マタイによる福音書27章1〜26節

命の代価

 

問われる責任

 皆さんも覚えておられるかと思いますが、8年前にJR福知山線の尼崎駅近くで電車の脱線転覆事故が起こり、乗客106名が亡くなる大惨事となりました。その事故に関わるJR西日本の歴代社長の刑事責任が問われる裁判で、神戸地裁は今年の9月に無罪の判決を言い渡しました。遺族はこれを不服として控訴して、裁判は大阪高裁に持ち込まれて争われることになりました。安全対策を怠った企業の過失によって、大切な家族の命が失われたことに遺族の怒りは収まりません。営利優先、安全軽視の企業体質が指摘されても、それを裁く法的な制度が未整備だと言われます。私たちは目先の利益にとらわれ過ぎて、自分の命を守る基盤さえ失いつつある世の中にいるようです。福島第一原発の事故処理も上手く進んでいません。放射能汚染はかなり深刻なはずですけれども、政府の方針はそれが目に見えるようになるまで伏せておくことにあるようです。いずれ被害者になる子どもたちのことは不運で仕方ないとして、問題は今の世界経済を動かしている原子力産業のネットワークから漏れ落ちないように金づるから手を離さないことなのでしょう。人間の命に対する責任は、それを失わせた人間に求める、のが聖書の原則です。「目には目を、歯には歯を、命には命を」もって償わせるとは、復讐の許可ではなくて、隣人の命に対して厳しく責任を問う言葉です。私たちの時代の世相は、「今だけ、金だけ、自分だけ」なんだと言われます。そのような時代に対して、私たちは神から問われている、と思わないではおれません。

悪い羊飼い

 マタイ福音書によりますと、イエスを十字架につけて殺した責任は、第一に「祭司長たちと民の長老たち」にあります。今朝の1節に書かれているのは、彼らがイエスを殺す謀議を計り、イエスを捕らえて異邦人の支配者に渡した、という彼らの仕業です。「渡した」という言葉は、3節以降でも「裏切った」「売り渡した」「引き渡した」などと約されているのと同じで、「犠牲にする」「死に引き渡す」という意味合いが含まれています。神の子キリストを「渡した」責任は、エルサレムの指導者たちにあるとマタイは訴えます。

 イエスに罪がなかったことは、ユダもピラトもピラトの妻も認めています。18節にあるように、総督ピラトはイエスが引き渡されたのは祭司長や長老たちの妬みのためだと分かっていました。「人々が」と文頭にある主語は原文にはありません。イエスを引き渡したのは祭司長たちと長老たちだと2節にありますから、妬みに駆られたのも彼らのはずです。そうしますとはっきりしてきます。エルサレムの指導者たちは、ここで「罪なき人の血を流す」大きな罪に手を染めている、とマタイは訴えているわけです。

 先ほど一緒に読みました詩編94編21節にはこう書かれていました。

  彼らは一団となって神に従う人の命をねらい/神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。

まさに、これはイエスをピラトに引き渡した祭司長たち・長老たちの姿です。潔白な人、罪のない人の血を流す者は神に呪われる、と律法は教えています。例えば、申命記27章25節にはこうあります。

  賄賂を取って、人を打ち殺して罪のない人の血を流す者は呪われる。

また、罪のない人の血を流す罪は、エレミヤなどの預言者が糾弾したエルサレム王宮の罪でもあって、その大きな罪が神の怒りを引き起こして、エルサレムはバビロニアの軍隊に滅ぼされたと聖書は語っています。列王記下24章ではエルサレムにくだされた審判について次のように記しています。

 主は[彼に対して]カルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊を遣わされた。主はその僕である預言者たちによってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた。ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。(2−4節)

罪のない者の血を流す罪は、かつてエルサレムを滅ぼした罪でした。預言者エレミヤもかつて次のように語っていました。エレミヤ書22章2節以下をお読みします。

 ダビデの王位に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉を聞け。主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる、王も家臣も民も。しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う――と主は言われる――この宮殿は必ず廃虚となる。

そして、エルサレムは一度廃墟となったのですけれども、イエスの十字架によって再び無実の血を流すことになったユダヤの指導者たち上に、預言者が語った神の言葉が改めて成就しようとしているわけです。私たちはここにマタイの記すキリストの受難を見るのですけれども、マタイが書いているのはむしろ、神の裁きに服することになったエルサレムの姿です。恐るべき罪に手を染めた彼らの上にくだされる審判は決定的です。

ユダの自死

 さて、ここで裏切り者のユダの最後を見ておきたいと思います。ユダは祭司長たちと長老たちにイエスを引き渡した張本人です。しかし、イエスの死刑が定まるとユダは自分の過ちに気がついて後悔しました。そしてこう言っています。

  わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。(4節)

イエスに罪はなかったことを証言し、自分が罪のない人の血を売り渡すような重大な罪を犯したと告白します。これに対して、指導者たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と突き放しました。彼らは裏切りの罪を犯したユダのことを配慮するような牧者ではありませんでした。そして、「お前の問題だ」というのは、「自分でしたことの責任は自分でとれ」ということです。「罪のない人の血を流す」罪は、神に対して行う大きな罪です。それは人に責任をなすりつけることのできない、取り返しのつかないものです。ユダの責任の取り方は、金を返して、出て行って首をくくることでした。

 この救いのないユダの最後は、そのままユダヤの民に対する警告となります。イエスはピラトの法廷に引き出されました。その時、「バラバ」という囚人が引き合いに出されて、そこに集った民衆は、バラバをとるか、イエスをとるかと迫られます。お気づきになった方もあるかと思いますが、バラバの名前が「バラバ・イエス」となっています。以前の口語訳や新改訳では単に「バラバ」とあるだけでしたが、本文の研究によって、本来は「バラバ・イエス」であったろうと今日では学者たちの見解は一致しているようです。もともと「バラバ」という名前は、アラム語では「バル・アバ」となりまして、これは名字に当たります。ペトロの本名である「シモン・バル・ヨナ」と同じように、バラバの本名は「イエス・バル・アバ」だったのでしょう。「バル」は息子、「アバ」は父ですから、バラバの名前は「父の子イエス」です。マタイがそれをどれだけ意識して並べたかは分かりませんが、ピラトはここで二人のイエスを民衆に差し出したことになります。「メシアと言われるイエス」を選ぶのか、それとも「父の子」つまり「お前たちの子イエス」を選ぶのか。そこで民衆はバラバを選んだわけです。

 ローマの総督、つまり異邦人の支配者であるピラトはここで善人とも悪人とも言われていません。むしろ、彼はここではイエスの処刑に関わらない立場を取っています。その理由は19節にありますように、妻の進言によるものでした。「あの正しい人」と言っているように、ピラトの妻はイエスの無罪を知っていました。そのことで夢で苦しめられたというのですが、おそらく無実の人の血を流すことの責任に耐えられないという苦しみでしょう。ピラトはこの進言を受けて、群衆を説得できないと見るや、手を洗いました。この「手を洗う」という行為は、ローマの習慣ではないようで、むしろユダヤの民衆に対するメッセージであったようです。例えば、申命記21章には、殺された人を屋外で見つけたとき、罪なき者の血を流した罪を自分が背負わないための手続きが記されていて、そこに川の水で手を洗うという行為が含まれています。ピラトはそういう見える行為で人々に告げたわけで、自分はこの問題に責任を持たない、という意思表示を行いました。また、それに合わせて「お前たちの問題だ」と言いました。これは、先に祭司長たち・長老たちがユダに言った言葉と同じです。今度はその言葉を彼らが受け取りまして、「その血の責任は、我々と子孫にある」、と、堂々と答えたわけです。ただ、25節の言葉は慎重に選ばれています。ここで答えたのは、指導者たちばかりではありません。「民がこぞって」答えたとあります。つまり、神に選ばれたイスラエルである、ユダヤの民全体が一致して、ということです。こうして、ユダと同じように、「罪のない人の血を流した」責任をエルサレム全体が負うことになりました。ユダの死が示すように、エルサレムに対する神の裁きはもはや避けられません。

沈黙の小羊

 第一に責任を問われるのは指導者たちですが、結果として、その指導者たちの過ちの故に民全体が責任を問われることになりました。民衆はイエスがエルサレムに入城する際に喜びに沸き立って「ホサナ」と叫んでいたはずです。その民衆が今度は手のひらを返したように「十字架刑」を叫びます。私たちがここに見ているのは、この世界の救い難さです。指導者たちは富と権力によって腐敗して、民衆の貧しさに心を止めず、神を畏れなくなります。そのような指導者たちに導かれた民衆もまた、真実を見分けることができず、周囲に合わせて流されやすく、結局は指導者たちに体よく利用されてしまいます。宗教もまた堕落する、ということを私たちは聖書から見せられます。また、人間の社会全般の罪深さ、救い難さを私たちは知らされます。このような社会にあって、神から責任を問われた時、私たちはどのようにそれを果たしたらよいでしょうか。「これはお前の問題だ」とそれぞれに突きつけられているわけです。誰もが自分の責任を人に押し付けることはできません。特に、神の御前にあってそれは不可能です。ユダの責任の取り方は神の裁きを自分に科したということになるでしょうか。しかし、それは滅びであって救いではありません。

 この喧噪の中に、ひたすら沈黙して十字架に引き渡される主イエスの姿があります。私たちが見るのはこの人です。ユダではありません。イザヤ書53章に書かれた苦難の僕のように、イエスは屠り場に引かれて行く羊のように、ひたすら目して十字架に向かわれます。そこで、メシアであるイエスは神の裁きを一身に引き受けられて、人の罪が赦されるように、御自分の命をおささげになります。

 「これはお前の問題だ」と自分の犯した罪に対する責任を問われた時、神の御前にあってその責任を負うことのできる人間はありません。誰もがそこで、神の裁きの前に滅びる他はありません。ユダのように、権威ある人に赦しを乞うても、人は神に対して犯された罪を神に代わって赦すことはできません。赦しはただ、神のもとから来ます。だから、神に赦しを乞うならば、そこからのやり直しができます。

 ユダと合わせて思い起こしたいのはペトロのことです。ペトロを初めとする弟子たちもイエスを裏切ったということではユダと同じでした。そして、ペトロもユダと同じように自分の罪に気がついたことは、鶏の声を聞いて涙を流したことが証拠になると思います。では、違う点はどこにあるかと言えば、ペトロは自分で自分に裁きを下すようなことはしませんでした。ただ、イエスの言葉を信じて、再び主が現れるのを待っていました。ユダもその言葉を聞いていた筈です。わたしは先にガリラヤに行く、と主イエスは弟子たちにお話になりました。しかし、それはユダにとっては意味のない言葉でした。十字架で死ぬイエスにユダは希望をもつことができませんでした。それが、ユダの死に結びつきます。

 取り返しのつかない罪に気がついてしまえば、あとは絶望しかありません。神に対して犯した罪は自分では償えず、人生は取り返しがつきません。しかし、そういう私たちであることを神はご存知でしたから、御子キリストを世にお遣わしになりました。そして、御子の命によって神は私たちの命を赦してくださいます。それを信じるところから、私たちの新しい人生が始まります。人間にはできないことでも神にはおできになる。知れば知る程救い難い、罪深い私たちの世界も、キリストを信じるが故にまだ終わってはいません。

 罪なき人の血を流す罪は、今もなお神の御前に責任が問われます。その血は必ず償われなければならないとの神の掟は曲げることができません。だから、私たちの罪が赦されるためには御子の犠牲が必要とされます。キリストによって罪を赦されたキリスト者は、もはや神の御旨を知らないかのように、地上に十字架を増やすことはできません。キリスト教会はキリストとともに流血の罪を終わらせるために召されています。声なき犠牲者たちの声に耳をすませて、神に赦しを乞いつつ悔い改めの道を歩む、その先頭に私たちはいることを今朝は心に留めたいと思います。

祈り

真の裁き主であられる天の御父、御子の尊い犠牲によって私たちを滅びから救い出してくださった、あなたの大きな恵みに感謝します。尚も、私たちは罪に沈む世界の中にあり、あなたが人にお与えになった命を大切にすることができません。どうか、憐れんでくださって失われ行く小さな命を守ってください。人があなたの裁きに向かうのではなく、赦しに向かって歩むことができるように導いてください。そして、生きる価値のある命に立ち返って、生きる価値のある世界を共に造ることができるように、あなたを信じさせてください。これから行われる聖餐式を通して、キリストによる救いの確かさを私たちにお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。