マタイによる福音書19章13-30節

天国に入る子どもたち

 

 今日の御言葉では「誰が天国に入るのか」という問答が中心に置かれます。まず、子どもたちが親に連れられて主イエスのもとへやってきました。このとき、イエスが何をしておられたかと想像しますと、先の脈絡から考えれば、もう家に帰って休んでおられたのかも知れません。そうであれば、人々が子どもたちの手を引いて、或いは赤ちゃんを腕に抱えて、わいわいがやがやと宿に殺到したのであれば、弟子たちもいい顔はしなかったのだろうと思われます。けれども、イエスはこの子どもたちを御自身のもとへ受け入れられました。「わたしのところに来るのを妨げてはならない」とは弟子たちを諭して言われたものでしょう。弟子たちにとって、子どもたちは伝道の対象外であったのだと思います。子どもは世の宝であるのには違いありませんが、「子どもの人権」などが真剣に議論されるより遥か昔の時代のことです。父権主義的な時代や社会の中では妻や子どもは一個の人間というよりは男性である主人の持ち物です。しかし、主イエスがお示しになった態度は、世の中の常識とは違っていました。子どもたちもまた、他の大人たちと同様に、自由にイエスに近づく権利をもっています。それどころか、主イエスによれば「天の国はこのような者たちのものである」とさえ言われます。一人前の大人として世の中で認められることや、社会に何か貢献するだけの価値があると認められることが、天国に入る条件となるのではないことがここで明かされます。それは、親に連れ来られるのでなければイエスに近づくことさえ出来ない無力な者が、ただ、「来させなさい」とのイエスの許しによって天国に入れていただけることを表します。天国の救いはただ、神の憐れみによって、求める者すべてに無条件で与えられます。

 これと対照的な話が16節以下に続きます。一人の男性がイエスにもとを訪れます。20節では「青年」だと紹介されています。また、彼は金持ちであったことも後に記されます。この立派に成長した青年は、ここにある問答から察するに、幼い時から聖書に基づく信仰教育を受けて、神との契約を守って品行方正に生きてきた人に違いありません。旧約聖書の詩編には「ハシディーム」と呼ばれる人のことが時折現れます。後のユダヤ教では神への情熱を信仰の中心に据える敬虔主義の流れを指しますけれども、聖書の中では律法への忠誠を誓った義人のことをそう呼びます。ユダヤの青年たちは律法に示された神の完全な道を歩んで正しい人間になることを信仰の理想としていました。まさにそのような青年がイエスの前に姿を表したわけです。

 この青年は「永遠の命」を得たいと願ってイエスを訪ねてきました。ただ、それをイエスからいただくということではなくて、今までの生き方どおりの延長で、それが得られると思ってのことです。つまり、神の掟を完全に守りきれば永遠の命に辿り着く資格が得られるとの考えです。彼はその途上にあって、自分にはその資格があると思っていたに違いありません。「どんな善いことをすればいいのか」との質問に答えてイエスは十戒の言葉をもってお答えになります。そこに「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記19章の掟を加えておられます。確かにこれは、律法の中心と言われる掟に相違なく、イエスが説かれた隣人愛の実践です。

 「そういうことはみな守ってきました」との青年の答えは、常識的にいって決して傲り高ぶった態度ではないのだと思います。彼一人が特別立派なのではなくて、家庭に恵まれて真面目に育ったユダヤ人の青年であれば誰もがそのように答えたでしょう。しかし、聖書に従って正しい人間として生きていく歩みが、そのまま永遠の命に結びつくとは彼には確証がありませんでした。正しい人には神の祝福が与えられることを地上の生涯には約束されていました。青年は裕福であったようですから、それで既に結果は出ています。しかし、「永遠の命」という報償はまた次元の違う問題です。ダニエル書の預言を除いては、律法にはそのことはまだそれほどはっきりとは記されていませんでした。青年はまだ自分の行いには欠けがあるのではないかと感じていました。

 その欠けは、青年の意識の中にありました。イエスは神の求めておられる完全な義をお示しになります。それは、すべてを捨ててイエスに従うことです。神の国と神の義を第一とするために、地上の富をもはや自分のものとしないで、隣人愛の実践に費やすことです。こうして、裕福な青年の素朴な自己意識は崩されます。彼が自分の信仰の行く末に不安を感じた通り、彼の自己評価は自分なりの評価に過ぎないことが分かりました。イエスがお示しになった完全な道は、人間に絶対不可能なほど突飛ではありません。現に、イエスの傍らにはすべてを捨てて従ってきた弟子たちがいます。27節でペトロはこう言っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」。嘘や思い上がりでなくして、ガリラヤ湖の漁師であったペトロたちは家を捨て、仕事を捨てて、イエスに従って旅をしています。ただ、裕福な青年にはそれが出来ませんでした。彼の信仰が、自分の育った環境や豊かな資産の上にこそ成り立っていたからです。青年はその事実に愕然としながら悲しんで立ち去りました。

 この出来事から、主イエスは弟子たちに「金持ちは天国に入れない」と評価されます。「難しい」と言っておられますが、「らくだが針の穴を通る方が易しい」のですから絶対無理だということです。これには弟子たちも驚いています。裕福であることは悪だ、という教えは聖書にはありません。むしろ、地上の富は神の祝福です。例えば、正しい道を歩む人は豊かな祝福に報いられるという事例が、ヨブ記の終わりや、ソロモン王時代の繁栄ぶりに見られます。イエスに従った弟子たちもまた、確かにすべてを捨てて従ってきたとはいえ、まだ地上での見返りを期待してのことであったかも知れません。

 「金持ちは天国に入れない」とイエスが仰ったのは、単に金銭の問題だとか、人間の欲深さを指摘しているのではないと思います。それは、この世への執着です。何を自分の人生に基盤にしているか、という人生の根本についての問いがここに含まれています。金銭への執着はとても分かりやすい例だと思います。お金がなくては生きていけないと多くの人が考えています。確かにある面その通りですが、それが私たちの生活の根底にある価値観であるとしたら、私たちが天国へ入るよりもらくだが針の穴を入る方がまだ易しい、とイエスは言われます。イエスの弟子となって、捨てるべきものについては、29節によれば、「家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑」を含んでいます。財産、家族、仕事、そうしたすべてが天国に入るための障害になるわけです。そうしますと誰もが弟子たちのように、「それでは、誰が救われるのだろうか」と問わざるを得ないのではないかと思います。イエスはすべての人が世捨て人にならなくてはならないと仰っているかのようです。

 しかし、すでに誰が天国に入ることができるのか、という質問には答えが示されていました。主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と言って、子どもたちを御許に集めました。そして、26節では次のように言われます。「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」。大人は自分が生きていくために、或いは、永遠に生きる命を手に入れるために、自分自身でなんとかしなくてはならないと当たり前のように考えます。そして、生きるためにはお金が必要、家族が必要、仕事が必要と考えます。けれども、そこで忘れていることは、そもそもそうしたものはすべて神が私にお与えになったものであって、私の命すら神からいただいたものだ、ということです。その神に頼らずして、人間が自分の力で神の救いに達しようと願っても、天国にある永遠の命はそのような形で自分のものにすることはできません。救いは無力な子どもたちのもとにやってきます。悲しんでイエスのもとを去った青年も、完全にはなれない自分の無力さを知って、ひたすら神の憐れみにすがって救いを求めるならば、神が彼を変えてくださって、永遠の命を与えてくれます。

 イエスは弟子たちに「完全な者になりなさい」と教えておられます。ですから、イエスが青年に答えられた「完全さ」は「もしできるならやってごらん」という仮の話ではないはずです。青年が悔い改めれば裕福なままでも天国に入れる、ということではなくて、神の力によって青年が悔い改めたとき、イエスの言われた完全さが青年の内に現れることを意味しています。

 そうした例を求めるならば、ルカ福音書にあるザアカイの話を思い起こすことが出来ます。ザアカイは収税人の頭で裕福な暮らしをしていました。イエスが彼のもとを訪れたとき、ザアカイは罪を悔い改めて、財産の半分を貧しい人々に施すと自分から申し出ました。人にはできないけれども神には出来る、とはこのようなことです。家を捨て、家族を捨て、仕事を捨てる、とは世捨て人になることを意味していません。後のイエスの弟子たちには家族を持った者もありましたし、パウロも手に職をもった宣教師でした。しかし、神の力によって本当の弟子となった彼らにとって、生きるために必要な第一のものは神御自身となりました。地上の生活のために与えられるその他のすべてのものは、神に仕えるための手段として感謝して受け取り、隣人愛の実践にささげられるものになります。中には、裕福な弟子たちも現れます。それは、授かった資産を用いて神に仕えるためのものです。そうして、救われる者ひとり一人に与えられる分は異なります。けれども、天の国の子どもたちには、永遠の命が約束されるとともに、地上でキリストの御業をなすための賜物が誰にも豊かに備えられます。

 悔い改めたザアカイが、財産の半分を貧しい人に施したものの、半分を自分のもとに残したのは、彼がまだ不完全であることを表します。それでも、ザアカイは神の憐れみによってイエスの弟子となりました。神の御前にあって完全な人とはイエス・キリストお一人だけです。人は誰も自分からイエスのようになることはできません。ですから、救いはイエス・キリストの完全によって果たされます。つまり、私は神の御前でいつでも欠けのある罪人に過ぎないのですけれども、イエス・キリストが私に代わって神の掟を完全に守ってくださったので、私は完全な者と看做していただけるのです。ひとには出来ないけれども神には出来る、ということは、つまりキリストが私に代わってすべてをしてくださる、ということです。イエス・キリストが、私に代わって、神の律法を完全に行ってくださった、ということを、キリスト教の教理では「キリストの積極的服従」と言います。私の代わりにキリストが罪の裁きを負ってくださった、という十字架の道への服従のことは「消極的服従」と言います。改革派教会の創立者でありました岡田稔先生が最後に残した言葉は、「私はキリストの積極的服従によって救われた」というものだったと聞きました。ご自分の弱さを自覚されて、しかし、キリストが私のために完全であってくださったことに平安を覚えて、生涯を喜んで宣教の働きに捧げることができた先生であったのだと思います。

 キリストと共に連なる栄光の座につくとの約束は、地上の祝福に勝る百倍の報いと言われますが、それを具体的に想像するのは困難かも知れません。しかし、目に見える地上の財産に希望を見いだそうとしても、そこに救いはありません。神は、天の国を見上げることの出来ない罪人である私たちを憐れんでくださって、御子キリストによる救いの道を開いてくださいました。救いについては無力な私たちが、イエスに近づいていくのに誰も資格は問われません。ただ、十字架と復活によって、神に完全に服従されたキリストの恵みを子どものように信じるものだけが、天の国で永遠の命をいただきます。キリストを信じて従った弟子たちは、文字通りすべてを捨てて、信仰に生きました。中には、迫害によって命を失った者さえありました。しかし、百倍の報いは本当だったのでしょうか。家を捨てた弟子たちがあったも知れません。しかし、家を開け放って家の教会としてささげた兄弟姉妹たちは、世界の各地至る所に教会という新しい家を持つことになったのではないでしょうか。家族を捨てて、キリストに従った弟子たちもあったと思います。しかし、そのような決断をした時に、家族もまたキリストに導かれたばかりか、教会を通して新しい兄弟姉妹たちを持つようになったのではないでしょうか。信仰の故に子どもを持つことができなかった弟子たちがあったかも知れません。しかし、キリストは子どもたちを拒むことはなさらず、教会にはいつでも子どもたちが沢山いました。教会はその子どもたちを自分の子どもとして信仰の内に育てる義務があります。畑を捨て、船を捨てて、イエスに従った弟子たちは、新しい土地を開拓し、人間を漁る漁師になり、世界の果てまで駆け巡りました。報いは百倍どころではなく、海の砂、天の星を数える程の豊かな祝福となって今日に至ります。「新しい世界」は世の終わりにキリストとともに到来します。ですが、しエスが復活されて以降、すでにそれはキリストの教会の内に姿を見せています。私たちはもはや永遠の命を得るために善いことを模索する必要はありません。既に、永遠の命をキリストの内に見、確信したから、キリストの義に覆われて、隣人愛の実践に向かいます。そうして、キリストを信じた時から、神の力が私たちの内に働いて、天の国が近づきました。らくだが針の穴を通ったのです。共に救いの完成を目指して信仰の歩みを進めましょう。

 

祈り  天の父なる御神、あなたの力強い救いが私たちの上に及んで、天の国を、永遠のいのちを信じることのできる幸いを感謝します。尚も肉の思いに引かれて、私たちの人生に悲しみは尽きませんけれども、あなたはキリストにある私たちの栄光を見させてくださって、希望をもって生きることができます。どうか、主イエスとともにあなたの子どもとして、喜んであなたのお示しになった愛の道を歩むことができますように、いつも恵みを絶やさないでいてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。