マタイによる福音書26章1-16節

イエスを見送る人々

 

主の過越を前にして

 すべての福音書が共通して私たちに告げるのは、イエス・キリストが十字架にかかって死んで葬られ、三日目に墓からよみがえったことの真実です。『コリントの信徒への手紙一』の15章で、パウロが「最も大切なこと」として伝えている福音は、キリストが私たちの罪のために死んで葬られ、三日目に復活して弟子たちに姿を現したことです。十字架の死から復活に至る経緯は、どの福音書も時間を追って丁寧に記していますが、マタイ福音書でもそこは神の救いのお働きのクライマックスです。

 イエスは弟子たちに神の国の教えをすべて語り伝えました。その最後は、主イエス御自身が再びこの世に到来して神の国が完成する、終末の教えでした。イエスは御自身の語った言葉を通して、また、貧しい人々の間で行われた数々の癒しの業を通して、神の救いと裁きを世にお示しになりましたが、それらのすべてが実際の効力をもって、救いを待ち望む人々に及ぶのは、十字架と復活の御業によってです。

 キリストの十字架による死は、罪ある人間が神の裁きを免れるための犠牲です。それは、旧約聖書に書き留められた、イスラエルの経験した「過越し」に相当します。かつてイスラエルはエジプトで強制労働に服する奴隷でした。しかし、神は彼らの叫びを聞かれて僕モーセを送り、エジプトに十の災いを下されて、イスラエルを圧政者の支配から解放されました。その際、最後の災いを下されるとき、神はエジプトで生まれたすべての家の長男を撃つとの裁きを告げられ、イスラエルの民にはその裁きを免れるように、小羊の血を門柱に塗っておくようお命じになりました。そうして、その命令に従ったイスラエルの家はエジプトに下された神の裁きを免れて命を得て、モーセに導かれて囚われの地を後にしました。

 丁度それと同じように、神はすべての人々を罪の支配から導き出すために、御子イエスを地上に送って救いの道を開かれました。そのため、キリスト御自身が「神の小羊」となり、十字架の上で血を流されて、神の裁きを負われます。そうして、イエス・キリストの十字架は、救いを求めるすべての人々のための、新たな過越となりました。新たな過越というよりも、イスラエルの過越が本来のキリストによる過越を予め示すものでした。

イエスに対する計略

 福音書が記すのも、ですから、キリストの十字架は過越祭の時だったということです。それは神がお定めになった時でした。その二日前のことを今朝の御言葉は記しています。ここからはまるでドラマを観ているかのように場面が著しく交錯します。そこに現れるのは、神の御旨に従って真っすぐ進むキリストの道と、それをそうとは知らずに実現するために様々な行動を見せる人の姿です。その人の姿の中に、かつての自分たちの姿を見ている福音書記者のまなざしがあります。それは同時に、この記事を読む者たちがそこにキリストに対する自分の信仰を確かにするようにとの導きでもあります。

 イエスが十字架につけられたのは、神の選んだイスラエルの民がイエスを受け入れなかったためでした。イエスが語った言葉は神の言葉として鋭く人々の信仰をえぐりました。特に貧しい同胞に対する憐れみの心をもたないで自分の立場や体面を守ろうとする指導者たちの偽善を正面から批判しました。社会の底辺に属する人々の多くがイエスの言葉に耳を傾けましたが、指導者たちは恨みや妬みを募らせて、遂にはイエスを亡き者にしようと画策します。

 これは旧約時代のイスラエルの罪を再現したかのようです。16章14節によると、イエスのことを「エレミヤだ」と言っている人たちがいたということですが、『エレミヤ書』に描かれた預言者エレミヤの姿は、同胞たちからの排斥に苦しみながら神の裁きを告げる苦難の僕を表わしています。ユダヤの古い伝承では、エレミヤは最後エジプトに連行されて仲間たちから石打にされて殉教したと伝えられています。つまり、イエスを取り巻く当時の人々は、旧約聖書に描かれた、神に背いて裁きを招くイスラエルの姿に重なります。

 謀略を巡らして罪のない人を死に至らしめるのは、十戒にも「殺してはならない」「偽証してはならない」とありますように、律法からしても最高度の罪です。しかし、指導者たちはそれをそうと知りながら謀殺を企むのですから、そこには神に対する恐れは消えてしまっています。かつてイスラエルはそのような不服従によって偶像崇拝に陥り、預言者たちが告げる神の言葉を蔑ろにして国に破滅を招きました。その後のイスラエルはバビロン捕囚という辛い経験を経て、罪を悔い改めて預言者たちの言葉に聞き、神の赦しを信じて新しい時代を歩み始めました。そのような過去の歴史を聖書の中に保っていたはずですけれども、また、それを読み返す会堂での礼拝もあったはずですけれども、欲に囚われた人間の心は同じ過ちを何度も繰り返します。

香油を注ぐ女性

 イエスを殺害する謀略がなされたのは大祭司カイアファの屋敷でした。ユダヤ人の法廷が開かれる庭がそこにあって、祭司長たちや民の長老たち、つまり指導者たちはそこに集まりました。「祭司長たち」とありますが、祭司長は一人しかいませんから、カイアファを中心とするエルサレムの宗教的指導者層全般を指しているのでしょう。「長老たち」は民を納める代表者たちです。後にイエスは逮捕されてここで裁きを受けることになります。

 場面は変わって、一方イエスはベタニアにいました。カイアファの屋敷もベタニヤもどちらもエルサレムに近い場所です。ベタニアの重い皮膚病の人シモンの家で、イエスは食事の席についていました。「重い皮膚病の人」は汚れた罪人と看做されて社会から隔離されていましたから、そういう村へイエスはわざわざ入って行かれたわけです。メシアの留まっておられる場所が、先のカイアファの邸宅と比べて際立ちます。

 そこに一人の女性が現れます。マタイはその名を記していません。それが誰であるかよりも、その女性が行ったことが後々までも記念されるためでしょう。その女性は極めて高価な香油をもってきて、そこに横になっているイエスに近づき、その頭に香油を注ぎかけました。何故、この女性がこのようなことをしたのか、なにも説明されてはいません。おそらく、ベタニアのような貧しい村で、「極めて高価な香油」をこのように惜しみなくささげるということは、その女性の主イエスに対する心からの献身を表わすのだと思います。その心が主イエスにも受け止められて、それが御自分のための葬りの準備に真に相応しい振る舞いだったと喜ばれています。

 これを見ていた弟子たちのことが併せて記されています。弟子たちはこの女性の振る舞いに腹を立てました。そこにある理屈は、その高価な油を売って貧しい人々に施しをすることこそ主の御旨に適ったことに違いない、ということでしょう。弟子たちはそのような教育を主イエスから受けて来たはずです。けれども、時々こういう場面がありましたように、弟子たちの「義憤」は必ずしも主の御旨に適ったものではなく、その都度、主によって正されます。正義の怒りは大切ですけれども、その拙速さには要注意です。

 自分のために高価な装飾品を求めるよりも、貧しい同胞のために必要を分かち合うことのほうが優れていることは言うまでもありません。弟子たちの言っていることは間違いではなくて、彼らはいつも貧しい人々と一緒にいて、彼らと生活を分かち合うために召されています。このことは今日の教会もよく心に留めなくてはならないのだと思います。貧しい人々の傍らに立つことこそ教会の召された場所です。しかし、同時に弟子たちが忘れてはならないことは、今一緒におられるイエスがどなたであるか、ということです。弟子たちはイエスが共にいて当たり前だと思っています。だから、その女性が行ったこともいらぬお世話と映ったのかも知れません。弟子たちはまだ、その主が今まさに取られようとしていることの深刻さを知りません。その覚悟はやがてすぐにも問われるようになります。他方、その女性は、主イエスとの一期一会を大切にして、自分ができることの最大限をそこに表わしました。その心は、他の弟子たちの思いを上回る、生き生きとした真の神への献身であったに違いありません。それが、「主のための葬りの準備」であることなど、その女性自身思いもよらなかったことと思います。けれども、神はそうした名も知れぬ一人の女性のまっすぐな信仰を通して、御子イエスの十字架への道を備えておられました。

 私たちはここで、何か教訓を学ぶように求められているのではないと思います。主イエスがこれから十字架に向かわれる道は人間の罪によって暗く覆われています。その暗闇の中に、光が灯るような出来事がここに記されているのでして、それを私たちの心の中に留めておくことが大切なのだと思います。人々から遠ざけられた、病いを持った人の貧しい家に主イエスがおられて、そこで名も無い女性から最も高価な香油を頭に注がれて、確かにメシアが世に来られたことの証しがなされました。他の誰よりも、主イエス・キリストこそ、そのような高価な香油を受けるに相応しいお方に違いありません。私たちを「あたい高く尊い」と言ってくださる主に対して、あなたこそ最も尊いお方ですと言える心からの信仰をもつことのできならば幸いです。

ユダの裏切り

 けれども、人の罪の現実は惨いものです。腹を立てた弟子たちの中から、一人の弟子がイエスのおられる家を出て行きます。十二人の一人であるイスカリオテのユダでした。何故、ユダが裏切ったかという動機を福音書は明らかにしてはいません。ともかく、彼は「祭司長たち」ところへ言って、そちらの陣営に組することを決めました。ユダには銀貨三十枚が約束されました。お金が欲しかったのでしょうか。或いは、先の女性を評価するようなイエスの発言に愛想を尽かしたのでしょうか。何にしても、他の弟子たちと同じように主イエスに対する献身が定まらないところでサタンが働きました。結局、ユダが大祭司たちの側に寝返ったのは、自分の考えを全面に立てて、この世の論理に従ってしたたかに生きて行くしかない、という希望などをもたない現実的な人のあり方に自分の場所を見出したからでしょう。「現実的な」というのは、自分の見ているものしか信じない世の中のあり様でしょうけれども、聖書の信仰からすれば「人間の罪に支配されていて」「神の裁きに直面している」ことです。

 ユダのなした選択は、先の香油をささげた女性とは正反対です。かの女性は非常に高価なささげものをしてもイエスに仕えたいと願ったのですけれども、ユダは奴隷一人分を買い取る価格でイエスを他人に売り渡します。これからイエスが十字架に向かう道すがら、弟子たちはその狭間にあってイエスにどのように従うかを迫られ篩にかけられるわけです。

 ユダの裏切りも、先の女性の献身と同じように、神の備えたもうことなのかと言えば、その通りだと言わねばなりません。そんな割の合わない役割をあてがわれたユダは可哀想ではないかと私たちの人情も働きます。現に、『ユダの福音書』なるものが偽書として記されたことがあるくらいですから、教会の中でそういう思いは誰しもが抱いたのでしょう。神は永遠のご計画をもっておられて人間はそれに逆らうことは全くできません。しかし、同時に神は人間に自由な意志をも与えておられます。そして、自分の意志で行ったことに対する責任をひとり一人に求められます。ですから、ユダの判断は彼が自由に行ったことですから、彼自身が責任を負わねばならないことです。香油をささげた女性が、そのような振る舞いをしたことも、彼女自身の自由な決断によるものです。私たちは自分自身の振る舞いについては、神に責任を押し付けることはできないのでして、自分で責任を負うつもりで自分の意志による決断をなすことが求められます。

彼女を記念して

 イエスが十字架におかかりになるのは、私たちのためです。罪から逃れることができずにこの世界に闇を作り出してしまう、人間を憐れんで神は救いの道をキリストによって開かれました。イエス・キリストの十字架と復活による救済は、人間が阻むことのできるものではありません。神がご計画されたことは必ずその通りに果たされます。ですから、救いに至るキリストの道は確かです。私たちの信仰はかの弟子たちのように揺れ動きやすいものかも知れません。ユダのようにイエス・キリストを他のものと取り替えてしまうことのないかと恐れます。しかし、主イエスが十字架に進まれるのは、私たちのその弱さを知っておられるがためです。だから、御自分が神の御旨に適うすべてを全うしてくださって、私たちのために赦しを獲得してくださいました。私たちはただ、福音に示されたイエス・キリストが私たちの救い主であることを、本当にそのような方であると心から信じて、主が共にいてくださることの恵みに日々感謝するのみです。そこから、今朝の香油をささげた女性のように、自分の出来る限りを主にささげることが出来たなら、それが御心に適って神のお働きに用いられます。その私たちの主イエスに対する心づくしが「極めた高価な香油」になります。私たちの教会もベタニアの家のように、主イエスが主として何よりも尊ばれる神の家とされますように心から願います。

祈り

天の父なる御神、あなたの御旨は私たちの計り知ることのできないものですが、私たちは福音を通して主イエス・キリストに表わされたあなたの憐れみを知らされていますことを心から感謝します。どうか私たちの心に、主イエスを心から敬う思いと感謝とを満たしてくださって、私たちの教会を真に主の家と呼ばれるのに相応しく整えてください。私たちのささげる奉仕やささげものを、どうか主が喜んで受け止めてくださって、それを何倍にもしてあなたの救いのお働きに用いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。