マタイによる福音書21章12-22節

試される希望

 

イエスの苛立ち

 今日与えられています箇所から知らされる主イエスのお姿は、多くの人が想像するような愛に満ちた優しい人となりとは異なっていて、言葉においても振る舞いにおいても荒々しい姿を見せています。特に18節以下の後半で、いちじくの本に当たってそれを枯らしてしまうなどという行為に及んでは、不機嫌で手の付けられない頑固者の不条理さをも感じさせます。イエスを人間としてしか見ないのであれば、その通りの困った人物だったということになるかと思います。町の秩序を保つために逮捕されたとしても仕方がないかも知れません。しかし、そのところがまさに信仰の分かれ目です。イエスは真の人でありましたが、真の神でもあられました。今そこに来ておられるイエスを神の子キリストと見るならば、その振る舞いは全く違ったものに見えます。福音書が記すのはもちろん、神の御旨を伝える主イエス・キリストの言葉と振る舞いです。そこには、聖書の預言者たちを通して神が告げられた言葉が生きています。

神の裁きの到来

 「ホサナ」と叫ぶ弟子たちの歓声の中を、主イエスはロバに乗ってエルサレム入城を果たされました。それは地上の王たちのような華々しさはありませんけれども、真の救い主が神の都に戻って来られることを祝うのに相応しい凱旋行進でした。主イエスはそのまま真っすぐ神殿に向かいます。エルサレム神殿は人々の信仰の拠り所であって、日ごとに礼拝が捧げられる「神の家」です。イエスがそこへ入られるということは、御子が父の家に戻って来たことを意味します。

 そうであるならば、人々はこぞって天から来られた御子を神殿にお迎えして、真の神にひれ伏して礼拝するはずです。けれども、主イエスの身分は真実に神に従う信仰によってしか見て取ることができません。残念ながらエルサレムの住民はメシアの到来を聞いて動揺しただけで、そこに神を見て信じたわけではありませんでした。

 主イエスが神殿の中に入ることで生じたのは分裂です。イエスの周りには、「ダビデの子、ホサナ」と叫びながらついてくる人々がありました。その中には小さな子どもたちも含まれていました。また、イエスによる救いを信じる「目の見えない人や足の不自由な人たち」が近づいてきて、心から癒されたいとの願いを叶えていただきました。片や、そうした主イエスの周りに集う者たちから距離を取り続ける商売人たちがおり、子どもたちの歓声に腹を立てる「祭司長たちや律法学者たち」がありました。

 こうしてエルサレム神殿には主イエスの到来によって神の裁きが現れています。一方には救い主の到来を喜ぶ賛美があります。もう一方にはそれを不愉快に思う人の拒絶と無関心とがあります。

 イエス・キリストは神の愛を世に顕わした愛に満ちた方です。しかし、同時に、主イエスは神の義と真理を顕わす方です。その意味で、イエスは神の言葉そのものです。愛は赦しにおいてすべてを覆いますが、正義と真理は真と偽りに光をあててそれらを区別します。神の言葉として世に来られたイエス・キリストは、この時、エルサレム神殿を照らす光となって人々の心を照らします。

問われる信仰

 エルサレム神殿では神殿にささげる特別な硬貨へ両替をしたり、犠牲をささげる動物を売り買いする商いが許可されていました。律法に直接そうした指示が書かれているわけではありませんけれども、律法に規定された礼拝を適切に行うためには、そうした商売も必要でした。イエスがそれらを覆されたのは、礼拝の制度そのものが不適切だということの意思表示ではありません。主イエスは売り買いする者たちを神殿から追い出されることによって、人々の信仰心そのものを問いました。

 「わたしの家はt祈りの家と呼ばれるべきである」とあるのはイザヤ書56章7節からの引用です。また、「あなたたちはそれを強盗の巣にしている」との指摘も、預言者エレミヤを通して神が突きつけた問いでした。旧約の預言者たちは、神の言葉を通して選びの民の信仰に語り続けた僕たちでしたけれども、行いの伴わない信仰と、信仰の伴わない行いのどちらもが不信心であることを指摘しました。言葉を換えれば愛の無い正義と正義の無い愛はどちらも神に相応しくないということです。

 神殿のこと、つまり礼拝に関して言いいますと、例えば、今朝ご一緒に交読したマラキ書が参考になります。そこには「ささげもの」について述べられている箇所が3章8節以下にありました。

 …あなたたちはわたしを偽つていながら/どのようにあなたを偽つていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽つている。十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。

17節と18節がこれに次のように続きます、

 わたしが備えているその日に/彼らはわたしにとって宝となると/万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように/わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。..

 ここで問われているのは個人の信仰の有り様ばかりではなく民全体の信仰のかたちです。礼拝の形は規定どおり守られていても、そこにささげられているものには心が伴っていない。それが、ささげものの実際に現れているではないかとの指摘が、預言者マラキによってなされています。十分の一のささげものが等閑にされてもよいことになってしまっている。あるいは、主の食卓にささげられるパンや犠牲としてささげられる動物が余り物でよいとされてしまっている。そこに神を真剣に恐れる心があるかということが礼拝をささげる神の民に問われました。それは、礼拝という外に現れる形においてその心が問われる、ということです。そして、やがて神が備えられた時に、正しい者とそうでない者、神に仕える者とそうでない者が区別される、と告げられています。

 主イエスが神殿で見せた過激な行動も、そうした神の御旨の現れです。まさに、そこで区別がなされています。神殿で売る人も買う人も、それを許可する権威を与えられた人々も、形は立派であってもそこに心はない。「強盗の巣」とは激しい批半の言葉ですが、主イエスが現れた「神の家」には真の祈りがなかったわけです。むしろ、そうした心を持っていたのは「目の見えない人や足の不自由な人たち」、そして「幼子や乳飲み子」のような、小さく貧しくされた人々でした。

 旧約の預言者たちが語ったことも主イエスがお語りになったことも、求めているのは自分自身の信仰のかたちについて確信を持つことよりもむしろ批判的であることです。「信仰のかたち」とは礼拝行為についてですけれども、少しこれを広げて霊性の問題としてもよいと思います。心の伴わない礼拝は神に喜んでいただけません。心の伴わない感謝のしるしが「無いよりあった方がまし」だけの関係を繋いでおくのに過ぎないのと同じように、形ばかりの祈りも「無いよりあった方がまし」なのかも知れませんが、神が求めておられるのは私たちの御自身に対する心、つまり愛です。その心からするささげものが、いい加減なものになるはずがない、という理屈で私たちは自分個人と教会の礼拝生活についても考えます。

 具体的に私たちの生活に当てはめてみますと、私たちの祈りは真剣かどうか、ということです。祈ることに習熟することはよいことですけれども、それが習慣となるときに口だけが滑らかに動いているということも起こります。主の祈りや使徒信条を唱えるときも、言葉は暗記しているけれども、その内容について心が動くことがないまま唱えている、などということも起こります。献金についてもささげる心が問われます。子どもには良いものを与えたいという親心は分かっていても、日々生きる命を支えてくださっている神によいものをお返ししたいという思いに結びつかないことがあります。今朝はこの後で聖餐式を行いますけれども、聖餐式の度ごとに問われるのは、神の御前に罪人であることの自覚と、その私たちの罪のためにキリストが十字架におかかりになったことへの感謝です。そこに真の悔い改めが告白されて私たちはキリストの血と体を受け取ります。その告白をしていない方々にパンと杯が配られないのは、それが形だけの儀式にならないようにするためです。悔い改めの無いままキリストの体と血を受け取ることは、祝福にならないばかりか、神の裁きを飲み込むことになります。

信じて神の救いを待つ

 主イエスはイチジクの木の事例を通して、祈りの家に相応しい信仰のあり方を教えておられます。イチジクの木が枯れたのは、空腹まぎれの腹立ちのせいではありません。それは、実りをもたらさないイチジクの木が神の怒りに触れればたちまち枯れ果ててしまう、ということを表わしています。イチジクはブドウと並んでその土地の特産物ですが、どちらもイスラエルの民を表わすしるしです。「実Jとは真の信仰によってもたらされる悔い改める心やそれに相応しい振る舞いのことです。イエスのお姿を見ればそれは分かります。「祈りの家」である実質を失ってもはや「強盗の巣」に成り果てた神殿には、その悔い改めの実は見られませんでした。そのままでは、神の裁きに触れた時にたちまち滅びてしまう他はありません。祈りがない、その心がない、ということは、救いが求められていない、ということに違いありません。エルサレムの人々がキリストの到来に動揺したのは、今自分たちが手にしている安定した生活の秩序が乱されるのではないかと警戒したからでしょう。決められたことさえ守っていれば、今ある平和を保つことができ、それで自分たちは幸せにしていられる、との安心が支配しています。そういうところに神の救いを真剣に願う祈りは生じていません。むしろ、救いを願っていたのは、この世で神に近づくことが許されなかつた不遇な人々や罪人たちでした。そうした社会の周辺に追いやられた人々はこの世の何かに希望を持つことができなかったからこそ、天の神に救いを求めました。そこに、真の祈りがあり、主イエスが求められた信仰があります。

 たちまち枯れてしまうイチジクの木に喩えられたエルサレムは、「神の都」と呼ばれていたにも関わらず、その信仰的な不毛のゆえに神の裁きに直面しています。そこでイエスは弟子たちに祈ることを教えておられます。

 はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言つても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。

 弟子たちは、イエスが命じられるとたちまちのうちに木が枯れたことで驚いていますが、真実な祈りには山をも動かす力がある、と言われます。これは、教会でもよく説かれているところと思いますが、注意したいのは、祈りは何か神通力のようなものではないことです。特別な集中力をもって念じれば奇跡が起こるかのような、人間が手にする超能力ではありません。そんな祈りは、結局は自分本位です。祈りにおいて信じるのは神の力です。今も生きておられる全知全能の神に頼れば、不可能は無いとは理の当然です。「信じて祈ればすべてが叶う」とは、魔法のランプにお願いをするのとは意味が違います。信じて祈るときの信仰は、すべてを可能にする神の全能を信じるだけではなく、神の善を信じます。たとえ願いが叶えられなかったとしても、神には私の願いとは異なる別の良い方策があるに違いないと信じることができます。祈りは完全な神への信頼の中ですべてを願うことですから、真実な祈りは信仰そのものの表れです。ですから、その信頼をもって、山に向かって「立ち上がって、海に飛び込め」と言えば、それが神の御旨であれば神が必ずその通りにしてくださいます。

 「祈りの家」が「強盗の巣窟」になってしまうのは世俗化の危険です。それは、今に始まったことではなくて、キリストが世に来られたその初めから、或いは既に旧約聖書の時代から指摘されています。宗教の制度がどれだけよく整ったとしても、その心に神の言葉をもたないならば、信心深い装いには人の魂を救う力はありません。「祈りの家」という言葉はイザヤ書56章7節から取られたと言いました。元の言葉はこうです。

  わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

 新約聖書で旧約の御言葉が引用される時にはその文脈をよく確かめることをお勧めします。聖句の一部の引用で、その段落全体が意図されていることがよくあります。ここもまたそうした一例でしょう。神の家は「すべての民の」祈りがささげられる場所です。つまり、すべての民の救いがそこで願われます。貧しい人々や抑圧された人々が、未だ救いの無い状態で放置されているままで、祈りが終了してしまうことはありません。

 祈りが救いの必要から生まれるとすれば、私たちの教会が「祈りの家」であるためには、その必要をいつも覚えていなければならないことになります。そして、救いの必要とは、すべての人の救いの必要です。特に、今、神の力によらなければ、救いが見出せないようなところに置かれた人々のために、山をも動かす信仰が教会に求められます。教会が世俗化してしまって自分の恵まれた境遇に満足して、祈る心を失ってしまうのは、自分もまたこの世にあって貧しい罪人に過ぎないことを忘れてしまうからだと思います。私たちはたとえ今恵まれた生活をしていても、自らの罪のためにこの世のすべての貧しくされた人々と連帯しています。そのことを思えば、神の裁きが決定する終末の時まで、私たちが「祈りの家」であることを止めてしまうことはあり得ません。

 キリストは、真の祈りの絶えた神殿に姿を現し、そこが御自分の住まいであることをお示しになりました。人の心には宗教心がありますけれども、それは当てにならない自分本位な不毛な思いに囚われています。神はそこへ御自身の言葉であるキリストを送られて、御自分の住まいを定められます。「宮清め」はやがて訪れる霊による清めの先取りです。イエスが教えられた祈りは、人の心に自然と備わつている宗教心とは異なります。それは、神の霊によつて、全くの信頼に基づいて、神の力を呼び起こして山をも動かす祈りです。真の祈りは聖霊の賜物です。私たちのささげる祈りとそこに表わされる全能の神への信仰を改めて思い起こして、私たちの教会も真実な祈りの家とされたいと願います。

祈り

 天の父なる御神、御子キリストの贖いによって、罪人である私たちにも、心からあなたの愛と力を信じて祈ることができますことを感謝します。けれども、私たちもまた世の中の経済的な豊かさと自分本位な臆病さのゆえに、祈りの心を失う危険をいつも覚えます。どうか、たえず御言葉を通して私たちを励ましてくださり、世の救いを覚えて祈りに向かわせてください。私たちが願うのはあなたの御旨が世に顕わされて、罪の苦しみの中にある兄弟姉妹たちが一人でも早くあなたの慰めを受けることです。そのために、私たちが力を合わせて、あなたからの賜物を持ち寄って、あなたの御業に仕えることができるようにしてください。真の王であられる主イエスが、聖霊を通して私たちの内に宿ってくださって、いつもあなたの素晴らしい力をほめたたえながら、御旨に沿って私たちが生きることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。