マタイによる福音書5章21-26節

神が和解をもたらす

 

 今日の箇所からは、主イエスがモーセの十戒に基づいて弟子たちに教えておられるところです。これは律法の解説のようですけれども、ただの説明ではありません。律法を完成させる主の教えです。そこが律法学者たちとは違う、神の子として来られた権威ある者としての(7:29)、主イエスの立場を表しています。そこで今日取り上げられますのは『十戒』の第六戒にある「殺してはならない」という掟です。

 

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。(21節)

 

 『殺すな』とは十戒にある文言の通りです。そして『人を殺した者は裁きを受ける』とありますが、出エジプト記21章によれば殺人罪には死刑が適用されます。これは昔からイスラエルに命じられていた掟でした。けれども、「しかし、わたしは言っておく」と言いまして、主イエスは御自身の権威でもって次のように言い直されます。

 

兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 

 つまり、誰かに対して腹を立てるならば、それは殺人と同じであって死刑に値する、ということです。「腹を立てる」ということに何か制限があるわけではありません。ちょっといらいらしただけとか、激しい怒りに駆られたとか、程度の問題ではなく、兄弟姉妹に対する「怒り/苛立ち」という根本的な感情が殺人罪に問われます。「裁きを受ける」というのは、先に述べましたように、死刑に値するということです。

 こうした主イエスの教えは非常に極端ですので、この通りやっていれば世の中が上手くいくとか、教会の中が平和になる、というような現実感を越え出てしまいます。「腹を立てたら地獄行き」なわけです。

 ですから、ここで主が教えておられるのは、できるだけ怒らないように穏健に人と接して、平和な交わりを作りなさい、などという、どこにでもあるような教訓ではありません。勿論、口先で「ばか」だとか「愚か者」だとか言わなければいいというような表面的なことでは済みません。人の心の中に芽生える仄かな殺人の兆しを少しも見逃さない神の眼差しがここには明かされているのでして、これを聴く者は自分の心の内にある罪に気づかされます。

 私たちの考えでは様々な疑問も生じてくることと思います。確かに怒ることは快いことではないけれども、怒らなければいけないときもある。正義の怒り、義憤であるとか、自己の尊厳をかけての怒り、この世の悪に対する憎しみとか。これらはすべて、神の御前で正しいとされるのではないか。旧約聖書では人の世の堕落した様子に神がお怒りになって、洪水で世界を滅ぼしたり、火で町を焼き尽くしたりされていますし、預言者たちを通じて不正義の横行する世相を断罪したり、偶像崇拝になびくイスラエルに対して激しい怒りを表しておられます。

そういうことで、『殺すな』という掟の解釈については、当時主イエスのように、「腹を立てたら地獄行き」というような極端な広げ方をする者は他にはありませんでした。

憎しみが平和を壊すことは誰でも分かっているのですけれども、例えば、主イエスと同じ時代に生きた聖書の教師たち―ラビたち―は、きちんとした理由があれば相手を憎んでも仕方がないとしました。ローマ兵に家族が殺されたとか。先祖伝来の土地が奪われたとか。そういうことがあっても憎むなとは普通の人間からすれば不条理です。

また、ある者は、自分たちの仲間に対しては腹を立ててはならないが、外部のものに対してはそうではない。特に神に逆らう者たちは、神の名において憎むべきである、としていました。

キリスト教会の中でも「正しい怒り」とは何か、ということが議論されてきました。新約聖書を読んでいますと、例えばこのマタイ福音書の23章では、イエス御自身がファリサイ派の人々に向かって「愚かで、ものの見えない者たち」などと言います。また、パウロもガラテヤ書の中で「物分りが悪い、悪い」と繰り返し、ガラテヤの兄弟姉妹たちを叱責しています。そこで、出される結論は、「罪を憎んで人を憎まず」ということでして、マルティン・ルターは、たとえ「馬鹿」と口にしたとしても「それが良い母親のような心から出たものである場合は罪ではない」といいました。

人の怒りを抑制し、殺人を引き起こさないための工夫として、何処までを正しい怒りとし、何処までを罪とするか、という線引きをすることは、教会をも含む社会生活を営むためには益のあることかも知れません。主イエスの御言葉が教会の実用に付される場所では、実際そうした解釈が施されてきました。

しかしそれは、主イエスの極端な、この世を突き抜けた教えを薄める努力であったとも言えなくはありません。それは、他のユダヤ人たちの教えと同じレベルに引き落として、主イエスの教えを理解したということになります。そして、それは、神の支配の開始を告げる、山上の説教の目的とは異なります。

主イエスがここで語っておられるのは、神が人を支配する本来のあり方ですから、それはこの世のもののようではありません。現実離れしていて当然です。

『殺すな』という古くから知られるモーセの掟は、『殺さなければいい』ということではさらさらなくて、『殺そうとしてはならない』ということとして、どんな僅かな兆しも認められてはならない。それが、神の命令たる『殺すな』の意図であることを主イエスは教えています。大切なのは、それがどれだけ実現可能かと直ぐに自分の生活のレベルに引き降ろして御言葉を聞こうとすることではなくて、まず神の御旨は何かを聞くことです。

私たちの内には、やられたらやり返すという習性があります。どんなに穏やかな人でも、自分の一番大切にしているものを汚されたり、壊されたり、言葉で貶められたりすれば腹の立つものです。そして、ここでは怒りを外に表してはならない、という勧めがなされているわけではありません。無条件に、無制限に、怒りは殺人であり、地獄に値する。ここでの主イエスの言葉は、神の掟に従うことができると思っている人々に対して一撃を加えるものです。

「~してはならない」という禁止の命令には、おのずと限界があります。それは、「~しなければよい」というふうに簡単にすりかえられてしまうからです。神がそこでキリストを通して明かされる御旨は「~しない」世界の実現です。そして、その世界は「~してはならない」と生活をどんどん制限付けていくことで実現されるのではなくて、もっと積極的な方法で完成されます。

主は十戒の解説に続いてこう言われました。

 

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。(2324節)

 

人を殺す言葉を口にしなければよい、などいうことではなくて、何か自分に対してわだかまりを持っている人のところへ行く、そして仲直りする。つまり、和解をするよう求められます。ここでは直接述べられてはいませんが、これは実に愛の問題です。『殺すな』とは殺さなければよいということではない。キリストの下で、神の支配が実現するところでは人はもはや殺さない。もとより、十戒の文言にしても、原文によりますと『殺すな』という掟は『あなたは殺さない』とも読むことができます。まさに、キリストと共にやってきた神の国では誰も殺さない。そこでは愛が実現するから、赦しが完了するからです。敵をも愛する愛に生かされている人は殺さない。

 ある神学者が述べていることですが、「~してはならない」というのは慎ましい生活に結びつきます。「いったい何処までが許されている範囲なんだろうか」といつも自分に問うわけです。節度がそこから生じます。けれども、律法を越える完全な義、人間の正しさを越えていく神の義を求めてまいりますと、制限によってはそれは実現されない。むしろ、「~しなさい」という積極的な方向へ変わることが求められます。それを変えるのが主イエスです。「殺すな」から始まりますが、「仲直りしなさい」「和解しなさい」という新しい掟へと進みます。

 この和解の勧めも、主イエスの言葉は極端な言い方です。神への礼拝を中断してでも仲直りに出かけなさい、とさえ言います。礼拝が殊更厳粛なものという前提でありませんと、この衝撃もなかなか分かりませんけれども、神へのささげものをするのに先立って、まず、人と仲直りをしなさい、といいます。

 礼拝が二の次だというのではなくて、礼拝には本当のささげものをもってこなければならない。それは、お供えをするモノが大切なのではなくて、隣人へ向かう私たちの愛こそが、私たち自身を神へのささげものとし、礼拝を本当に神の御前での礼拝らしくするからです。これは旧約の預言者が語ったことでもあります。ホセア書節にある次のような言葉がよく知られています。

 

わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。

 

 主イエスの語られたことは、この預言者の言葉に一致します。神が求めておられるのは私たちの愛です。

 赦しについて、隣人との和解についても制限が無いということを、今日の最後の段落が明らかにします。

 

あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。(25-26節)

 

ここでの隣人は訴訟の相手ですから、敵といってもよろしい関係です。その相手と和解せよと命じられています。ですから、ここから章の最後にある敵をも愛せ、という主の教えに通じてゆきます。礼拝よりも和解の務めが優先する。隣人を愛することの実践が礼拝を本当の礼拝にする。その際の「和解」も、主の語られることは制限がありません。ですから、これにしても「殺すな」と同じで、上辺だけのことと捉えて満足するわけにはいきません。誰かと和解することも、私がするよりも先に、主イエス・キリストが率先して行ってくださることです。その上で、キリストの十字架と復活にあやかる私たちが、キリストの弟子として受ける新しい掟として、敵をも愛する和解の務めがあります。

 『殺すな』という掟の背後には、それだけ私たちが生きることへの関心を神がもっておられて、私たちの命を大切にしてくださる神の御旨があります。本来、私たちは自分の罪のために神の怒りに値するものでした。しかし、神は御子イエスの十字架によって私たちを赦し、怒りを取り去ってくださいました。「和解」は私たちが神から無償でいただいた賜物です。主の掟を思いと言葉と行いにおいて日毎に破る罪深い私たちですが、神はその私たちを生かすための働きを休まず続けておられます。主イエスは私たちに和解の務めをお与えになって「途中で早く和解しなさい」と命じておられます。私たちはいつもこの「途中」にあって、赦すか、赦さないのか、愛するか、愛さないのか、その選択がいつも今問われます。和解しなければ最後には裁くものがある。和解するならば神の支配の中にいる。それは将来のことのようですが、いつでも今私たちの決定しうる選択です。神がさせてくださることですが、私たちが自分でなす選択でもありますから、誰か隣人に対して責めが生じた時には、聖霊を祈り求めつつ和解に努めるものでありたいと願います。

 

祈り

天の父なる御神、あなたは御子イエス・キリストの十字架によって、私たちへの怒りを解き、理由なくして、ただ憐れみによって私たちとの和解を打ち立ててくださいました。あなたは私たちが、御前にあって活き活きとした喜びに生きるために、互いに愛し合うようお命じになっています。どうか、私たちの心から怒りや苛立ちを取り去り、聖霊の助けによって、真に赦しあうことができますように。一人ひとりの隣人に向かわせてください。今週の歩みの上にもあなたの導きを願って、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。