マタイによる福音書17章1-13節

栄光の主イエスを仰いで

 

 イエス・キリストが高い山の上で、神の栄光に輝く姿を顕されたのが「主の変容」と呼ばれる出来事です。主イエスは十字架に向かわれる前に受難の予告をされまして、弟子たちに向けてはっきりと、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と告げました。弟子たちはそれを理解できなかったのですけれども、イエスは続いて、弟子たちに、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。主イエスの受難は、私たちの罪を赦すための御子の苦しみです。そして、キリストに贖われた私たちは、それぞれが自分の十字架を背負ってキリストと共に受難の道を辿ります。けれども、私たちがキリストの後をついて行くためには信仰が定かでなくてはなりません。イエスが予告をされたとき、弟子たちは理解できませんでしたけれども、それは信仰が覚束ない時の私たちに相当します。罪のために神に対して目が塞がれてしまう人の姿です。そのままでは、自分の十字架を背負ってキリストの後に従うことができません。イエスは「従いたい者は従いなさい」と言われて、さらにこう言われました。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

私たちは信じることによって、この真理を悟ります。自分で自分の命を救おうとしても私たちは死を免れることはできないのでして、罪の裁きから自分の魂を救えはしません。しかし、十字架の裁きを私の罪の裁きだと知って、キリストの十字架を自分自身の死だと認めるならば、私たちの罪は赦されて神が私の命を救ってくださいます。キリストのために命を失うということは、いやいやではなくて喜んでそうすることです。それが救いであると知るから、人生をすべてキリストに委ねて十字架を負うことができます。自分の罪と裁きを背負って死に向かってゆくことができます。その先には復活と永遠の命が待っています。

 イエスに従ってゆくためにはそのような信仰が必要です。人の子として世を歩まれたイエスが、私たちを救うために来られた神の子キリストであることを心から信じることです。イエスが山の上で姿を変えられたのは、そこに神の側からなされた証があって、私たちがそのお姿を心に留めながらイエスの受難に目を注ぐためです。十字架の死に至るイエスの受難は、人の眼からすれば絶望の極みです。しかし、それが神の子キリストによる救いの御業であることが、栄光の輝きに包まれた主の変貌から知らされます。この御言葉を聞いて、私たちの内で、イエス・キリストが神の子の姿を顕される時、私たちは喜んでイエスに従う者とされます。

 ところで、ペトロは何故、仮小屋を建てようなどと言ったのでしょうか。ペトロが見たのは、天使のように真っ白に輝く服を着たイエスと、旧約聖書に出てくる二人の大預言者モーセとエリヤでした。

モーセのことは知っての通り、イスラエルをエジプトから導き出した人です。そしてイスラエルに律法をもたらした預言者でしたから、人々からは最も尊敬されていました。モーセは120歳で生きて、最後は神御自身がモーセを葬ったので、誰もモーセが死んだところを見ませんでしたし、墓がどこにあるかも知りませんでした。

エリヤはダビデやソロモンが王国を造った後に現れた預言者で、カルメル山の上でカナンの神々に仕える預言者たちと壮絶な対決をしたことで有名です。エリヤの最後は、弟子であるエリシャの目の前で、炎の戦車に乗って天に昇っていってしまいました。そこでイスラエルの人々は、エリヤが再びやって来ると信じていました。旧約聖書の最後の書物であるマラキ書には、「預言者エリヤを遣わす」という神の約束が書かれています。ペトロが目撃したのは、そういう二人の大預言者でした。

ペトロが仮小屋を建てようと言ったのは、おそらく彼らに住んでもらうためです。或いは、そこでイエスをも含めた三人の有名な預言者を記念して、そこで礼拝をささげるためであったかも知れません。けれども、それはいつもながらそそっかしいペトロの勘違いでした。イエスが神の姿を顕して輝いていたので驚いたせいではないかと思います。けれども、イエスは小屋に住むわけではありません。人の手で造った建物に神はお住まいにならないからです。また、モーセやエリヤは神の言葉を伝えた立派な預言者でしたけれども、主イエスと同じような神ではありません。モーセやエリヤを礼拝することは適切ではありません。主イエスがモーセとエリヤと話をされたのは、御子イエスが二人を知っていたからです。二人はイエスがお生まれになった時より遥か昔の者たちですが、イエスはその時から天におられて、二人をよく知っていました。そして、モーセもエリヤも神の言葉をイスラエルに伝えながら、本当は御子イエスによる救いを人々に語ったのでした。

モーセは律法を表します。エリヤは預言者です。イエスに敵対するユダヤ人たちはモーセやエリヤの言葉なら信じたかも知れません。けれどもイエスの言葉は受け入れようとしませんでした。そこには大きな誤解があります。イエスの教えは、モーセにもエリヤにも十分通じるものです。旧約の教えは新約の福音に対立するものではありません。むしろ、旧約ではまだ隠されていた神の真意を伝えるものがキリストの福音です。新約は旧約に隠されており、新約は旧約を明らかにします。神の御旨は聖書を貫いて一つです。

天から声が聞こえた時「これは私の愛する子、これに聞け」と神が言われます。主イエスに従う弟子たちのところにはイエスがおられます。ですから、ペトロは三つの小屋を建てる必要などありません。いつもそばにいる主イエスに聞けば聖書のことはすべて分かります。イエスのお姿が輝いて見えたのは、ほんのわずかな時間でした。モーセもエリヤも瞬く間に消えてしまいました。ただ、主イエスだけが、いつもの姿で弟子たちの側にいました。天の声に怯える弟子たちにイエスは近づいて「恐れるな」と声をかけ、手を触れてくださいました。天におられた神の子が人となって、これほど近くにおられることに改めて驚かされます。

 こうして、ペトロとヨハネとヤコブが選ばれて、特別にキリストの栄光の顕現に接する機会が与えられたのは、彼らが後の教会に向けて証言するためでした。しかし、ペトロが弟子たちを代表して迷い事を述べたように、弟子たちは自分が目にした出来事の意味をその時に悟ったわけではありません。それは、イエスがガリラヤで行った幾つもの奇跡と同じことです。それらはすべて、キリストによる救いが到来したことを告げる証です。しかし、それらは人の目を神への信仰に目覚めさせるには至りませんでした。イエスの内に神が働いておられる一方で、世の反応は極めて鈍いものでしかありません。

 コリントの信徒への手紙二の4章3節以下で、パウロが次のように語っています。

わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。(3-4節)

神の子キリストの御業が行われて、神の国の福音が説かれても、それらが全く覆われてしまって信仰が起こされないことがある。概して世の中はそのようなもので、ペトロも他の弟子たちも、イエスの傍らにいて数々の奇跡や栄光の顕現に接しながら、実際そうでしかあれませんでした。それは、「この世の神が、信じようとしない人々の心の目をくらましている」からだとパウロは告げます。「この世の神」とは宗教ばかりではないと思います。人の心を支配する、欲望であれ何であれ、神以外の何者かです。「自分で自分を救おうとする」思い、自分の力で何とかやって来ているという、ある自信や気概、自分のために生きることを最終目標としてしまう割り切り。現代においては往々にして「世の神」は自分です。しかし、それでは本当の救いを得ることは出来ませんでして、「キリストの栄光に関する福音の光」が見えません。

 そうだとするならば、私たちはどのようにして「この世の神」から逃れて、真の神に至るのか。パウロは次のように述べています。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

神御自身が、神の栄光を悟る光を与えてくださった、とパウロは証しています。山上で顕されたキリストの変貌の光は、私たちの無理解の向こう側で輝いています。しかし、神がことを果たされる時、その闇が内側から破られて、光が差し込むようになる。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、万物を無から生じせしめた創造主なるお方で、このお方の言葉が創造の力をもって、私たちの心に光をもたらしてくれます。私たちがこの世の神の支配から逃れて、真の神の栄光を仰ぐようになるために、神が聖霊を送って私たちの心を神に向けてくださいます。信仰は、神の恵みによって私たちの内に起こされるもので、私たちが永遠の命に至るための神の贈り物です。ですから、キリストに従うのも、自分の十字架を背負うのも、神が私たちに御言葉による信仰をくださって、キリストの栄光を今から信じることができるからです。

 私たちを信仰に導く神の言葉は、イエス御自身を通して世に顕されます。それは、降誕から十字架の死・復活・昇天に至るまでの一連の業です。主の御業のすべてが果たされた時、私たち一人一人が確実に救いを恵みとして受け止めるために、聖霊が降って来られます。その聖霊の働きによって私たちはキリストの僕となります。パウロは、先程のところで続けて、こう言っています。

わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。(6節)

自分の十字架を背負って、罪に苦しみながらキリストに従う私たちの姿は、決して人の目からすれば輝いているようには見えないと思います。しかし、この世の神のためにではなく、イエスのために身を捧げて、また、自分のためにではなく、隣人のために仕える僕は、キリストの御顔に顕された神のいのちの輝きを放っています。

 山上で御自身の栄光を明らかにされた主イエスは、山を下って受難の道に進まれます。それは、私たちの罪を贖うために、十字架の死をもって神の御旨を果たすためです。私たちは、そのキリストの献身によって、神の子へと変えられます。私たちは信仰によって主イエスと結ばれて神の子となります。そして、キリストと共に私たち自身の変貌が約束されています。光り輝く主イエスのお姿は、復活された後、天上でお受けになる主の本来のお姿です。そこには、私たちが信仰の道を辿り終えた後に受ける栄光があります。

 今朝、私たちは信仰をもって、山の上で姿を変えられたイエス・キリストの光り輝く姿を心に留めたいと思います。そこには私たちの主であるお方が今天でもっておられる栄光の姿があります。イエス・キリストが私たちの主であり、私たちを明るく照らす光です。そして、そこには私たちのたどり着く栄光があり、私たちもまたキリスト共に白い衣を着て、モーセやエリヤと共に神の輝きに包まれます。私たちが経験する苦しみや悲しみ、惨めさや汚れは、イエスが共に負って下さいます。光が去った後、ただイエスが地上に残ったように、主イエスはいつも弟子である私たちの傍らにいます。天に昇られた後も、聖霊を通して私たちと共にいます。聖書の言葉に聴きながら、主の栄光を求めて日々を過ごしたいと願います。

祈り

御子キリストの十字架を通して、御自身の栄光を顕された父なる御神、私たちの負う十字架は決して一人では負いきれないものですが、まず主がそれを負って下さり、私たちは恵みによって主の後を追ってゆきます。どうか、あなたの御言葉によって私たちの心を明るく照らし、いつもキリストの栄光を仰ぎ見ることができるよう、信仰に目覚めさせていてください。闇の中に光を与えるあなたの憐れみに信頼して、どうか、光の中を歩ませて下さい。聖霊を願い求める友に、どうか、悟りの霊を送ってくださり、キリストの栄光に輝く真実のお姿を見させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。