マタイによる福音書22章23〜33節

復活はない、か?

 

サドカイ派の挑戦

 イエスの言葉尻を捕らえてなんとかその権威を失墜させようと試みる者たちが次々とイエスのもとを訪れる。先にもファリサイ派やヘロデ派の者たちがイエスに挑戦したが、逆にやり込められてしまい、かえって群衆の称賛を呼び起こした。イエスの内には神の霊が働いている。イエスの聖書解釈は、聖霊による真の神の御旨の解き明かしである。どんなに優れた知恵も人間中心の価値観で神の言葉を語ろうとしても、聖書の真意は明らかにはならない。

 ファリサイ派に続いて登場するのはサドカイ派である。サドカイ派は復活を信じないことで知られていた。復活信仰は旧約聖書ではそれほどはっきりと現れてはいないが、捕囚期から中間時代にかけてのユダヤ人迫害の中で、イザヤ・エゼキエル・ダニエルらが復活の希望について告げており、民衆の間にも復活信仰が徐々に根付いて行った。復活の使信は平常時の慰めではなく、非業の死を余儀なくされた者たちに示された希望である。

 ファリサイ派は死者の復活を信じていたが、サドカイ派はそうではなかった。サドカイ派は神殿で奉仕する祭司たちを中心とした貴族階級であり、モーセの律法を重んじていたが、預言を顧みず、霊の存在や終末信仰も否定した。ヨセフスによればサドカイ派は「金持ちの宗教」である。

 サドカイ派の世俗性は今日のリベラルなユダヤ教・キリスト教とも幾分似ている。信仰はモラルや伝統を保持するための社会的な価値と認められ、宗教生活は自由をモットーとする。政治的には現実的に現体制と妥協することができるが、神に対する情熱等とは無縁である。イエスに対する今回の質問も信仰的な問題を真剣に問うたのではなく、復活信仰の不条理をあざ笑うかのように揚げ足を取ろうとしたのであろう。勿論、イエスはそうしたサドカイ派の態度を見抜いている。

 質問は先のファリサイ派と同様に、律法に関するものである。24節に引用されたのは申命記25章5〜6節の掟であって、いわゆる「レビラート婚」と呼ばれる古代のしきたりである。サドカイ派にとって、このモーセの掟は重要であったに違いないが、これに復活の教えを交えると不都合が生じるではないか、という問いかけである。確かに、復活がただ地上の生活の延長なのであれば、一人の女性を7人の兄弟が共有するなどという困った事態も生じよう。ファリサイ派の人々なら頭を抱えたかもしれない。

復活とは何か

 復活とは、死んだ人間がまた生き返って元の生活を続ける、というような人間の願望に基づくこの世の出来事ではない。確かに、キリストの復活はこの世において起こった歴史的な出来事である。しかし、それが持つ意味は、サドカイ派の提示したような地上の人間の、普通の営みを越えている。「あなたたちは聖書も神の力も知らない」とはそのようなことである。死者の復活という使信において神が何を意図されたかは、聖書全体から学ばれる。復活は、死すべき人間の運命に神の力が働いて、神の目的に適う新しい命に人間が生き始める、終末的な救いの出来事である。死すべき人間の定めについて真剣に向かい合い、聖書に御自身を顕わした神に心から立ち返って救いを願うのでなければ、復活の希望は明らかにされない。

 30節でイエスは答えて、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言っておられる。地上の社会制度はこの世のものとして過ぎ去る、ということがまずここから伺える。そして、復活によって新しい命は、天使のように神との完全な交わりの内に生かされる命であることが示される。「聖書も神の力も知らず」、地上の生活にすべてをかけている人間には、そもそも復活は魅力あるものとは思われないに違いない。

 ここで、聖書全体から教えられるところの復活の教理について概観しておきたい。案外、その理解が曖昧なままで信仰生活を送っているキリスト者は少なくないと思われる。復活の教えは死後の生命のこと、および終末の教えと結びついている。これらは通常の人間の経験を越えているため、聖書全体からしてもすべてが明瞭になるわけではないが、曖昧にしておくと巷に流れる死生観や俗説に容易に流されてしまう危険がある。

 まず、ウェストミンスター小教理問答の問37に次のような問答がある。

37 信者は死の時、どんな祝福をキリストから受けるか。
答 死の時、信者の霊魂は、全くきよくされ、直ちに栄光に入り、その身体は、なおキリストに結合されていて、復活の時まで墓の中に休む。

小教理問答書にはいちいち聖句の参照箇所が示されているから、それらを自分で参照してみれば納得もいくだろう。サドカイ派のようではなく、聖書を信じ、キリストの復活を信じる信徒にとって死は祝福を受ける時である。信仰者は死ぬことによって罪の汚れから全くきよめられる。地上では死ぬまで清めは完成しないので、罪との戦いが最後まで続く。しかし、死によってその苦しい戦いは終わりを告げ、兄弟姉妹の魂はキリストにあって完全にきよくされ、まさに「天使のようになる」。そして、死んで暗い闇の中を彷徨うこともなく「直ちに栄光に入り」、神の完全な輝きの中に受け入れられる。そして、問題の「身体」について言えば、信仰によってキリストと結ばれた人の魂は、身体をもキリストに結ばれていて、復活の時まで墓の中で休息する。だから、永遠の休息ではない。

 蛇足ではあるが、「墓の中」を文字通りに採らなくてもよい。今日の日本では土葬ではなく火葬であり、身体ばかりか骨も形を失っている。だからといって復活に不利になる、などと考える必要はない。信者の身体はキリストと結ばれている。墓は地上に残された者のための記念であって、復活を待つ身体の本体が実際にそこにあるわけではない。だから墓参りの意味もよく考えたい。

 小教理問答の第38問は続いて次のように述べる。

38 信者は復活の時、キリストからどんな祝福を受けるか。
答 信者は復活の時、栄光あるものによみがえらせられ、さばきの日に、公に受け入れられ、無罪を宣言され、永遠に全く神を喜ぶことにおいて、完全に祝福される。

信者も未信者も世の終わりに復活し、神の裁きの前に立たされる。そこで信者は、死んだ時に既に栄光に入れられているが、さらに栄光ある人間として復活させられる。地上でどんな惨めな思いをしたとしても、復活した暁には栄光ある姿が与えられ、キリストに似た者にされる。既にキリストに結ばれたその人は、終わりの日の裁きにおいても公に神の子として受け入れられ、完全な無罪を宣言され、神をほめ讃える永遠の命を与えられて、完全に祝福される。復活の目的は、ここに明らかである。神の完全な祝福が人の命に実ることである。

神は生ける者の神

 31節以下で、死者の復活についてイエスが述べている箇所は独特の聖書解釈に思える。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、出エジプト記3章6節にある御言葉で、モーセの召命について記された箇所である。モーセに対してそのように主が名乗りを上げられたのは、神がイスラエルの父祖たちと契約を結ばれたことを思い起こさせるためであった。そこを取り上げて、主イエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と説かれ、死者の復活についての証言とする。その意味するところは、神との契約に入れられた族長たちは皆、確かに死んで葬られた者たちに相違ないが、その契約は死によって妨げられることなく、アブラハムもイサクもヤコブも神にあって生きている、ということであろう。つまり、復活とは主なる神との交わりの内に生き続けることであって、その契約によって結ばれた、神との交わりに生かされた命の行く末なのである。サドカイ派のように、旧い伝統にすがるばかりで生ける神の働きに思いをいたさない信仰は、いわば死んだ者の神を拝むような信仰なのであって、神すらもはや死んでいる。しかし、今も生きておられる神は、すでに地上を去った真の信仰者たちと今も生きた交わりを保っておられ、今地上に生きてキリストの下に集う者たちをもその交わりの中に加えてくださる。真の信仰とは、こうして今も生きておられる神との交わりの中で育まれ、復活の希望を生き生きと保つところに現れる。

 復活のキリストに出会って福音宣教の先頭に立った使徒パウロは、まさにこの復活信仰によって生涯をキリストにささげた使徒であった。コリントの信徒への手紙一15章で、パウロは次のように証言している。

 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

パウロはこの復活信仰によってあらゆる恐れと困窮に打ち勝ち、復活の命の証言者としてキリストと結ばれた人生を生き抜いた。これは英雄の生き様ではなく、神に選ばれた信仰者の典型的な生き方である。イエス・キリストの生涯がその人生には映し出されている。私たち誰もが、信仰の故に、そうした復活の証人としての生き方を与えられている。

今も生きて、私たちの命をキリストに結んで生かしてくださる神の恵みと力とを信じる時、復活もまた信じることができる。それが、私たちの命の未来を保証し、現在の命に力を与える。先ほど引用した箇所でパウロは次のように叫んでいる。

 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(54、55節)

 聖書によって神の力を信じ、キリストの復活を受け入れるものは、もはや死を恐れない。死は終わりではなく、人生の完成となり、真の休息の訪れであり、復活の栄光へのステップとなる。先に召されたすべての聖徒たちと共に、「生きている者の神」をほめたたえて、与えられた生涯を全うしよう。