マタイによる福音書2章13~23節

ナザレのイエス

 

 今朝は宗教改革を記念する礼拝を皆様と御一緒しています。記念日は31日ですけれども、それに最も近い主の日に記念礼拝を行うのが慣例となっています。マルティン・ルターが宗教改革の口火を切ったのは1517年の10月31日のことでした。ルターはドイツ中東部のヴィッテンベルグという町で大学教授をして神学を教えていましたが、当時のローマ・カトリック教会の信仰に疑問をもって、その日に公開質問状をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼り出しました。それが今日では宗教改革の始まりとして記念されます。

「宗教改革」と私たちは言っていますが、これはキリスト教に霊的な刷新がもたらされた教会の改革運動です。ルターの活躍したドイツを皮切りに、スイスやフランス、イギリスにもその改革運動が飛び火して、ついにローマ・カトリック教会に対抗するプロテスタント教会が各地で誕生します。私たちの標榜する「改革派教会」は、ルターの次世代に属するジャン・カルヴァンがスイスのジュネーブで行った改革運動にルーツを持ちます。それは、ルターが掲げた「聖書のみ」という原則を継承して、「御言葉によって改革し続ける教会」であろうと願った新しい群れでした。また、宗教改革が教会の刷新をもたらしたのは、プロテスタント教会においてばかりではなく、ローマ・カトリック教会もこの時を契機に自分たちの誤っていた点を見直して新しく歩み始めています。キリストの教会が歴史の中で行く先を見失った時代にあって一際力強い光を放っていたのは、ルターやカルヴァンなどの傑出した人物であったというよりも、それらの改革者たちを突き動かした聖書のことばでした。聖書のことばを通して、聖霊なる神が、教会を腐敗から浄め、新しい生命力をもたらしてくれました。

私たちは今日、私たちのルーツを指し示す宗教改革の出来事を思い起こしながら、私たちもまた、いつも聖書の御言葉に立ち返って改革され続ける教会でありたいと、聖霊の働きを心から願います。私たちの信仰の原点には、今も生きておられる神の言葉である聖書があって、私たちはいつもそこに立ち続けるということを心に留めたいと願います。

 

 今朝の御言葉は、マタイ福音書から続けて聞いている箇所です。聖霊によって身ごもったマリヤは、無事に主イエスを出産しました。まだ年若いヨセフとマリヤの夫婦が、救い主を家族の内に迎えて、自分の子どもとして育てるという大切な役割を与えられています。貧しさの中で家族を養っていく責任は、特にヨセフにかかっています。彼らの苦労は単に若さや貧しさの為ばかりではありませんでした。お生まれになった主イエスには、その初めから受難の道が備えられていました。ヨセフとマリヤは、まだ幼子である主イエスを守る役目を授かった両親として、その険しい道行を共に歩まねばなりませんでした。その彼らを守ったのは、御言葉に忠実に従ったヨセフの信仰でした。

 

 占星術の学者たちは主イエスを礼拝した後、ヘロデ王のところには戻りませんでした。「ユダヤに新しい王が生まれた」という知らせは、ヘロデ王とエルサレムの住民を不安にさせていましたが、博士たちが何の情報ももたらさずに黙って帰国してしまったことは、さらにヘロデ王を激怒させることになりました。16節によりますと、「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った」とありますが、「騙された」とは「馬鹿にされた」ということです。ヘロデ王は自分の妻や息子たちをも疑って殺害してしまう程の病的なコンプレックスの持ち主でした。ですから、他人の嘲笑には最大限の残忍さをもって応えます。古代のヒトラーよろしく、ベツレヘム周辺に住む2歳以下の男の子を皆殺しにしました。

 ヨセフとマリヤに与えられた難題は、まず救い主の命を狙うヘロデ王の魔の手から逃れることでした。子育ての喜びに浸る間もなく、家族は追われるようにして遠くエジプトへ逃れます。

 

 ヘロデの手を逃れての旅行きで主導権を握っているのは夫のヨセフです。ヨセフは幼子とマリヤを連れて、エジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこに滞在することになりました。主イエスは幼年時代をエジプトで過ごしました。

 マリヤの夫ヨセフについては、あまり多くのことは知られていません。聖書の中では一言も言葉を発しませんので、「沈黙の人」とも呼ばれます。今日の箇所でのヨセフも「沈黙の人」であり、話すのはもっぱら「主の天使」です。ヨセフはただ黙って天使が告げた言葉を聴き、その通りに行動します。

 家庭を守るための知恵がヨセフには普通以上に求められたはずです。しかし、そういうヨセフの人となりについて、わたしたちは何も知ることができません。ヨセフが家族を守るためにしたことは、ただ夢で示された御言葉に従順であることでした。旅をするに当たって、家庭での主導権を握るのは本当のところ彼ではありません。神の言葉が導き手です。ヨセフは神の言葉を信じました。神に導きを委ねて、エジプトへ行き、ナザレへと旅を続けました。

 ヨセフという名前からは、旧約聖書の人物が想い起されます。創世記に登場するヤコブの12人の息子の一人で、兄弟たちの妬みを買ってエジプトに売られてしまった人です。ヨセフは初めエジプト人の奴隷でしたが、同時に神に仕える忠実な僕となり、夢を解く力も授かって、やがてエジプトの宰相に抜擢されました。激動の人生を歩むことになったヨセフですが、それもこれもすべて神の計画に基づくものであり、その本当の意味はヤコブの一族が飢饉を逃れてエジプトにやってきた時、はっきりしました。神はイスラエルの家族を救うために、ヨセフをエジプトに送り込んだのです。ヨセフはそうとは知らず、ただ神への忠実な信仰に生きることで、神の救いを実現する道具となりました。

 

 主がご自分の命を託された小さな家族に、ヨセフという名の僕が選ばれたのも偶然ではないでしょう。彼の悩みも苦闘の様子も何も知らされてはいませんが、彼は夢で告げられた言葉に従って、幼子と母を連れて旅を続けました。

 

 こうした逃避行を続ける小さな家族には何も華々しい、英雄めいた話は用意されていません。神ご自身すら、ここでは働きを控えておられて、ヘロデの追っ手を天の軍勢で撃退する訳でもありません。人間としては実にか弱い救い主が、世の権力者に追われて逃げ回ります。この時、貧しく弱い姿をとっておられるキリストは、ただヨセフの信仰によって守られています。

 ヨセフとマリヤと幼子イエスは、こうしてベツレヘムからエジプトへ、そしてまた、エジプトからガリラヤのナザレへと移り住むことになりました。これはすべて預言者たちを通して神が語っておられたことの成就だと福音書は告げています。ヨセフが旧約聖書を熟知していて、その預言の通りに行動計画を立てた、ということではありません。ヨセフはその都度、与えられた御言葉に従って逃げました。家族を守るために危険から遠ざかりました。それが、すべて神のご計画に沿ったことであり、救い主イエスの道は、すべて神のお働きだと私たちに告げられています。

 

 ヘロデがもつ強大な権力とは対照的な、力のない小さな家族の上に神の御手が置かれました。このヘロデとヨセフ、もしくは幼子イエスとの対照は、主イエスによる救いが、この世の力によるものではないことをはっきりさせます。神は逃げ回る小さな家族の内に真の王を隠しておられ、強大な暴力から信仰者たちを遠ざけて守られました。幼子の内には見たところ何の力もありませんが、確かにそのお方がこの世に救いをもたらします。

幼子は成長しても、同じように力のないお方です。むしろ、有力者たちからは遠ざかって、貧しい人々の仲間となり、弱い人間の一人であり続けて、最後には十字架にかかって死んでゆかれます。けれども、そうした弱さの内で、神の救いが果たされます。預言者たちを通じて語られてきた、決定的な神の救いが実現します。神が御子によって果たされる救いは、見た目の繁栄とは直接結びつきません。イエス・キリストによって私たちに与えられる救いは、この世界が陥っている罪の呪いからの解放です。

 

 罪の呪いは怒り狂ったヘロデの暴虐ぶりに典型的に現れています。ヘロデという個人の内面を深く掘り下げるような視点はここにはありません。むしろ彼の政治的・歴史的な振る舞いに人間の罪の病理が深刻に描き出されます。人の魂が神の言葉に癒されることがないならば、世界はいつの時代にも繰り返しヘロデを登場させ、幼子を失ったラケルの嘆きがテレビの画面を通じてこだまし続けます。

 

 しかし、既に私たちの住む世界では、救いの御子が十字架にささげられて、神の怒りを解かれた罪人たちが神に立ち返って生き始めています。福音書はそれを新しい出エジプトとして描いています。主イエスのエジプト下りと、イスラエルの地への帰還は、新しいモーセの登場を告げます。モーセに導かれて果たされるエジプトからの脱出は、罪人が罪を悔い改めて、呪いから祝福へと帰っていく、全人類に向けられた新しい脱出のための予告でした。御子イエスは、モーセに優るまことの救い主として世に来られ、私たちを罪の滅びから救うことのできるお方です。

 

 逃げ回る幼子とその家族の姿は実に頼りないものなのですが、御言葉に従いつつ歩む信仰者たちの歩みは得てしてこのようなものです。キリスト者は力で立ち向かってくる者に対して力で立ち向かうことを拒否しました。キリスト教の歴史を振り返ったり、現在のキリスト教国の勢力を思うと、とてもそうは思えないところもありますが、本来のキリスト教会は権力とは無縁です。

ヨセフは御言葉にすがって、ともかく家族を守って生きることがすべてでした。その信仰が、救い主を悪の手から守る特別な働きを可能にしました。人間の罪、この世の悪と戦うのは神御自身です。もちろん私たち自身がその前面に立たせられることがあるにしても、そこで勝利を得るのは神の御言葉です。荒れ野の誘惑において主イエスがサタンを退けられたのは御言葉によってでした。

 

ヨセフとマリヤに幼子が託されたように、私たちにも主はある意味でご自身を託しておられます。私たちは神の御手に守られながら、大切な福音、救いの言葉を交わりの中心にいただいて旅を続けます。家族ばかりではなく、小さな信仰の仲間たちとの交わりもそう、私たちの教会も、神が私たちに与えてくださっている小さな交わりを、神の言葉を頼りにして守っていくのが信仰者の責任であるといえるでしょう。それが人の目にはどんなに拙く見えても、そういう信仰者の忠実でひたむきな生活によって神の御業が果たされます。自分ではそうと気がつかないところにも神の配慮が与えられています。日毎の感謝の積み重ねが明日への希望となります。私たちはそうして神の御計画に仕えます。

 

もう少し、ヨセフとマリヤの家族について想像を膨らませますと、やはり幼子は喜びに違いなかったろうと思います。恐るべき魔の手が迫っているとしても、小さな命を守らねばならない責任の重さにあえぐことがあったとしても、その輝く命を宿した救い主が一緒にいることはどれほど尊く、心が躍るようなことであったでしょうか。私たちにもそれと同じ喜びが与えられています。主は御言葉と共に、私たちの内に宿られます。私たちの交わりのうちに。私たち一人ひとりの心のうちに、救いをもたらす霊として、私たちと共におられます。

 

宗教改革者たちは、御言葉と共にある喜びを知って、救いを形式化してしまった中世の教会から離れて行きました。それは心もとない逃避行であったかも知れません。ルターはカトリック教会を破門されて各地を転々としなければなりませんでした。しかし、神の言葉に対する熱心が、彼を聖霊の働き手とし、キリスト教会は聖霊の宮として新たに息を吹き返しました。

 神は御言葉に忠実であるものを救いの器となさいます。遠い未来に実現する神の救いの御計画の全体は、終末を除いて私たちの知るところではありません。ルターがプロテスタント教会の行方を知らなかったのと同様です。たぶん、ヨセフも主イエスの十字架を予想していたわけではなかったでしょう。しかし、キリストの救いが世の終わりに向けて実現していく、神の国が着実に進展していくその過程にあって、神は御言葉に聞き従うものたちと共にあります。今日、宗教改革を記念することの時、今朝の御言葉にありましたヨセフの信仰をも心に留めて、神の言葉に従うことの祝福と光栄を信じる者とさせられたいと願います。その信仰が確かである時に、御言葉を宿す私たちの教会も、神の救いの器としていただけます。

 

祈り

御自分の民に、御言葉に忠実な僕を起こして、救いを達成なさいます父なる御神、あなたは御子イエスばかりでなく、その家族も聖別されて救いの御業を果たされました。人間の力の及ばないところで、あなたの偉大な愛が救いを世にもたらします。どうか、私たちをも御言葉への信頼に導いて、あなたの御旨を行わせてください。あなたが主イエスの家族の内に喜びを与えてくださったように、私たちの教会にもあなたが共にいてくださる喜びを満たしてください。ここに集う兄弟姉妹たちそれぞれの家庭の上にも、御言葉への信頼から来る平安と喜びをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。