マタイによる福音書18章1-14節

小さな者を大切にする神

 

天国で一番偉い者

 今日の教えは弟子たちの質問から始まります。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と弟子たちはイエスに問いました。天国でいちばん偉いのは神様に決まっていますが、ここでの弟子たちの関心はイエスの弟子である自分たちの内で、だれが一番評価されるのかということだったかも知れません。このことは福音書の中で度々繰り返して問われました。ルカ福音書の22章によりますと、最後の晩餐の席でも弟子たちの間でこの議論が起こったとあります。イエスの近くにはいつも三人の弟子たちが寄り添っていました。ペトロとヨハネとヤコブの三羽がらすです。中でもペトロはいつも弟子たちを代表して主イエスと問答をしていました。そういう主イエスの振る舞い方は全く自由なものですから、扱いに差があっても弟子たちの方から文句を言う筋合いはないのかも知れませんが、弟子たちの間では競争心が芽生えていた模様です。今日の直前の箇所でも、ペトロだけがイエスと問答をして神殿税として納める銀貨を与えられています。

 また、先の問答からの続きを考えますと、あるいはもう少し大きい意味合いで、「だれが天国で一番偉いか」と弟子たちは質問したのかも知れません。イエスは、自分は神殿税を納める必要は無いはずだけれども、ユダヤ人たちを躓かせないように納めておこうと言いました。つまり、イエスはご自分が、神殿税を集める者たちより上のものであることを明らかにしています。イエスは神の子メシアだと、弟子たち自身が告白していますから、それは当然のことかも知れませんが、案外、まだそのことが腑に落ちていないのかも知れません。神殿の頂点に立つのは最高議会の長でもある大祭司です。天国でも一番偉いのは大祭司になるのではないか。或いはローマ皇帝や地方の領主であったヘロデ王のような権力者が悔い改めて天国に行くならば、天国でも高い地位を得るのではないか。或いは、旧約の預言者たちや洗礼者ヨハネのような預言者たちや、多くの弟子を従えて民衆を指導していた聖書の教師たちが天国でも良い評価を受けるのではないか。神がくださる天の国で、他人よりも良い評価を受けるのは誰かと、弟子たちは色々と考えていただろうと思います。この世にあって、わたしたちがどうしても逃れられないでいる、他人との比較、というしがらみをここに見るように思います。

 イエスはそこで、言葉で答える前に一人の子どもを呼び寄せて弟子たちの真ん中に立たせました。百聞は一見にしかず、この子をご覧ということでしょう。主イエスの教えはこうです。

 心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

この子が一番偉い、ということをあなたがたは受け入れられますか、とイエスは弟子たちに迫ったようです。たぶん、弟子たちの考えていたことは完全にひっくり返されています。「はぐらかされた」と思ったかも知れません。

 しかし、ここでの主の教えは弟子たちの間で確保しておかねばならない信仰生活の原則です。これと同じことを、言葉を変えながらイエスは何度も教えられます。後には23章11節以下でこう言われます。

 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

20章に少し戻りますと、そこではヨハネとヤコブの母親が登場しまして、二人の息子と一緒にイエスに天国での高い地位を願い出ています。その時に主が教えられたことはこうでした。

 あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。(2528

天国では地上での上下関係が逆転します。人々の間で蔑まれるような、一番低いところで生きて来た人々が一番高い地位につきます。高いところにいた人々は、心を入れ替えて子どものように低いところに自分の居場所を見つけなければ、そもそも天の国には入れない。

 「子ども」という身分には、可愛いとか無垢であるとか色々な評価がつきまといますが、聖書の中では今日の児童憲章などもありませんから、社会的な責任を負うことができない半人前の人間です。周囲からの評価のまだ及ばない、無力で裸の人の有り様がこの「子ども」に表されます。天国で一番偉い方は創造主である神をおいて他にありません。その神の御前にあって、何かが評価されて天国に入る、また、天国でのよい地位を受ける、という考えそのものが間違っていることを、主イエスはまず注意されました。

 「子ども」が天国に入ります。また、「子ども」が天国では評価されます。それは、神がご自分の子どもを愛されるからです。何をしたからとの評価ではなくて、子どもであるから愛されて天の御国に入れていただいて、この世以上に天の国で尊ばれます。主イエスが弟子たちの真ん中に子どもを立たせたのは、そこに御自身の姿をお示しになるためでした。弟子たちは既に告白した筈でした。自分たちの従うイエスこそ、神の子キリストであると認めています。自分たちが天国に行くのは、神の子イエスを信じて、そのお方に従うからであって、誰も一人で天に昇ることのできるものはありません。神が、イエスを信じる弟子たちを、イエスと一緒にご自分の子どもとして認めて受け入れてくださるから、弟子たちには天国が約束されています。

 天での地位は神が自由にお決めになることですが、主イエスが父に代わって天の国の御支配を受け継ぎます。ですから、主イエスと結ばれた神の子たちには、イエスと同等の地位が同じように約束されています。互いに誰が優位に立つかなどと問う必要はありません。

 3節に「心を入れ替えて」とありますが、元々ここは「振り返って」とか「向きを変えて」という言葉です。つまり、まっすぐ神に向き合って父に対する子どものようにならなければ、誰も決して天の国には入れない。そのように、天の神に完全に自分を明け渡して神の子どもとして生涯を全うした方は主イエス・キリストをおいて他にありません。フィリピ書の2章6節以下にある通りです。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました

誰もがこのキリストの従順にあやかって天の御国へ入れていただきます。誰にも自分を人よりも高く見せたいという欲があります。しかし、神の御前にあって、わたしも罪のために滅び行く一人の人間に過ぎないことを認めて、その空しい誇りを捨ててイエスに従うならば、神はキリストへの信仰のゆえにわたしを神の子として受け入れてくださいます。そのとき、天の国では御子キリストが一番偉いのですから、地上でわたしがしがみつく虚しい誇りは、天にあるキリストの誇りにとって変わります。

 振り返ってみれば、弟子たちは主イエスから度々「信仰の薄い者たち」と叱責を受けることがありました。いつもお話しする通り、「小さな信仰者」という言い方です。そのように信仰が薄いために叱られるような弟子たちでしたけれども、小さな者が天国では一番評価されるのですから、それでよいわけです。その「小ささ」を忘れて、互いに高みに立とうとする時には、彼らはファリサイ派の人々と同じになってしまいます。しかし、それは躓きなんですね。小さい信仰でいい。からしだね一粒ほどの信仰でよいから、イエスに従って、小さいが故に大切にされていることを思えば、父なる神が間違いなく自分たちを子どもとして扱ってくれます。

小さな者の躓きに配慮する

 むしろ恐ろしいのは、自分の小ささを忘れて、一緒にいる仲間を躓かせてしまうことです。5節以下でイエスはこう言われます。

 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、 ... 不幸である。

弟子たちの目の前には、今小さな子どもがいるわけですが、「わたしの名のために」つまり、主イエスによる救いを信じるために、そこにいる小さな子どもを受け入れる、つまり、天の国に入る資格のある仲間として受け入れる者が、イエスを本当に救い主として受け入れることである。反対に、お前はイエスを信じているようだけれども、何の良いところも見当たらない小さい者だから天国には入れない、といって、子どものように拙い小さな者たちを閉め出す者は、不幸である。災いである。嘆かわしい、と主は言われます。ここに、弟子たちの交わりの間でいつも気をつけていなければならない、ものの考え方、日頃の振る舞い方があります。

 「躓かせる」とありますが、その意味は、単に道を歩いていて石に躓いて転んでけがする、ということではなくて、躓いて死んでしまうことです。つまり、「躓く」とは信仰を捨ててしまうことで、神の救いから漏れてしまうことを指します。何が人を躓かせるのか、といえば、具体的には色々出てくると思います。教会の中でも、一旦洗礼を受けていながらも途中で信仰を捨ててしまう人が時々現れます。その人の信仰が本物ではなかったと言えばそれまでですが、躓く理由は案外、人間関係にあったりもします。

 この世の中ではキリスト教信仰は様々な荒波に揉まれます。洗礼を受けた時から、私たちの信仰を躓かせようとする力があちらこちらからやって来ます。「躓きは避けられない」とイエスは言われます。教会生活も理想的には行かないことがあります。そこで心に留めておかなくてはならないことは、躓きの深刻さです。

 これはキリストによって与えられている救いの恵みが、どれほどかけがえの無いものか、ということと表裏一体です。躓いて信仰を失ってしまえば、その人の命は滅びる他はありません。それを自分のこととして考えてみるように、8節と9節の言葉が促しています。手足を失っても生きている方が、手足の揃ったまま死ぬよりよいに違いありません。片目を失っても生きている方が、両目が見えるまま地獄に堕ちるよりいいでしょう、とイエスは言われます。つまり、信仰の躓きは命に関わる真剣な問題だとのことです。

 「躓きは避けられない」のですから、自分にどんな誘惑が働いて、キリストへの信仰が揺らぐのか、私たちにはある程度の備えが必要になります。自分は大丈夫と高をくくっては居れません。そのためにも正しい救いの理解は欠かせません。わたしが神を選んだのではなく、神がわたしを選んでキリストに結びつけてくださったとの信仰の理解です。私たちは、私たちの決心を越えて、私たちのためにキリストの救いを用意しておられた、神の御旨によって洗礼を受け、キリストへの信仰に活かされています。このことをまず確かにしておきたいと思います。

 そこで同時に、私たちは教会の中に躓きをもたらす罪についても警戒していなければなりません。パウロが諸教会に宛てた手紙にはそうした具体的な配慮が満ちています。教会の中に社会的な優劣を持ち込んだり、党派心を生じさせることの無いよう細心の注意が必要ですし、キリストの愛をもって互いに仕え合うことを交わりの原則にして、教会を建て上げなくてはなりません。

小さな者を尊ぶ神の御心を知る

 「これら小さな者を一人でも軽んじないように」と主は命じておられます。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」とのことですが、教会に集うどんな小さな人であっても、神の御前に覚えられていることを思い起こすようにとのことでしょう。それを主イエスは羊の喩えでお話しになります。

 父なる神は、失われた一匹の羊を探すお方です。残る九十九匹を山の上に放っておくのは心配に違いありませんけれども、本当に羊を大切にしていたのならば、群れから迷い出た一匹を連れ戻すために力を尽くすでしょう。そして、見つかれば九十九匹が手元にいるということよりも、その一匹が見つかったことが嬉しくて仕方が無いでしょう。その羊飼いの気持ちが分かりますかと、主は問うておられます。それが、神の御心なのであって、迷い出た一匹が永久に失われてしまっても仕方が無いと簡単にあきらめるようなお方ではないということです。

 信仰を全うして誰が天国に行き、誰が途中で挫折して滅びることになるのかは、天の神だけがご存知なので、私たちの方でじたばたしても仕方が無い、と考えるのは理屈ですけれども、主イエスが弟子たちに求めたことではありません。ヨハネ福音書の3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とある通りに、羊たちを最後まで主イエスのもとで養おうとされるのが神の御旨にかなったことです。教会に集められたどの兄弟姉妹の上にもそのような愛が注がれていて、どの人のためにも主が十字架で血を流されています。教会に躓きを生じさせないように願いますけれども、それはひとり一人が主の御前で子どものようになることと今朝は教えられました。ここに集められた私たちが、いつも主イエスと結ばれた神の子として受け入れられて、この場所を神の御前にあって憩うことの出来る場所にしていただけるように、祈り求めてゆきたいと思います。

 

祈り

天の父なる御神、この世にあって信仰の躓きは避けられませんけれども、あなたの御旨は私たちの皆が天であなたに相見えることにあると信じます。どうか、今、私たちの交わりから離れている兄弟姉妹たちを支えてくださって、信仰が無くならないよう助けてください。また、心を強めてくださって、この礼拝の場に立ち返らせてください。私たちもまた、そうした兄弟姉妹たちひとり一人があなたの顧みのもとにあることを信じて、いつも覚えてあなたに願い、適切な仕方で声をかけることができるよう励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。