マタイによる福音書23章13〜36節

正義、慈悲、誠実

 

祝福と呪い

 聖書から教えられることの中で、最も重要な事の一つは「契約」です。「契約」とは、二つのものの間を結ぶ約束ですが、聖書では神と人間がこの契約関係にあります。旧約聖書の歴史に描かれたイスラエルは、神と契約を結ぶために選ばれた人類の代表です。自分から名乗り出たわけではなくて、天地の創造者である神から一方的な指名を受けて、聖書の舞台へ引き上げられて、スポットライトを浴びることになりました。それを端から見る私たちからすれば、大変な役割を負わされた民族です。

 そのイスラエルは、もとはといえば奴隷でした。エジプトの王による圧政の下で、生きる権利を奪われた人々でした。そこへ神は御自分の僕であるモーセを送ってイスラエルをエジプトから導き出し、御自分とともに生きる民として彼らを解放されました。イスラエルは、その時から、人間に支配される奴隷ではなく、神だけに支配される民として神と契約を結びました。神はモーセを通じて、その契約の言葉をイスラエルに与えて、彼らが寄るべない地上の漂流者とならないように、生きるための法を彼らの内に置かれました。それが、旧約聖書に含まれているモーセの律法です。

 神との契約の言葉である律法が、イスラエルを神との関係の中に保っていました。日本国憲法が日本の国民を自由と平和の内に守っているのと似ています。神が選んだイスラエルには、律法に基づいて二つの道が示されていました。即ち、神との契約を重んじて、律法に従う生活をしていれば子々孫々に及ぶ祝福が与えられて、彼らは地上で命を保つことができる。しかし、神との契約を軽んじて、つまり、神を忘れて、律法に背く生き方をすれば、やがては呪いによって破滅する、ということです。

 選びの民イスラエルは、神の祝福と呪いの狭間で地上の歴史を歩むことになりました。彼らはすべての人類の代表です。何故、パレスチナの一画が世界の舞台となり、彼らのような小さな民族が代表なのかという問いには答えはありません。歴史は一回限りのものであって、すべてを決めておられるのは天の神です。私たちは聖書に記されたイスラエルの歴史を通じて、神とともに生きる人間のありのままの姿を知らされます。そこから学んで、祝福に至るのか、呪いに留まるのか―現在の自分と世界の未来を決定するは私たちの信仰です。

 マタイ福音書の5章で、主イエスは「山上の説教」をなさって、「幸いだ」と人々に呼びかけました。「八福の教え」とも言われる最初の部分では、「貧しい人々は、幸いである」から始まって、世の中の救いを求める人々に神が手を差し伸べられたことの幸福が告げられました。これは、神がイスラエルとの契約に基づいて約束された祝福が、貧しい人々の信仰の上に成就することの宣言です。もはやイスラエルは古い血のつながりによる民族共同体を越えて、イエス・キリストへの信仰に基づく新しい契約共同体になります。この世の苦しみに耐えらない思いをしている人は誰でもキリストを信じることでイスラエルの一人となり、自分の人生の上に神の祝福を受けることができます。

 そして、今日の箇所で告げられるのは、旧いイスラエルの指導者たちに向けられた「呪い」の宣告です。先の「八つの祝福」に対して、「不幸だ」との呼びかけがこちらでは七回繰り返されます。舞台となっているエルサレムはイスラエルの中心であり、正にその心でしたが、その心には真の神への信仰はなく、指導者たちは偽善の虜になっている、とイエスは厳しく咎めます。

 新約聖書も旧約聖書も一貫して私たちに語っているのは、神との契約に基づく救いです。この世で人の憐れみから遠ざけられて、低く小さくされた人々は神の憐れみによって祝福を受けますが、神のことを思わず、思い高ぶる者たちは自ら呪いを招いて滅びます。「律法学者たちとファリサイ派の人々」へのイエスの裁きは、私たちの罪ある人間性や生活に対する裁きであり、神の御旨に背くこの世界に対する呪いです。これを真剣に受け取ることなくして、本当の悔い改めはありませんし、罪を悔い改めない人の心に、救いをもたらす恵みの言葉も届きません。この世界から戦争がなくならず、人間の手による悲惨が次々と生み出され続けるのは、頑な人の心がなんとしても神の御前に謙ることがないためだと思わされます。しかし、キリストが神の祝福をもって世に来られたのですから、私たちはそれが現実に実りを見る希望をもって、主イエスの言葉を真剣に受け止めたいと思います。

偽善的な教えの災い

 「律法学者たちとファリサイ派の人々」は民衆の指導者たちでした。一つの国でもそうですが、指導者が道を誤れば国民全体がその影響を受け責任を問われます。ですから、神が指導者たちに与えておられる責任は重大です。イエスはエルサレムの指導者たちを「偽善者」だと訴えます。

 「不幸だ」との言葉は古い翻訳ですと「災いだ」となっていたと思いますが、これは旧約の預言者たちの言葉遣いで、「ああ!」という嘆きの声を表わします。それは地上の民に神の裁きが下される時の合図のように響きました。ですから、その「不幸」は指導者たちだけの不幸には終わらずに、彼らの指導の下にある民全体が災いを受けることを指します。

 彼らの偽善は、自分の信仰を鼻にかけて人に見せびらかすような振る舞いにも現れますけれども、ここで指摘されているのは、そうした振る舞いの根拠となる教えの誤りが指摘されます。彼らの権威はモーセにありました。つまり、モーセを通じて神が律法をお与えになったのですから、神の権威ある律法を説き起こして、人々の信仰と生活の指導に当たりました。その教えが神の御旨に適って正しく解き明かされていれば、人々には天の国が開かれるはずです。しかし、その教えが誤っていれば、誰も天の国には入れません。律法学者たちとファリサイ派の人々の教えは、権威ある者として民衆に届けられましたが、彼らの心には天の国に入ることなど真剣に考えていない、とここで批判されています。「自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(13節)。

 15節ではこう言われています。

 改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄 の子にしてしまうからだ。

 「改宗者」とは、聖書の神を受け入れて割礼を受けて信者になった異邦人のことです。使徒たちの宣教によってキリスト教が地中海世界に広がっていく様子は使徒言行録を中心に知ることができますが、ユダヤ教の宣教活動については、新約聖書はあまり触れていません。しかし、ユダヤ人はイエスのお働き以前から地中海世界の各地に離散して住んでいましたから機会はいくらでもあったはずです。長距離の旅をして宣教に出かけることもあった、とここから伺えます。ともかく、せっかく真の神を信じて改宗したところで、その教えが誤っているために弟子たちは師よりも手の付けられない酷い過ちに陥ってしまう、とのことです。幾分、誇張された表現ですけれども、教えの継承という点では一般的によく見られることでもあります。

 本文のことで一言お話しておきますと、新共同訳聖書ではご覧の通り14節がありません。口語訳や新改訳などの従来の訳では記載されていましたが、信頼できる古い写本にはいずれもそれがありませんので、現在では後の付加と看做されて削除されています。早い段階での写本の作成にはそのようなことが起こりえます。

 さて、16節から22節にかけては比較的大きな段落になりますが、ここでは神殿でなされる「誓い」の儀式について触れられています。この「誓い」は、「願をかける」ことで、何かの願いをするときに、ささげものを自らに科して神に誓いを立て、その願いが果たされたら、初めに誓ったささげものを神殿に納める、というものでした。16節と17節に記されているのは、その誓いの立て方の細かい区別で、どのような誓いが神殿では有効になるかという議論がラビたちの間でなされていたといいます。実際の詳しいことはよく分かりませんが、「黄金」や「供え物」に強調点があるとすれば、それらのささげものを具体的に述べた誓いは有効で、かつ、誓ったからには必ず神殿に納めなければならない、という神殿側の懐勘定が現れているものなのかも知れません。言わずもがな、信者がささげる黄金も供え物も神殿の貴重な収入源です。

 しかし、当然のことながら、誓いを立てる行為は神との間でなされる真剣な約束ごとです。19節以下でその心が説かれている通り、神殿にせよ祭壇にせよ、それは神に近づくための手段に過ぎず、誓いを立てるならば神にお願いをし、約束をするわけです。その真剣さを欠いた手続きだけの誓願には意味が無いばかりか、むしろ神を軽蔑するような行為になってしまいます。そういう形式化した礼拝の実施の仕方に、主イエスは「偽善」を見て取っています。

 誓いについては、主イエスは山上の説教の中で既に「一切誓いを立ててはならない」と教えておられました(5章34節)。軽率な誓いは神の御名を汚すことになって、かえって裁きを招く危険があるからです。イエスは、誓いの立て方に関する細かな議論にやっきになって、祭壇や神殿の本義を忘れた教師たちのことを「ものの見えない案内人」「愚かで、ものの見えない者たち」と容赦しません。しかし、悲惨なのはこうした指導者たちに指導を受けている民衆の方です。神に対する心からの崇敬を欠いた指導者たちのせいで、その教えを受けた人々の信仰も形だけのものになってしまいます。

 23節と24節で指摘されるのは、そうした心を欠いたまま形式だけに拘る信仰心の本末転倒ぶりです。「薄荷、いのんど、茴香」のささげものとは、収穫物の内の十分の一をささげよと命じられた律法に則ってささげられる、もっとも些細なものです。今日では「薄荷」はミント、「いのんど」はディルもしくはアニス、「茴香」はクミン、と言った方が分かりやすいかも知れません。どれも地中海地方の特産物ですが、特別に高価なものではない日常の食卓に要されるそうしたハーブの収穫にもきちんと「十分の一」献金の掟を適用してささげる細やかさを、教師たちは指導していたのでしょう。主イエスが「もとより」と言っておりますように、その細かな配慮そのものは称賛に値します。私も神学生時代に、ある教会の長老から「愛は細やかである」ということを教わりまして、それから幾つもの証をあちらこちらの教会で見ることができました。確かに、細やかな愛情で育てられた教会は信仰の実りも豊かです。全収入の十分の一をささげる、という規定も、それが神に対する細やかな愛情から出て来た行為であれば、神との契約を心から大切にする信仰として評価されるに違いありません。

 けれども、「偽善者」によるそうした細かな配慮が実に滑稽なのは、規則にどこまでも忠実であろうとする反面、最も大事なことを忘れてしまっているからです。あなたたちは十分の一は献げるが、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」と、主は言われます。神が人に求めておられるのは、ほんの一握りのハーブではなくて、「正義、慈悲、誠実」という人の心であることは当たり前のようですけれども、信仰が形骸化してくるとこういうことが起こってきます。こういう本末転倒したあり方が、24節では「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」と皮肉たっぷりに表わされます。

 「ぶよを漉す」というのは、葡萄酒に小さな羽虫ひとつでも入っていると、その杯が汚れたものになってしまうからです。レビ記11章にはそうした食物に関する規定が記されていて、清い動物と汚れた動物の区分がなされています。そこで「ぶよ」は4つ足の汚れた動物とされていますし、また「らくだ」も汚れた動物なので食用にはなりません。あなたたちはどんな小さな虫をも取り除こうとして努力するが、知ってか知らずか、汚れた巨大な「らくだ」を飲み込んでいる。

 偽善のどこに問題があるかがこれではっきりします。聖書の細かい字句に囚われて、その解釈を弄ぶばかりで、神がまっすぐ求めておられる最も大事なことに向き合おうとしない態度に偽りがある。その最も大切なこととは、「正義、慈悲、誠実」だと、このところでは言われます。

 もとよりこれは旧約の預言者たちが指摘していたことでした。同じことは、旧約の時代にもありました。イスラエルの指導者たちから信仰心が失われた時、都では神殿での礼拝が絶えること無く続けられていましたが、社会には不法がはびこりました。預言者ミカは6章で次のようにイスラエルを告発します。

 何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物と して/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。 主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。

「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」、これをマタイの記す言葉で置き換えますと、「正義、慈悲、誠実」となります。イスラエルにとって神がお与えになった律法に忠実であることは信仰の証です。けれども、神の御心は、律法に忠実に従って「正義、慈悲、誠実」を実行することにあります。その本来の目的を失って、目先の律法遵守にやっきになってしまうところに、「ものの見えない」信仰が生じてしまいます。

 25節から28節で指摘されていることの要点は、26節にあります。「まず、内側をきれいにしなさい、そうすれば外側もきれいになる」。心の内に「強欲と放縦」が満ちていて、「偽善と不法」が支配しているうちは、表向きばかりきれいにみせても始まらない。それは、人の目は誤摩化せても神の御心には適わない。それで開き直ってしまえば、「白く塗った墓」と同じです。

 律法の中心は、神を愛することと人を愛すること、と先の論争で主イエスは説いておられました。キリスト教の黄金律です。それは心と行いの両者を含んでいますが、始まりはいつも心です。内から外へ、清められた心が、細やかな愛の働きに結びつきます。

 29節から36節で最後に加えられているのは、そうして指摘されている自らの罪を顧みない自己欺瞞です。イエスはこれを歴史的な罪責の問題にしています。人々は預言者の墓を建てたり、義人の記念碑を建てることに熱心でした。今日でも、信憑性は別にして、預言者ハガイやゼカリヤの墓ですとか、ダビデ王の墓はエルサレムにあります。それらの墓や記念碑が意味するのは、英雄たちを称えて記憶に残すため、また特にイスラエルの歴史の上では、彼らが犠牲的な死を遂げたことを記念するためでしょう。「もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」とは、一面、その歴史の反省をも表わします。けれども、その言葉が正に証しているように、「預言者の血を流した」のは先祖に他なりませんでした。そして、イエスが指摘するのは、その先祖と同じ罪を今まさにあなたがたが行おうとしている、という点です。「自分たちは先祖に組しなかったろう」などという安易な憶測は、この後すぐにもイエスの血を流すために人々が結託することで偽りだと証明されます。さらに、34節で述べられているのは、イエスの弟子たちが被る迫害のことです。昔の先祖たちが神から遣わされた預言者たちを告発し、死に追いやったように、今の世代のものたちもキリストの僕たちを「殺し、十字架につけ、鞭打ち、迫害する」。そうして、先祖の犯した罪は今の時代に引き継がれて、神の裁きはもはや免れ得ない。

 イエス・キリストは、神が差し伸べた救いの御手に他なりません。しかし、それを拒んだエルサレムは、自らの呪いを決定づけてしまいます。それは、旧約聖書が記すイスラエルの運命と同じ轍を踏むものです。

主の教えに立ち返る

 主イエスはこのようにして、イスラエルの罪責を明らかにされました。彼らが装った偽善的な礼拝、失われた信仰心、正しい人の血を流し続ける行為は、過去のイスラエルそのものであり、悔い改めのないイスラエルの姿そのものです。その偽善と暴虐によって、神が人に求めておられる正義と愛と真実が覆い隠されて、契約違反にかけられた呪いがふりかかります。

 イエスは預言者のようにイスラエルの「不幸」を告げました。預言者が裁きを語ったのは、イスラエルが悔い改めるためです。神と人間との間に結ばれた契約は、そもそも神が主導権を握っておられます。そして、イスラエルの民は長い歴史を通して何度も神に背いて来たのですが、その都度罰を受けながらも、イスラエルは見捨てられること無く、神に赦されて生き延びることができました。「律法学者とファリサイ派の人々」がイエスから受けることになった呪いもまた、悔い改めへの呼びかけです。歴史の上では実際にエルサレムはローマによって破壊され、神殿も焼かれて廃墟になりました。しかし、神はイエス・キリストのもとに新しいイスラエルである教会をお建てになり、再び赦しを、しかも、完全な赦しをイエスの十字架と復活によって人にお与えになります。初めにお話ししましたように、イスラエルの罪は人類の罪です。彼らは代表として神を前にした人間の姿を表わしたに過ぎません。神に背いて正義と愛と真実を踏みにじって来た、過去の罪責は、すべて「今の時代の者たちにふりかかってくる」のはすべての国、民族にも同じことが言えます。聖書にある、イスラエルの姿を見て、イエスを殺す人々の姿を見て、私たちが負わされている罪の重さに気づかされるならば、そこから呪いは祝福に変わって行きます。すでに、キリストを信じた者たちは、主イエス・キリストの十字架のゆえに呪いを取り除いていただき、永遠の命の祝福を約束されています。ですから、尚更、私たちは偽善に陥らないよう自らの信仰をよく吟味して、真の悔い改めと信仰によって、この現代の社会における祝福の苗床とさせられたいと願います。そのために、私たちの内なる心を清めてくださる聖霊を求めてまいりましょう。

 

祈り

天の父なる御神、あなたの声を聞くことの出来ない世の流れの中で、信仰が失われ、真に価値のあるものを見出せない時代がまたやってきています。教会が、偽善に陥って、世の災いとなりませんように。私たちがあなたの御前に負っている罪責を確かに受け止めて、あなたからの赦しをいただいて、今から後にも希望をつなぐことができますように、私たちの心にあなたの御旨を映させてください。聖霊によって私たちの内なる心を清め、あなたの御旨に適う、正義と愛と真実をもって、あなたと隣人に仕えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。