マタイによる福音書27章27〜44節

荊冠のキリスト

 

なぜエルサレムは滅びたか

 イエス・キリストの受難は十字架上での悲惨な死に極まりますけれども、逮捕されてからそこに至る道も堪え難い苦痛の連続でした。今朝、ご一緒に聞きました場面では、一言もお話しにならないで苦難をお受けになっているイエスの周りから、これでもかというばかりの嘲りの言葉や振る舞いが浴びせかけられます。イエスが忍ばれたのは体の苦痛ばかりでなく、その存在そのものが否定されるような恥でもあります。

 何故、無実の善人がこれ程まで馬鹿にされ、惨い仕打ちを受けなければならなかったのか。それが神の定めだったからと言えばその通りですが、この人々の振る舞いには何か釈然としないものがあります。祭司長や長老たちがイエス抹殺を謀ったのは妬みのためであったとマタイは記していましたけれども、そうした歴史に働く人間的な動機の他にも、何か深い意味があるのではないかと考えます。それは、マタイがこれを書き記している文脈と、旧約聖書に示された預言とを付き合わせることで、私たちにも理解できるのではないかと思います。

 マタイの記すところでは、先に23章でイエスがエルサレムの指導者たち、また、エルサレム神殿に対する神の裁きを告げていました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と言いまして、弱い同胞たちへの憐れみを欠いた見せかけの清さや正しさを偽善だと切って捨てました。そして、その報いが必ず来ると次のように言われました。

 正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。(35-38

エルサレム神殿の破壊については、続けて次のように預言されました。

  はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。(24章2節)

このようなイエスの言葉は、かつて偶像崇拝によって神の律法を蔑ろにし、都に滅びを招いたエルサレムに対する、エレミヤを初めとする預言者たちの言葉を思い起こさせます。巷ではイエスに対して「エレミヤの再来」という評判もあったようですが、そのように旧約の時代にあった痛ましい出来事を思い起こして、悔い改めを求めるのがイエスを通して語られた神の御旨でした。しかし、歴史は繰り返されて、イエスの預言が実現しました。

 マタイ福音書が記されたのが紀元80年頃と言われます。そうしますと福音書記者は紀元66年から本格化したローマによるエルサレム攻略から70年の神殿破壊までの一連の悲劇を知っている筈です。そのことは福音書の中で直接的に出来事として紹介されてはいませんけれども、マタイはその悲惨な結末を踏まえて主イエスの教えと御業とをこうして書き連ねているのは間違いないでしょう。そうした観点から、今日の場面を読み解けば、この陰惨な場面には、イエスお一人の苦しみが描かれているのではなく、エルサレムに代表される神の民イスラエルが経験した、民族壊滅の出来事が映し出されていることが伺えます。

 紀元70年前後に、エルサレムとその周辺のユダヤ人たちを見舞った事件は、丁度新約聖書が成立する時代と重なるのにも関わらず聖書には物語られていませんので、あまり教会では知られていないかも知れません。その当たりのことは、このマタイ福音書と同時期に書かれたと思われる、ユダヤ人歴史家のヨセフスによる書物から知ることができます。かつて西欧のキリスト教会では、聖書に次いでよく読まれた書物はヨセフスの歴史書だったそうですが、今日ではそのようには知られていないのが多少残念なところです。ヨセフスは、かつてファリサイ派に属していましたが、戦いの最中でローマ軍に投降して、後にローマでユダヤ人の歴史を記した人物です。そして、彼の記した『ユダヤ戦記』という書物がエルサレム陥落の日々を克明に記しています。その記されたところによりますと、ローマに反旗を翻したのは熱心党でした。彼らはエルサレムを占拠すると市民を城壁内に幽閉し、ローマ軍に対する徹底抗戦に出ました。しかし、その間、ユダヤ人の原理主義的なグループは主導権争いによって互いに分裂を始め、市民は飢えと仲間の暴力によって多数の犠牲者を出すようになります。やがて将軍ティトスの率いる軍が都の一角を破り、なだれ込んだローマ軍によって市民は老いも若きも虐殺されて、都に火が放たれます。その終わりをヨセフスは次のように記しています。

 路地という路地には死体の山が築かれ、全市が血で氾濫し、火がその血で消えるほどだった。兵士たちは夕方ころに殺戮の手を休めた。夜に入ると火勢が一段と盛んになり、ついにゴルピアイオスの月の第八日(9月26日)の明け方、エルサレムは焼け落ちた。包囲攻撃中あれほど多くの災禍をなめた都、創建時から災禍と同じくらいの繁栄を享受していたならば、まちがいなく全世界の羨望の的になっていた都、破滅をもたらす世代を生んだというただそれだけの理由でこのように大きな不幸をなめることになった都…その都が今こうして焼け落ちたのである。(秦剛平訳『ユダヤ戦記』3、p.190

この戦争の結果をヨセフスは、また、次のように報告しています。

 戦争の勃発から終結までに捕虜になった者の数は9万7千に達し、包囲攻撃中に死んだ者の数は110万だった。犠牲者の大半は同胞ユダヤ人であったが、エルサレムの土地の者ではなかった。彼らは種入れぬパンの祭のためにユダヤ全土から集まって来て、突然、戦争に巻き込まれたのである。あまりにも多くの者が集まり過ぎたため、まず疫病が、そしてのちには飢餓が彼らの命を次つぎと奪っていった。….戦争の犠牲者の数は、かつてなされた戦争―それが人間によるものであれ神によるものであれ―の犠牲者をはるかにうわまわった。姿を見せた者はすべてローマ軍に殺されるか捕虜にされた。….地下道には2000以上の死体が発見された。その中には自らの手で、あるいは他人の手を互いに借りあって死んだ者もいたが、大半は飢えで死んでいた。….ローマ兵は町の中心から離れた地区にも火を放ち、また城壁を破壊し尽くした。….ユダヤ人の最初の王になったダビデのときから都がティトスによって破壊されるまでの期間は1179年だった。また都が最初につくられてから最後の陥落までの期間は2177年だった。その長い歴史も、その莫大な富も、その民が全世界に散在していることも、さらにはその宗教の大きな評判も、都の破滅を救うことができなかった。(同書、192196頁)

辱められるイスラエル

 イエスが預言したエルサレムへの審判は、ヨセフスが報告するように終末的な破滅として実現しました。悔い改めないエルサレムを見て、深く嘆かれたイエスの眼には、その終わりが見えていたに違いありません。そこで、そうした生々しいヨセフスの報告を思い起こしながら十字架の場面を見てみます。すると、イエスがお受けになった屈辱や十字架の上での苦しみは、イスラエル民族がかつて経験した、また、やがて経験するものと同じであることが分かります。

 マタイはこの場面を注意深く旧約聖書の預言と重ねて記しています。この場面は預言の成就だと伝えているわけです。今朝は、聖書交読で詩編22編を一緒に読みました。その詩はメシアの受難を書き綴ったもので、冒頭にある「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」との言葉は、十字架上のイエスの言葉としてよく知られています。7節と8節にはこうありました。

  わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。

  わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。

マタイは今朝の箇所で、この詩編に描かれた通りのイエスと敵対者たちの姿を見ています。18節、19節にはこうあります。

  骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め

  わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

これもこのまま、兵士たちの行為に表れています。もう一つ、マタイの記述と直接結びつくのは、22編9節です。

  主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。

これは、マタイが記す43節にある、民の指導者たちによる嘲りの言葉になっています。これが意味するのは、イエスは詩編や預言者たちが記したような、敵の嘲りの的になっているイスラエルの苦しみを受けている、ということが一つ。同時に、エルサレムの民は、イスラエルを苦しめた敵たちと同じ側に立って、神の裁きに直面している、ということです。エルサレムは、昔に裁きを受けたのと全く同じように、神に敵対する者になってしまっている。そのただ中で、イエスが十字架につけられて、いすラエルの苦しみを一人で負っておられる。マタイがイエスの受難に見て取ったのは、そのような図です。

 ローマは、先に登場したポンテオ・ピラトを含めて、神の裁き手として登場します。エレミヤたちの昔に、エルサレムに裁きを下したのはバビロニアのネブカドレツァル王でした。神は御自身の裁きをくだされる時に、その者を敵の手に渡します。ローマはその敵として、イエスの十字架に手を貸す役割を果たしています。だからと言って、「敵」が免罪されるわけではありません。バビロニアやローマが神に用いられたからといって、彼らが行った流血の罪は彼ら自身に問われます。預言者たちは、ですから、バビロニアに対する裁きをも告げました。ローマもまた、そのエルサレムでの蛮行が神の御前に問われます。

最後の誘惑

 ここで、十字架上のイエスをののしる人々の声に注意しますと、彼らは「十字架から降りてこい」と口を併せて言っています。40節には「神の子なら、自分を救ってみろ」とあります。この言葉遣いは、荒れ野でイエスを試みたサタンの試みと同じです。サタンはこんな風にかつてイエスを罪に誘いました。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4章3節)

「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(6節)

サタンはこんな風に御言葉を引用しながら、イエスを神の意思に背かせようと試みました。十字架の場面では41節以下にあるように、祭司長たち・律法学者たち・長老たちが、やはり、詩編の御言葉を引用しながら、イエスに「十字架から降りてみろ」と呼びかけています。先ほど見たように、43節は詩編22編9節の引用です。彼らはイエスに対してサタンの役割を果たしている。彼らはイエスをののしりながら、神の御旨を阻止するためにイエスを誘っているわけです。

 もし、これでイエスが十字架から本当に降りてしまったらどうなるでしょうか。そのように黙想を深めて小説を書いたイタリアの修道士がいまして、その小説がまた映画にもなりました。マーティン・スコセッシが監督した『最後の誘惑』という作品です。キリスト教世界では上映禁止運動が起きたくらいスキャンダラスな映画とされましたが、今、私たちが辿って来たように、それは聖書の正しい釈義から出て来る問題を、映画にして論じたものです。イエスが本当に十字架から降りてしまうのですね。そうすると何が起こるか。荒れ野で三度の試みに勝利されたイエスですが、サタンは十字架上のイエスの前に姿を現して最後の誘惑を試みます。それは、天使の姿をした美しい人の言葉で、次のように語りかけました。「もう、あなたは十分苦しんだ。もう、天の父は、あなたの従順を喜んでくださっている。だから、ここから降りて、残りの生涯を自分のために過ごしなさい」。そこで、イエスは十字架からおりてゴルゴダを後にします。イエスを迎えたのはマルタとマリアの姉妹でした。二人はイエスの妻となり、間には数人の子どもたちが生まれます。幸せな年月が過ぎて年を取り、死期を迎えてイエスは寝台に横たわります。時に、パレスチナの情勢は不穏になり、やがてローマへの抵抗運動が始まって、エルサレムにも火が放たれます。その混乱の中にあって、弟子たちに囲まれて寝たまま生きを引き取ろうとしているイエスの傍らに、イスカリオテのユダが飛び込んできます。俺は何のためにお前を裏切ったのだと思うのか。俺はお前が十字架にかかる手伝いをして、イスラエルが救われるために、自分から裏切り者となったのだ。見よ、イスラエルはローマによって滅びようとしてる。お前が十字架から降りてしまったら、一体、イスラエルの救いはどこにあるのか。朦朧とする意識の中で、イエスは我に返ります。それは、十字架の上でした。イエスはサタンの最後の誘惑に勝たれて、最後の言葉を叫びます。「成し遂げられた」。

 これは、聖書の自由な黙想によるドラマですから、福音書がこのように語っているわけではありません。しかし、このイタリアの作家は、聖書が告げている福音をしっかりとつかんでいると思います。イエスは十字架から降りたりはしませんでした。麻酔薬の代わりになる葡萄酒も拒んで、イスラエルの受ける痛み苦しみを一人でお受けになって、人々の罪を背負って神の裁きを受けられます。かつて、バビロニアによって滅ぼされた後、神は預言者を通して悔い改めによる赦しの道を説かれました。それと同じように、ローマによる壊滅にも、赦しの道が備えられました。それが、イエス・キリストの十字架です。十字架があるからこそ、イスラエルは再生の道を歩むことができます。もしもイエスが十字架から降りてしまったら、救いの道は閉ざされて、サタンの支配が全世界を覆い尽くして、イスラエルは滅びる他はありませんでした。

神の子は自分を救わない

 「神の子なら、自分を救ってみろ」と強盗たちはののしりました。ちなみに、「強盗」とは、これもイスラエルに対する非難の言葉です。「あなたがたは神の家を強盗の巣窟にしてしまった」とエルサレムに対する非難が、預言者たちとイエスの口から聞かれました。イエスの両側に立つ十字架には、強盗に成り果てたイスラエルが、民を代表しています。その彼らは、「ユダヤ人の王」「イスラエルの王」メシアのことを知りません。彼らは、メシアは力によって世界を征服するような人物だと考えています。だから十字架から降りて、ローマと闘う救世主だと思っています。しかし、神がイスラエルに与えた本当の王は、そういう力で戦う王ではありませんでした。他人を救っておきながら、自分は救えないのではなくて、他人を救うために自分を殺すことのできるお方が、イスラエルの真の王となられました。イエスは神の子だから自分を救おうとはしません。むしろ、自分を殺す者のために、自分自身を捨てて、神の御旨を果たそうとされます。たとえ、どんなにののしられても、唾をかけられても、頭を棒でたたかれても、決してやり返しはしません。そうして、イエスは真のイスラエルになられて、神の力によってイスラエルがよみがえるために命を捨てます。

 ユダヤ人であろうとローマ人であろうと、争いによって滅び行くこの世界にあって、唯一の救いはイエス・キリストの十字架にあります。神は御子イエスにおいてイスラエルと共に人類をお裁きになりました。神の怒りを、イエスは一人で身に受けてくださいました。罪ある普通の人間には許されないことですが、神の子イエスにはそれが許されました。人間の罪の故に大地は呪われたままです。流血の罪に対する裁きは国もろとも滅ぼしてしまいます。ヨセフスは歴史家として、エルサレムの滅亡を、ユダヤ民族の内部分裂のせいだとしています。神の律法に背いた愚かな世代のためだと言っています。同じ愚かさを私たちの世代もこの世界に負っています。私たちの愚かさが、私たちの住むこの国を、また、この世界全体を滅ぼしてしまうかも知れません。それが決して絵空事ではないことを、私たちは身近に感じるようになったのではないかと思います。そういう私たちのために、しかし、イエス・キリストが十字架におかかりになって、神との和解を与えてくださいます。神のもとに立ち返って、罪を悔い改めて、神の義と愛に生きる、真の平和への道が、私たちのために備えられています。どんな苦しみが私たちを襲うか分かりません。どんなに辱められることがあるか、命が脅かされるか分かりません。しかし、イエス・キリストを信じる私たちには、赦しがあります。復活されたイエスと結ばれた命があります。だから、生きることの苦しみを、イエスの十字架と受け止めて、喜びを失わないで神に仕えることができます。感謝して祈りましょう。

祈り

天の父なる御神、かつてエルサレムが示した罪はかくも大きく、そこに注がれた怒りの杯は世の終わりを思わせる恐るべきものでした。そのようなことを、愚かにも何度も繰り返す人間の罪深い歴史を私たちは今も背負っています。どうか、その重さにつぶされないように私たちを支えてください。あなたは主イエスの十字架によって、その重い軛を取り除いてくださいました。そして、あなたは私たちに悔い改める心を与えて、主イエスと共に歩ませてくださいます。その恵みの中で私たちを強くしてください。サタンの試みから守ってください。そして、あなたに救っていただいたことにいつも感謝して、自分のためではなく、罪に苦しむ隣人のために、自分自身を差し出してゆくことができるように励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。