マタイによる福音書2章1~12節

異邦人たちの礼拝

 

 今朝、読まれました箇所は先週に引き続いて、クリスマスの度に私たちが想い起す、東方の博士たちのことを記した箇所です。イエス・キリストの御降誕は、暗闇の中に光が灯されたような出来事でした。イエス・キリストがお生まれになったことで、神はキリストにあって、すべての人と共におられるお方であることが分かりました。その救いの光が人々を神のもとへ導きます。今は、すべての人が、神がお与えになった光に導かれて、神のもとへ立ち返る時です。私たちもまた、その光によって神に希望をおき、私たち自身をささげものとする礼拝をささげています。東方の博士たちとは、星の光に導かれて救い主を礼拝した最初の異邦人たちの実例です。

 

星に導かれて

 新共同訳では「占星術の学者たち」となっていますが、星座の研究によって人々の運命を占ったペルシャの異教徒たちを指しています。三人であった、とは聖書には書いてありません。14人の団体であった、という古いキリスト教の伝承もあります。ともあれ、この占星術の学者たちがささげ物を携えてキリストを礼拝するために、日の昇る方から、つまりそれが「東」なのですが、はるばる旅をしてやって来た、とここに記されています。

この異邦人たちによる礼拝に先立って、旧約のイザヤ書には次のような預言があります。先に御一緒に交読した箇所です。

 

見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。(イザヤ書602-3節)

 

 これはバビロン捕囚からエルサレムへ帰還した人々の希望となった言葉でした。しかし、占星術の学者たちが東の空から昇った星を認めて旅を始めたとき、イザヤの預言は決定的な成就へと向かいました。それは、神の救いが選びの民イスラエルから溢れ出て、救いを願うすべての人々に及んでいくことの始まりを意味しました。

 

 占星術の学者たちが夜空に認めた光は希望のしるしです。その星が現れた時、ユダヤ人の王が生まれて、世界の救いが成就する―救いはユダヤ人から来ることを彼らは知っていました。そして、彼らはベツレヘムへの旅に出ます。旅の目的は、救い主である新しい王に礼拝をささげることです。ただし、どこへ行けば会えるのか、彼らは正しくは知っていませんでした。そこで彼らは、まずエルサレムで正しい知識を求めました。

 エルサレムでは、ヘロデ王のもとで民の祭司長たちや律法学者たちが、救い主のお生まれになる場所を聖書の預言に基づいて教えてくれました。ミカ書節にある言葉です。ベツレヘムはダビデの生まれた村で、ダビデの子孫として来るべきメシアもまたそこで生まれるはずでした。

 占星術の学者たちに主イエスの所在を正しく教えたのは聖書の言葉です。聖書に導かれて、彼らは再び救い主を目指して歩み始めます。そして、彼らの前には、再び、希望のしるしである星が現れました。その星が幼子のいる場所まで彼らを導きました。

 

 主イエスを礼拝した最初の異邦人たちを、幼子のもとまで導いたのは神の不思議なお働きです。星は直接に幼子の居場所まで彼らを連れて行きません。まず、聖書の言葉による正しい方向付けが必要でした。救い主の到来については、聖書に予め書き記されているからです。このことは、すべての人に当てはまります。闇を感じ取ることができるこの世界には、人の希望となる星が既に昇っています。その光に導かれて出かけるところは、エルサレムの都、イスラエルの神が礼拝されるべき場所です。そこに御言葉があります。神が救いを約束された聖書がそこで解き明かされます。聖書によって、人はそこから進むべき道が指し示されます。

 

 占星術の学者たちは、御言葉を聴いて、さらに先へと急ぎました。星が再び彼らの頭上に輝きました。そして、その星が、主イエスのおられる居場所の真上に留まった時、彼らは無常の喜びに満たされました。いよいよ、救い主にお会いできるからです。

 この一連の出来事は、すべて学者たちの信仰を語っています。初めに、「ユダヤ人の王」を救い主として待ち望む信仰があります。彼らがどこでその話しを聞いたのか、捕囚の民の子孫であるバビロニアのユダヤ人たちから聞いたのかどうかは分かりません。ともかく、異邦人である彼らにも、星を通じて希望が与えられました。

 彼らは遠い空にしるしを見出した時、その星を頼りに、旅に出ました。信じなければ、旅に出ることもありませんでした。

 彼らは自分の力で、あるいは占いの術を用いて、救い主の居場所を特定しようとはしませんでした。エルサレムに住む人々に行くべき場所を尋ねました。聖書の言葉に謙虚に耳を傾けました。その言葉を信じたからこそ、預言に記されたとおりのベツレヘムに向かって、再び歩み始めることができました。

 そして、御言葉を信じて主イエスに遭いに行く、その道行には、救いを示す星が先立って輝いていました。進むべき方向は確かでした。星が止まって、救い主の居場所が示された時、彼らの旅は目的地に到達します。彼らが信じた歩みは正しかったことが明らかになりました。

 

 このような旅をしてきた数え切れない旅人たちがいて、私たちもその中に含まれます。希望をもって、信じて旅に出るならば、必ず救い主にお会いすることができます。聖書の言葉が、その希望に確かさを与えてくれます。

 他方、すべての人が、この信仰の旅に出かける訳ではありません。現にヘロデ王もユダヤ人知識階層にあるエリートたちも星のしるしには気が付きませんでした。占星術の学者たちにメシアの生まれる場所を教えておきながらも、預言の言葉を信じて出かけたのは異邦人である占星術の学者たちだけでした。信じなければ、旅は始まりません。しかし、信じる人々の上には星が輝いています。

 

 

喜びにあふれて

 幼子イエスにお会いした占星術の学者たちは、喜びに溢れて礼拝をささげました。礼拝をささげることが、そもそもの旅の目的です。ここには信仰の旅路のひな型があります。信仰の旅は、主イエスの前で礼拝をささげることで目的地に達します。信仰者の人生は、主イエスにお会いして、喜びに満ちた礼拝をささげることへと向かいます。生涯の行き着くところがそこにあります。信じる私たちは終わりの時、主イエスを仰いで、すべてをささげきって喜ぶことができます。

 同時に、これは私たちの生活のリズムです。主の日の礼拝は、喜びにあふれて、主イエスにお会いする場所です。一週間の歩みを通して、星が私たちを礼拝へと導きます。そうしますと、救いを待ち望む思いと、喜びに満ちた礼拝とは一続きであることが分かります。日毎の生活に満足しきっている時には「救い」もどこかへ押しやられてしまっているかも知れません。けれども、罪の現実に目覚めていれば、神でなければ解決できないような問題が、私自身にも、私の近くにいる誰かにもあります。そうした、日々打ち砕かれるようなことがあって、それらに目をつぶってしまうことができないからこそ、救いを待ち望む思いが募ります。

 ですから、主の日の礼拝は、私たちの信仰からしますと、本来、待ち焦がれるものです。礼拝出席を習慣づけることを目的にするならば、確かに訓練という側面もあります。そこでは契約の義務が強調されたりもします。私自身も、特に子どもの頃は、親に叱られながら毎週日曜日に教会に出かけたことがありました。けれども、私たちの人生に確かな希望があって、心も身体も貧しいけれども、主イエスにお会いして、礼拝をささげれば、私たちは前もって天国をそこで知ることができる。毎日の労働や人間関係にほとほと疲れを覚えているのだけれども、礼拝では、素晴らしい方を素晴らしいといい、偽りなく自分自身を受け止めてくださる方が、見えないけれどもそこにおられて、許しと励ましの言葉をくださる、そう信じるときに、礼拝はまさしく人生のオアシスであり、闇の中に置かれた明るい部屋であるのに違いありません。本当に救いを望んでいれば、誰から強制されてでもなくて、内側からの喜びに促されて、私たちは主の日の礼拝に辿り着きます。

毎日の信仰生活と主の日の礼拝とはこうして一続きの旅だと、今朝の御言葉に合わせて言うことができます。

 

すべてをささげて

 「アマールと夜の来訪者たち」という米国でよく知られたお話があります。日本ではまだそれ程知られていないようで、絵本がどこかにあるようなのですが、残念ながら私はまだ見ていません。元々は1951年にメノッティというアメリカで活躍したイタリア系の音楽家が、テレビ番組のために作ったオペラだそうです。次のようなお話です。

 三人の博士たちがベツレヘムに行く途中、ある貧しい家に立ち寄りました。その家には、お母さんとアマールという男の子が住んでいました。アマールは生まれつき足が悪くて、杖にすがってでなくては歩けませんでした。

 ある夜、家の扉をどんどん叩く大きな音がしました。お母さんはアマールに、「行って、誰だか見ておいで」と言いました。アマールは戻ってくると、「お母さん、王様だよ」と答えました。お母さんは大きなどなり声で、「ばかなこといわないで。ちゃんと見てらっしゃい」とアマールに言いつけました。アマールがもう一度玄関に戻ってみると、今度は王様が二人立っていました。アマールは、「王様が二人いるよ」とお母さんに伝えますが、また、怒鳴られてしまいます。「もう一度行っておいで」と言われて、もう一度玄関に戻ってみると王様は三人になっていました。博士たちは東の国の王様でした。

 三人の王様は、アマールの家に入ってきました。そして、お母さんといろんな話しをしていました。最後に、お母さんは、王様たちに何か贈り物したいと考えましたが、家は貧しくて何もあげるものがありませんでした。アマールにもお母さんが困っているのが分かりました。アマールにも王様にあげるものなど何も持っていませんでした。けれども、どうしても贈り物がしたかったので、アマールはついに決心して王様たちにこう言いました。「僕の杖をあげます」。確かにそれは、アマールが持っているたった一つの大事なものでした。そして、アマールは杖を持って王様たちに差し出したのです。

 するとそこで、奇跡が起こりました。アマールは杖をあげてしまったにもかかわらず、自分の足で立っていました。お母さんも、息子が自分の足で歩いているのを見てびっくりしました。

 アマールは自分のもっている一番大切なもの、それがないと生きていけないと思っていた宝物を手放してしまったのです。けれども、そうすることで、アマールは自分で自由に歩けるようになりました。

 

ここで感動的に描かれているのは、主人公のアマールの身の上に起こった奇跡ですが、彼のささげた杖がその癒しの奇跡を呼び起こしたという点でした。これは今朝の御言葉にある、占星術の学者たちがささげたささげものから導き出された解釈ですが、そのこころは、自分が頼らざるを得ないと思っているものを手放した時に、神の救いが身の上に成就する、という信仰の本質に関わることです。

この「手放す」もしくは「ささげる」ことのモチーフには二つの方向性があります。一つは、神に向けて。つまり、社会的な地位も財産も名誉も人間関係も、それが無くては生きていけないというものすべてを、神に差し出してしまう、ということです。主イエスに従った弟子たちのように、それをそのまま形に表すことは殆ど不可能に近いのかも知れません。ですが、すべてのものを神にお返しして、すべてのものを恵みとして神から受け取ることを生活の根底に据えるのは、私たちの信仰のかたちです。ささげる最後のものは自分の命ということになるのでしょうけれども、それもまた、神にお返しして、神からいただくもの。そういう、この世のものとの断絶が一度私たちの内に生じて、初めて、私たちは本当の意味で自分の足で立つようになる。何かに依存して生きるのではなくて、神に支えられて生きるようになる。そこに本当の自由への解放があります。

 もう一つの方向は、隣人に対してです。「ささげる」とは言え、実際に神はご自身のために私たちから何かを取り上げる必要は全くありません。私たちが何かをささげて、それによって神が養われるわけでもありません。私たちがささげるのは、第一に神を礼拝するためですが、それは同時に隣人と分け合うためです。教会でなされるささげものは、教会のために、それはここに集う兄弟姉妹皆のために、教会を維持するために用いられます。神にささげられたものが、神に祝福されて、教会のために用を成します。また、それは、教会間の交わりのために相応しく、献金として各方面に送られます。

ささげものは私たちの日常生活でも行われます。直接的な主の日の礼拝ではなくても、私たちの個人的な礼拝行為として、それが行われます。助けを必要としている人たちに、自分のもっているものを快く分け与えることは、私たちの日常の中で実を結ぶ礼拝行為です。

 

今朝の御言葉に記された異邦人たちの礼拝は、私たちと主イエスとの関係を表しています。救い主が私たちのためにお生まれになりました。私たちはそのお方を喜んで礼拝します。すべてをそのお方にささげて、罪からの解放を心から祝います。誰も何も強いられてはいません。希望が、御言葉を信じる者たちの上に輝くのであって、救いを待ち望んでいる者たちは自由に喜んで主イエスのもとに集います。

私たちのためにお生まれになった「新しい王」のことを思い巡らしながら今日の歩みを進めたいと思います。このお方の御支配を受け付けない部分が心の中に見つかる時、私たちは自分の内にもヘロデがあることに気づかされます。ヘロデもエルサレムの住民も、この世での自分の立場を守るために「新しい王」を十字架につけました。そうした罪に気がつかされることも、真の待望への道であろうと思います。そうした救い難い人の罪を知りつつ赦して十字架に上られた主は、私たちを本当に救うことのできる救い主です。それを改めて知らされたならば、またここで「新しい王」と出会うことができます。

 

祈り

すべての人々の光である父なる御神、あなたは星のしるしによって異邦人たちを礼拝に招き、御言葉の真実を証してくださいました。いよいよ到来した救いを心から受け入れることができない鈍さを私たちも持っておりますが、どうか、罪からの救いを真に願うことができ、救い主として世に来られた主イエスを心からほめたたえさせてください。あなたは私たちに恵みをもって応えてくださいます。自分自身が持っていることを誇りとするのではなく、あなたがすべてを与えてくださることに感謝して、主イエスのもとにある豊かさを喜ばせてください。どうか、終わりの日に至るまで、あなたを礼拝する喜びを私たちに与えて希望を保たせてください。主イエスを目指して旅する仲間を私たちの教会の礼拝に導き、主にある交わりに加えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。