マタイによる福音書25章14-46節

神の賜物を大切に

 

 終末に関するイエスの教えを、私たちはマタイによる福音書から聴いて参りました。イエスが教えておられるのは、終末はすぐにでも来る、ということ、そして、その時を私たちは知らないということでした。そして、教会は、イエス・キリストが再び来られるその時を、いつも目を覚まして、きちんと賢く備えをして待っているようにと呼びかけられている、ということを学びました。突然主人が帰ってきて、慌ててその場を取り繕うような不注意で怠惰な僕にならないように、主人から託された仕事を忠実に賢く続けて、いつでも主人を迎える準備ができているようにと、教会の主人であるイエスが僕である私たちに命じられました。そこで賢くある、ということについては、「十人のおとめ」のたとえ話で語られました。それは、私たち教会が、キリストの花嫁として、花婿の到着をいつでもお迎えできるよう準備を怠らないこと、つまり、主をお迎えする礼拝を絶やさないことです。信仰の目を覚まして、心を込めて、礼拝をささげる姿勢を生活の中に定着させることです。それをイエスは、賢さ、と言われました。そして、続けてイエスはもう一つのたとえ話をされて、「忠実で賢い僕」の「忠実さ」について教えておられます。それが今日聴きました御言葉の、最初の段落にあります「タラントンのたとえ」です。よく知られたたとえですが、これは終末に関する教えの一つとして、マタイ福音書では収録されています。

 主人が旅に出かけます。その間、僕たちが留守を守ります。主人がもう一度家に帰ってくるのは、19節にありますように、「かなり日がたってから」のことです。これが、教会の時代を指していることはすぐに気がつきます。イエスが天に昇られて、再び帰ってこられるまでの期間に私たちは置かれています。その間、私たちはただ手をこまねいて主人であるイエスを待っているのではなくて、主人から託されたタラントンを用いて働くようにと言われています。

 タラントンとはギリシャの通貨で、1タラントンは6000デナリオンに相当します。ぶどう園と労働者のたとえでも出て参りましたから、覚えておられる方もあるかと思います。1デナリオンが当時の一日分の賃金ですから、それを5000円としますと、1タラントンは3000万円になり、相当な金額です。主人は僕たちに御自分の財産を分け与えて、忠実に管理するように命じて旅に出ました。私たちが主イエスから預かったものは大きな財産です。

 僕たちは主人から預かった財産を、それぞれの才能に応じて増やしていくのですが、タラントンが意味するのは、そうした才能も含むすべての賜物です。神が与えて下さったすべてのもの―私たちの知恵も力も財産も、健康も家族も、そして、私たちの生命そのものも、神が私たちに与えて下さったタラントンです。このことはすなわち、私たちは、そうしたものを自分のものであるように好きにしているのかもしれませんが、そうではなくて、本来の持ち主は神です。私たちはすべてのものを、とても尊い財産として神から預かっています。ですから、これを神のものとして忠実に管理しなければなりません。これが、終末の時代を生きるクリスチャンの基本的な生活態度です。私たちは、主イエスが帰ってこられる時までそれを預かっているのですから、やがては返す時がやってきます。そのことを忘れて、自分のものにしてしまうことはできません。

 たとえの中の二人の僕は、主人が帰ってきましたときに、それぞれ与えられた分を二倍にしてお返しすることができました。その時に主人は喜んでこう言葉をかけられました。

 忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。

よくやった、と主人が喜んで下さいます。それは、財産が二倍になった、という金額のことではないと思います。僕が、「少しのものに忠実であった」ことが嬉しいのです。その僕は、主人の心をよく分かっていました。5タラントンであろうと、2タラントンであろうと、決して「少しのもの」とは思えません。けれども、主人がそれから後に与えて下さる、さらに「多くのもの」に比べれば、それはほんの少しのものに過ぎません。その「多くのもの」とは、主イエスが再び来られた時に与えられる天の国です。

 このたとえ話の要点は、また、別のところにあるのを気づいておられると思います。15節で、「それぞれの力に応じて」主人が僕に財産を分け与えられた、と言っています。僕たちが預かった金額には、5タラントン、2タラントン、1タラントン、という差があります。これは、神の賜物には差がある、という教会の実情に合わせてのことです。そうしますと私たちとしては、そういう賜物の差というのが気になりますし、比べてみたくもなります。主人がそうしたのですから文句をいう筋合いはないのですが、多く与えられれば僅かしか与えられなかった者を見て優越感を抱きますし、少なく与えられれば、多くもらった者に嫉妬して自分は不当な扱いを受けたと思いがちです。けれども、このたとえではそういう比較は何の意味も持ちません。イエスが言われたのは、三人に差はありましても、それぞれが受け取った金額は膨大です。そして大切なことは、そうして主人から受け取った財産を、自分の力に応じて忠実に用いることであって、他の者と比較をすることではありません。1タラントン預かった者が最後におしかりを受けますけれども、はっきりは書いてありませんが、自分が低く見積もられたことに腹を立てて、地面に埋めるなどということをして、主人に拗ねてみせたように見受けられます。

 神の賜物には差があります。神の前に生きる人の生命の尊厳には差はありませんが、生まれ出てくる環境はまちまちです。そして、神から委ねられた資本も千差万別です。私たちはそれを人と比較して人を蔑んだり妬んだりします。けれども、私たちは、まず神の与えて下さった自分の分をしっかり見て、その与えられた分をどう生かすか、に全力を尽くすよう求められます。人の評価がどうであろうと、最後に評価をくだすのは神です。自分の能力も社会的地位も財産も、神に対して忠実にそれを用いるのならば、「よくやった」という評価が神から与えられます。

 このことは教会の中において尚更です。つまり、タラントンに表される莫大な財産は、第一に信仰に関する事柄だからです。私たちに与えられる、神からの最大の財産とはキリストの救いを信じる信仰です。それは神への愛に通じます。マザー・テレサのように莫大な遺産をイエスから委ねられた信仰者がいれば、まだ信仰の歩みを始めたばかりの求道の方々がいます。そして、その信仰の度合いに応じた、信仰の営みが教会での奉仕として表れます。それを互いに比較して高慢な態度をとったり、卑屈になったりすることは御旨に適いません。神が与えて下さった信仰の賜物は、一つ一つが巨額の財産です。その恵みに忠実に分を果たすときに、それはそれぞれに実りを生んでいくものです。

 そこで警告が与えられているのは、神から与えられているそれぞれに大切な財産を、地中に埋めてしまうことです。財産を地中に埋める、というのは保管するためには最も安全で賢い方法です。確かに、「十人のおとめ」のたとえでは、たとえ眠り込んでしまってもちゃんと準備をしておくぐらいの賢さがないといけない、ということでしたが、それは眠り込んでもよい、ということではありません。むしろ、「目覚めていなさい」と警告されています。ですから、一見賢く振る舞って、財産を地中に隠しても、それで「忠実である」とは認められません。きちんと財産を、神が託しておられる賜物を活かすことをしないと、賢く忠実である僕とはなりません。むしろ、地面に埋めるのですから、それは賜物を殺す行為となります。

 1タラントンを地中に埋めてしまった「悪い怠惰な僕」は、「恐ろしかったから」と言っています。ある注解者は、これを冒険心の欠如だ、といいます。他の二人の僕は、主人の財産を危険に晒す覚悟で、主人のために大胆にそれを活用しました。それに比べて悪い僕の方は、神を不当で容赦ない厳しい暴君に仕立てて、自分自身の安全だけを考えて、財産をそのままの形で守ることだけに関心を注ぎます。これは教会の悪しき保守主義である、とその注解者は指摘します。確かに、神の罰を恐れて、律法を厳格に守ることに拘る戒律主義もそこに含まれるでしょう。神が私たちに信仰という恵みの賜物を委ねておられるのは、神の裁きを恐れてそれを堅く封印してしまうためではなくて、その信仰を豊かに成長させるためです。賜物を傷つけることを恐れるのではなくて、豊かに発展させる方策に気を配ることが大切です。つまり、隣人のためにそれを用いて聖霊の宣教を推し進めることです。

 けれども、この「悪い怠惰な僕」の問題は、神を知っているといいながら、少しも知っていないことにあります。信仰をもって神を畏れるというよりも、種を蒔かない畑から収穫を刈り取れと命じるような、虐待する神を恐怖しています。この僕が怠惰に陥ったのは、そうした主人である神の愛を知らないためです。神が1タラントンくださったことに、神の愛を信じることができるかどうか、そこがポイントです。僕は神から愛されて、それだけの分け前を与えられています。私たちは誰もがそうした神の信頼によって今活かされています。蒔かないどころか、神は尊い命を私たちに下さっています。また、信仰をも与えて下さいます。そうした恵みをいかに活用するかが、私たちの生き方ですし、そこには神の信頼に対する私たちの応答の仕方があります。そうした恵みをいただいておりながらも、その信頼を無にして、信仰を土に埋めてしまう、それは信仰が眠り込む、といってもよいと思いますが、そういう姿勢でおりますと、最後には持っているものまで取り上げられる、つまり、信仰そのものが取り上げられてしまう、いのちそのものまで取り上げられてしまう。こうして、終末を生きる教会の歩みは、落ち着いてはいますが極めて活発な、積極的な人生に促されています。

 では、タラントンを活かすというのは、具体的にどういうことを指すのか。それを次の段落でイエスが教えておられます。羊と山羊という区別が設けられていますが、忠実で賢い僕が羊、悪い怠惰な僕が山羊、となります。どちらも日常では一緒に草を食んでいます。けれども、最後に永遠の命と永遠の罰とに分けられてしまう。その基準は、タラントンを忠実に活かしたかどうかという、神の目からする判断によります。

 タラントンを忠実に用いて実りをもたらすこととは、ここに表されますような兄弟愛に生きることに代表されます。キリストの愛の実践です。神が私たちに委ねておられる最大の財産は信仰だと言いました。それは神への愛である、とも言いました。そして神を愛は、隣人への愛をもたらします。つまり、終末に向けて私たちが採るべき姿勢は、その愛を殺すか、愛に生きるか、ということです。忠実で賢い僕は、神への愛を忠実に守り、賢く実践します。神は羊たちに言います。

 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた...

教会の時代には、こうした親切をイエス・キリスト御自身にして差し上げることはできませんが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」とイエスは言われます。「互いに愛し合いなさい」とイエスは弟子たちに新しい掟を残していかれました。そして、教会に集う兄弟姉妹が、互いに愛し合うことが、そのままイエス・キリストを愛することにつながります。兄弟姉妹たちのために忠実に仕えることが、キリストに対する奉仕です。ここに連ねて書き記されている事柄は、実際に古代教会の兄弟姉妹たちが実践していたことです。「牢にいたときに尋ねてくれた」とは、犯罪を犯して牢にいた、というのではなくて、信仰の故に投獄されたことを指しています。そこへ同じ信仰者として尋ねて行くのですから、それは命がけの行為です。キリストへの愛に生きた最初の信仰者たちは、イエス・キリストを信じて、教会の兄弟姉妹たちを本当の兄弟姉妹たちとして受け入れていました。そこに、キリストの愛が確かに息づいていました。

 こうして、終末の教えとして私たちに最後に示されるのは、兄弟姉妹たちに忠実に仕えるという、私たちの信仰の実践への促しです。間違ってはならないことは、その実践が功績となって、私たちが救われるのではないことです。むしろ、私たちはキリストを信じ始めたとき、キリストの僕として生きると決心してから、幾分でもその愛を生き始めています。神を愛し、兄弟姉妹たちに仕えていく、そうしてタラントンを活用していく生活に入りました。今日の後半の教えの要点は、王に評価をしていただいた人々は、王の言葉が何のことであるかさっぱり分からなかった、というところにあります。特別に王に対して何かをしたつもりはなかった、ということです。つまり、私たちの日毎の生活そのままが、王であるキリストに対する姿勢になります。私たちは、神の賜物を活かす、とはいっても、何か英雄的な行為を求められているのではありません。毎日の、当たり前の生活の中で、私たち誰もが行ったり振る舞ったりしている、そのこと自体が祝福であり呪いになります。私たちが心に神の愛を抱いて不平を言わずに互いに仕え合うならば、そこには神の祝福が実っています。

 信仰と善き業との関係について、ヤコブの手紙から次のように勧められています。

 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

 タラントンを豊かに活用した僕たちも、知らず知らずとキリストに等しい小さな者たちに親切に振る舞った人々も、神の愛に活かされてこそ、そのような生活に導かれています。始めはいつも、キリストが私たちを愛して下さったことがあります。神が私たちを信頼されて、すべての賜物を与えて下さっています。罪がなくなった訳ではありませんから、愛に破れることも多々あります。しかし、裁きを恐れて、硬直化した生活を神が求めておられるのではなく、私たちが当たり前のように兄弟姉妹たちを愛し、仕えていく、そういう自由な心で生きることを主が命じておられます。そのために、いつも私たちはイエス・キリストが私たちのために何をしてくださったか、私たちにどれほどの愛を注いでいて下さるかを思い起こしていたいと願います。そこから互いに仕え合う教会の交わりを、いつも新鮮に保っていきたいと願います。

祈り

 

私たちの生活のすべてを満たして下さる天の父なる御神、私たちはあなたの思いを忘れて、与えられた恵みを十分に活かすことのできない弱さをもっています。どうか、いつも主イエスの十字架を見上げて、あなたの愛を心に呼び覚まし、兄弟姉妹たちに喜んで仕え、あなたの喜びを私たちの喜びとすることができますように聖霊の助けをお与え下さい。人生において、人からの評価ではなく、あなたからの評価を頂くために、私たちそれぞれに与えられております賜物を十分に用いさせてください。感謝をもって、教会での奉仕にも当たらせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。