マタイによる福音書3章1~17節

洗礼を受ける神の子

 

洗礼者ヨハネの洗礼

 インマヌエルとして来られた神の子イエス・キリストは、成人するまでの間をナザレの山里で過ごされました。そこでどんな生活をされていたのか聖書は明らかにしていませんので、私たちは知ることができません。神が定めた時が来るまで、イエスは身を隠しておられました。そして初めて公然と姿を現わされたのは、ヨルダン川で洗礼を受けた時でした。弟子たちを従えて宣教活動に出る前に、踏まえておかなくてはならない幾つかのステップがありました。

 洗礼者ヨハネはイエス・キリストが世に出るために、前もってユダヤの人々のもとに送られた預言者です。節に描かれた荒々しいいでたちは、旧約の預言者エリヤを彷彿とさせます。福音書記者たちによれば、ヨハネは預言者イザヤが告げていた神の声です。節で引用されているのはイザヤ書40章の預言です。洗礼者ヨハネは、イザヤの預言の通り、ユダヤの荒れ野で呼ばわる声となって、主がやってくる道筋を整えるために、ヨルダン川で洗礼を授けていました。

 「主の道を整える」とは、人々の心を悔い改めに導くことを意味します。荒れ野に真っすぐな幹線道路を敷くかのごとく、荒んだ人の心に神がそこを通ってくる真っすぐな道筋が置かれること。悔い改めとは、そのように人の心が真実に神に向かうことを表します。イエスの先駆者としてヨハネが呼ばわった言葉は、イエスが後に呼ばわる声と同じです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。この呼び声に応えてヨハネのもとを訪れた人々は大勢でした。

 「洗礼」とは、文字どおりに理解すれば「沈める」こと、「水に浸す」ことです。罪を洗い清めることや水に沈んで罪のために死に、新しい命によみがえることを意味します。ただ、旧約の律法には「洗礼」の規定はありません。ユダヤ人たちのある宗派では、清めのための沐浴を行う習慣があって、これが今日のユダヤ教にも受け継がれています。けれども、悔い改めの「洗礼」を始めたのはどうやら洗礼者ヨハネのようです。後のキリスト教会はイエス・キリストに命じられて、キリストを信じて従う弟子たちに新しい契約のしるしとして洗礼を施すようになりました。洗礼者ヨハネの洗礼はキリストの洗礼の先駆だといえます。

 多くのユダヤ人が洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けたのは、しかし驚きです。メシア降誕の知らせを受けたエルサレムの住民たちは、ヘロデ王と一つ思いで不安を感じたと先に言われていました。その思いはやがて、ピラトの法廷に立つイエスに向けて「十字架につけろ」という声において再び一つとなります。ですから、洗礼者ヨハネのもとで、一体、どのようなつもりで洗礼を受けようと思ったのか、本当のところが問われます。洗礼を受けにきた人々の中には「ファリサイ派とサドカイ派の人々が大勢」いました。どちらも後にイエスと対立するグループの人々です。彼らの罪の告白と悔い改めの内実は如何ほどだったのでしょうか。ヨハネの洗礼は、「主の道を整える」ためのものでした。彼らの悔い改めが主をお迎えするのに相応しいものなのかどうか。節後半から始まるヨハネの説教は、その点を厳しく問うものとなっています。

 

洗礼と悔い改め

 洗礼者ヨハネの言葉から私たちが聞くのは、悔い改めへの迫りです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」「悔い改めにふさわしい実を結べ」「わたしは悔い改めに導くためにあなたたちに水で洗礼を授ける」。真の洗礼にはこの迫りが伴います。マタイは主イエスの御降誕を記して、イエスと共に神の救いが到来したことを先に告げていました。しかし、主イエスの到来は、世の中のクリスマスが醸し出す温かいメルヘンでは済まされない一面をもっています。キリストが来られた、また、来られる、ということは、天の国―これはマタイの言葉づかいで、神の国と同じことです―がついに来た、ということです。それは神の御旨がキリストによって明らかにされて、神の真実が決定的に世を裁くようになったことを指しています。闇の中に光が届く時、闇の暗さと光の明るさがはっきりと区別されるのと同じことです。最後の審判ということを何らかの形で耳にしておられる方は多いと思います。しかし、それは遠い将来のことではなくて、ある意味でキリストと共にやって来ます。歴史に終わりにそれが待っているのも確かなのですが、既にイエス・キリストと共にやって来たことでもあります。

 洗礼者ヨハネの説教は実に苛烈です。「蝮の子らよ」と洗礼を受けにきた人々に訴えます。「差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか」。洗礼を受ければ裁きを免れるかも知れない。ひとまずそのことは心配しないで済むかも知れない。そう考えることは容易いと思います。ヨハネは皆が認める預言者でしたから、そういう特別な人物を前にして罪を告白することも、洗礼と引き換えであれば認めてもよいだろう、と勘定する人もあったかも知れません。けれども、ヨハネはそういう安易な悔い改めに洗礼を授けても意味はないことを知っていました。

 ファリサイ派とサドカイ派はそれぞれ神を信じる仕方において独自の流儀をもっていましたが、どちらも律法に従って神との契約の中に置かれたと信じている点では共通しています。神の教えをもっている人々でした。『我々の父はアブラハムだ』というのはそういう彼らの心の内を見抜く指摘です。アブラハムが引き合いに出されるのは、神がアブラハムに与えた契約がユダヤ人たちに救いを保証しているという、彼らの信仰がそこにかかっているからです。けれども、ヨハネが求めるのは「実」です。「悔い改めに相応しい実を結べ」「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。自分たちの属する流派に従って神を信仰してはいるけれども「実」がない。「実」というのは実践です。ファリサイ派は律法の実践に力を入れた流派でした。サドカイ派は神殿で奉仕する祭司たちを中心とした流派でした。つまり礼拝を中心とした実践に力を入れていました。神の言葉に従ってそれをきちんと実行する点ではどちらも落ち度のないはずでした。しかし、ヨハネの言う「実」は、信仰の伴う行為です。心の内に生じた真の悔い改めが実を結んで形に現れた行為です。ファリサイ派やサドカイ派は自分たちの流儀を守ることには熱心でしたが、その教えの本来の出処である神を畏れず、律法の本質である神の憐れみに基づく実践には心を止めませんでした。それ故に、神の真を完全に行うイエスと衝突を繰り返し、最後はイエスを十字架につけてしまいます。

 洗礼は、それ自体に救いの効力があるわけではありません。そのことは、ヨハネの洗礼の時点でも明らかです。神の前にへりくだり、憐れみにすがって罪を赦していただきたい、と願う真の悔い改めがあって、神の言葉に従おうという信仰がある時に、洗礼はその信仰を支える赦しと清めのしるしとなり、信仰を強める働きをします。けれども、実が無いところに洗礼は意味を持ちません。洗礼を受けて救われた、と安心してしまって、それで差し迫った罪の裁きに頓着せず、神を畏れずに暮らすことになれば、実を結ばない木、実の入っていないもみ殻として最後の審判に臨むほかはありません。ファリサイ派とサドカイ派の人々はそうした信仰の内実を問われました。この点でもイエスが彼らと交わした議論の先駆けでもあります。ヨハネの洗礼は、真の救い主であるイエス・キリストに出会うために、自らの信仰を「悔い改め」という点から吟味することへの促しでした

 

イエスの受洗―神の子の服従

 そこへ、イエスがヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川へ来られました。当然、これはおかしいことと思われます。ヨハネ自身、「わたしは、その履物をお脱がせする値打もない」と言っています。しかし、ヨハネが止めるのも聞かず、イエスは御自分から洗礼を受けると主張されました。これは、イエスが公の舞台に出られる前に必要なことだったからです。

 その意図は、15節で明かされています。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と主は言われました。「正しいこと」とは、洗礼だけを指すのではなく、これから主イエスが行われるすべてのことです。つまり、イエスは人として果たすべき正しいことをこれからすべて行うために世に出られます。その最初に、「洗礼を受ける」ことがあります。

 「正しいこと」が具体的に何であるのかは、この後、主イエスが弟子たちに教えて行かれます。「汝の敵を愛せよ」という教えもその中に含まれます。イエスはそれを弟子たちに口で教えたばかりでなく、実際に自分でそれを行いました。「正しいことをすべて行う」とは、別の訳を付ければ、義を完全に満たす、ということです。つまり、神の意思に完全に服従するということ。イエスがヨハネから洗礼を受けられたのは、それが人となった神の子の第一歩となるからです。そこから、一人のキリスト者として、キリスト御自身が神への完全な服従を果たし、十字架に至るまで従順に歩んで行かれます。

洗礼を受けると同時に、天が開けて聖霊が鳩のように降ってくるのが見えた、さらに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとあります。これはイエスの心の中で起こった心象風景ではなくて、その場に集うすべての人の前で表明されたことです。神はイエスの従順を認めて、イエスを神の子であり、心に適う者であると公に宣言なさいました。「心に適う者」とは旧約の語法で「喜びである」ということです。

 

キリストに倣う神の子ら

 15節の「正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです」とある「我々」とは、イエスとヨハネを指すばかりではありません。それは洗礼を受ける「我々」です。ヨハネの洗礼に集った人々は、真の悔い改めをもって、「聖霊と火で洗礼を授ける」と言われた、世を裁く権威をもったイエス・キリストを受け入れる準備が必要でした。そのお方は、御自分から洗礼を受けて、真の信仰者の一人となり、同じく洗礼を受けた者の模範となられます。そこに、実りをもたらす信仰の道が開かれます。正しいことすべてを行うのは、洗礼を受けた我々キリスト者に相応しいことです。

 洗礼にそれを成し遂げさせる力があるわけでもなく、蝮の子らが自力で神の子になるはずもありません。しかし、キリストがそれを可能にしてくれます。イエス・キリストはその生涯をかけて神に完全に服従されて、神の義を満たしました。そうして、復活の命を獲得されたキリストは、聖霊を弟子たちに与えて、真の悔い改めに導き、洗礼を実りあるものにしてくださいます。キリストが私たちに先だって、正しいことをすべて行ってくださったのでなければ、私たちは終わりに焼き尽くされる定めから逃れる術をもっていません。蛇の子は蛇のままです。けれども、キリストを裁き主として受け入れ、心から悔い改めて神に従うならば、聖霊が命に至るキリストの道へと私たちを押しだしてくれます。洗礼を受けた者に相応しい、正しいことは、キリストの弟子とされた私たちのに聖霊がもたらしてくれる実りです。それが何であるかは、福音書を通して主エスが教えてくださいます。

 

 神の霊が注がれて、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声を聞くのは、キリストに結ばれたすべての者たちです。その光栄ある神の承認を、心から悔い改めてキリストの救いを信じた私たちは、洗礼を受けた時に皆、聞いているはずです。私たちの一人となってくださったイエス・キリストの故に、私たちは神の喜びとされて、神の御旨を行って行く歩みに召されています。洗礼者ヨハネも主イエスも人の偽善的な行為はすべて見抜いています。ですから、心の伴わない形式的な信仰生活には、鋭い言葉をもって真の悔い改めを迫ります。けれども、自分は力のないものだと認めながらも、聖霊に頼ってキリストの後に従順に従う弟子たちには、キリストの教えに従った正しいことをなす力が与えられます。それが偽善でないことは、神がそうさせてくださっていることから分かります。キリストがこの後教えてくださる正しいこととは、自分の利益を求めない事だからです。キリストのように自分を与えて、神に従うことだからです。神がそういう私たちを喜んでくださっていて、私たちもそれを何よりの喜びとするところに、天の国が現れるから。そのための正しいことはもはや偽善ではありません。

 

 受洗を希望している兄弟たちが私たちの間に与えられています。キリストがその兄弟たちの為にも、神への完全な服従をささげてくださったことを思います。その救いの恵みが、信仰の実をもたらしたことを兄弟方に見ることは本当に幸いです。洗礼を受けられる備えの期間に、罪を悲しんで神に救いを求める悔い改めが真実なものと確認できるように、信仰によってキリストに結ばれて、「あなたは私の愛する子、私の喜び」と天から語っておられる神の声を聞くことができますように、心から願います。また、これは、私たち全員に与えられた信仰の吟味と祝福の機会です。私たち自身も改めて洗礼の恵みを受け取る心づもりで、兄弟たちの洗礼式のために祈り、心待ちにしたいと思います。

 

祈り

世の罪をお裁きになる権能を御子イエスにお与えになった、天の父なる御神、私たちはキリストの果たしてくださったあなたへの完全な服従なくしては、あなたの赦しを獲得できず、あなたの御旨を行う力をもつことができません。どうか、聖霊なる御神が、私たちを真の悔い改めに導き、日毎にその思いを新たにさせ、主イエスに従う信仰へと駆り立ててくださいますようにお願いします。そして、キリストの洗礼を受けた者に相応しく、偽りのない愛をもってすべての業へと向かわせてください。私たちの間に、受洗を希望する兄弟たちが起こされましたことを感謝します。御言葉によって人を救われる、あなたの御業を心からほめたたえます。どうか、その喜びをあなたが確かにしてくださって、洗礼式において私たち一同が、天の御声を聞くことができますよう、祝福をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。