マタイによる福音書18章21-35節

限りない赦し

 

はじめに

 マタイによる福音書で、主イエスが弟子たちを教えておられる箇所は、その教えが後の教会に生かされるためです。特に「天の国」の教えは、神が御自身の力をもって教会をこの地上に建て上げるために、交わりの理想像として、或いは究極の目標としてお与えになったもので、それを実行したのは人となった神の子、主イエスお一人をおいて他にありません。「敵を愛しなさい」などはその最たるものです。今日は「赦し」がテーマです。イエス・キリストを信じる者同士が、いかなる絆に結ばれているかがこの「赦し」において最大限に表されます。キリスト教会とは、互いに赦し、受け入れ合う交わりです。会社のように利害で結びつくのではない、なかなか世の中には見られない人の結びつきが、教会として聖書から示されています。それが実際の教会とは違うというところに躓きを覚える人もあるのですが、神がお与えになったその理想的なあり方を求めるところに、教会の希望があり、世の期待がかかっています。

 しかし、実際に人を赦すことは大変な問題で、それがどういうことなのか、理解するにも実践に移すにも苦労します。キリスト教会で説かれる「赦し」が与える誤解からお話しすれば、それが放縦や無関心を生み出す理由になってしまうことがあります。例えば、アルコール依存症の仲間がいて、彼が酒を飲み続けることを「赦す」ことが教会の仲間に求められることかと言えば、そうではないと思います。むしろ、彼にとって最善なことは、その依存症から逃れるための何らかの手だてを講ずることです。或いは、仲間たちから次々と借金をして回っていっこうに返すそぶりも見せない者がいたら、それを「赦して」お金を黙って貸し続けるのが神の御旨かと問えば、そうではないと思います。むしろ、その人がそうしなければならない理由をよく確かめて、生活習慣の問題であればそれを解決するために手を尽くすことが仲間たちのとるべき態度になるでしょう。キリストの愛や赦しが安直に受け止められて巷にばらまかれますと、キリスト教会はただお人好しでだらし無い人の集まりと誤解されかねません。

 イエスが教えられた「赦し」は神の愛の顕れです。それは、仲間を交わりの中で生かすための神の賜物であり、平和を作り出すための知恵です。確かな根拠と目標を持たない、表面的に演じてみせるだけの「赦し」には、自己満足や事なかれ主義が潜んでいますから注意が必要です。

 今日の「赦し」に関する教えは、先に語られた「訓戒」の教えの続きになっていますから、合わせて覚えておけば誤解も避けることができると思います。正さなければならない問題が教会の交わりに生じれば、とるべき方法が教会には備わっていますから、それを適切に行うことで問題は解消されます。「愛と赦し」で何でも不問に付すことが神の御旨ではありません。ただ、戒規を行う場合、念頭におくべき原則は、その問題を引き起こした仲間が交わりに留まるためにどのように配慮したら良いかということを終わりまで考え続ける、ことです。これが、教会戒規の原則であることを先週学びました。そして、今日の「赦し」にもそのことが当てはまります。「赦す」のは自分の気持ちをおさめるためではなくて、その「私に対して罪を犯した兄弟」を教会の交わりから失わないためです。

 今日のところでもペトロが弟子たちを代表してでしょうか、イエスに質問をしています。

  主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。

 先には、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、忠告して悔い改めを求めなさいと教えられました。それで悔い改めたのはいいのですけれども、また懲りずに同じことを繰り返す、ということは人間としてよくあることと思います。問題は、頑固に悔い改めないならば最後には破門になるのですけれども、悔い改めてもうしないといいながら何度も繰り返すようなケースです。日本では「仏の顔も三度まで」と言われますが、新約当時のラビたちの間でも同じように赦しは三度まで、四度目は赦さないでよい、と教えられていたようです。ペトロはそこで「7回」と言ったのですから、当時の常識からすればイエスの弟子として面目が立ったかも知れません。この当たりはルカ福音書の方が分かりやすい説明をのせています。17章3節と4節を見ますとこうあります。

 もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。

ここにも出て参ります「七回」という数字は完全数ですから、イエスが教えられたのは何度でもということでしょうけれども、ペトロの場合は「七回まで」と言っていますから、それで赦しは完了して、八回目からは赦さなくてよいだろう、ということなのでしょう。それに対する主イエスのお答えは、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とのことです。「七の七十倍」でしたら四百九十回ということになりますが、もちろんこれは、数えるのを止めて際限なく何度でも赦しなさい、ということを表します。

 ただ、この主イエスの答えには聖書に基づく含みがありまして、この数字遊びのような言い回しは、創世記4章24節の応用のようです。そこには、妬みによって弟を殺害したカインの末裔であるレメクの歌が記されていまして、次のように言われます。

  カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。

つまり、このレメクという人物は自分に向けられた攻撃に対して際限のない復讐を妻たちに誓っていまして、神を知らない文明の始まりがここに告げられています。そうしますと、イエスがペトロに与えた回答は、レメクの復讐宣言に対するイエスの赦しの宣言であって、際限のない復讐がイエスの登場によって際限のない赦しにとって変わることを告げる発言であったと受け取ることができます。自分を傷つけた人を赦すのは簡単なことではないに違いありません。特に他人に深く心身を傷づけられたことのある人はそれをよくご存知だと思います。ですが、主イエスは弟子たちに際限のない赦しをお求めになります。それが神の御心であるからです。

 ペトロは主イエスに「何回赦せばよいか」と問いました。その「何回」と問う質問には、旧約聖書から次のような答えが与えられます。詩編78編はイスラエルの背きとそれに対する神の忍耐とを歌う詩編です。その中程の40節に、「どれほど彼らは荒れ野で反抗し、砂漠で御心をいためたことか」とあります。「どれほど」とは「何回」という言葉です。そしてそれは「七回ぐらい」などととぼけても始まりません。イスラエルは神の御前を歩んだ歴史を通じて御心を傷つけ続けました。78編の35節からしばらくお読みします。

「神は岩、いと高き神は贖い主」と唱えながらも、

その口をもって神を侮り/舌をもって欺いた。

彼らの心は神に対して確かに定まらず/その契約に忠実ではなかった。

しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる。

彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め/憤りを尽くされることはなかった。

神は御心に留められた/人間は肉にすぎず/過ぎて再び帰らない風であることを。

どれほど彼らは荒れ野で神に反抗し/砂漠で御心を痛めたことか。

繰り返し神を試み/イスラエルの聖なる方を傷つけ

御手の力を思わず/敵の手から贖われた日を思い起こさなかった。

際限なく罪を犯し続けるイスラエルを、際限なく赦し続けて契約の絆を保たれた神がまずおられます。人の赦しを語る前に、まず、御言葉に語り伝えられた神の赦しについて思いを寄せて、そこで赦されている自分に気がつくことが必要です。イエスがお示しになった無制限の赦しと、続いて語られるたとえ話は、まずそのことを弟子たちに語っています。

 このとき語られた天国の譬え話は、借金をモチーフにしています。「借金」は犯した罪を表します。マタイ福音書の6章にある「主の祈り」の中に、「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」とありますが、この「負い目」「負い目のある人」とはそれぞれ「借金」「借金をしている人」という言葉です。譬えそのものは分かりやすい話ですので、ポイントを絞って説明を加えておきます。

 ある王に1万タラントンの借金をしている家来がいました。1万タラントンとは、1タラントンが6千デナリオンですから、6千万デナリオンということになります。そして1デナリオンが当時の労働者の日給でしたから、1万タラントンとは6千万日分の日給です。本田哲郎先生の翻訳ですと「一兆円」となっていますが、たぶんもう計算していないんでしょうね。要は個人で返済が不可能な金額、ということです。王は、最初は厳しく返済を迫りますが、結局、そのような返済不可能な金額を王は懲罰も与えずに一方的に赦してしまいます。なぜかと言えば、「ひれ伏して、しきりに願った」彼の姿を見て、腹の底から「憐れに思った」からでした。ここに神の赦しの寛大さが描かれます。神の御前に犯した罪は積もり積もった借金のようです。誰もそれを返済することができないで、むしろ、借金は募るばかりです。しかし、神は一切を帳消しにしてしまわれる。理由はただ可哀想に思ったからです。

 ところが、その赦された家来には、彼から借金をしている仲間がありました。その金額は百デナリオンです。こちらは現実的な数字で、先の本田先生の訳ですと50万円となっています。仲間は、自分が王に対して懇願したのと同じ姿勢で返済の延長を求めますが、彼はそれを赦さず牢屋に監禁してしまいました。これを見ていて心を痛めた仲間たちの振る舞いと王の振る舞いは、神の公正さの表明になっています。この王の寛大さと、仲間を赦さない僕の狭量さとの対比が示すところは明らかです。私たちが仲間を赦せないでいるならば、この狭量で自分本位な僕と同じになる、とのことです。この譬えを聞いた弟子たちがまず心に留めなくてはならないことは、相手を赦せないでいる自分の心の扱いに思い煩うのではなくて、神がどれほど大きな憐れみを私に注いでいてくださるかということです。そして、実際に、この譬えをお語りになった主イエス・キリスト御自身が、私たちの赦しのために十字架におかかりになって命の代価を支払われました。

 これは、イエスを信じて主と仰ぐ弟子たちに与えられた教えです。イエスの弟子たちとは、イエス御自身が命をなげうって買い取られた者たちのことです。自分を傷つけた相手を赦すことはとても困難なことです。小さな自我のぶつけ合いでしたら、時間が経って、それぞれ反省すれば解消することもあるかも知れません。けれども、時にもっと深く誰かに傷つけられてしまった場合、その相手を赦すことができるかどうかは、自分自身が神の御前に赦されているかどうかにかかかっています。このことを心底受け入れることもまた困難かも知れません。私のために御子イエスが死ななければならなかったこと。それを、主が心から喜んで引き受けてくださったことを、私たちたちひとり一人が本当に自分のこととして受け止めなければ、この譬えは意味がありませんし、赦しは不可能です。

 教会で、私たちが過ちを犯した仲間を赦して受け入れることが出来る根拠は、神が私たちの罪を赦してくださっていることにあります。限りなく赦していただいているのですから、仲間たちの罪も赦せるのではないかと、御言葉によって絶えず促されています。際限のない赦しに生かされた私たちが、神の恵みの中で赦しに生きるものとされますように願いながら、私たちの為に十字架を負われた主イエスの苦しみを思って、この受難週を過ごして参りたいと願います。

祈り

天の父なる御神、あなたの限りない憐れみが私たちの上に注がれていることを忘れて、兄弟姉妹を恨み、傷ついた心を抱え込んでしまう弱さを私たちは持っています。どうか、聖霊によってあなたの愛を確信させてくださって、その恵みによって、赦す心を持つことができますように。また、あなたから与えられた愛すべき兄弟姉妹たちを、悔い改めない自我の強さで傷つけてしまう私たちの罪からも私たちを清めてください。そうして、主イエスの教会が、あなたの憐れみを周囲に示す、希望のしるしとなりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。