マタイによる福音書20章1-16節

後のものが先になる

 

人はどのようにして神に救われるか

 主イエスは弟子たちに、神の国はどのようなところか、ということ重ねて教えておられます。「神の国」がまさに「国」として目の前に現れるのは、キリストが再び来られて神の救いが完成する終末のことですから、それは私たちの知らない将来のことと思われるかもしれません。しかし、神の国は今の私たちと関係のない事柄ではありません。将来キリストとともに神の祝福を受けて栄光を受ける、今の私たちの生き方、特に、私たちの交わりの作り方、人と人との関わり合いに深く関係しています。主イエスは、「神の国は、あなたがたのただ中にある」と言われました。また、「あなたがたが、二人または三人で祈るところには、わたしもいる」と言われました。「国」は神が定めた未来のこととはいえ、そこにつながる今のあり方が、「神の国」の教えに示されます。教会は、まさに、主が教えておられる「神の国」が目指され、それがこの交わりの中に現れる場所です。今朝の御言葉から教えられますのも、主イエスの弟子たちの交わりの中で、つまり、それは教会の交わりの中で、心に留めておくべき神の御旨です。

 先には、人は天の国にどのようにしたら入ることが出来るか、との議論がありました。言葉を換えれば、人はどのようにして永遠の命を手に入れることができるか、とのことです。もっと一般的に私たちの言葉で言えば、私たちはどのようにして救われるのか、ということです。

 19章13節以下で主イエスは、ご自分のもとに連れて来られた子どもたちを受け入れまして、「天の国はこのような者たちのものである」と言われました。自分では何も出来ず、また、心に何の計算も持たないで、ただイエスから祝福を受けるために連れて来られた子どもたちが、そのまま天の国に受け入れていただける、ということがそこで明らかにされています。

 片や、16節以下には、立派な金持ちの青年がイエスのもとを訪れまして、「善いことをして」永遠の命を得ようとしましたが、それが不可能であることを諭されて、悲しんでそこを立ち去った、と書かれていました。善い行いを積み重ねて、人からも善人だと太鼓判を押されるようになっても、神のみ前に完全になるには人はほど遠い。しかし、完全にならなければ永遠の命には至ることができない。むしろ、人は誰しも自分が不完全であることを認めて、ただ神の一方的な憐れみにすがることしか救われる道はない、とそこで教えられました。

 人間は誰しも罪をもっていますから、自分自身を救うことは出来ません。しかし、人には出来ないことを神がしてくださるのでして、神の御子イエス・キリストが私たちに代わって成し遂げてくださった御業によって、私たちは救われます。子どものようにキリストに近づいて、罪赦されて、天の国に入れていただけます。人が天国に入るのも、永遠の命をいただくのも、ただ神の憐れみによるだけです。私たちの人となりや功績が評価されてのことではありません。神の国ではそのようにして、神の憐れみの法則が働きます。

葡萄園の例え話

 主イエスが、続けて「ぶどう園の労働者」の例え話を語られたのも、そのことを重ねて弟子たちに教えるためです。弟子たちは、金持ちの青年とは違って、すべてを捨ててイエスの後に従いました。それは、何よりもまず神の国と神の義を求める信仰の現れであって、それに対して主イエスは最高の報いを保証されました。けれども、来るべき世界で、キリストと共に栄光の座につくという栄誉が、当然の報いだと受け止められてしまうならば、それはやはり、立派な功績によって救われるということになってしまいます。すべてのものを捨て去ったということが評価されて、永遠の命を受け継ぐことになります。しかし、そうではないということを、主は弟子たちに念を押しておかねばなりませんでした。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われまして、「ぶどう園...」の例え話を加えておられます。

 天の国はぶどう園に例えられます。そこでは神が主人になっておられて、労働者たちが監督のもとで働きます。主人はこまめに気を配って日中三時間おきに労働者を集めに広場へ出かけます。初めに雇った労働者たちとの契約は日給1デナリオンでした。五千円くらいと考えておけばいいでしょうか。途中で雇った労働者たちには確かな金額は明示されていません。主人はぶどう園の作業が終わる1時間前にも広場へ行って、仕事にあぶれて途方に暮れている人々を雇います。こうして、一日のぶどう園の作業が終了して、労働者たちに賃金が支払われます。一日の賃金はその日の内に支払いなさい、と旧約の律法にもある通りです。

 そこで、主人は監督に指示を与えます。まず、最後に雇われた者から賃金を支払って、遡って最後に、最初に来た者に支払いなさいとのことでした。そして、主人は、ぶどう園で働いたすべての労働者に等しく1デナリオンの報酬を与えたのでした。

 こうして、例え話を通して知らされる神の御旨は明らかです。労働者たちはイエスの弟子たちです。弟子たちに与えられる報酬は皆に平等に与えられます。初めから召されて主に従った者も、後から召されて従った者も、受け取る報酬は皆同じです。「1デナリオン」は一日の生活費ですが、それが指すのは天の国で受け取る永遠のいのちです。

ただ恩恵のみ

 さて、例え話の焦点は、最初に来た労働者たちの不平にあります。実際にこのような不公平な分配が労働の現場で行われることはないのだと思います。労働者たちが自分の労力を賃金と交換することで世の中の市場は成り立っています。ですから、主人に不平を言った労働者たちは、一般的な世間の常識に従って行動しているわけです。まして、炎天下、日陰の無いぶどう園で、一日中汗水流して働き続けた労働者たちはその真面目さのゆえに賞賛されてしかるべきです。

 ところが、主人の応答は普通の経営者とは全く違う発想の持ち主でした。主人のいい分はこのようなものです。

 わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。(14〜15節)

主人の告げた通り、主人は最初に来た労働者に対して不正を働いてはいません。1デナリオンの労賃が支払われて契約は満たされています。問題は、他の遅れてやってきた労働者たちに対する主人の振る舞いです。主人が彼らに1デナリオンを渡した理由は、彼らの労働時間に対する代価を計算したからではなく、ただ、彼らにも「支払ってやりたい」という一方的な主人の善意によるものでした。「気前のよさ」と訳されている元の言葉は、単純に「善い」という言葉です。聖書の言葉遣いでは「善い」とは憐れみ深いことで、立場の弱い人に対して情け深く接することを指します。ぶどう園の収益をどのように用いるかは主人の自由ですから、誰も文句は言わない筈です。ただ、この葡萄園の主人は通常の経営者とは違って、農園の収益など勘定せずに、実に気前よく労働者たちに1デナリオンの賃金をふるまったのでした。

 この主人の態度に対して、不平を言った労働者たちの考えが反省されます。「わたしの気前のよさをねたむのか」と主人は彼らに問いました。「気前がよい」という言葉が「善意」を指すのに対して「ねたむ」という言葉は「あなたの目が邪である」という表現です。中東には「邪視を払う」という民間信仰がありますが、人の悪意や嫉妬から生じる眼差しが災いを引き起こす、と考えられてのことです。そうした目に表れる妬み、悪意、といった心の有り様を主人は不平を言う労働者たちに問いました。

 不平の出所は、労働者たちの念頭にある常識です。労働においては、ささげられた労働に応じた賃金が支払われてしかるべきであり、労働者たちは公平に取り扱われなければならない、と考えます。今日であれば、そうした労働条件が法で定められて、労働者の権利が守られます。しかし、ぶどう園が例えるところの神の国にはそうした常識が当てはまりません。なぜなら、神の国は収益を第一とするような企業とは違って、オーナーのところには既に限りない資産が蓄えられているからです。ですから、主人には誰にもふんだんに報酬を分け与える用意があるのであって、それぞれの労働力に応じた分配など気にする必要がありません。

不平を取り除くもの

 不平を述べた労働者たちの気持ちはよく分かるのではないかと思います。自分たちは初めから真面目に働いているのに、遅れてきた者たちが自分と同じように評価されることが許せません。何もしないで広場で一日ぶらぶらしていた者たちなど、役立たずであるからこそ雇ってもらえなかったに違いありませんし、そんな者たちが夕方涼しくなった頃、ちょっと農園にやって来て、ちょっと仕事を手伝っただけで、一日分の給料をもらえるのだとしたら、真面目に働いた自分たちは馬鹿みたいに思われてしまいます。そういうことであれば、次の機会があったら、自分は絶対5時まで広場でねばってじっとしていて、1時間だけ働いて一日分の給料をせしめてやろうと考える者が沢山でてくるに違いありません。

 しかし、そういう思いは、ぶどう園の主人の思いとはまるでかけ離れたところにあります。例えの終わりに示されたように、主人の思いはただ憐れみによって、労働者をぶどう園に招いたのに過ぎませんでした。早く来た者と遅く来た者の比較などはしていません。その能力の違いに報酬の差をつけるつもりもありません。ただ、主人はすべての労働者に同じ恵みを与えたいのです。

 遅れて来た者たちが先に賃金を受け取ったのは、その賃金の意味が明らかにされるためでしょう。それは、労働者たちが要求する当然の権利でもありませんし、労働時間に対する代価でもありません。それは、与えたいと思うから与えるという神の恵みを表しています。初めに来た者たちが契約に基づいて受け取った1デナリオンもまた、神の恵みに違いありません。

 イエスの弟子たちの間にも、この例え話と同じ不平が生じる可能性がありました。例えば、すでにそれはユダヤ人の律法学者とファリサイ派の人々の間に見られたものでした。主イエスは、彼らのような信仰の伝統を受け継いで立派に生活している人々をではなく、ガリラヤで漁師をしていたり収税所で働いていたりした者たちを弟子に召されました。また、ガリラヤの宣教活動においては、社会から切り離された弱く貧しい人々のところで赦しと癒しの奇跡を行い、罪人と看做されていた遊女や収税人たちと交わりを持たれました。先の者が後となり、後の者が先になるのが、イエスのもとで明らかになる、神の救いのお働きでした。

 これは旧約聖書を読んでいても気がつく、神の御業の法則のようなものです。もちろん、神は自由なお方ですから、何らかの規則に頼る必要はありませんけれども、「後の者が先になる」とはイスラエルの歴史が示す一つのかたちです。例えば、旧約聖書では二人の兄弟がよくモチーフに取り上げられますが、そこで評価されるのはいつでも弟もしくは妹です。カインとアベル、イシマエルとイサク、レアとラケル、エサウとヤコブ、ヤコブの12人の子におけるヨセフ、ヨセフの子であるマナセとエフライム、アロンとモーセ、兄弟ではないにしてもイスラエル初代の王は先のサウルが退けられて後のダビデが評価されます。そして、北イスラエル王国と南ユダ王国。イスラエルの伝統を請け負い、10部族が結束して建てられた北イスラエル王国はアッシリアによって先に滅ぼされ、後に残ったユダ王国の民がイスラエルの歴史を受け継いでメシアの到来を待ち望むことになりました。「後の者が先になる」とは、このようにイスラエルの歴史に象られた、弱い者を優先するという神の憐れみの法則のようなものです。

 しかし、イエスの弟子たちの内にもまだ古い常識が残っていて、自分と隣人との比較に生きている現実がある限り、邪な目が災いをもたらす可能性がでてきます。ユダヤの指導者たちが主イエスの教えや業を見ても、新規なものと看做して、不平をつぶやいたように、弟子たちの内にも古参の者が新参者に優って自分を高く評価したりということが出てきます。このすぐ後の記事には、初めから主イエスに従って来たヨハネとヤコブの母親が、弟子たちの内でもひと際高い地位を息子たちのために願い出るという事態が生じています。こうした所には、イエスが教えておられる神の国についての無理解があります。例えで教えられたように、神の国を、この世の常識で計ることはできません。神がひとり一人を評価する仕方は、それぞれが救いを必要とすることをご覧になって、ただ憐れんでくださって、神の国へ召し上げ、その働きを受け入れてくださる、という仕方です。

 教会には根強くこうした問題が残ります。それは、第一に福音についての理解が確かでないことから起こります。私たちは、それぞれの生き方や身に付いた何かが人より優れているからと評価されて、洗礼を授けられたのではなく、永遠のいのちを約束されているのでもありません。私たちはただ、自分がキリスト無くしては救われない罪人であって、神が憐れんで引き寄せてくださったから教会員であるのに過ぎません。教会で与えられる奉仕の役割の違いは、それぞれに神が分け与えてくださる霊の賜物の相違ですから、それを互いにうらやんだり妬んだりするのは誤りです。与えられた者もそれをもって神に仕え、兄弟姉妹に仕えるために奉仕するのですから、それを人より優れた自分の能力だと誇るような態度はキリストの十字架に相応しくありません。

 そうして教会の中でも生じてくる不平はどのようにして無くなるのでしょうか。一つは、今日の例え話からして明らかです。神は憐れみによって働かれるとの原則を忘れないでいることです。そして、私自身に対する恵みの約束は神が必ず果たしてくださることを信じることです。問題は、人との比較です。これについては、主イエスの弟子とされた兄弟姉妹であることを、この教会の交わりの中で徹底して考えて受け止めて行くことであろうと思います。所詮、他人同士だという開き直りをここに持ち込まないことです。ぶどう園の例え話を借りて言いますと、先に働き始めた労働者たちの中に兄がいて、後で5時頃になってやってきた人々の中に弟がいたとすれば、初めに弟が1日分の給料をもらった時に、それを自分のことのように心から喜ぶことができるのが、本当の愛に結ばれた兄弟愛ではないかと思います。私たちはひとり一人、イエス・キリストを信じる信仰を通して、豊かな恵みに与ります。最後には、天の国が完成して、復活の体と永遠の命を神から賜ります。私たちそれぞれに与えられる報酬は十分です。そのことを心に留めて、神の憐れみの中で互いに喜び合う、真の愛の交わりをさらに願い求めて、つぶやきをその都度とりさっていただくようにしたいと思います。

祈り

天の父なる御神、私たちにはあなたの憐れみを十分に受け止めきれないで、兄弟姉妹の弱さをあげつらったり、自分だけの高い評価をあなたに期待したりして、つぶやくことの多い者ですが、どうか、聖霊の恵みによって私たちの心からねたみを取り去り、主の十字架に示されたあなたの憐れみを満たしてください。そうして、御前につどう私たちの間で、神の国を待ち望むことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。