マタイによる福音書16章21-28節

いのちを買い戻す

 

 主イエスのガリラヤでの宣教を通して、弟子たちは自分たちが付き従っている先生が、他のユダヤ人たちの教師とは異なる、生ける神の子キリストであることを知りました。フィリポ・カイザリアで、ペトロが弟子たちを代表して述べたイエス・キリストに対する信仰告白は、今に至るまでキリスト者すべての信仰の出発点です。そして、主イエスはこの後、弟子たちを伴って神の都エルサレムへ上ってゆきます。旧約聖書の時代から、そこは神が選んだ場所であり、神殿の置かれた聖地でした。イエスにとって、しかし、そこはもはや神の民イスラエルの交わりに憩える場所ではありませんでした。イエスを殺そうと企むユダヤ人たちが手ぐすね挽いて待ちかまえる敵の本陣です。何故、今敢えてそのような場所へ出かけてゆくのか、不安を感じた弟子もあったに違いありません。或いは、いよいよ地上に神の国を打ち立てる決戦の時、との覚悟を決めた弟子もいたかも知れません。ペトロの信仰告白を聞いた主イエスは、しかし、これから御自分が進んで行かれる道の意味について弟子たちに説いてゆかれます。それは、やがて御自分につき従った弟子たちも辿ることになる、十字架への道行でした。

 今日の箇所では、弟子たちに対する最初の受難告知がなされています。イエスがお告げになった、これから待ち受ける出来事は、まずエルサレムへ向かい、そこで逮捕され、長老・祭司長・律法学者たちからなる最高法院に引き渡され、鞭打たれ、十字架に磔にされて処刑され、そして、三日目に復活なさる、という一連の受難の出来事です。復活の意味は弟子たちにはまだ分かりません。復活された主イエスにお会いして初めて弟子たちの目が開かれます。ですが、後で想い起すことが出来るように、主イエスは前もって復活の予告も含めてお話になりました。今その場で弟子たちが心しなければならなかったことは、イエスがお受けになる苦しみと死です。イエスにおいて働かれる神の力を目撃して「あなたは神の子、メシアです」との信仰が生じました。けれども、イエスは受難のメシアです。多くのユダヤ人たちが期待したような、ユダヤの政治的独立を獲得してイスラエルを再興するような民族の解放者であるメシアとは異なります。御子イエスの戦いは、罪人の魂をサタンの勢力から解放するための戦いです。罪のために死に定められて滅んでゆく命を、神の祝福のもとで新しい命に生かすことが、神が御子に定めた使命でした。「必ず~することになっている」とイエスはその道が揺るがないことを告げています。十字架に至る受難の道程は、神が定めておられる救いの道です。イエスも弟子たちも、この道を避けては真の救いに至ることができません。

 受難の告知にすぐさま反応したのもやはりペトロでした。イエスをメシアだと確信したものの、彼らの抱いているメシア像については、他のユダヤ人たちと理解の程は同じだったのでしょう。「自分は殺される」などとは弱気と受け取ったのかも知れません。イエスをわきへ連れ出して、先輩が後輩を叱咤するかのように、イエスの言葉を否定します。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたにあってはなりません」。「とんでもないことです」とは、ユダヤ人の言い回しで「神よ許したまえ」という表現です。ペトロはまだまだ本当のキリストを前に打ち砕かれねばなりませんでした。

 イエスの断固としてペトロの誤りを正します。「サタン、引き下がれ」。荒れ野でサタンの試みに遭われた時、その誘惑を断固として退けられた言葉とほぼ同じです。自分の力でこの世界を手に入れようなどとの考えは、サタンの支配に身を委ねるのとおなじことです。ペトロを初めとする弟子たちも、他のユダヤ人たちも、メシアに期待していたことは自分たちのための地上の王国を手に入れることでした。「引き下がれ」とは「わたしの後ろに消えてしまえ」ですから、「神の子」とは言いながら、イエスのことを相変わらず身近な人間の先生ぐらいにしか捉えていない弟子たちに対する、主人であるイエス・キリストの権威がこれではっきりと示されます。イエスに従うということは慣れ合いではすみません。また、「背後に失せよ」ですから、もうついて来るな、とも読めます。イエスの受難を拒むのであれば、もはや弟子ではない、ということでしょう。「あなたは私の邪魔をする者」だと言われてしまいます。「邪魔をする者」は、「躓き」という言葉ですが、確かな信仰告白をしたが故に「ペトロ=岩」と呼んでいただいたのが、ここでは「躓きの石」になってしまいました。人が救われるのは信仰によるのですけれども、自分本位な信仰はかえって躓きにもなりかねません。

 ペトロの過ちは「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことにありました。自分が従うと決心したはずのイエスをまだ人間としてしか思うことが出来ず、その口から語られた言葉をまだ人間の言葉としか受け止めることのできない弱さが指摘されています。イエスは確かに人間となって世に来られた「人の子」ですが、それはダニエル書7章に預言されている終末の審判者です。イエスが予告された受難の道程は神が定めた進むべき道でしたが、ペトロはそれをイエスの考えぐらいにしか受け止めず、自分が当然と思っていたメシア像をイエスの言葉に優先させました。実際にペトロがサタンであったわけではありません。「神のことを思わず、人間のことしか思わない」ようにさせ、イエスのもっておられる権威に服従させなくしている、見えない霊の力がサタンです。神への真の信仰による真の服従を見るまでは、誰にもこの力が働きます。

 この機会に、主イエスは弟子たちに改めて覚悟を求めます。24節以下の内容は、実質的には既に10章で語られたことと同じです。初めて聞く言葉ではありません。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

本当にイエスについて来たいのかどうかがまず問われるかも知れません。イエスは敵に殺されるために自ら出て行くお方です。その「受難のメシア」の弟子になるわけですから、弟子たちも同じように苦しめられたり、辱められたりするのを承知の上でついてゆくこととなります。それでもイエスを「神の子、メシア、わたしの救い主」と信じるならば、「自分を捨てよ」と言われます。

 この「捨てよ」は「拒む」という言葉です。イエスが歩まれる受難の道は自己否定の道です。十字架におかかりなる前、ゲッセマネの園でささげられた主イエスの祈りには、率直にイエスの人としての苦悩が告白されます。「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください」(26:39)。イエスが来るべき人の子として栄光をお受けになるのは復活の後のことです。神の子としての権威をもつとはいえ、人として受ける痛みや苦しみは私たちと何の変わりもありません。しかし、その祈りの中でイエスは次のように加えるのを忘れませんでした。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」。自己否定とは、自己卑下ではありませんし、禁欲でもありません。人間の思いではなく、神の思いを思うこと。神がわたしになしてくださることを信じて、自分を明け渡すことです。思いと言葉と行いを、主イエスに従わせること。もっと具体的には、そのためにキリストの言葉である聖書の導きに従って、祈りや礼拝などの恵みの手段を用いて、自分自身の心と体を造っていただくこと、といってよいと思います。結果として、自己否定は、御言葉の実り、聖霊の賜物です。

 「自分の十字架を背負いなさい」と言われます。イエスは「わたしの十字架を負え」とは、ここでは言っておられません。誰もが自分の十字架を負います。十字架が表すのは、罪に対する裁きです。そして、罪の裁きである死をそれは指しています。誰もが自分の罪を背負って死ななければならない。最後には、その罪をお裁きになる神の前に立たなくてはならない。そこにも自己否定があります。神の御前では、私は十字架を負う惨めな存在だ、ということを認めねばならない。そんなこと「やなこった」と言った日本で最も人気の高い聖書学者があります。誰よりも聖書に詳しいからと言って、イエスに従うとは限りません。イエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と呼びかけています。真の救いに至る道は他にありません。「神のことよりも人間のことを思って」、サタンが勧めるようなこの世の栄光を求めるならば、命は神の前から失われて二度と買い戻すことはできません。

 25節の言葉は10章39節でもそのまま語られていました。人は自分の命を自由にすることができません。若い日の命の躍動は年をとる毎に失われて行きますし、人生には身体を病むことも心を病むことも、また命を削るような痛みや悲しみに見舞われることもあります。何より、いのちの時は、人ではなく神の御手の中で定まっています。25節は26節は相補って一つの真理を告げています。自分のいのちのためにと思って、自力でそれを確保しようとするあらゆる努力は空しい。

 先週、私はリジョイスの原稿を突然頼まれまして急いで書き上げました。「コヘレトの言葉」全12章を12回に亘って解説する聖書日課です。6月に発行されますので、近々見ていただけると思います。コヘレトはイスラエルの賢者ですけれども、人間の幸せを求めて、世界のあらゆることを観察して、自分でもあらゆることを試みてみた、と述べています。けれども、人には神の思惑は隠されていて、世の中は不条理に満ちている。たとえ全世界を手に入れて、思いのままに人生を楽しんだとしても、人生には思わぬ時に不幸が訪れ、また、生きる時も死ぬ時もすべては神が定めている。この世での人間の営みは風を追うようなものだ、との境地が諄々と語られます。富も権力も、知識も健康も、自分の命を救うためには本当は役に立たない。少しばかり寿命を延ばすことはできるかもしれないけれども、どれひとつとして幸せな人生を約束してはくれないし、最後には死の裁きが待っている。千年の人生を二度繰り返したとしても不幸であったら意味はない、とコヘレトは言います。

 イエスはそこでこう言っておられます。「わたしのために命を失うものはそれを得る」。命を失うものが命を得るとは謎めいていますが、その意味するところは、今の限りある命をイエスのために費やす者には、神からいただく永遠の命がある、ということです。人は自分の命を失ったら、どんな代価を払ってもそれを買い戻すことはできない。けれども、私の命をキリストに預けた者は、イエス・キリスト御自身が汚れのない御自分の命を代価として、私の命を買い戻してくれる。イエス・キリストの歩まれる受難の道は、自分の十字架を背負った救い難い罪人の命を贖うための、神の定めた道であって、イエスを信じて従う者たちは、イエスの十字架にあやかって罪人として死にますけれども、イエスが三日目に復活したように、もはや罪のために苛まれることのない、真のいのちの輝きに報われます。

 27節と28節では「人の子」の到来が告げられています。復活された御子イエスが世界を裁く終わりの時です。御子の再臨によって神の国が訪れる時、「それぞれの行いによって報いられる」とあります。「行い」とは様々な行状ということではなくて、一つのことの「実践」です。つまり、「わたしに従え」と言われた主イエスの言葉に従ったかどうか。イエスに生涯ついていこうと志して、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスの後をついていったかどうか、ということが、それぞれに問われる、と言うことです。そして、ついていった弟子たちには、復活の栄光に輝く御子が必ず報いてくださるとの約束がここにあります。

 先に触れたコヘレトの言葉では、人間には未来は見通すことができない。それ故に、すべてのことは唐突に思えて人生は空しい、と言われます。死んだ後のことなど、人間には分からないのだから、今の愉しみを十分に味わえ、とも言います。しかし、すべての時を定めておられる神は、御自身しか知らない未来を、キリストを通してすべての人に知らせてくださいました。キリストの十字架に、この世では見出すことのできない幸いがある。最後の最後にはすべてが報われる、人の道がある。それは、キリストが自ら苦難を負い、命を捨てることで開かれた、十字架から復活に至る道です。誰でも「ついて来たい」と願うならば辿ることのできる救いの道です。イエスの弟子として生きることは、世間には理解し難い、時には愚かにさえ見える、神を信じるが故のつらさを負うことになります。しかし、苦労しても真実に向かって歩んでいる人生は決して空しくはありません。終わりの約束に確信を持って、イエス・キリストに従ってゆきたいと思います。

祈り

天の父なる御神、私たちは自ら罪の重さを顧みず、あなたの裁きを軽んじて、目先の思い煩いに逃げ込んで、生きるはずの尊い命を空しくしてしまいます。どうか、御子イエス・キリストに示された十字架と復活の希望を確かに心に刻んで、罪がありながらも赦された者として、躓きながらも復活の栄光を目指す者として、この地上の生涯を全うできますように、私たちを真理の道に留めていてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。