マタイによる福音書22章15〜22節

カイザルのものはカイザルに

 

悪人の集い

 今朝の箇所の始まりに、「ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」とありまして、イエスに敵対するエルサレムの指導者集団の不穏な動きが伝えられます。ファリサイ派の人々の、イエスに対する殺意は既に12章14節で伝えられていましたけれども、主イエスの十字架に向かう受難への歩みはこうしてエルサレムで深まって行きます。敵対者たちはすぐにもイエスを捕らえたかったようですが、イエスを支持する群衆を恐れて手を出すことができないでいました。それで、何とか口実を設けようと罠を仕掛ける相談をしています。

 詩編第1編の冒頭に、「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」とあります。ここでのファリサイ派の人々は、まさに旧約聖書の随所に描かれた「神に逆らう者」の姿です。今回はヘロデ派の人々も加わっていますが、この「ヘロデ派」については詳しいことは知られていません。その名称から察するに、ローマ政権に親しい立場をとったユダヤ人のグループと思われます。ファリサイ派は本来民衆の立場に立つ律法に忠実な人々のはずですから、ヘロデ派のような政治的な立場とは異なるはずですが、主イエスに対する悪巧みで心を一つにしています。

 新共同訳聖書で「神に逆らう者」と訳されている言葉は、もとは「悪人」という言葉です。詩編1編で描かれているように、この「悪人」は「善人」と対比されて聖書によく現れます。「悪人」が「神に逆らう者」であれば、「善人」は「神に従う者」です。例えば、箴言12章5節の言葉を引きますと、「神に従う人の計らいは正義。神に逆らう者の指図は、裏切り」とあります。この箇所などは弟子のユダに裏切りを唆した人々のことが思い浮かぶのではないかと思います。また、詩編37編12節には、「主に従う人に向かって、主に逆らう者はたくらみ、牙をむく」とありまして、まさに今朝の箇所に現れているファリサイ派・ヘロデ派の人々に当てはまります。

 16節で、彼らはイエスに次のような言葉で話しかけています。

  先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。

これを言葉どおりに受け取れば、彼らは心からイエスを敬っているばかりでなく、イエスを正しく神から遣わされたお方だと知っていることになります。イエスが偽りの無い真実な方であり、聖書に示された真理に基づいて神の道を教える教師であり、人の顔色を伺ったり、見かけで人を判断したりしないお方である、とはその通りです。しかし、「イエスは彼らの悪意に気づいておられた」と18節にありますように、それは本心で述べたものではありませんでした。「神に逆らう者たち」「悪人たち」について、詩編は次のように言っています。

  神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。

  神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。

これは詩編10編3節と4節の言葉です。しかし、悪人の企みは仲間を騙すことができても神を騙すことはできません。一つ一つ引きませんけれども、聖書は「神に逆らう者には希望がない」ことを繰り返し告げています。そのことは、当時のユダヤ人たちには重々分かっていたはずです。けれども、イエスを亡き者にするために計略を巡らし、ローマと結託して十字架による抹殺を計ったことが、自分たちを「神に逆らう者」にしているとは思いもよりませんでした。

 神から遣わされた預言者たちを迫害した旧約の昔のエルサレムも、イエスを十字架に掛けて殺害した新約のエルサレムも、どちらも、人間の罪の深さを語る範例です。この罪が旧約と新約で繰り返されるという点に、その深刻さがあらわれています。仏教であればこれを「業」と呼ぶのではないかと思います。しかし、この人間の罪深さを十分に弁えた上で、そこから逃れる術を預言者たちは昔から告げていました。イザヤ書55章7節では次のように呼びかけられています。

 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。

悪人が自らの罪を思い知って神に立ち返る時、神は「豊かに赦してくださる」お方だと告げられています。知らずと神に逆らう者となっていた者たちにも立ち返りの道は用意されています。イエスはこうして神に逆らう者たちの手によって十字架におかかりになりますが、その死は、神の愛と義を拒んだ人間が自分の罪を知って神に立ち返る機会となります。

神の言葉に従うとは?

 主イエスは敵対者たちの悪意にひるむことなく、ここから4つの問答を通して神の真理を語ります。今朝はその最初の問答として、ローマ皇帝への納税の是非を巡る論議が交わされます。質問はこのようになされています。

  皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。

質問者がここに仕掛けた罠は次のようなものです。この背景には、ローマ皇帝に税金を納めることを快く思っていない民衆の感情があります。聖書の教えに従えば、ユダヤの土地はアブラハムに対する約束として神が与えた先祖伝来の土地であって、律法にもこの土地を手放してはならないと命じられていました。ですから、イスラエルの信仰からすれば他国の王に税を課せられるのは不当なことに違いありません。しかし、政治の現実はユダヤの独立を許しませんでしたので、ローマ帝国の支配のもとで何とか安全を保って生活するために、ユダヤ民族は皇帝に税を納めることにしていました。

 質問に対して、イエスがもし「税を納めるのは律法違反だ」と言えば、敵対者たちはローマの官憲に訴える直接的な口実を得たことになります。反対に、「税を納めてよい」と言えば、民衆の反感を買ってイエスは裏切り者とみなされます。

 主を試そうとする、このような試みはかえって彼らの悪意と偽善を露にするだけでした。「律法に適っているか、適っていないか」という問いは、いかにも聖書の教えを重んじているように聞こえます。けれども、これは神の御旨を思わずして、文字に書かれた字面だけに固執して人を裁く時にもこういう問いの立て方が用いられます。イエスのお答えは、ですから、その質問に直接応えるようなものにはなっていません。その具体的な問題についての、信仰に基づく考え方を根本から正す仕方でお応えになります。

世俗的権力の正当性

 「税金に納めるお金を見せなさい」とイエスは命じて、デナリオン銀貨を持って来させます。その銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。律法によれば、十戒にありますように「あなたがたは刻んだ像をつくってはならない」のですから、皇帝の像が刻まれた銀貨をもつことも厳密には律法違反となるはずです。しかし、「律法に適っているか、いないか」などと質問した当人たちには、そういう自覚はありませんでした。ですから彼らの質問は「偽善だ」とイエスは指摘されます。

 銀貨に刻まれた像が皇帝のものであることは誰もが知っていました。そこで、イエスは言われます。

  皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。

「皇帝のものは皇帝に返しなさい」ということですから、皇帝に税金を納めることは合法だということになります。税金を納めることはイスラエルの神に対する裏切りだ、と考えるのは民衆感情です。しかし、今一時の平和を保っているこの世の秩序をお与えになっているのは神です。この世の秩序に従いながら、神を敬うことは不可能であるどころか、現に多くの信仰者はそのようにして信仰生活を送っている筈でした。大切なことは、「神のものは神に返す」という信仰です。その信仰を保ちつつローマの支配下にあって皇帝への税金を納めるならば、神に対して不当なことをしていることにはなりません。

 税金の問題については17章24節以下でも取り上げられていました。そこでは、ローマへの税金ではなくて、エルサレム神殿のための税でしたけれども、イエスはペトロに命じて税を納めるように言いました。それは、神殿のための税金は神へのささげものとして必要だからということではなくて、「人々をつまずかせないため」だとイエスは言っておられます。神の子であるイエスが神殿に税を納めなくてはならない言われはないのですが、ユダヤ人の一人としてお生まれになった限り、地上の秩序には従う方針を採られました。

 イエスはエルサレム神殿に入城された際に、広場で商売をしていた者たちの屋台をひっくり返して回るような過激な振る舞いをされましたが、イエスはいわゆる「過激派」ではありませんでした。むしろ、その教えは、天の国の教えを説きながら信仰によって地上の生活に平和をつくりだす知恵を語りました。エルサレム神殿にしろローマ帝国にしろ、天の国に比べれば一時的なものに過ぎません。その地上の権威や制度が平和な秩序を保つために有益である限り、それを維持することは神の御旨に適います。「平和をつくりだすものは幸いである」と主は山上の説教の初めに述べられた通りです。

 オランダの改革派教会の神学者でオランダの首相にもなったアブラハム・カイパーは、宗教改革者カルヴァンの思想を継承して「領域主権」という考えを述べました。それによれば、政治には政治の領域があり、教会には教会の領域が別に設けられている。この区別は神の創造に基づいていて、それぞれに固有の主権が与えられている。だから、お互いの領域を越えて、他方を支配しようとしてはいけない、ということです。もちろん、世界は、これを創造なさった唯一の神の主権のもとにあり、復活して天に昇られたキリストが真の支配者となっておられます。しかし、その支配下にあって、国には国の秩序が与えられていて、教会には教会の秩序が備えられています。日本でいえば、司法・行政・立法の三権分立が果たされて国民のために社会の秩序が保たれています。これに宗教がいたずらに介入して自らの政治的な権威を主張することは、私たちの信仰からすれば相応しくないことになります。私たちはこの秩序のもとにある一国民、一市民として、選挙を通じて国の政治に参加します。また、国は教会の自律を損なうような政治的介入をするべきではありません。かつての戦時中には国の命令によってキリスト教会が一つの教団に合同させられて「日本基督教団」が設立され、国の監視のもとに置かれました。こうした事態は「領域主権」に反することですから教会は信仰的な戦いを強いられます。日本国憲法に定められた政教分離の政策が保たれている限り再びそうした事態は起こらないと思いますが、その憲法を変えようとしている現在からすると、今後はどうなるかは分かりません。今度の選挙でもそうした将来の方向が問われます。

神のものは神に

 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と主は言われますが、ここでの強調点は後者にあります。「神のもの」とは何かということが、教会では昔から議論されて来ました。一つの伝統的な解釈は「神のもの」とは神のかたちを与えられた人間そのものだ、というものです。つまり、デナリオン銀貨はこの世の財産であり、地上の制度に過ぎない。それはそのようなものとして用いればよいだけのことである。しかし、あなたがたはその心も体も、いのちそのものが神のものである。だから、それにふさわしく神にお返ししなさい、というものです。イエスがそのように意図されたかどうかは定かではありませんが、確かに、私たちは神のものです。自分の命すら、私たちは自分のものとすることが出来ません。パウロはローマ書12章で「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と述べています。

 「神のもの」とはしかし、神がお造りになったすべてのものではないかと思います。「カイザルのものはカイザルに」、つまり、この世の支配を望む者にはそれを当面与えておけばよい。しかし、この世界のすべてのものは神のものであるから、神に選ばれたイスラエルは、そのすべてのものを神にお返しするための務めに勤しむよう定められています。先の紹介したアブラハム・カイパーの最も有名な言葉は、「この世界には神のものではない領域は一インチたりともない」というものです。人生のあらゆる領域で、神のものを神へ返す、そうして神の栄光を表わすことが私たちキリスト者の生きる目的です。

 「神のものを神に返す」キリスト者の務めは、ひとり一人の人生における信仰の証と教会の宣教の働きによって果たされます。毎日の生活の中で触れ合う人々との間にキリストの愛を生み出すことや、召されているそれぞれの仕事の中でキリスト者としてそれが神を喜ばせるものとなるよう願いながら働くことが、「神のものを神に返す」私たちの日常の取り組みになります。伝道の働きも個人個人に委ねられていますが、教会はその務めをキリストから与えられて、この地上にまさに「神のもの」とされたものの交わりである「神の民」をかたちづくるために、遣わされた地域に福音を伝えます。

 私たちの「聖書的」信仰は、その心であるキリストを知って、本当に神の御旨は何であるかを尋ね求めながら、一つ一つの御言葉に促されて、生活の中に良い実を結ぶものです。その心を失うときに、聖書の字句への拘りは隣人に対する裁きと自己正当化につながって、結局は聖書を自分の思いのままに用いる道具としてしまいます。聖書の言葉は私たちをキリストにあって生かし、感謝と喜びの生活に向かわせてくれるために、神がお用いになる手段です。これを本当の意味で大切にして、キリストに結ばれた神の子に相応しく整えられたいと願います。

祈り

天の父なる御神、あなたのものをあなたへとお返しする、私たちの日ごとの取り組みを祝福してください。そうしてより身近にあなたの御存在を覚えながら、キリストが再び来られる終わりの完成を待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。