マタイによる福音書26章57-75節

人を裁くのは誰か

 

イエスの裁判

 イエス・キリストの受難の歩みを、マタイ福音書から辿っています。今朝は、ユダヤ人の権力者たちによるイエスの裁判の場面に差し掛かっています。イエスはゲッセマネの園で逮捕された後、大祭司カイアファの屋敷へ連行されました。その所で祭司長たちや長老たちがイエスを罠にかける謀議をしていたのですが、そこへ一同はイエスを連れて戻って来たわけです。

 正しい人を陥れるための工作は、法廷での偽証によって行われるのが慣しでした。もちろん、それは悪しき人間の慣しです。旧約聖書には、犯罪人を処刑するには二人ないし三人の証人が必要だと律法で定められています(申命記17章6節、他)。そこで、この掟を利用して、二人の証人に偽りの証言をさせて、人を死に至らしめる、という犯罪が、神を恐れぬ権力者によって行われることがありました。代表的な例としては、列王記上21章にある「ナボトのブドウ畑」の事件があります。イスラエルの王アハブは農夫ナボトのブドウ畑が大層気に入って、これを譲ってくれるよう申し入れます。しかし、「先祖の土地を手放してはならない」との掟に忠実なナボトは王の要請を受け付けません。そこで王妃イゼベルは奸計を巡らし、二人のならず者を雇って「ナボトは神と王を呪った」と偽りの証言をさせました。これによってナボトは石打の刑に処せられ、ブドウ畑はアハブ王のものとなりました。この時は預言者エリヤが神のもとから遣わされてアハブの家とイゼベルに対する裁きが告げられました。

 旧約聖書の外典に含まれる『ギリシア語版ダニエル書』の中に「スザンナ」の物語があります。スザンナは裕福で評判の良い夫のもとに嫁いだ、貞淑で神を畏れる女性でしたけれども、その町の裁判官に選ばれた二人の長老たちに誘惑されます。言う通りにしないと偽りの証言によって命がないと脅されるのですが、スザンナは「主の前に罪を犯すよりは、あなたたちの罠にかかる方がましだ」と言って、彼らの誘いを拒否しました。そこで、裁判官でもある二人の長老は彼女を死罪に定めようと「彼女が若者と密通した」との偽りの証言をするのですが、そこへ神の使いであるダニエルが現れ、二人の長老たちの罪を暴いてスザンナを救いました。

 モーセの十戒の中に、「あなたは隣人について偽証してはならない」とある通り、「偽証」の罪は他の十戒の項目にある「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない」などとも密接に関連する大きな罪です。イエスを訴える祭司長たちや最高峰院も、「偽証」というあからさまな律法違反で罪のないイエスを亡き者にしようと謀りました。旧約聖書の事例からしても、彼らに対する神の裁きは明らかです。

 しかし、悪を働く権力者たちには神への畏れがありませんから、自分が正しい事をしていると信じて疑いません。「生ける神に誓え」だとか「神を冒涜した」といかにも神の側に立っているように語っていますが、神の名を口にしながらサタンの暗闇の業に加担しています。彼らにとっての神はもはや自分自身でしかありません。正しい人間を罪に定めて良心の呵責も感じない、この世の中の暗さは、真の裁き主である神を畏れないで自分自身をその地位にまで押し上げてしまう、人の心の闇が作り出すものでしょう。

 イエスはこの間、ひたすら沈黙して偽りの裁判に甘んじています。一度だけ大祭司の問いに答えて「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来る」終わりの時について語っておられます。それが人の子イエスに定められた神の決定であり、イエスを裁く者たちが聞くべき神の裁きの告知です。しかし、イエスは神の小羊として自らを犠牲にするため、沈黙してこの苦難を引き受けて行かれます。

 イエスの受難が人類の救いのための神のご計画であるとはいえ、その中でイエスを屠る役目を務めている人々に言い訳がたつわけではありません。神の憐れみを無にして、悪意によって正しい人を殺す罪は、神の最終的な裁きのもとに置かれます。主イエスはかつて弟子たちに、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れない」と教えました。神が最後に、すべての悪行に裁きをくだされます。たとえ、この世で言い逃れができたとしても、神の目の前で犯された不正義がそのまま見逃されることはありません。

 罪のないお方であるイエスを十字架に送って殺した罪は、直接的には当時のユダヤ人たちに求められますが、それは後のキリスト教会の中で「ユダヤ人差別」を生み出すような他人事では済まされないことです。無辜の人々を死に至らしめるような人間社会の冷酷な振る舞いは、今もイエスを十字架に送り続け、神の名を口にしながら大胆に神を嘲り続けるものです。これはユダヤ人の問題ではなくて、終わりの裁きを思わない人間社会の問題です。そこに下される裁きから逃れる術は、そこに自分の罪を認めて、イエスの十字架による赦しを心から請うことより他にありません。

ペトロの否認

 カイアファの官邸での出来事を、ペトロが目撃していたと福音書は伝えます。他の弟子たちはすでにイエスを見捨てて散って行きました。ただ、ペトロだけがこの時、イエスの後を追いました。しかし、そこで試練が訪れます。最後の晩餐の席で主イエスが予告された通り、ペトロはイエスを三度「知らない」と否定します。

 ペトロがイエスを否定するのには三つの段階を踏んでいます。初めに、一人の女中に見つかって、ペトロがイエスと共にいたことが指摘されます。それに対してペトロは公然と打ち消しますが、まだ、「あなたが何を言っているのか、わたしには分からない」と事柄を誤摩化そうとするところが直接的な否定を避けています。

 場所を移動して、今度はまた別の所で別の女中に見つかりまして、イエスと一緒に行動していた素性が人に知られてしまいます。すると、この2度目の段階では、ペトロは「誓って」「そんな人は知らない」とイエス御自身を指して否定します。真実を指摘されて嘘の否定をする、という例では、創世記18章でアブラハムの妻であったサラのことが挙げられます。サラは主の御使いから音の子が生まれると言われた時、物陰で密かに笑いました。そんな馬鹿なことがあるものか、と思ったからです。それが見抜かれてしまって「なぜ、笑ったのか」と問いつめられますと、サラは「私は笑いませんでした」、と嘘を言って否定しました。「恐ろしくなって」そうした、とそこには書かれています。ペトロもそんな風に恐れたのに違いありません。

 マタイ福音書の10章で主イエスは弟子たちに「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と言っておられました。また、パウロも若い同労者であるテモテに対して次のように言っています。

 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。

主イエス・キリストの弟子たる者は、公然とその信仰を露にすることでイエス・キリストに結ばれていることができます。しかし、ペトロは人を恐れてイエスを「知らない」と言ってしまいました。

 さらに「誓って」知らない、と言いました。「あなたがたは誓ってはならない」ということも主の教えにあったはずです(5:34)。主イエスも大祭司に問われて「生ける神に誓って言え」などと迫られましたが、イエスは何も誓いはしませんでした。人間は自分のプライドのためによく「誓って」嘘をつきます。「誓う」行為が偽りになれば神を冒涜することになります。だから容易に嘘となるような「誓い」を主イエスは禁じました。しかし、ペトロは恐れにとりつかれて、自分を取り繕うために「誓って」イエスを否定してしまいます。

 最後の段階では、言葉がきっかけで素性がバレてしまいます。ガリラヤ出身のペトロには北の地方の訛があったのだと思います。エルサレムは南の地方にあります。周囲の人々から問いつめられて、ペトロは「呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた」のでした。最後は「呪い」です。もはや「知らない」では済まされないでしょう。「呪う」のですから、ペトロはイエスの敵となり、イエスを殺す人の側に立ったことになります。

 主イエスは10章で、弟子たちに向かって「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」(39節)と言われました。しかし、私たちが主イエスの弟子の筆頭株として見るペトロの内に見るのは、自分の命を失うことを恐れて、主イエスをとことんまで否む、小さな弱い人間です。口先では「絶対に裏切らない、死んでもついていく」と威勢が良かったのですが、実際に命がけの状況になってみて分かったのは、主イエスの言葉に従うことができない自分の弱さでした。

 これもまた、ペトロにだけ起こった他人事として済ますことのできないものです。福音書記者たちがペトロのこの惨めな姿を書き留めたのは、そこに自分たちの本当の姿を見て、教会で覚えておかなくてはならないとしたためでしょう。イエスを見捨てて逃げ去ってしまった他の弟子たちもペトロと同じです。命を失う恐れに取り憑かれてしまえば、弟子たちは単にイエスを離れるのではなく、最後にはイエスの敵の立場にもなり、結局、イエスを殺す側に立つはめにもなる。

 私たちは日本の異教的な環境にあって、いつもこの告白的状況のどこかの段階に置かれているように思います。今のところはキリスト者であることで逮捕される状況にはありません。しかし、イエスの弟子であることを恐れて知らぬふりをする態度をとることがあれば、すでに主イエスを否定する第一段階へ踏み込んでいます。自分の信仰を自由に言い表せないでいるとき、私たちは信仰告白が求められている状況にあります。今の小さな訓練が、やがて来る大きな艱難への備えとなることを覚えておきたいものです。

ユダとペトロ

 ここでイエスを裏切ったユダとイエスを否定したペトロのことを併せて考えたいと思います。結局はどちらもイエスを見捨てたことには変わりがありません。ユダはイエスが自分の期待する人物ではないと悟るや否やイエスを見限って敵に寝返りました。人は自分の考える救いを願ってイエスに近づきますが、自分の期待に合わないと見るや離れて行きます。イエス・キリストは、ですから、自分の願望を満たしてくれる救い主であるとは限りません。私は何故救われなければならないのか。そして、どのように神に救っていただけるのか、は、私が自分で決めることではないわけです。それら信じるべきことは、すべて神が教えてくださることに基づいています。それはすべて聖書から知らされることです。ですから、聖書に書いてあることの中に真実を見出して、そこに私たちの希望を持つようでなければ、信じて救われることもありません。

 また、他方、ペトロはイエスに最後まで期待していましたが、命の危険が身に及ぶに至ってイエスを見捨てました。信仰の目を開かれてイエスに従ったとしても、信仰を捨てさせようとする世の力が働いた時にそれを乗り越える力が誰にもあるとは限りません。私たちの多くはまだそこまで試されたことがないからです。ペトロは鶏の鳴く声を聞いて、主イエスの言葉を思い起こして泣いたとあります。自分の不甲斐なさを思い知らされた者の涙ではないでしょうか。しかし、この涙を通してペトロの歩みがそこから始まります。弟子たちはイエスを見捨てましたけれども、十字架への道を偲ばれたイエスは決して弟子たちをお見捨てにはなりません。「私を知らないという者は、私もその者を知らないという」というのは不甲斐ない弟子たちに対する預言ではなくて、だから「知らない」というなという励ましです。後に主イエスが復活されて聖霊が送られて来ますと、もはや弟子たちは臆病ではありませんでした。ユダヤ人の会堂でも異邦人の町の広場でも法廷でも、大胆に出て行って信仰を語りました。それは、弟子たちが勇ましいからではなくて、イエスが彼らの命を握っておられたからです。キリスト者は自分の弱さを自覚して、ただ許されてイエスの後に従うだけです。そこで多くの躓きを乗り越えさせてくれるのは、主イエス・キリスト御自身が聖霊によって私たちの内に生きておられるからです。それを真実なことと受け止めて、私たちの内に生きてくださるキリストに頼って、私たちの周りを取り巻く状況の中で、信仰の証しを恐れなく、自由に、なすことのできるものとさせられたいと願います。

祈り

天の父なる御神、人間の悪意と弱さが暴力を生む暗闇の中に、主イエスがただあなたの御旨である愛に徹することで、救いの光をもたらしてくださったことを覚えます。主に従うことは時に大きな困難を伴いますけれども、それをも越える喜びと真実が、主イエス・キリストの内に示されました。心からあなたを信頼して、日ごとの証しに私たちを送り出してください。必要とされたときに、はっきりと福音の真実を、また、私たち自身がそれを信じていることを、周囲に語ることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。