マタイによる福音書23章1〜12節

見せかけではなく

 

ファリサイ派批判の意味

 主イエス・キリストは、エルサレムのユダヤ人指導者たちと聖書についての問答を交わしまして、悪意に満ちた試みのすべてを退けました。イエスは只の優秀な教師ではなく、聖書に込められた神の御旨を直に知る、天から来られた神の子であることがそこから知られます。もはやイエスを試そうとする輩もいなくなって、ここから主イエスはファリサイ派の教師たちを厳しく批判する説教を始めます。彼らは信仰の反面教師とされています。

 そこで、これから私たちも、ユダヤ人に対する「呪い」とも言える批判の言葉を主イエスの口から聞くわけですが、それを正しく受け止めるためには若干の注意が必要です。先日も麻生さんが「ナチスから学べ」などといらぬことを言って国内外から批判を浴びましたが、そこには世界が共有する人権意識の希薄さや歴史についての無知が露になっています。長い歴史を通じてユダヤ人との確執を経験して来た欧米のキリスト教社会と日本は違いますから、ユダヤ人に対する差別感情も希薄な反面、知識も交流経験も十分ではありませんので、私たちには新約聖書に記された反ユダヤ的主張からユダヤ人に対する偏見をもってしまう危険があります。

 今日の箇所では、律法学者たちやファリサイ派の人々の信仰が槍玉に挙げられまして、彼らは「言うだけで実行しない」とか「やることのすべてが人に見せるためだ」などと言われています。そういう、指導者たちも確かにいたのでしょうけれども、すべての教師たちがそうであったわけではありません。ファリサイ派は今のユダヤ教の基となったグループですけれども、歴史に名を残したラビたち、教師たちは、道徳的な観点からすればイエスと同じような立派な教えを語りました。また、例えば、パウロのことを考えてみれば、パウロもまたファリサイ派の熱心な学徒でしたが、ここでイエスから非難されるような類いの人間ではなかったでしょう。

 イエスの時代に、また後でキリスト教が生まれた初期の時代に、ファリサイ派の人々との間に軋轢があって、そこにある緊張関係が新約聖書の言葉にも反映しています。それが持つ意味は、こうして神が御子キリストを通して信仰の道を真っすぐ整えられたのであって、古いユダヤの慣習はもはや必要なくされた、ということです。ですから、私たちは聖書に見る対立から、神の選びを信仰によって受け止めるのであって、ここにある対立感情をそのまま私たちが引き継いでしまって、今日のユダヤ人に対して悪い感情をもつことを聖書が求めているわけではないと心に留めておきたいと思います。

 また、もう一つ覚えたいことは、ここに出てくるような「律法学者たちやファリサイ派の人々」の信仰の姿勢は、そのまま反面教師として教会に当てはまることです。ですから、他人事ではなく、これを自分に当てはめて読むことがむしろ私たちに求められます。福音書記者のマタイの観点は正にそのようなものです。キリスト教会がユダヤ教とはっきり袂を分かってからは、イエスの批判はそのまま教会の自己批判になります。

見せかけの信仰

 律法学者たちやファリサイ派の人々が批判されるのは、彼らの信じた聖書の教えが間違っているからではありませんでした。神がモーセを通して与えた旧約聖書の律法は、そのまま神の言葉であることは変わりません。2節で、彼らが「モーセの座に着いている」と言われるのは、彼らがモーセの律法を基準として、神に従う生活を志したことを意味しています。その信仰の拠り所は間違っていませんでした。イエス御自身も別のところで律法の権威を認めて、「私は律法を廃棄するためではなく完成するために来た」と言われました。今日のところでも3節で「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と言っておられます。それは、律法に込められた神の御旨の正しさを表わします。

 律法学者やファリサイ派の人々が非難されているのは、「言うだけで実行しない」からです。4節ではこう言われます。

 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。

人には「やれ」と命じておきながら、自分ではしない。こういう態度を上の立場のものがとりますと、学校でも会社でも下から突き上げられるのではないかと思います。ファリサイ派の指導者たちは、聖書を解き明かして民衆に教える立場の故に人々から尊敬されていましたけれども、その解き明かされた神の教えに従うという点では教師もまた民衆の一人に過ぎませんでした。そもそも、天地を造られた神の前にあって人間はみな平等である、とするのが聖書の教えです。神が選んだ民イスラエルとは、そもそもエジプトで奴隷であったところを自由へと解放していただいた者たちのはずで、それは決して忘れてはならないことでした。それを忘れて、与えられた指導的な役目の上にあぐらをかき、民衆を厳しく律法で取り締まる無慈悲な振る舞うのは、神に従うどころか神の憐れみに対する忘恩です。そういう彼らの態度を「見倣ってはならない」とイエスは注意されます。

 「言うだけで、実行しない」指導者たちの心にあるものが、5節にこう見抜かれています。

  そのすることは、すべて人に見せるためである。

彼らの振るまいは見栄であって、人の上に権威をふるうことを喜びとしている。おおっぴらに指摘されてしまえば恥ずかしいような人の思いです。

 「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」というのは、今でも敬虔なユダヤ人が身につける衣装のことです。申命記にある掟に基づいて、黒い革製の小さな箱に聖句を記した紙を入れて、紐で額と二の腕に括り付けます。また、衣の四隅に小さな房を付けます。今はズボンの腰に括り付けますが、これによっていたずらに異性に対する情欲を燃やさないよう気をつけるよう律法で命じられていました。こういう道具立てを用いて、ユダヤ人たちは神の言葉を常に身に帯びていられるようにされたのですが、ある人々はそうした道具立てに凝って、ひと際目立つようにしたりして、いかにも自分が信仰深いようなふりをした、ということでしょう。

 6節、7節にあるのは、そうした見栄っ張りな指導者たちの好むことです。

  宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。

会社関係の接待などではこうしたことは今もよく見られますけれども、人から尊ばれる自分の立場への執着から、こうした「好み」をあからさまにして憚らないという人もあるかと思います。

 「言うだけで、実行しない」とか、「人に見せるため」の振る舞いに終始する、というようなことが意味するのは、つまり、何でも自分が中心でなければ気が済まないような人の心の実情です。つまり、そこには神に対する信仰はありません。先に主イエスは、律法学者の問いに答えて、最も大切な掟を二つ教えられました。一つは、全身全霊をかけて神を愛すること、もう一つは、自分自身のように隣人を愛することでした。それは、律法の精神といえるものです。その心が、見栄だけの指導者たちにはない。モーセの座について、神に従えと命じるけれども、自分たちの心には本当に神に従う心はありません。そういう上に立つ者たちの見せかけの権威に引きずられるようにして後を着いて行ってはいけない、ということを主イエスは人々に教えられました。

教師はただ一人

 主イエスは、「父はひとりだけである」「教師はひとりだけである」ことを弟子たち、すなわち、私たちの教会に訴えておられます。肉親である父親がいるとしても、真の父として私たちを子として扱ってくださる天の父を忘れてはならない。それに並ぶような権威をもった父は地上にはありません。「地上の者を『父』と呼んではならない」とは、天の父を忘れて他の者を父としてはならない、ということでしょう。カトリック教会では「牧師」はおらず「神父さま」がおりますけれども、「ファーザー」ですね、そういう単なる呼び名のことではありません。

 「先生」や「教師」と呼ばれてはならない、ということも、ですから、単なる呼び名のことではなくて、教会でいつも心しておかねばならない、権威の拠り所についてです。私たちを正しく神の御旨に導いてくださるのは、イエス・キリストお一人です。キリストは教会の頭であり、私たちはその体です。キリストを抜きにした交わりの中で、「先生」や「教師」が幅を利かせてしまうことがないように、教会は、特にその立場に立つ牧師は注意しなければなりません。

 私たちの教会では、牧師が「先生」と呼ばれますし、牧師の正式な職名は「教師」です。今日の御言葉と照らしてみれば、主イエスの言っておられることに直接違反するようにも感じられますけれども、ここで教えられることは、今もお話ししました通り、教会の「職務」に関することではなくて、教会が保たなくてはならない真の信仰のことです。天の父を心から信じ、イエス・キリストを真の教師としていただくならば、教会に集う私たちはみな平等な立場に立つのであって、皆が兄弟姉妹となります。

 大切なのは、ですから、本当にそう思っているかどうかという私たちの受け止め方です。聖書そのものが尊ばれるために牧師の教師としての働きは尊ばれなくてはなりませんから、牧師の呼び方は「先生」でよろしいのだと思います。けれども、「先生」と呼ばれるからといって、その先生に全く頼んでしまって、キリスト御自身の働きや権威を忘れてしまえば信仰になりません。人はどうしても目に見えるものにすがりますから、そういうことが実際に起こってきます。牧師はその務めのために尊ばれますけれども、人間が一段上であったり、位が一般信徒とは異なるということはありません。

 教師ばかりでなく、他の役員にもこれは当てはまります。これから私たちが教会設立をしますと、「長老」や「執事」に選ばれた兄弟姉妹が新しく私たちの間に立てられます。それらは皆、キリストから委ねられる尊い務めであって、キリストに代わって私たちの間で奉仕をしてくださいますし、それゆえの権限も与えられます。ですから、私たちは皆でその尊い召しを受けた長老・執事を尊敬するようにならなければなりません。けれども、それは人間が一ランク上になったかのようであってはならないのでして、長老であろうと執事であろうと、皆、キリストに結ばれた兄弟姉妹として神の御前で誰もが等しく尊ばれます。

キリストの道

 教会が世の中の仕来りに染まって組織の世俗化が起こります時に、見せかけの信仰で上座に座りたがる教師も出てきてしまいます。こういうことは、個人の問題というよりも、教会が世の中の流れに流されていく中で起こるのだと思います。誰しも、周りからほめられたい、自分だけ特別だと言ってもらいたいという気持ちがあります。権力の座が心地よいのは、それに相応しい能力が自分にあるかどうかに関わらず、一度その地位を得てしまえば、皆が自分を尊んでくれていると思うからではないでしょうか。見栄っ張りなのは寂しいから、本当はもっと確かに人から愛されたいからではないか、とも思えます。しかし、それ故に、虚しい権力への執着があり、自己本位な心があり、人を力で支配しようとする、悲しい罪の現実があって、私たちの住む世界は、そうした状況から抜け出ることができないでいます。

 キリストの教えに従えば、世界はまるで違います。人は肉親である父親の支配下にはなく、その家柄や遺産や資質を他人と比較せずとも、神が真の父であられます。同時に、天の父のみもとで人はみな兄弟姉妹ですから、人間の価値において優劣が競われることもなくなります。皆、神の子であって、等しくキリストに教えられて生きる者です。

 キリスト者が、こうして信仰に従って生きる原則は、世の中の価値観とは異なります。主イエスは、これまでも繰り返し述べて来た教えを、ここで再び述べて言われます。

 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

世の中では、一番偉い人が多くの人々に仕えてもらえます。しかし、キリストを受け入れた人々の中では、そうではありません。一番偉い人が、他の者のために最もよく奉仕します。なぜなら、神の目から見て、最も大いなる人となったのは、神と人とにすべてをささげたイエス・キリストだからです。そこに人の基準があります。自分はひとかどの者だと思って他人を見下すような人は、神の目からすればただ滅びるだけの罪人です。しかし、自分は罪人に過ぎないことを知って、キリストと同じように、神の御旨を求めて慎ましく生きる人は、罪人であっても神の目にはキリストと同じように尊い子どもです。

 このように神はキリストを通して、この世の価値観とは異なる生き方を世界に表わしてくださいました。それを現実に生きるのがキリストの教会です。主イエスは、人に背負いきれない程の重荷を背負わせるこの世の中で、命をすり減らすような思いをしている人に向かって「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけられました(11:28)。イエス・キリストは、自分本位で弱い人を蔑むような、過酷な教師ではありませんでした。むしろ、御自分で人間の罪に対する神の裁きという大きな重荷を背負われて、十字架で死んでくださった救い主です。このお方のもとには憩いがあり、それぞれに与えられた命を神が一緒に生きてくださる、積極的な人生があります。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われた通りです。

 信仰の道は、見せかけではありません。天に父がおられることを心から信じ、キリストが私たちの導き手となって、教会の交わりの中で生きておられることを心から信じて、その教えに生かされるところに信仰があります。教会は、人からの評価を求めて競うような生き方から、解放される場所です。それが完全に果たされているということではありませんが、キリストがそのように導いてくださる場所です。キリストに心を開いて御言葉を受けながら、互いに仕え合う、そうして喜びも苦しみも分かち合う、本当の兄弟姉妹としての交わりを、ここに与えられたいと願います。

祈り

天の父なる御神、私たちを含めて、この世の高ぶる思いをどうか静めてください。あなたなくして生きることの出来ない、小さな命であることに気づかされて、へりくだってあなたから真の慰めと誇りと幸福を受け取ることができるように、真の教師であられる主イエスの御言葉を聞かせてください。あなたがこうして集めてくださる教会の交わりにあって、唯一の父であり、唯一の教師であり、また唯一の友である、あなたの御存在をいつも覚えていることができるように、私たちの信仰を確かにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。