民衆の間に基盤を置いた戒律を重んじるグループで、聖書の教え以外にも先祖から受け継いだ伝承や民間に広がった伝説の類をもっていました。ファリサイ派の中にも厳格な教師たちと寛容な教師たちが色々ありましたから、よく解説本などにありますように、ファリサイ派はともかく戒律主義でがんじがらめだなどと思い込まない方が無難です。新約聖書で彼らが敵視されるのは、イエス・キリストに顕わされた神の啓示を彼らが拒んだからでして、ファリサイ派やサドカイ派のユダヤ人たちの皆が皆、偽善者で悪辣であったわけではありません。後にそこから悔い改めてキリスト者になったユダヤ人たちも多くありました。

 サドカイ派というのはファリサイ派に比べますと上流階級に属する人々のグループで、主に神殿で要職につく祭司たちがそこに属していました。ユダヤ人コミュニティーを統括するサンヘドリンという名の議会に多くの議員を送り込んでいるのもサドカイ派のグループでした。聖書の理解の仕方は保守的で、律法だけを重んじて神殿制度を支えていましたから、預言者たちが語った「復活」などは信じませんでしたし、むしろ知的には洗練されていてギリシャ・ローマの文化にも親しんでいました。

 そのような両者ですから、本来は仲良く手を組んでイエスの前に登場することはないはずですけれども、大衆の人気をさらってしまったイエスを共通の敵と看做すことで結託して、この後、イエスを十字架による処刑へと追い込んで行きます。

 ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々は、イエスを試そうとして天からのしるしを求めました。これと同じような状況は既に12章にありました。サドカイ派はいませんでしたけれども、律法学者とファリサイ派の人々が同じようにイエスの前にやってきて、しるしを見せよと迫りました。その時にお答えになった「ヨナのしるし以外にはない」というイエスのお答えも、今日の箇所と共通しています。

 イエスを試そうとして、天からのしるしを求めるような態度は、福音書が初めの方で記していた出来事を想い起させます。それは4章の初めに記されている、イエスが荒れ野でサタンの誘惑に遭われた出来事です。「石をパンに変えてみろ」とか「神殿のてっぺんから飛び降りて見ろ、そうすれば天使が支えてくれるだろう」とかの要求は、まさに天からのしるしでした。イエスに反対するユダヤ人たちの要求は、実にサタンの求めるものと同じであった、ということになります。

 ファリサイ派・サドカイ派の人々からすれば、それは自分の信仰を正当化するためでした。神の僕である預言者が奇跡を行うのは、旧約聖書に記されたモーセやエリヤなど預言者たちの伝統でした。イエスが天からのしるしを伴ってユダヤ民族のために立ち上がり、エルサレム神殿の勢力を世界規模に高めて、周辺諸国を力でねじ伏せるのであれば、彼らはイエスをメシアと仰いで服従したかも知れません。けれども、それは彼らの願望であって、イエスに顕わされた神の救いの道筋とは違います。ファリサイ派・サドカイ派の人々は聖書によく通じていたはずです。けれども、彼らは自分たちの信念や立場に凝り固まってしまい、イエスに顕わされた時のしるしを、天からのしるしとは認めませんでした。

 イエスは既に民衆の間で様々な奇跡を行っていました。今日の直前の箇所では、1531節で次のようにまとめられていました。

  口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった ....

そして、五千人の供食に続いて、四千人の人々が僅かなパンと魚で満腹するという大きな奇跡が行われました。神が沙漠でイスラエルの民を天からのマナをもって養われたという奇跡に匹敵するようなこの出来事をしても、また、終りの時のしるしとして預言者たちが語った、癒しの出来事を目の当たりにしても、自分たちの要求に適わないしるしはファリサイ派・サドカイ派の人々にとっては天からのしるしにはなりませんでした。サタンがそこで働いて、イエスを神の子・救い主と見えないようにさせていた、という他はありません。

あなたたちは、夕方には、『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。

辛辣な言葉がイエスに反対する人々に投げかけられました。この敵対者たちは、神の御計画の中では、イエスを十字架につけるために目を塞がれて、サタンの手に引き渡されてイエスのしるしを見えなくされたのだ、とも言えます。けれども、そうした人の手の届かない深い神の御計画と、その場に臨んでいる人々の責任は、互いに相反するものではありません。ファリサイ派・サドカイ派の人々の態度に現れているのは、イエスに敵対するものとして私たちを雁字搦めにしている、古い習慣や制度や価値観、哲学などです。この世の移り変わりについて目敏く感を働かせる知恵が身についていたとしても、それで、神が語っておられる「時のしるし」を見分けることはできません。イエスの内に神の力を見たかどうかは、イエスの御業に触れた一人ひとりが信仰によって答えて行かなくてはならないものです。

神がいるのなら証拠を見せよ、救いがあるならば証拠を見せよ、と世の中は要求するかも知れません。目に見える証拠がなければ神についても救いについても誰も確かなことは言えない、と、宗教は遠ざけられるかも知れません。しかし、そのような時代に対して、イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と言われます。証拠は、「ヨナのしるし」をおいてほかにはありません。「ヨナのしるし」とは、12章で語られていますように、イエス・キリストが十字架で死んで葬られた後、三日目に復活されたことを指しています。イエス・キリストの復活を証言する聖書が、今私たちが神を信じる時に手掛かりとする唯一の証言です。

 ファリサイ派・サドカイ派の人々を後に残して、イエスは弟子たちをガリラヤ湖の対岸に導いて行きます。これは敢えてイエスが、弟子たちを彼らから分離させた恣意的な行動でしょう。そこでの教えが続きます。

イエスを救い主と信じて従って来たとは言え、弟子たちの信仰もまた当初は覚束ないものでした。イエスは向こう岸に置いて来た人々について弟子たちに教えられて、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と警告されました。弟子たちもみなユダヤ人ですから彼らの教えを知っていたはずです。ですから、それらの古いパン種によって、イエスが誰であるかを見誤ることがないようにと、予め警告がなされました。ところがここで明らかになったのは、弟子たちの軽率さでした。弟子たちはイエスの話を聞いて、その意図を汲み損ねて、「パン種」を文字通りのパンと取り違えました。その理由は、パンを買い忘れたという自分たちの目先の失態に気をとられていたせいでした。節以下のお叱りの言葉にありますように、パンのことならイエスと一緒にいれば心配する必要はなかったはずです。つい先だって四千人の供食に立ち会ったのですから。けれども、そういうイエスの奇跡も、弟子たちには人生の変わる様な体験にはならず、彼らは相変わらず目先のことや腹のことで頭がいっぱいで、イエスの教えに神の声を聞きとることができませんでした。

 この弟子たちの姿から教えられるのは私たちの世俗性です。神のことよりも人のことが気がかりで、この世が終末を迎えて神の裁きが始まるなどということよりも、今日のランチは何にしようかと腹のことが気になってしまう、どうしようもない私たちの視野の狭さです。ある意味、これはファリサイ派・サドカイ派の人々の態度と共通します。彼らもまた、イエスに顕わされた時のしるし、そこで神が私たちの現実の生活に直接手を触れて来られたことを真剣に受け取ることなく、死に定められているこの世界の中での小さな自分の生き方にあくせくもがいているだけの憐れな人の姿です。イエスはこうした弟子たちをお見捨てにはなりません。だから「信仰の薄い者たち、まだ分からないのか。覚えていないのか」と叱責されます。ちゃんと私を見なさい、との促しです。

 イエスは先に13章で種まきの譬えを話されて、石地に蒔かれて根がないために枯れてしまった種や、茨が塞いで成長できなかった種に例えて、不信仰な時代のありように触れておられました。実に、イエスに従った弟子たちもそのような拙い信仰から始まっています。人の心には初めから宗教の種が植わっている、とは宗教改革者のカルヴァンが言ったことです。誰しも信心はあって、それを尊ぶ土壌があれば幾分芽を出すことも可能です。けれども、今、私たちが生きる時代は、人の罪に対する神の裁きが明らかにされた時であって、誰もが自分のいのちの在り方を神の前ではっきりと定めなくてはならない、終りの時代です。それが、私たちが見分けなくてはならないイエス・キリストに顕わされた時のしるしの指し示すものです。イエス・キリストは御自身の十字架で罪に対する神の裁きを示されました。そこに顕わされたのは、神に見捨てられた者の死にゆく姿です。キリストは、いわば人類の代表として十字架で死なれました。そこに私の姿を見出す者は、しかし、その意味を知って救われます。つまり、イエス・キリストは私の代わりにその十字架についたのであって、それを神の子による犠牲の死と信じて神の赦しを受け取る者は、やがて、キリストと共に復活の命を受けることになります。「ヨナのしるし」は、死にゆく私たちに示された、復活の命の希望です。その他に、しるしを求める必要はない、とイエスは仰ったのです。イエスがすべての人に問うておられるのは、真の信仰です。それを否定して得るものは一体何か。自分の立場や対面か、今の安定した暮らしか、または、人から馬鹿にされたくないという自尊心か。けれども、そうした自分も、やがてはすべてを捨ててこの世を去らねばなりません。静かに、周囲の人々に看取られて幸せに死んでゆくのが人の理想かも知れません。けれども、聖書が告げている人の死に様は十字架です。生ける神の前で裁きを受けて死んでいく罪人の姿です。その死をまぬがれることのできる人は一人もいない、というのが聖書の告げる真実です。聖書の福音は、今や世界に向けて公に語られています。それは、福音ですから良い知らせです。キリストは死者の中から復活した。それが、神がこの世界に示されたかけがえのないしるしであって、誰もがこの福音を聞いて、命の復活に希望を持つようにと招かれています。

 信仰の薄い弟子たちのところに復活した主イエスは姿を現わしました。パウロの証言するところでは、500人以上の者が復活したイエスに会ったということです。私たちが聞くのは、今は聖書の証言だけです。ですから、私たちはその復活の証言を信じるかどうかが、選択の分かれ目です。それ以上の証拠は必要ない、とイエスが言われるのは、ヨナのしるしを運ぶ聖書の言葉が、私たちを確かにイエスの復活に結んでくれるからです。この後、弟子たちはフィリポ・カイザリアでイエスに改めて信仰を問われます。「あなたがたは私を何者だと言うのか」。ペトロが答えて「あなたはメシア、生ける神の子です」と真の信仰の告白をしました。イエスはその命をもたらす告白に導くために弟子たちを伴って行かれます。彼らのために十字架で御自分の命を捨て、罪の赦しを得て、復活の栄光をお受けになります。復活したイエスに出会った弟子たちは、もはや「信仰の薄い者たち」ではなく、身も心もイエスのものになって、復活の福音を宣べ伝えつつ生きる真の信仰者になりました。救いの道は、こうして確かに教会を通してこの世界に開かれています。イエス・キリストは多くの人々をここに招きつつ、私たちを終りの復活に導いてくれます。信仰を確かに、イエス・キリストへの眼差しを確かにしつつ、世の中の風潮や生活のしがらみに惑わされないで、終りの復活を目指したいと願います。

祈り

天の父なる御神、私たちに、主イエスを真の救い主と信じる、確かな信仰をお与えください。あなたがキリストを死者の中から復活させた、生きて働くその力を終りまで信じさせてください。あなたが聖書に明かされた真実を見えなくする、世の様々な誘惑から私たちを守り、いよいよ熱心に御言葉に学び、福音を宣べ伝える働きに私たちを送り出してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。