マタイによる福音書20章17-28節

仕える者の優位

 

神の国と十字架

 旧約聖書の中で、12の部族が神に選ばれたイスラエルの基となって、主なる神の救いの御業を証言したのと同様に、主イエスの地上での御生涯には12人の弟子が選ばれて、主イエス・キリストの十字架と復活の証言者となり、後の教会の基とされました。今日のところで、主イエスが弟子たちにこれからエルサレムで起こる受難と復活の予告をされるのは、これで三度目になります。この後、主イエスは弟子たちを伴ってエルサレムに入城されて、人々の迫害を受けながら贖いの御業を果たして行かれます。そこへと向かう途上にあって、弟子たちは繰り返し主イエスの口から受難と復活の出来事を聞かされて、救い主が何のためにこの地上に来られて、どのような救いの道を開かれたのかを心に刻むよう求められました。

 19章の終わりのところで、すべてを捨てて主イエスに従って来た弟子たちには新しい世界で受け取る報賞が約束されました。「人の子が栄光の座に座るとき、...あなたがたも十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治め、...百倍の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と言われました。しかし、主イエスがこれから辿って行かれる十字架への道程も、復活されて天でお受けになるその栄光も、まだその実現を見ない内に理解するには、弟子たちの想像を超えていました。弟子たちは自分たちに与えられる報賞をこの世のことのように考えていた様子です。イエスが王座に着く神の国は、この世の権力者が一国を支配する仕方とは違っています。先に語られた「ぶどう園と労働者たち」の例えと同じように、まずはその思い込みを取り払って、主イエスの教えに学ぶ必要があります。

神の国に対する誤解

 20節に「ゼベダイの息子たちの母」が登場します。今どきは大学の入学式にも親が付き添うようですけれども、ここでの母親も同じように息子たちのためにイエスのもとへやって来たわけです。この母親は、もう一度マタイ福音書の27章56節で姿を現します。そこでは、マグダラのマリア、イエスの母マリアと並んで、ゼベダイの息子たちの母がおりまして、イエスに仕えながら従って来た女性たちであったと伝えられています。ですから、この母親もまたイエスを信じる弟子仲間でした。

 母親が一人でやって来たのではなくて、二人の息子たち、ヤコブとヨハネと一緒に来たのですから、ここで母親が願ったことは、息子たちも同じ思いであったとしてよいと思います。マルコ福音書では、この母親には触れていませんでして、二人の弟子たちが自ら願い出たことである、としています。

 その願いは何かと言いますと、イエスが王座に着かれるとき、二人の息子をその両脇に座らせてくれ、というものでした。つまり、二人を弟子たちの内で最も高い地位に着けてくれ、ということです。ゼベダイの子らと言えば、ペトロとアンデレの兄弟と共に、主イエスに召されてその宣教活動の初めから弟子として従った兄弟たちですから、そのように願い出るのも不当ではないかも知れません。或いは、弟子の筆頭株であったペトロに対する対抗意識もあったのかも知れません。ヨハネ福音書によれば「雷の子」とあだ名されていますから、それくらい激しい気性の持ち主だったのでしょう。

 母親の願いとしては、よくわかるところもあるのではないでしょうか。息子たちにかける母親ならではの期待があるのだと思います。神学校に居りました時に、時折、母親の推薦で入学を希望する生徒がありました。本人も一応その気なのですけれども、本人以上に熱心なのはお母さんの方で、何とかして息子を牧師にしたいので入れてくれと頼み込むようなことがありました。勿論、正規の手続きを踏んで入学してくれれば何も問題は無いのですけれども、そうした場合には若干、本人の召命感に不安を覚えます。ある教会では牧師はひと際高い地位と名誉を持っています。私はあまりそういう関心を働かせたことは無いのですけれども、ですから、中にはそういう良い地位を息子に得させたいわけで、それを誇りにしたいのだと思います。自分の子どもを牧師や牧師婦人にしたいと願うことそのものは尊い献身だと思いますが、時々、そこに「名誉を得たい」という欲が絡むので、それは要注意です。そうなりますと、召しや賜物が与えられていないのに、無理に献身をさせることになりますから、失敗すると本人も教会も深く傷つくことになります。

 ゼベダイの子らの母親は、自分の申し出が他の弟子たちを出し抜くことになると分かっていながら、そんな願いを主イエスに告げたのでしょう。それくらい、わが子のこととなると他が見えなくなるのが親なのかも知れません。

 イエスは、しかし、そんな母親と息子たちを叱り飛ばすようなことはなさいませんでした。母親はイエスがメシアとして新しい世界で王座に着かれることを信じているので、そんな願いを抱いたわけです。息子たちも、「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われて、「できます」と答えていますから、イエスの後に従ってどこまでもついていくつもりでいます。この親子の信仰は立派です。ですから、主イエスもその信仰を否定しはしないのですが、問題は、彼らが神の国を誤解していることです。

 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と主は言われます。ヤコブとヨハネは、イエスの杯を飲むことができる、との決心を述べました。しかし、それが何を意味するのかをおそらく分かってはいません。主イエスは二人に答えてこう言われます。

 確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、 わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。(23節)

イエスはここで、ご自分にはその権限がない、ということを仰っているのではないことは、カルヴァンをはじめ、ここの注解をしている先生たちが書いている通りだと思います。そういうことを決めるとすれば、天の王座に座られた主イエスは父からすべての権限を委ねられましたから、天の父の承認のもとで主イエスが定めることもできるはずです。主イエスの王座の右と左に誰かが座るのだとすれば、それは天の父が備えたもう道によって、誰かを置いてくださるだろうが、私はそのようなことに関知しない、とイエスは答えたのでしょう。確かに、二人はイエスの杯を飲み、先に約束された通りの12の座に収まることになります。けれども、その順序を競うような心で神の御旨を探るようなことは、弟子たちの間には必要のないことです。

 弟子たちが飲むことになるイエスの杯とは、十字架で流されたイエスの血を指しています。つまり、イエスが歩んでおられる十字架への道を、弟子たちも同じように歩むことになる、ということを意味します。おそらく、「できます」と答えた二人にはそのことがまだ分かっていません。王宮の食卓で分かち合う葡萄酒に与るまで最後までついていくほどのつもりなのだと思います。しかし、イエスの杯を飲むことは、戦に勝利して、祝いの杯を分かち合う晴れがましさとは別の道を辿ることを意味します。それは、十字架による恥多い死をイエスと分かち合う、この世にあっては低い道を行くことです。確かに、ヤコブもヨハネも、後にイエスの杯を飲んで、最後には殉教の死を遂げました。

仕える者の優位

 ヨハネとヤコブに出し抜かれた弟子たちは腹を立てています。つまり、自分たちの心の中にも似たような思いがあったからでしょう。私たちの心の中にも競争心や嫉妬心が根を深く下ろしています。

 以前にお話ししたかも知れませんが、渡辺善太という聖書学者であり牧師であった偉い先生のことです。晩年、病気になられて、説教する時以外は床に臥せっておられたそうですが、親しい方がよく訪問に出かけてお話を聞いたのだそうです。その方が渡辺先生とお話ししていて、「先生、もう先生ぐらい長く牧師をして偉くなると、人間的な欲など清められてしまって、何も残っていないでしょう」と尋ねたといいます。お追従だったのかも知れませんけれども、先生は真面目に答えられて、「いいや、まだ残っているものがある」と仰った。それは何かと聞きますと、「名誉欲だよ」と率直にお答えになったそうです。神学生の頃に、私はこの話をさる長老から伺ったのですけれども、それ以来、牧師の内に働く名誉欲というものを考え続けています。確かに、それは非常に深く牧師の心情に根を下ろしている、厄介なものだと思います。

 主イエスはそうした弟子たちの心情をよくご存知でした。それは、この世の人々の普通の有り様です。しかし、神の国はそれでは通じません。主はつぶやく弟子たちを集めてこう教えられました。

 あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。(25-28

神の国は地上の国とは異なり、人が人を力によって支配することはありません。そこでは救いの御業を果たして天に昇られたキリストが唯一の支配者であられます。ですから、人は誰もがキリストに結ばれた神の子として兄弟姉妹となりますから、その序列などは問題になりませんし、そこには愛に結ばれた関係があるだけです。

 神の国を映し出すキリスト教会の交わりにあっては、今もキリストの掟が力をもっています。教会は地上の権力には直接的には関わりません。キリスト者が、政治でも経済でも様々な分野で重要な働きをすることは尊ばねばならないと思います。それは権力欲とは本来無縁な、キリストの栄光をその固有の領域において求めるとの召命に基づいてのことです。誰にもその召しは与えられています。職場において、学校において、家庭において、私たちは与えられている力に応じて、神がそこに最大限よいものを生み出してくださると信じて、働くように召されています。しかし、教会はそれ自体の中に世の中の権力を用いた抑圧的な構造を持ち込まないように注意しなくてはなりません。それをやってしまった失敗も、教会は自らの歴史の中にもっていますから、キリスト教会の歴史を学びながら反省することも欠かせません。

 むしろ、教会は主イエス・キリストの救いによって、世の中に見るような互いに互いを支配する関係から解放された人々の交わりです。もはや、国家も、民族も、宗教も、古い制度や習慣も、差別も、格差も、何も私たちを抑圧したり、絶対的な権限を要求することはできません。ただ、聖書において語られる主イエス・キリストのみが唯一・真の支配者です。そのキリスト御自身による支配も、抑圧的なものではなく、御自身の与える霊と真理と愛によって、私たちを内側から動かす支配です。そこに、神がご計画の内に定めておられる、神の国が現れます。

互いに仕え合う教会

 キリストが自らの命を捨てて私たちに仕えてくださったように、キリスト者は僕の姿をとって神と人とに仕えることで、天の王座に迎えられます。この原則が、教会の中で生きていなくてはなりません。パウロはこのキリストの教えを受けて、『フィリピの信徒のへの手紙』の2章で次のように教会に対する勧めをしています。

 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(3-11節)

「権力欲」「名誉欲」「人より高い位置に自分を保ちたい」という欲が教会の中でもときどき顔を出します。しかし、それは神の国のことではない、と心に留めておきたいと思います。誰にも気づかれないところで黙々と働く兄弟姉妹や、人知れず教会員の皆のことを思って毎日祈りを欠かさない兄弟姉妹が、教会にあっては最も尊い働きをしています。「私には何も出来ません」といいながら、その信仰を通して私たちの交わりの中で良い証しをしておられる方は教会の宝です。かえって、教会の中で人に「認められたい」という思いが、キリストに認めていただける光栄を妨げてしまうことを恐れます。本当に神に仕えることを知っている人は、人に仕えることの喜びを知っているのではないでしょうか。人を愛する、キリストの思いが、その人の中に生きているからです。

 その信仰に基づいて、教会の奉仕については臆する必要は無いと思います。ある先生は教会には二種類の人が認められると言います。それは、謙遜な姿勢を見せるのだけれども奉仕には加わらないで遠慮してばかりの人。無論、本当に奉仕がしたいのだけれども体の具合や家庭とか職場の事情でどうしても出来ない人もおられますから、そうした方々のことも配慮した上でのことです。そして、もう一方は、沢山の奉仕をしながら、働かない人を見下してしまう人。教会ではこのどちらかに偏りやすい、と言われます。ですから、自分はどうかと思う時に覚えておきたいのは、キリストが求めておられる仕え人は、兄弟姉妹に仕えるへりくだった姿勢で何事も不平を言わずに働く人であることです。すぐにそうあれるかどうかは分かりませんが、私たちには聖書にあるキリストの姿が模範として与えられています。

 また、教会の奉仕職のこともここで考えて置きたいと思います。教会には牧師・長老・執事という特別な職務が置かれています。今朝の御言葉に則して、最もキリストの教えが分かりやすい形で表された働きは執事の働きです。主イエスは「仕える者になりなさい」と26節で命じておられますが、「仕える者」という元の言葉は「ディアコノス」という言葉で、別の箇所では「執事」とも訳されます。その大本の意味は「給仕」を表します。食卓の傍らに立って待つ者、「ウェイター」です。27節ではそれを言い換えて「僕」と言っています。これはもう「奴隷」のことです。そういう意味で、私たちの間で忙しく働いておられる執事の働きには、その仕える姿の中にキリストがおられるんだといってよいと思います。そこから、監督の務めを与えられた牧師と長老のことも考えます。どちらもキリストの権威のもとでその御旨に仕えることが本道ですから、執事と同じようにそれらは神と人に仕える職務です。世の権力者のように、抑圧的に振る舞ったり、言葉を発することは相応しくありません。案外、そういうのに人は弱いところがあると思うのですけれども、そういう権威的な言葉や振る舞いによって教会を大きくする牧師などが時たまあるのですけれども、それは教会らしくないわけです。私たちの教会では、小会がその委ねられた権威によって、会衆を納める働きをします。しかし、それが執事的な仕える働きであることを忘れて、この世と同じように威圧的な態度で教会員に接することのないように心がけたいと思います。私たちはそういう教会ではないのですけれども、案外そういう方々も他所にはいますから、キリストの教えとしてこのことを心に留めておきたいと思います。

 また、私たちは6月の終わりに役員の選挙に臨みます。教会の職務については、すでに合同学習会や月報その他を通して学ぶ機会を持ちましたが、今朝も主イエスの教えを受けましたように、私たちが選ぶのは、主イエスのために、私たちの間で仕えてくださる兄弟姉妹を選ぶことになります。その際、何が基準になるか、ということも今日の御言葉に含まれていたと思います。長老、執事、そのどちらにしても、十字架を背負われた主イエスに倣って、喜んで謙遜に神と教会に仕えることのできる兄弟姉妹が選ばれます。勿論、そのために備えられた賜物が皆さんの目で正当に評価されなくてはなりませんが、その上で、喜んで奉仕をして、競争して奪い取るようにしてではなく自然に、皆さんの尊敬と愛とを勝ち取る方が、選挙を通して主に召されます。そうした祝福された選挙に臨むことができるように、祈って備えたいと思います。

祈り

教会のかしらなる主イエス・キリストの父なる御神、あなたは御子の贖いによって、私たちを罪の支配から導き出し、神の国を目指す教会の交わりへ入れてくださいました。その恵みに感謝して、真に謙った思いであなたと兄弟姉妹に仕える道が備えられていますけれども、私たちは自分の内にまだ残っている罪の故に、僕に徹する道に困難を覚えます。あなたにはおできになる、聖霊の力によって、どうか私たちに主イエスの道を辿らせてくださいますように、お願いします。教会設立を目指す私たちの願いが、あなたの御旨に適って相応しく実現されますように、豊かな賜物と信仰の導きをお与えください。その時を、心から待ち望むことができますよう、私たちの思いを一つにし、整えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。