マタイによる福音書4章12~25節

人間を獲る漁師

 

 主イエスのお働きはガリラヤから始められました。洗礼者ヨハネがヘロデによって逮捕されたことがそのきっかけであったようです。その当たりの経緯は14章で改めて報告されます。ヨハネの活動がそうして終わりを告げ、先駆者は舞台から降り、いよいよ救い主が世の光として姿を公に姿を現わされます。

 ナザレが青年時代を過ごされた故郷であることは、先に知らされていた通りです。主は故郷を捨ててガリラヤ湖半のカファルナウムを活動の拠点にされました。洗礼を受けられ、サタンの試みを御言葉で退けられた主の御業が、すべての信仰者の身代わりとしての行いであり、同時に模範となるのだとすれば、自分の慣れ親しんだ場所を意味する故郷を後にすることは、イエスに従う者に信仰の決断を促すものとなります。この点は、続く弟子たちの召命の記事も同じく示しているところです。

 主がカファルナウムに来られたことには意味がありました。それは、旧約の預言によって予め告げられていたことが、その時に実現するためでした。神の言葉は預言者イザヤを通じてこう語っていました。

 

ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。

 

これはイザヤ書23節から節の御言葉です。幾分省略した形ですが、それだけ強調点がはっきりしていて、主イエスとの結びつきが明らかです。「異邦人のガリラヤ」とあります。ガリラヤは中央のエルサレムに比べれば確かにギリシャ文化の影響が濃い北部の地方でしたが、主イエスの時代にはユダヤ人の町であることには変わりがありませんでした。それが敢えて「異邦人の」と言われるのは、主イエスが異邦人に救いをもたらすメシアであるからです。後の教会は異邦人たちにも天国の門が開かれたことに驚き、パウロによって異邦人世界への本格的な福音宣教が開始されましたが、それは主イエスによって明かされた神の意志でした。

 主イエスは暗闇を明るく照らす曙の光です。救いを知らないで死の陰に怯える人々の上に、命をもたらす太陽が昇りました。その呼びかける声は洗礼者ヨハネと同じです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。主イエスが天の国をもたらします。暗闇は罪の故に人の世界を覆っています。罪とは聖書によれば道を外れることです。神が人に用意された正しい道から逸れていること。人はアダム以来、誰もが道を外れて闇を彷徨うかの如くに神に背いて生きています。悔い改めるとは、それに気づいて神とまともに向き合うことです。それは自分の罪を知る、心を砕かれた人にとっては恐ろしく勇気のいることに違いありません。神と向き合えばさらにその罪が露わになってしまいます。けれども、悔い改めて、神のもとへと還ってくるならば、主イエスが進むべき道を示してくださいます。さらにその道を歩み通す力も与えてくれます。そうして本来、自分の罪の故に負わなければならない、裁きの重荷を主が代わりにおってくださいます。都合のいい話のようですが、それが主イエスの弟子となったものの歩みです。主イエスの後をついて行くならば、もはやユダヤ人も異邦人も関係なく、誰でも天の国へと至ることができます。

 

 その宣教活動の初めに、主はガリラヤ湖のほとりで弟子たちを召されました。主イエスは御自身の働きのために弟子たちを求められます。救いをもたらす宣教の働きは、後に弟子たちに委ねられます。その初めに、主は御自分で弟子たちを呼び集められました。主が直接お選びになった弟子たちの数は12名です。後には「使徒」と呼ばれて教会の基礎を造ります。しかし、皆が同じ時期に弟子となったわけではありません。主に召されるにも時があります。最初に選ばれた名は、特に主イエスと親しかった弟子たちです。彼らは弟子として召されるとはどういうことかを示すための模範として、ここに描かれています。

 福音書は弟子たちがどのように召されたかをそれぞれ独自の観点で描いています。マタイがここで伝えているのは、占星術の学者たちがひれ伏して拝んだ、真の王として来られた主イエスの権威です。ですから、マタイは弟子たちが主イエスと出会った時の思いで話には関心がありません。まず、イエスはペトロとアンデレの兄弟をご覧になりました。二人は漁師で、仕事の最中でした。その二人に主はお命じになります。

 

 わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。

 

二人はその場で仕事を捨て、イエスの後に従いました。

 イエスの弟子となるとは、およそこのようなものです。他の福音書が記す出会いの記事が、誤っているわけではありません。ルカはイエスの奇跡が弟子たちを目覚めさせたと記します。それは、驚くばかりの出会いが弟子たちの決心を促したという心の動きを表します。また、ヨハネはイエスに出会った仲間の証が次の弟子を導くという形で、弟子たちの召命を記します。それは最も現実的で、信仰の証言の重要性を私たちに伝えるものです。私たち自身が救いに導かれた経験を振り返れば、そこにはそれぞれ固有の出会いの体験があり、信仰の逡巡や決心があるはずです。けれども、そのことを突き詰めて考えれば、誰もが「わたしについて来なさい」との主の声を何らかの形で聞いたことに気がつくはずです。信仰とは、私が信じたことがすべてではなくて、さらにその奥に、主が私を選んだことが必ず隠されているものです。ヨハネ福音書はそのことを明瞭に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」との主の言葉を記しています(1516節)。

 当時のユダヤ人たちは、優れたラビに師事することが神に近づく道でした。そして、そのラビは自分たちで選ぶことができました。けれども、イエスの弟子は違います。イエスと弟子たちとの関係は、優れた知識を蓄えて仲間たちから良い評価を得ることとは殆ど無縁の世界です。弟子たちを召される主の言葉の作用から言えば、イエスに対する前知識さえ必要とされません。「わたしについて来なさい」「二人はすぐに従った」。これが弟子の召命の本質です。主イエスは弟子を御自分でお選びになって、御自身の働きのために世に送り出されます。

 ペトロとアンデレに続いて、ヤコブとヨハネの兄弟が殆ど同じ仕方で召されました。主イエスが仕事中の二人をご覧になり、呼ばれ、二人は仕事を捨てて従いました。これら4d人の弟子はいずれも漁師です。ユダヤ人ですから律法を読んではいたでしょう。けれども、彼らに何らかの資格が問われたわけではないことは明らかです。神が異邦人のガリラヤに与えられた栄光は、こうして弟子たちにも及んでいます。弟子たちはただ、神の選びによって主の弟子とされます。そして、主イエスの教えに学び、神の国の到来を告げる福音宣教に共に携わり、いやしの業に力を尽くします。

 主イエスが故郷を捨てて宣教の働きに出られたように、4人の弟子たちは仕事と家を捨てて主の後に従いました。網を捨て、船を捨て、父親を捨てて、人間を獲る漁師になりました。イエス・キリストを信じて従うには、実際のところ、すべての人がそのようにすべてを捨てなければならないわけではありません。後のパウロはテント職人でしたから、必要とあらば自分で働きながら宣教の働きを続けました。パウロは生涯独身でしたが、ペトロには家族があったようです。俗世を離れて修道院に籠らなければキリスト者になれないというのではありません。しかし、誰もが主の召しを受けて弟子となる、のはすべてのキリスト者の歩む道です。そこには、必ず「切り離し」が伴います。ある意味で、仕事を捨てなければなりませんし、故郷を、また家族を捨てなければなりません。それは、「悔い改め」が含んでいるところの意味合いです。キリストを信じて救われる以前には、私たちは家族に属していました。また、私たちは生まれた土地や民族に自分のルーツを見出し、仕事に自己実現を見ていました。しかし、こうして出来上がっていた私は、キリストに出会う前の古い私です。新しい私は、主の召しに従って、主イエスのものとなります。本当に神に立ち帰る時、私たちのもっていたものすべては神に引き上げられてしまいます。罪の故に、ひとたび私たちは死ぬのです。けれども、そうして死んだ私は、キリストの故に新しい命を与えられて、神のものとして神の命に生かされて、再びすべてのものを恵みとして受け取ります。そういうプロセスが、イエス・キリストを信じて従う、ということの中に含まれます。罪に死んで、神に生きるということは、実際には主イエスが私たちに代わって行ってくださることです。主イエスは十字架にかかって死なれます。しかし、神の力によって復活されます。それは、私たちが罪を裁かれて死んで、葬られ、また復活の命に生かされることです。それが、主イエスを信じる、ということの内容です。そして信じるならば、誰でも救われます。私たちの信仰とはそういうものです。

 ですから、キリストに従う道には、必ず「切断」が伴います。4人の弟子たちがすべてを捨てて従ったのは、私たちの信仰の内で起こる悔い改めと同じことです。ルカ福音書が記す金持ちの議員が、自分の財産を貧しい人に分け与えて自分に従って来なさいと主イエスに言われて悲しんで帰っていったのは、彼自身が御言葉に従っている思っていた「信仰」には、この切断が伴っていなかったからでした。それは、ラクダが針の穴を通る方がやさしい、と言われるほど人間の業としては困難なことですが、それを為させるのが信仰であって、悔い改めであって、神が人に与える救いの実です。主イエスの選んだ弟子たちは、そのひな型として選ばれた人々でした。

 

 人間を獲る漁師たちは、イエスに倣って漁を行います。イエスはガリラヤ中を走り回って、人間を獲る漁を行いました。その主イエスの御業について23節が丁寧な言葉遣いで述べています。順序が大切です。その初めは、「諸会堂で教える」ことです。その教えは、続く5章の山上の説教から始まる、イエスによる新しい律法を指しています。その教えが、闇を照らす光となり、主イエスに従う者たちを新しい命に生かします。二番目は、「御国の福音を宣べ伝える」ことです。「悔い改めよ、天の国は近づいた」との言葉はその内容を端的に言い表しています。後に主が弟子たちに語られる天国の例え話は、この「福音を宣べ伝えること」に含まれます。そして最後に、「いやし」が置かれます。病の癒しはそのものが天国への救いとはなりません。けれども、神の憐れみは、この癒しの御業においてもっとも鮮やかに目に見えるものとなります。そして、イエスの語る福音に真に耳を傾けた者だけが、信仰によって、その癒しの奇跡を悟ることができます。

 マタイは主の教えの優位をここで説いています。しかし、多くの人々を主イエスのもとへ導いたのは癒しの業でした。イエスが人を癒す力には限界がありませんでした。あらゆる病気をもった人々が皆癒されました。ガリラヤを照らす光は、このようなかたちでも鮮やかに闇を照らします。神の憐れみは異邦人の地ガリラヤで、しかも、病いに苦しむ人々にまず存分に注がれます。こうして、イエスのもとに駆け付けた人々が広がる範囲は、洗礼者ヨハネの時をしのぐほどでした。この大勢の群衆を前にして、主イエスは弟子たちに教えを語り始められます。

 

 神は陰に見捨てられた地方に救いを約束しておられます。病いに苦しむ人々を憐れんでおられます。24節に並べられた苦しむ人々のリストに、他のあらゆる病気を含めることができます。また、災害にあった人々、家族を失った人々、仕事を失った人々、抑圧された人々、苛めにあった人々など、私たちの社会にいるすべての苦しむ人々を含めることができます。そうした人々を癒し、救いに導くために主イエスは来られました。この苦しみを共にする人々に神が最初に目をとめられるのは、そうした人が一番神の国に近いからです。闇の中にあることを誰よりも知っているから光に感じます。救われたいと心から願っているから、救いのあるところに無理をしてもやってきます。

 そういう人々のところに主イエスに召された漁師たちが遣わされます。キリストの福音を携えて主の御業を行います。キリスト教会は救いを求める人々が集う場所ともなりますが、人間を獲る漁師たちの溜まり場でもあります。教会が不活性に陥らないように、救いの喜びに生かされていて、そこに確かに光を感じ取ることができるようになる為に、私たちはいつも主の弟子に召されたことを覚えて、主の働きに活発であることが必要なのだと思います。御言葉に学んでそれを自分の生活に生かすこと、福音を宣べ伝えるために出かけること、様々な苦労を負った人々に寄りそうこと。私たちは、ただ救われて、あとは自動的に天国へ運ばれていくのではなくて、そういうキリストの御業に生きていることが私たちに救いをもたらしているのであって、インマヌエルの確信に繋がります。

 

 クリスマスの準備が始まって、皆さんの身近な方々に、また地域の皆さんに福音を伝える機会が近づいています。主イエスは聖徒の交わりである私たちの教会を、人間を獲る漁師に召しておられるのに違いありません。神の救いは確かに主イエスと共にここにやって来た、ということを、私たちが確かに伝えることができるように、主の御業に相応しい働きができるように、そのようにして私たちも心から喜んで主の御降誕をお祝いできるように、まずは私たちの信仰から整えられたいと願います。

  

祈り

天の御父、私たちは主イエスの御業によって、あるがままに、ただ信仰によってあなたの子として受け入れいていただくことができます。そうした私たちをあなたは主イエスの教えによって信仰の内に育み、真のキリスト者として、主イエスの弟子として相応しく整えてくださいます。私たちが御言葉を素直に受け止めて生活の中で実を結ぶことができるように、そして、救いの喜びを保ちながら、確かな信仰をもって隣人に寄りそい、働きかけることができるように、聖霊をお与えください。また、いろいろな病気や苦しみに悩む人々の近くにあって、主イエスの証を立てることができますように、教会があなたの教会として立つべき場所を私たちとすべての教会にお示しください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。