マタイによる福音書21章33-46節

蔑まれた神

 

たとえ話の効用

 貧しい人々の救済者としてエルサレムに入城なさったイエス・キリストは、エルサレム中央の指導者たちと正面切っての対決をします。勿論、町中に暴動を引き起こそうというのではなく言葉による論争ですけれども、その言葉は抜き身の剣のようにあからさまに、指導者たちに斬りかかります。そうしたイエスのお姿は、旧約時代に神から遣わされてイスラエルの同胞たちに悔い改めを呼びかけた、エレミヤなどの預言者たちを思わせます。

 ぶどう園をモチーフにしたたとえが、今日の箇所でも続いています。たとえ話には、見えないものを見えるようにする、或いは、気がつかないことに気がつかせる、という効用があります。聖書では、自分の犯した罪に気がつかない人に、それを悟らせるために時々用いられます。

 今日の箇所と似たたとえ話の用いられ方は、罪を犯したダビデ王に対して預言者ナタンが語ったたとえに見出されます。サムエル記下12章です。ダビデ王は部下の妻と姦淫を犯して子どもをつくり、その罪を隠蔽するために相手の夫である部下を無慈悲な計略をもって殺害しました。ダビデのそうした隠れた罪を知っておられる神は預言者ナタンを遣わして、次のようなたとえを語らせました。

 二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。

聞く者に衝撃を与えるような内容ではないかと思います。誰が聞いても酷い話だと言う他はありません。これを聞いたダビデは激怒して「そんな男は殺してしまえ」と言いました。すると預言者はすかさず、「その男はあなただ」と突きつけました。それによってダビデは神の御前に自分の罪がすべて露にされていることを悟って、裁きを受け入れ、罪の告白をしています。

 イエスがなさった「ぶどう園と農夫」のたとえも、これと同じです。このたとえ話によって、神の僕を抹殺するイスラエルの罪が指摘されます。ただ、ここでは悔い改めを直接迫る意図はないものと思われます。イエスの内に神の言葉の権威を信じなかった旧いイスラエルの人々は、ダビデのように悔い改めはしませんでした。

イスラエルの罪

 「ぶどう園」は神が選んだ民イスラエルを表わします。「ある家の主人」は天の神です。主人がぶどう園を作る様子が殊更丁寧に描かれていますが、これは神がどれほど丁寧に手間をかけて御自分の民を育てられたかを表わしています。これもまた、旧約聖書のイザヤ書5章で既に書かれていたことです。そこには「ぶどう畑の歌」と言われるたとえがあります。

 わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

真の神が、御自身を人間に顕わされたのは、イスラエルの民の間でした。神がイスラエルを選んで、そこに特別な憐れみを注がれて、一つの立派な国民にまで育てられました。ところが、イスラエルの民は神に背いて偶像崇拝に走り、指導者たちは貧しい同胞を顧みない国に満足していました。それが「酸っぱいぶどう」と言われます。

 今日のイエスのたとえでは、エルサレムは「農夫たち」です。この農夫たちの下へ主人は収穫を受け取るために僕たちを送ります。ところが、「農夫たち」はこれに恐るべき暴力をもって答えたのでした。ここに描かる、「捕まえ」「袋だたきにし」「殺し」「石で打つ」という描写は、主人の丁寧なぶどう園づくりに対応したものです。主人は一つ一つを精魂込めてぶどう園をつくり上げたのに対して、農夫たちはその一つ一つに暴力をもって対応した、ということです。

 主人が送った「僕たち」は、神がエルサレムに送った主の僕たちや預言者たちを指しています。神と人間との間に立って苦悩する預言者の姿はモーセに集約的に顕わされていますが、自分の同胞から命を狙われ、最後には石打で処刑されたと伝えられているのは預言者エレミヤです。神の言葉を偽りなく告げなければならない預言者の務めは、時に仲間からの反発を買い、時の権力者たちからは疎まれて命さえ奪われることを覚悟しなければなりませんでした。選ばれた民であるから神に従順だとは限りません。むしろ、旧約聖書が描くイスラエルの歴史は、神に反抗する民の物語です。

 ぶどう園の主人は、農夫たちの恐るべき振る舞いにも関わらず、再び、他の僕たちを送ります。「前よりも多く」とは大人数で農夫たちに対抗しよう、ということよりも、何度も忍耐強くということでしょう。しかし、農夫たちの行状は変わりませんでした。これも、反抗する選びの民を見捨てること無く、悔い改めを求めるために預言者たちを送り続けた、旧約の歴史に表わされた神の働きを指しています。

 そして、最後に息子が送られてくる、というのは、御子イエスの派遣のことです。しかし、農夫たちはこれを敬うどころか、相続財産を横取りするために、「息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺して」しまいます。これは、これから主イエスが辿って行かれる受難を指しています。イエス・キリストは、神の御子でありながら、人々から敬われるどころか逮捕され、エルサレムの城外にあるゴルゴダの丘に引き出されて十字架で処刑されます。「さて、ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」とイエスは祭司長や律法学者たちに尋ねました。

 たとえ話を通して事柄が客観的に描かれれば、この出来事の恐ろしさが分かります。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」とは、当時の誰もが思うことだと思います。報復そのものに抑制がかかる今日の私たちは少々違う答え方をするかと思いますが、たとえに描かれた農夫たちの振る舞いは許せないことには違いありません。

 イエスがこれによって意図されたのは、旧約聖書が記しているイスラエルの歴史のダークサイドに、今のあなたがたも組している、ということに気づかせることでした。かつての民が、預言者たちを蔑ろにして、神の言葉に逆らって滅びを招いたように、あなたがたも今、自らの滅びを決定しようとしている、と、イエス・キリストを受け入れないエルサレムに対する裁きが告げられています。

神の国を受け継ぐ教会

 先にイザヤ書5章にある「ぶどう園の歌」に触れました通り、このたとえ話の背景には旧約聖書の預言があるということは、預言書に親しんでいるユダヤ人であれば誰もが気づいたはずです。イエスがたとえに込められた含意も、十分に伝わるものであったと思います。本来ならばユダヤ人の民族的・宗教的な自覚の中には、かつて自分たちの祖先が神との契約に違反して、神が求めておられる正義を実現することなく、国に滅びを招いたことが深い反省としてあってもよかったのだと思います。けれども、契約に忠実であろうとすることは律法遵守という形である程度保持されはしたものの、その心であるはずの、神の憐れみによって貧しい者たちを顧み、神の正義が社会に行き渡る、ということは追求されずに、この世の権威構造の中での安定をはかり、生ける神に対する真の信心は失ってしまったのでしょう。聖書の預言が求めるところの真剣な悔い改めが、もはや、それらの人々のうちには生きていなかったとのだと言えます。

 イエスはたとえの結論を述べるにあたって聖書の言葉を差し出します。

 聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

度々引用される詩編の御言葉ですが、これは詩編118編22〜23節にあります。家を建てる建設業者が、こんな石は使い物にならないと捨てた石が、神に選ばれて家の基礎に置かれる最も重要な親石となった。神のなさることは不思議で、人の目の判断することとは違う、ということを歌っています。神の選びを歌うこの詩は、イスラエルの民自身のことをまず指しています。イスラエルは、エジプトで奴隷であった者たちが、神の力によって自由へと解放されて、一つの民族とされました。伝統のある文明を誇るようなエジプトやメソポタミアの高貴な民族とは比較しようもない砂漠の旅人でしたけれども、神はそのようなヤコブの子らを選んで、真の神の民としてくださいました。その民の中からダビデが王として選ばれたとき、ベニヤミン族の勇者であった前の王サウルに比べて、ダビデは一介の羊飼いの倅に過ぎませんでした。彼が他の優れた兄たちを差し置いて、油を注がれて王に選ばれたのも、人の目とは異なる神の選びがそこにあったからでした。そして、主イエスは、エルサレムに集うイスラエルの民に対して、御自身がまた、ダビデの子として、神に選ばれた石だと告げられます。エルサレムの指導者たちは、ナザレのイエスなどは役に立たない石だと看做して、これを町の外に放り出そうとするのですけれども、神はその石の上に新しい家をお建てになります。

 44節は、引用ではありませんが旧約の預言をもとにして述べられています。ダニエル書2章34節以下です。ダニエルが王の夢を解釈している部分ですが、こうあります。

 一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。35 鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。 この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。(34-35, 45-46

先の詩編では、神が選んだ石が家の礎石になったとありましたが、ダニエルの預言では石が山となり、全世界に広がる永遠の国となるという終末の幻になっています。主イエスは御自身がその石であって、神の国の礎となり、その御支配を永遠に受け取られる、ということをお告げになっています。

 これによって、エルサレムの人々に断固として告げられるのは、「神の国はあなたたちから取り上げられる」との宣言です。エルサレム神殿を中心にした旧い制度の上に神の国が実現するのではなくて、真実な悔い改めとイエス・キリストへの信仰によって、ふさわしく実を結ぶ民族、すなわち、キリストの教会の内にそれが実現する、とのことです。旧約聖書を通して知らされていた、神の救いが実現する道筋は、キリストの受難の道を通って、キリストの教会に真の実を結びます。

 

実を結ぶ民として

 私たちがここで理解して受け止めたいのは、こうして主イエスがお受けになる受難の歩みを通して、真実な信仰の道が教会に続いていることです。私たちもまた、人の目には不思議に見える神の選びによって、キリストという石の上に立てられる教会となります。それは、ただ憐れみによるのであって、私たちはキリストにある救いを恵みとして受け入れることで、神の国に加えられます。

 他方、今日の箇所のような御言葉から、ユダヤ人たちに対する差別がキリスト教の伝統の中に生じたことも覚えておきたいと思います。日本のキリスト教会には直接的に関係がないようにも思えますが、全く影響がないともいえません。主イエスが言われた通り、神の国はキリストの教会の上に約束されていますから、今もエルサレム神殿の再建を夢見るユダヤ教徒の上にそれが実現されるのではないことは、私たちの信じるところです。けれども、聖書が記す歴史が教えるのは、イエス・キリストを十字架で処刑した責任はユダヤ人にあって、彼らは今に至るまで呪われている、というようなことではありません。キリスト教会が地中海世界に広がっていく過程で、もはやユダヤ人の伝統が教会の中から失われていった時に、そのような民族差別が生じるようになりました。そして、西欧キリスト教の歴史は、キリスト教会によるユダヤ人迫害の歴史という裏の面をもっています。それが、第二次世界大戦中のナチスによる民族絶滅計画に結びつくのですから、今でもキリスト教会の中から完全に払拭されてはいない反ユダヤ主義には気をつけていなければならないと思います。

 今度はその反動もあって、キリスト教がユダヤ教に同調するような動きも一方にはあります。今、エルサレムの丘にはイスラム教徒のモスクが建っていますが、ユダヤ教の一部の人々はそこに新しい自分たちの神殿が建つことを願っています。そこに同調して、エルサレム神殿の建設計画にキリスト教会も加わって多大な資金を提供する、というようなことも実際にあります。エルサレムの丘に神殿が建つということは、現在エルサレムに住んでいるイスラム教徒たちを追い出すことが前提ですから、これはイスラエル=パレスチナの政治的な問題に信仰が直接関与することになります。今朝、ご一緒に学びました通り、主イエスは地上のエルサレムに救いの基盤をもはや置いてはおられませんでして、神の国はキリストへの信仰によって結ばれる聖徒の交わりの中に現れます。新イスラエル派の教師たちは、聖書に基づくキリスト教の伝統的な神の国の教理を「置換神学」と名付けて否定しますが、そこには純粋な聖書の釈義から来るものとは別のイデオロギーが働いていますので注意が必要です。今日のイスラエル国、またユダヤ教とキリスト教との関係は、互いに信仰の違いを弁えながら、信教の自由という今日の世界的な価値観に基づいて、穏健にかたちづくっていくことが十分可能です。

 最後に、もう一度43節を振り返っておきたいと思います。神の国が、旧いユダヤ民族からキリスト教会に移行した、ということは、決して形式的なことではありませんで、神の国に相応しい実を結ぶ民族に与えられる―即ち、神への真の信仰に生きる人々のところにそれが実現する、という信仰の実質について言われているところが要です。「民族」という言葉遣いは「異邦人」ともかつて訳されていましたが、ここで意図されているのは、ユダヤ民族からそれ以外の民族に移行したということではなくて、教会という世界中から集まられた人々が神の民となるということを意図したものです。その神の民をかたちづくるのは、「ふさわしい実を結ぶ」ことであって、それは、イエスを取り巻く実を結ばなかった人々との対比の中で言われていることです。思いと言葉と行いに、神への愛と人への愛が、本当に実を結んでいる信仰者の有り様です。聖霊がその信仰者の内に生き生きとしていて、キリストと一つに結ばれて生きていることが喜びであるような人のところに、神の国が与えられます。一人の信仰者として、また教会の交わりとして、それが単なる形式的な習慣や制度に終わってしまって、イエスの生きた様が少しも生活に現れないとしたら、教会であってもやはり「酸っぱいブドウ」に変わりはありません。信仰生活の内に善い実を結ぶのは、それによって救われるためではなくて、信じてキリストに結ばれた時に聖霊によってもたらされる恵みの実です。キリスト者や教会の交わりは、自分の身につけた品格や知恵を世に対して、人間を誇るようにして誇るのは誤りですけれども、教会の内も外も所詮は人間の集まりだから他と変わりがないだとか、キリスト者もそうでない人も同じ人間であって何も変わらないだとかの乱暴な言い分で、聖霊の結ぶ実を蔑ろにするのも誤りです。主イエスが、神の国は、それに相応しい実を結ぶ民に与えられる、と言われるのですから、それは主イエスの主権の下で、聖霊なる神の働きによって、キリスト者個人と教会の内に、義の実りを生み出すものです。たとえ、自分にはその力が無いと、自分はそんなに強くはないと思っても、聖書で約束されているその実りを心から願い求めるのが真実な悔い改めと信仰です。自分の力にではなく神の恵みによって、真実な信仰を通して実を結ぶ私たちでありたいと願います。

祈り

 

天の父なる御神、あなたの不思議なご計画によって、今や御子キリストによる救いが一つの民族を超えて世界にあまねく行き渡り、主が果たされた十字架と復活という盤石の基礎の上に、教会が建てられておりますことを心から感謝します。そこに召された私たちが、真の信仰をもってあなたの御国に留まることが出来るように、聖書の言葉による導きと聖霊の恵みを与えてください。私たちが生活の中に、御旨に適った実りを生み出すことができますように、己を低くしてあなたと人とに仕えられた主イエスのお姿をいつも心に覚えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。