マタイによる福音書17章14-20節

信仰の力

 

 主イエスは山に上られて真っ白に光り輝く栄光のお姿をほんの一瞬かいま見させてくださいました。イエス・キリストが天の御子として持っておられる本当のお姿を目撃したのは、選ばれた三人の弟子たち、ペトロとヨハネとヤコブだけでした。彼らにしてもその場で主イエスの変貌の意味を理解した訳ではありませんでしたが、後々振り返った時に、イエスがなさった数々の奇跡と併せてそのお姿を思い起こして、天の神が確かに主イエスと共におられたことを知るようにされました。こうして福音書を記しているマタイは、主イエスが復活した後に与えられた信仰から、かつて主が表された出来事を綴って、後の教会に主の言葉を伝えようとしています。

 今日のところは、主イエスと三人の弟子たちが山から降りて来たところで起こった出来事です。そこには彼らが帰ってくるのを待っていた弟子たちがいた筈ですが、弟子たちの周りには群衆が集っていて、何やら騒ぎになっていました。イエスがそこへ来ると、一人の父親が近づいて来て、てんかんで苦しむ息子の惨状を訴えました。ひざまずいて訴えるその姿は、息子の命を救って欲しいとの切実な願いに溢れています。山で主の栄光を目撃した直後であるだけに、下界の現実には厳しいものがあります。息子のてんかんは只の病いではなく悪霊の仕業でした。神のご支配の完全な現れである天上に比べて、地上は悪霊が気ままに力を振るって人を苦しめる悲惨な状態にあります。

 今、朝の入門講座でハイデルベルク信仰問答を少しずつ学び始めています。その書物から聖書の教えの基本的な理解を得ることができますが、最初の段落で扱われているのは人間の惨めさについてです。「義人はいない、一人もいない」という御言葉にありますように、すべての人間はこの地上で罪の悲惨に見舞われていて、救いを必要としない者は一人もいないと教えられます。私たち人間が神の裁きを前にして如何に罪深くて滅びを免れ得ないか、ということを徹底的に示されますと、どうにも意気消沈してしまって力が出ないと感じられるかも知れません。プロテスタント教会の正統的な教理は元来鬱屈していると陰口を叩く人がいるくらいです。けれども、人間のみじめさとは気分の問題、気の持ちようでは済まないはずです。それは最も現実的な人間の経験にも即しています。今日の父親がよい例です。マタイはその人のことについて詳しく説明してはいませんが、同じ記事を載せているマルコやルカと比べると、その息子は一人息子の跡取りで、幼い頃から長い間その病で苦しんでいると言われます。当人もそうですけれども親兄弟の苦しみもどれほどだったかと思います。

 人の苦しみを見て自分の苦しみとすることは大切なことではないでしょうか。それをその人と同じように理解したり、肩代わりすることは殆どできないにしても、自分もまた同じ苦しみをこの世界で共有していることを知ることは、単なる同情を越えた人間理解に通じると思います。目に見えない悪の力が作用するこの世界で、人間の悲惨に触れ合わないで済むような生活領域は一つもないとさえ言えるでしょう。教理問答を通して聖書から教えられる人間の惨めさは、神以外に救いのないこの世界で、唯一救いをもたらす神を知らないで生きることができ、そして、救いのないまま死んでいくことにあります。

 悲しい出来事に出会った人は、そこで自分の惨めさに気がつく機会が与えられます。今日の父親がイエスの前に跪いたのはその徴です。「主よ、憐れんでください」とは聖書では救いを求める人の典型的な言葉です。現代人の多くはたとえ自分がどんな目にあっても誰かに憐れんで欲しいとは思いません。むしろ、人からは低く見られまいと強い態度をとって救済される権利を要求したりします。「憐れんでください」とは自分の惨めさをむき出しにして訴える、まるで物乞いのようなものの言い方です。しかし、本当に助けて欲しい時にはなりふり構っては居れません。そうして人生の危機に直面して、自分の殻を破った人が神の救いに近づきます。この父親はそのような人の実例です。

 しかし、下界の悲惨さは、その親子が苦しんで来た時間だけがそれを表すものではないことが、今日の出来事で明らかになります。父親はイエスにこう訴えました。

  お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。

誰も癒すことができない。悪霊に取り付かれた子の悲惨を目の当たりにしながらも、誰一人として親子を助けることができないまま、群衆はその場に立ち尽くしています。これが下界の現実ではないでしょうか。おそらく、父親はイエスの評判を聞いて、藁にもすがる思いで息子を連れて来たのだと思います。イエスのもとからは弟子たちが町々へ派遣されて、師匠と同じように癒しの奇跡を行っていたことも聞いていたはずです。ところが評判とは違って息子は治らなかった。宗教は偽りであり、希望は大きな失望にかわります。そういう救いがたい下界の悲惨の中に、山の上で神の栄光を見せられたイエス・キリストが降りてこられたわけです。親子の救いは一重にこのお方にかかっています。

 父親の訴えを聞いてイエスは激しく怒っておられます。こんな言葉を聞いた弟子たちは縮み上がったことでしょう。しかし、イエスの言葉は不甲斐ない弟子たちにだけ向けられたものではありません。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言っておられます。「時代」は旧約の言葉に置き換えれば「世代」です。そして、このようなものの言い方は旧約聖書の中で聞き覚えがあります。この言葉に表された苛立ちは、荒れ野でご自分の民を導かれた神の苛立ちに相当します。イスラエルの民は神の一方的な憐れみによって悲惨な奴隷状態から救い出していただきました。彼らはもはや人間に支配される家畜ではなくなって、真の神を主人とする、立派な国民へと変えられました。その保証として国民を秩序づける憲法―モーセの律法が与えられて、周辺の国々と比較しても劣らない民族としての自覚を持つことができるようにさえされました。ところが約束の地を目指して荒れ野に出たとたん、目先の不自由さに嫌気がさして、イスラエルは神に対して不平を言い始めました。キュウリが恋しい、メロンが食べたい、肉の入った鍋を囲みたいなどと文句を云い、神の約束も契約の掟も忘れてエジプトへ帰ろうとさえ言い出しました。こうしたイスラエルの恩を忘れた態度が、たびたび神の怒りを引き起こした「不信仰」です。神の怒りが頂点に達した時には、もうイスラエルを滅ぼすとさえ仰ったのですけれども、神自らが与えたその名のために、神は怒りを取り去って、彼らを滅ぼしはしませんでした。

 いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければな らないのか。

これはイスラエルに向けられた主なる神の怒りの言葉です。そして、救いのない世界に救いを持ってこられたことを証するのが、そのご自身の怒りに対する神の対処の仕方です。イエスの周囲を取り巻いていた地上のイスラエルは、イエスのうちにある神の力に理解を示しませんでした。そのような不信仰の中であっても、真に救いを求めて近づく親子を憐れんで、主イエスは御自身に与えられた神の権威で悪霊を追い出されました。

 この世の不信仰に対する神の怒りは、悪霊の力に屈する罪人への憐れみと裏表になっています。旧約聖書の中で預言者たちが告げた神の裁きは、心からの悔い改めをもって御自身に立ち返ることを求める、神の熱情によるものでした。イエスの怒りもそれと同じです。神は人間以上に忍耐深いお方です。「いつまであなたがに我慢しなければならないのか」といいながら、どこまでも忍耐して待っておられるお方です。いや、待っておれないからこそ、御子キリストを送って赦しのための十字架による贖いを果たし、聖霊による回心を人に与えました。ですから、イエスの怒りは人間そのものに向けられたものではないはずです。それは、救いのない世の中の現状に対してです。そして、本当に救いがない訳ではない。神は聖書の御言葉を通して、また、それをはっきりさせる為に御子イエスを世に送って救いの道を示されました。それを、神の憐れみと受け止めないで、人の力ではどうにもならない悲惨な現状にただ呆然と立ち尽くすような、不信仰な世界のあり方に対して、イエスは怒りを表されます。その怒りは悪霊に向けられて、神の裁きが悪霊を追い出します。

 弟子たちがイエスの業に失敗したのは「小さな信仰」のせいだと言われます。これまでもことあるごとに、弟子たちの「小さな信仰」が指摘されました。「信仰が薄い」と訳されていますが、神への信頼が不確かだということに違いはないと思います。問題は、ではどうすればよいのかということです。「薄い」のであれば「厚く」すればいい。「小さい」のであれば「大きくすれば」いいはずです。では、信仰の大小はどのように区別がつくのでしょうか。

 主イエスは弟子たちの将来のためにこう言われます。

  もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。

「からし種」の喩えは他所でも用いられています。13章31節以下に、次のようにあります。

 天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。

つまりこの喩えの要所は、からし種がどれほど小さい種粒かということと関わりますが、単に小さいだけではなく、それが見かけに比べて予想外の大きな木にまで成長する、という点にあります。「からし種一粒の信仰」とは、そこに大きな力を秘めつつ成長するという信仰の性質を表しています。真の信仰がちょっとでもあれば誰でもイエスのように奇跡を行うことができる、という単純なことではありません。信仰がなくても奇跡を行った事例は聖書の中に幾つも見られます。ここでは信仰が「種」と言われますが、もとより信仰の種は福音です。神の救いを告げる言葉が人の魂の内に蒔かれて芽を出し、やがて立派な実をつけた麦になる、とは別の喩えでイエスが弟子たちに語ったことです。神への信頼を意味する「信仰」は、神の言葉が人のうちに生み出すものです。しかし、それは成長を待たねばなりません。弟子たちは、主イエスの教えと御業を通して、信仰の種をそれぞれ自分の命の中に蒔いていただきました。からし種ほどの小さな信仰の種粒は、すでに弟子たちの内に植え込まれています。ですが、それが本当の力を発揮するようになるまで、弟子たちはイエスの後に従って、十字架に至る苦難の道を進まねばなりません。そして、それが芽を出し、枝をはり、立派な木にまで成長するには、聖霊による養いが欠かせません。しかし、そのように成長させられた信仰は、やがて「山を移す」ほどのものになります。「山を移す」信仰というのはユダヤ人の用いた慣用的な表現で、21章でまた用いられますし、パウロもコリント教会に宛てた手紙の中で「山を移すほどの信仰」について述べています。つまり、不可能だと思える困難を恐れず、何事もできると信じて主の業に励む弟子たちの信仰の有り様のことです。「あなたがたにできないことは何もない」と主イエスは言われます。「祈りはすべて叶えられると信じて祈りなさい」との勧めにも通じます。からし種一粒ほどの信仰があれば、救いの見えない世の中に、ここにこそ救いがあると主イエスの御業を表すことができる、と主イエスは弟子たちに約束されました。

 世に救いをもたらす神の力を信じれば、「できないことは何もない」と主は言われます。「できる」ということが問題になっています。つまり、信仰とは、自分の魂が罪の中から救われて、平安な心持ちで人生を送ることが出来る、という素朴な信頼には留まらないということです。弟子たちが直面した深刻な問題は、目の前に救いを求めている人がいるのに自分たちには何も出来ないという、悲惨な人間の絶望的な状況でした。そこで語られる「信仰」とは、弟子たちの心の平安ではないはずです。弟子たちが心に願ったこと、また、主イエスが弟子たちに約束されたことは、「それができるようになる」信仰です。

 からし種一粒ほどの信仰が成長する過程には、弟子たちの内に現れる主のみ業が伴います。目の前で起こる奇跡は、聖書の中に限られる啓示の時代のしるしに留まります。残念ながら教会の時代には、てんかんに苦しむ人をイエスのように言葉で一喝して瞬時に治療するようなことはありません。今日の箇所で約束されているのは、弟子たちの宣教の業が世界に救いをもたらす、という意味での信仰の力です。宣教の業とは神の言葉を伝える働きです。その働きを通じて、神の言葉が人のうちに新しい命をもたらします。病いは生涯回復しないかも知れません。それでも、福音の約束がその人の生涯に新しい意味を与え、生きる力となります。

 宣教の業は言葉を語るばかりではありません。先に触れた「山を動かす信仰」というパウロの言葉がどこにあったかを思い出してください。『コリントの信徒への手紙一』の13章2節です。そこでパウロは、「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」と言っています。神の力への絶大な信頼を表す信仰も、イエス・キリストが行った愛の業と別物ではないということです。実に信仰は、キリストの救いを信じて神の御旨を行うために、神と隣人を愛する実践を通して弟子たちの内に豊かに育まれていきます。奇跡を行うというのであれば、実に私たちの愛の業を通して、罪の悲惨の中から人の魂が救い上げられることこそが、イエス・キリストの弟子とされた私たちの行うことのできる奇跡に他なりません。

 私たちが今の時代に立ち向かわなければならない、世界の悲惨な現実とは何でしょうか。3月20日に学習会が企画されていますけれども、福島の原発事故はまさに手に負えない程の悲惨な状況下にあります。当事者である東京電力ばかりでなく、政府もマスコミもその事実が出来るだけ深刻さを伝えないような努力をしているようです。社会の混乱を避けるため、という理由もあるのだと思いますけれども、実際に放射線の被害を受けた方々や、これから受けつつある人々に対する救済措置は公表されてはいません。私たちはここで、この悲惨な状況を前にして、なす術をもたないで立ち尽くすほかはないのでしょうか。最悪なのは見て見ぬ振りをすることだろうと思います。今日の箇所に重ねれば、てんかんに苦しむ親子を見て、「仕方ないよ」と言い捨ててその場を去って、後は彼らのことなど忘れてしまうことでしょう。そういう諦めや開き直りを見るならば、人を悲惨に落とし込むサタンはしめしめとほくそ笑むに違いありません。

 「あなたがたにできないことは何もない」と信仰の力を約束された主イエスは、復活して天に昇られた後の、地上に残された教会に御自身の働きを託しておられます。「出来ないことは何もない」とは、信仰によって神の御旨を果たすようにとの促しです。私たち一人一人の賜物は小さなものかも知れません。けれども、それぞれに与えられている信仰を私たちが勝手に小さく見積もっては、また、主イエスの嘆きを引き起こすだけです。信仰は一人一人に与えられますが、それが力を発揮する時には個人にばかりではなく、教会に力を集めます。私たちは世の中の悲惨に対しては、結束して働きかけることができるはずです。もう駄目だ、と思ったところから、信仰が力をもって私たちを動かすはずです。今日の御言葉を確かに受け取って、全能の神の力が私たちのうちに働くことを信じて、私たちがそれぞれに直面する罪の現実に立ち向かうものとされたいと願います。

祈り

天地万物を創造され、御子イエスを死者の中から立ち上がらせた全能の御神、あなたが私たちのうちに福音によって植え込まれた信仰の小さな種を、私たちが主の御業を行う程に大きく成長させてください。目に見えないサタンの策略から私たちを守り、あなたが聖書にお示しになられた救いの道を、どうぞ世に現させてください。世の人が罪故に苦しむ悲惨な状況は今も昔も変わりません。どうか、憐れんでくださって、あなたへの真の信仰によって私たちを強くし、私たちの周囲に愛と平和とを作り出すことができる力をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。