マタイによる福音書16章13-20節

岩の上に立つ教会

 

 ガリラヤの北東にあたるフィリポ・カイサリアでの出来事です。イエスは弟子たちに向かって「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と改めてお尋ねになりました。イエスがこのことをお尋ねになったタイミングは、これからエルサレムに向けて受難の道を歩み始める、その最初に当たります。弟子たちはこれまで、イエスの公の働きに同伴して、神の国が到来した事態を目撃しました。イエスは世の貧しい人々の間に身を置かれて、多くの奇跡によって神の憐れみをお示しになりました。そこで弟子たちの信仰を確かめた上で、これから十字架に上る受難の道行に彼らを伴って行かれます。

 イエスの言われる「人の子」とは、言葉通りですと「人間」という意味ですが、通常イエスが御自身を指して用いる言葉です。その意味合いは、ダニエル書に記された終末の審判者を表します。聖書を信じるユダヤの人々の間ではそうした「人の子」の到来が待ち望まれていました。

イエスの問いに答えて、弟子たちは人々の評判を幾つか取り上げて紹介しています。ある者は「洗礼者ヨハネだ」と言いました。洗礼者ヨハネは領主ヘロデによって既に処刑されていました。けれども、ヘロデ自身がイエスの噂を聞いて「洗礼者ヨハネが甦った」と恐れたように、ヨハネを神からの使者として恐れる人々は多かったのでしょう。ある者は「エリヤだ」と言いました。旧約聖書の列王記に記されたエリヤは死せずして天に昇ったカリスマ的な預言者でした。マラキ書の預言には終末の審判時に神が預言者エリヤを遣わすと語られている箇所があります。また、ある者は「エレミヤだ」と言いました。旧約聖書の「エレミヤ書」に描かれている受難の大預言者です。ユダヤ人たちの間にはエレミヤの再来を記した書物が幾つか登場していました。「預言者の一人」とは、名前は特定しないけれどもそうした旧約の預言者が甦った、ということです。

イエスの評判を聞いて人々が思いめぐらした「人の子」の姿は、聖書に基づいてはいながらも、確証のない、不特定のものに過ぎませんでした。弟子たちはそうした当てのない風評の中で、自分たちの見聞きした事柄に基づいて、イエスに対する自分の見解を求められます。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエスは弟子たちに問いかけます。すると、ペトロが弟子たちを代表して答えました。

あなたはメシア、生ける神の子です。

言葉の調子から言いますと、他でもない「あなたが」メシア、生ける神の子です、との答え方です。旧約に約束された審判者である「人の子」は、かつて地上に姿を表した預言者たちではなく、今目の前におられるイエスその人であって、イエスこそがメシアであり、永遠に生きておられる神の子である、との信仰告白です。「メシア」とは「油を注がれた者」という意味で、旧約の時代に神に選ばれた預言者や王や祭司たちが任職を受ける時に頭に油を注がれたことに由来します。ですから、神に任命されて民の救済に当たる者、ということです。これがギリシア語になりますと「キリスト」となります。「生ける神」とは、神が生きておられるのは当然のことですけれども、人が神を信じると言いながらも神を畏れずあたかも神が死んでしまったかのように振舞う人の態度の前で強調して述べられる言い方です。生きておられるから、黙してはおられない。裁きをもって地上に臨まれる、という信仰の表明になります。そのように、今生きて働かれる神の子であることを、ペトロは弟子を代表して告白したのでした。

 この答えを聞いて、イエスはペトロの本名を呼んで祝福をお与えになりました。ペトロの本名は「ヨナの子シモン」です。ユダヤ風に言えば、シメオン・ベン・ヨナ、でしょうか。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」(17節)。イエスはペトロの信仰告白に対して祝福をお与えになります。私たちは今朝、この御言葉から教会に対する導きを与えられたいと願っているのですが、教会の基礎はまず、神の子イエス・キリストへの真の信仰告白です。ペトロの人格が、この時にキリスト者として完成したということではありません。ペトロは他の弟子たちと共に「小さい信仰のものたち」とイエスに言われたままですし、この信仰告白をした後すぐにも「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱責されてしまいます。弟子たちはそうした拙い信仰のまま十字架への道行をイエスに従って辿ります。けれども、その出発点には、イエスの言葉と業を通して天の神を仰ぎ見、聖書の約束に忠実に従って地上に救いをもたらしてくださる、御子の啓示を受け取る信仰があります。「では、あなたがたは私を何者だと言うのか」とイエスに問われて、他人がどのように言おうとも、「あなたは神の子キリストです」と心から信じて告白できる信仰から、キリストの教会は立ち上がります。

 イエスは続けてペトロにこう言いました。

あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

ペトロがイエスの内に神を見、正しく信仰告白に導かれたのは、ペトロの人間性が為せた業ではなく、神の啓示による、とのことです。つまり、弟子たちの信仰告白は、信じようという決心の類ではなく、神の啓示を真実と受け入れ、その真実を真実と告白し、その真実に生きる自分を正しく認識することにあります。「命を捨ててもイエスに従って行くぞ」という血肉による弟子たちの決意は、この後、十字架を目前にして脆くも潰え去ってしまいます。そして、彼らが再び立ち上がることができたのは復活のイエスに出会って神の力を信じたからです。私たちが今、神の啓示に触れるのは聖書の福音を通して以外にはありません。福音に示された十字架と復活のキリストが、真の神の救いであることに目覚めさせられて、「あなたこそ生ける神の子キリストです」との告白をなすところに神の教会がつくられます。

 さらにイエスはペトロに次のように言われました。

  あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

ペトロがここで個人的に評価されたことで、ローマ・カトリック教会ではローマ教皇が代々ペトロの監督権を受け継ぐと理解しています。ペトロがその後、使徒的教会を形成して行く中で果たした役割を考えますと、主イエスがここでペトロ個人に語られたことは重大な意義がありますけれども、そのペトロに与えられた教会の権能がその後ローマ教会の監督に委譲されたという見方には歴史的な根拠はありません。むしろ、主イエスはこの時ペトロに、その後の教会での中心的な役割を認めながらも、教会を治める権能は福音の証言者である使徒職全体にそれを与えたと見る方が妥当です。この段落は始めと終わりに明らかなように、イエスと弟子たちとの間で交わされた問答です。ここにカトリック教会とプロテスタント教会の教会観の違いがあることを一言述べて置きます。

 シモンに「ペトロ」もしくは「ケファ」というあだ名をつけたのは主イエスでした。「岩」を意味するその呼び名は「頑固者」をも指しますが、主イエスがそこに託された思いはここで真実が明かされます。それは、彼の口から出た、岩のごとく揺るがない信仰告白です。先程も言いましたように、血肉は揺らぎます。人の決心は心もとありません。しかし、彼が述べた告白の言葉は、神の啓示を映し出すものです。その言葉は、キリストに現わされた神の確かな真実です。ですから、それは岩のように揺らぎません。もともと聖書では「岩」という語は、神への絶大な信頼を歌う時の譬えです。岩、櫓、盾、避け処、と、神による保護が詩編で歌われます。イエスはペトロの口から出た、この「岩」の上に教会を建てると言われました。それは使徒たちのキリストに対する信仰告白ですが、それが岩のように揺らがないのは神の真実であるが故です。キリスト教会の基盤にあるのは、こうして、イエス・キリストにおける神の真理の啓示と、それを真実として受け止める使徒たちの信仰告白です。私たちの教会の基盤を形づくるのも、それと同じ、イエス・キリストを証しする聖書と、それを真理として告白する使徒的教会の信仰告白です。

 イエスはこのように言っておられます。

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。

キリスト教会とは、キリストのお建てになった教会です。人間が勝手に自分の思いで必要に応じて集まったサークルが「教会」ではありません。ギリシア語では「エクレシア」と呼ばれます。それは「召集されたもの」という意味です。ギリシア語の旧約聖書では神との契約に臨んだイスラエルの集会にもこの語が用いられます。教会は神が呼び集めたものですから、人が自分の好みであってもよい、なくてもよいと論じるものではありません。

 今日のように聖書が教会を離れて巷に流布するようになった大きなきっかけは、19世紀に英語に翻訳された印刷聖書が、直接教会からではなく、「バイブル・ソサイアティ」という団体を通じて出版されるようになったことが一つ挙げられます。日本にも「日本聖書協会」が今日でも聖書の発行をしていますけれども、それは聖書を通じた宣教に絶大な効果をもたらしたと言ってよいものです。聖書はあらゆる言語に翻訳され、あるところでは無償で配布されるに至っています。しかし、そこから生じた弊害は、聖書が個人の読みものとなることで、必ずしも教会とは結びつかないものになってしまったことです。聖書の真理に触れて神の救いを受け入れるのは個人の魂に違いありません。しかし、人の思いとは別に、神がキリストの救いを通して計画されたことは、救われた魂をキリストに結んで、この地上に教会をつくることです。そのことが聖書には当たり前のように記してはあるのですが、そうした部分は飛ばして、自分の関心のある部分だけが読まれてしまうのでしょう。教会を重視しない「信仰」のようなものが現れてしまいました。

 けれども、今日の御言葉でも明らかですが、主イエスは「わたしが教会を建てる」と言っておられます。その恵みは絶大です。「陰府の力もこれに対抗できない」。「陰府の力」とは新共同訳の意訳で、「陰府の門」とあるのが元の言葉遣いです。「陰府」とは死者の国を現わす聖書の表現で、「門」は複数形ですから、「陰府の力」とは「死の国」「死の勢力」ということになります。つまり、人間の運命は死の勢力とキリストの教会に表される「神の国」「命の勢力」との狭間にある。滅びゆく世の定めとしては、罪のために誰もが死の勢力に勝てはしないのだけれども、キリストのお建てになる教会は、キリストの十字架による罪の赦しと復活の力によってもはや死を打ち破っているため、もはや死の力は及ばない。そういう領域、そういう国にも例えられる場所がキリストの教会である。確かに、私たちが受け継ぐプロテスタント信仰は、教会さえも罪ある人間の集団・制度として腐敗するということを見抜いて、中世の教会を批判して別の道を辿り始めたのですけれども、キリストが教会をお建てになり、そこに秩序を与えて、天国への門を地上に開き続けるということは、聖書に則して信じ続けています。宗教改革が目指したのは教会改革であって、聖書に基づくキリスト信仰を根本から変えたわけではありません。私たちは、ですから使徒たちから受け渡された福音に基づく信仰を確かにして、確信をもってキリストの教会に連なることが出来ます。教会に躓く人は、人間に躓くのだと思います。ですから、主イエスはペトロに、あなたにこのことを現わしたのは血肉ではない、と予め仰ったのでしょう。教会を建てるのは欠けの多い人間の自分本位な熱心ではありません。天の父が、御言葉を通して御自身の御旨を明らかにし、イエス・キリストを真の神の子と信じる信仰の告白を教会に為させることで、教会が教会として立ち上がります。教会が身にまとう罪の汚れや交わりの拙さは、その信仰告白を真正に保つ努力の中で、教会の霊的・制度的・倫理的刷新という形で現れて来るもので、キリストがお建てになった教会がもはや不必要になることはありません。むしろ、世の終わりにはキリストの教会が真の完成をみて、もはや不明瞭ではない、生ける神の子の治める神の国が実現します。

 19節では、さらに主イエスがペトロに教会の権能を与えておられます。

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

「鍵」は複数形でして、これは家の管理人が幾つもの鍵を持ち歩いて家全体を管理する務めを担っていたことに対応します。つまり、ペトロを代表とする使徒たちには、キリストから天国の管理が任されています。「鍵」ですので、それは門を開け閉めする権限を表します。ですから、誰が天国に入るか、締め出すかを定める権限が地上の教会に与えられているということです。そして、「つなぐ」「解く」という権能についていえば、これは当時のユダヤ教のラビたちの言葉づかいに対応していて、「つなぐ」とはある行為を禁じること、「解く」とは許可することを表します。つまり、地上の教会で規律を形づくる権能が天から与えられている、ということになります。

こうした主イエスによる権能の付与によって、キリスト教会では洗礼を受けたり、聖餐式に与る許可を与えたりします。また、戒規を執行して、キリストに対する不従順を示す会員が聖餐式に与ることを禁じたり、洗礼によって保証された教会員としての資格をはく奪することもあります。それは、キリストの名によって行われる権能の行使で、地上の教会には人の救いを左右するそれだけの権限が与えられていることを私たちは畏れをもって受け止めなければならないことです。私たちはこうした制度的な教会の在り方を、主イエス・キリストから受けたものとして尊びながら、主がお建てになる教会に召されて神に仕えます。

ここからしますと、人は誰でも心で信じれば救われる、という類の安易な信仰の受け止め方には、キリストの権限は及んでいませんし、魂の救いについての何の保証もないことになります。つい先だって、1月8日の日曜日でしたが、元東京恩寵教会の牧師でありました榊原康夫先生が天に召されました。81歳でした。榊原先生は改革派教会創立の第二世代に当たる先生でしょうか、改革派教会の内外で、また神学校や研修所でも教鞭をとられて、長く私共の教派を導いて来られた優れた教師でした。先生のお働きは実に多岐に渡りますけれども、特に聖書研究に力を注がれまして、書かれた多くの注解書や説教集が日本のキリスト教会の発展に貢献して来ました。榊原先生が40年前に出版された『マタイ福音書講解』を今も説教の準備のために参照しています。綿密な釈義を施した説教集です。もう絶版ではないかと思います。今日の説教箇所はそこだけ抜き出して丹念に読む価値のある教会論です。その終りで、次のようなことが述べられているので紹介します。

日本のプロテスタント教会には、天国と地上教会とをすっかり切り離してしまい、教会の鍵は天国のかぎ穴にはまらぬかのように考えている人々がいます。教会が使徒的教えの真理に基づいて教え、規則を定め、その違反を戒規する権能が、地上だけのままごと遊びであって、天国にはそれとは無関係に入れるかのように考える傾向があります。その為に、わたしたちは救いの確信において不要な不安に陥ったり、自分の犯している罪の自覚おいてあまりにのんきすぎたり、説教における警告や教会の訓練に、最後の審判で聞く神の宣告に対する恐れを予感することができません。要するに、クリスチャン・ライフが非常に抽象的で宙に浮きすぎています。聖書は、たとえばコリント教会というものを考える時、「コリントにある神の教会」と考えています(1:2)。具体的にコリント市内にあった一つの教会、恐ろしい道徳的腐敗と分派争いで混乱の極みにあった教会―それでも、それは「コリントにある神の教会」なのです。わたしたちの所属する現実の教会、一つの町の何丁目何番地かにある具体的な教会―それをわたしたちも、キリストが建て、キリストが支配しておられるキリストの教会、神の教会と信じ、愛すべきであります。

実際にこの説教がなされたのは1960年代前半です。それから50年経っているのですけれども、このメッセージは少しも古びた感じがしません。つまり、それだけ日本のプロテスタント教会は、教会的自覚において進歩していない、むしろ、後退しているのではないかとさえ思える現状です。日本キリスト改革派教会は、まだ日本に真の告白的教会を建て上げるための途上にあるのに過ぎず、聖書に基づく使徒的信仰告白に丹念に学びながら、それを自らの告白として生きる教会の建設に力を尽くさねばならない召しの中にあります。私たちの教会が今伝道所から教会へ独立しようとしているのは、そういう召しへと自覚的に一歩あゆみを進めることです。キリストが教会を建てる、と言われるならば、わたしたちはそれにどう応答するのか。キリストが私たちにお与えになる教会を治めるための権能を、十分に生かし、それによって天国の門を開くのに相応しい賜物を熱心に求める必要があると思います。また、教会がそこに集う人間の故にではなく、神の教会であるが為にここに確かな救いがあることを信じる、信仰の告白が必要です。主イエスは真の信仰告白をもって近づくペトロに「幸いだ」との祝福を与えました。悲壮な決意は弟子たちが後で陥った肉の思いに違いありません。主に従う決心は、いつも確信に満ちた、祝福された出発です。今日はこの後、私たちの総会の時を持ちますが、これから一年の私たちの歩みがそこで決定されます。キリストが御自身の教会をお建てになることを心に留めて、私たちに相応しい献身の思いを会議に表したいと願います。そうして、今年の歩みの上に、主の祝福を確かに受け取るようにしたいと思います。

祈り

 

天の父なる御神、御子キリストが私たちの主であられて、この教会に集めてくださり、私たちの拙い信仰の歩みの上にも、御言葉と聖霊の豊かな導きを与えていてくださいますことを心から感謝します。あなたが主の名のもとにお建てになりました教会が、そのように尊ばれて、主イエスから与えられている権能を十分に果たすことができるよう、どうか私たちの教会を憐れみ、必要な賜物を備えてください。ここに集う兄弟姉妹たちをあなたの愛でもって豊かに育み、一人ひとりがささげる熱心によって、キリストの御名に相応しい教会をここに建て上げてください。そして、どんな小さな奉仕にも、また離れたところで祈られるどんな小さな祈りにも、あなたが祝福をもって答えてくださって、私たちの小さな交わりが、キリストにあって一つである喜びに満たされますように、聖霊の賜物をもってこの一年の歩みを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。