マタイによる福音書5章27-32節

家庭の祝福

 

主イエスの山上の説教は、ご自分に従う弟子たちに、神の御旨に適う完全な道を教えています。人が神と共に正しく歩む道については、古くからイスラエルの人びとに告げられていました。旧約聖書に記されたモーセの律法です。神を信じる者たちは律法に従って生活しておれば、神に義人と認められて天国に入ることができます。ただ、モーセの律法に従う、という時に、その律法をどのように実行するかという具体的な判断をくだすところで、人の解釈が入ります。例えば、「殺してはならない」という掟が十戒にあります。そうしますと、では、誰を殺してはならないのか、という問題が生じます。戦争になれば軍に召集されて敵と戦わなければならない。その場合に、戦場に出ても人を殺してはならないのか。旧約のイスラエルの民は、敵を滅ぼせと神に命じられた時もあります。それはどういう理由で例外とされるのでしょうか。別のケースですと、例えば人を殺して強盗を働いた者が同胞の中から出てしまった。そうした場合に、モーセの律法によれば、殺人罪には死刑が適用されます。では、重罪人を死刑に処することは「殺すな」との掟に反しないのか。こうして、モーセの律法は神の命令として記されてはいますけれども、それをいざ実行するときには人の判断が必要になります。

 主イエスはそこで、律法に示された神の御旨を明らかにするために、人の判断を超えたご自身の解釈を与えます。義人に対する神の評価は、自分のこととしてはなかなか分からないものです。当時の常識人たちが主イエスから非難されたことも、あなたがたは自分は正しいと思ってはいるが、それは思い違いだ、とのことでした。何が正しいかを最終的に判断されるのは、人ではなく神です。主イエスはモーセの十戒に記された倫理規定-隣人に対する関係-についての教えを取り上げて、神の御旨を明らかにされます。

 今日は、十戒の第戒にあります「姦淫してはならない」という掟が基になっています。「姦淫」とは私たちの日常では殆ど使われない言葉ですが、今日では「不倫」の方が通りがよいと思います。古い言葉ですと「密通」ですが、もうこれは死語でしょうか。つまり、隣人の妻と性的な関係を持つことです。恋愛の自由が謳歌される今日では、結婚した後でさえ、異性との自由な関係を主張するような風潮がありますから、「不倫は罪だ」などと言っても、かえって馬鹿にされてしまうかも知れません。TVドラマでも小説でも昔から最も大衆に好まれて来た題材ですし、男性優位の結婚制度に抵抗する女性の自由がそこで謳歌されたりしています。

しかし、モーセの律法によりますと、不倫は死に値する重罪です。レビ記2010節には次のように記されています。

 

人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。

 

申命記2222節以下でも同じように姦淫は死罪に相当すると定められています。

 

 男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。

 

後半に婚約中の女性のことが取り上げられていることからも分かりますように、ここで問題となっているのは、未婚者の恋愛をも含む男女関係の一般的なモラルではなく、「結婚」に関することです。十戒の文脈では、姦淫は隣人の家庭に対する暴力として殺人や強盗に等しい重罪です。従って、ここでも殺人について問われたことと同じように、いかに社会の平和が保たれるか、という隣人との正しい関係が問題です。

 

 結婚が人間関係の基本であることは、後の19章で主イエスが語っておられます。そこでは今日お読みしました後半の段落と並行する離婚問答が行われています。結婚式でもよく読まれる箇所ですが、主は次のように言われます。

 

あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになったそれゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。

 

結婚は天地創造の初めから神が人間にお与えくださった祝福であり、神がその人を人の人のように結び合わせられた。だから、離婚は禁じられている、というのですが、姦淫とは、この神が結び合わせられてもはや一体となった夫婦関係に対して暴力を働く、神に敵対する行為です。

 

 主イエスは、しかし、「姦淫」が現行犯として成立する時を待ちません。すでに心の中に他人の妻に対する情欲が芽生えた時、そこで、その者は死に値する姦淫の罪を犯したのだと言われます。

 

しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。(28-30節)

 

「地獄に落ちる」とまで言われるのですから、不倫を働いておいて知らぬふりもしておれません。

 主イエスは「姦淫してはならない」という十戒の教えを、人の心の奥底にまで深めて適用されまして、自分の判断ではなくて、神の基準で正しいということが、どういうことであるかをここで明らかにしておられます。結婚―家庭は、神が人にお与えになった祝福の基です。ですから、神の言葉がこれを守っています。

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それでも御言葉に従い得ず、家庭を崩壊させてしまうのが人の罪深さですが、31節からは離婚の問題が扱われます。旧約の律法は離婚を禁じていませんでした。離縁状を渡して離縁することが許可されている、と記されている箇所は、申命記24節です。

 

人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。

 

妻に「何か恥ずべきこと」が見つかったら離婚してよい、という規定ですから、では「恥ずべきこと」とは何か、とまた解釈の問題がここに入り込みます。具体的な例としては、主イエスが活動された頃と同じ時代のラビたちは、「料理に失敗したら離婚してよい」とか、「もっと美しい女性と出会ったら離婚してよい」と論じました。しかし、申命記の記述を字義通りにとらえておきますと、「恥ずべきこと」とは他の男性との関係を指します。つまり、妻の不貞が離婚の理由になります。そうしますと、32節にある主イエスの解釈は、モーセの律法のほぼ字義通りの解釈です。「不法な結婚でもないのに」妻を離縁してはならない。ここも「不法な結婚」と訳されていますが、姦淫を直接指す言葉が用いられていますので、不貞・不倫ということです。

 従って、不貞を犯したのでない限り、性格が合わないだとか、働きが悪いだとかの自分本位な理由で離縁することはできない。離縁できないのですから、妻を外に放り出して、他の男性と結婚させれば、これは人に姦淫の罪を犯させることになりまして、律法に従いますと人は死罪になります。夫が離縁状を渡せばそれで離縁は成立する、という気儘さで離縁をしていた当時の「正しい立派な人」たちは、これによって、自分たちが神の定めた結婚を蔑ろにしていた事実を突きつけられます。

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 主イエスは、「姦淫」という罪の問題を取り上げながら、この点についても人が義人たりえないことを明らかにします。同時に、姦淫という罪がいかに結婚を破壊するかということにも触れています。心で犯した不倫の罪は、既に結婚を終わりにしている。それは丁度、旧約聖書の中で、神との契約を破って偶像崇拝に走ったイスラエルの民が、形の上では立派な儀式を保ちながら、自分たちは神の民であると自認していたことに対応します。心の伴わない礼拝を神は憎む、と預言者を通して語られました。同じように、心の内で姦淫を犯している夫婦の間には、真の結婚は成り立たない。それが具体的な行為に及べば、形の上でも結婚は解消されます。

ちなみに日本の法律では、一回限りの不貞行為は離婚の理由としては認められないようです。ですから、社会制度としての結婚関係は、不倫によっても簡単に解消できません。日本では離婚する夫婦が増えてきたと言われますけれども、正確な統計によれば増加の傾向は認められるとは言え、未だ米国とは差がありますし、アジアでも韓国より低い離婚率に留まっています。また、相手が気に入らなくなったら自由に離婚してもよいか、というアンケートに対しては、50%近い回答者が「ノー」と答え、「イエス」と答えた回答者の数を上回っています。結婚という制度に対する私たちの社会はとても保守的です。ですから、形式上の結婚生活は維持しやすい面もあると思いますが、不倫という隠れた罪は一方で地下に潜る傾向があるのかも知れません。もっとも、不倫はいつも隠れた行為であることは、聖書にも人の道として記されています。ヨブ記2415節にはこうあります。

 

姦淫する者の目は、夕暮れを待ち/だれにも見られないように、と言って顔を覆う。(ヨブ24:15)

 

箴言3018節以下には機知に富んだ次のような格言があります、

 

わたしにとって、驚くべきことが三つ/知りえぬことが四つ。天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/大海の中の船の道/男がおとめに向かう道。そうだ、姦通の女の道も。食べて口をぬぐい/何も悪いことはしていないと言う。(箴言30:18-20)

 

男性は女性に近づいてはならない、などという、創造の秩序にもとるようなことを聖書は少しも語っていません。清めを重視するあまり、自分が罪を犯すことを恐れて、女性との接触を極端に嫌うようになったグループもあります。ある注解者によれば、これも一つの自己中心の現れです。まさに男性中心主義の粋とも言えますけれども、聖書の教えを発展させて、女性を見つめる者は汚れを身に招く。語り合えば危険に晒される。妻であっても近づいては危うい、と考えて、女性の性そのものを汚れの根源と看做し、敬虔な者たちが完全さに達するための障害と看做しました。女性たちが信仰共同体の社会生活や宗教生活から遠ざけられるのにはそうした要因が働いています。これは言ってみれば自分さえ清くなればよいという自己中心であり、主イエスの教えの対極に当たります。寡婦や娼婦たちとよく言葉を交わされ、女性の弟子たちを従えられた、主イエスの行動をみてもそれは分かります。汚すものは外から来るのではなく、自分の心の内から来る、と主は教えておられます。

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31節と32節は、教会では離婚および再婚の正当性を巡る根拠となる箇所ですから、ここで教会における離婚・再婚の問題に簡単に触れておきます。ここにある言葉は、「再婚の禁止」と取られる場合があります。伴侶を失った場合は再婚できるが、離婚した場合、特に相手が存命中は再婚できないという通説が教会にはあります。しかし、聖書全体からすれば再婚を一方的に禁じる理由はありません。

聖書の教えに基づく結婚と離婚についての規定は、ウェストミンスター信仰告白の第24章でまとめられています。その節では、相手の不倫が明らかになった場合は離婚訴訟を通して法的に正当な離婚ができますし、また、その後は相手が死んだ者のように考えて再婚することができると定めています。その他の理由については、続く節で「故意の遺棄」ということが挙げられていまして、つまり、家庭生活の放棄ですが、それが教会や裁判所など周囲のあらゆる努力によっても回復されない場合は、仕方が無いと認めています。ただし、いかなる場合も、当事者たちの勝手な判断で離婚してはならないとされています。その他の場合には、原則として合法的な離婚は認められません。

今日では、離婚は日常茶飯事で、キリスト教会でも多く見られます。現代の離婚の事情はウェストミンスター信条が想定するよりも複雑で、教会はこれを正しく適用することに頭を悩まします。ですから尚更、私たちは離婚の是非を問うよりも、結婚の意義について心しておくことが必要です。今朝も引用しました御言葉に、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」との御言葉がありました。結婚式の式文にも用いられる詞です。この宣言が、夫婦関係に危機が訪れるたびに支えになった、と言われるキリスト者の家庭が多くあります。聖書が禁じているから嫌だけれども離婚しない、ということではなくて、聖書の言葉に励まされて結婚生活が保たれます。他方、これを離婚の禁止と読むことで、耐え切れないような苦痛の中で命をすり減らしている夫婦や子どもたちも多くあります。家庭内暴力があり、家庭崩壊があります。私たちはいつでも、聖書の倫理的な適用を考えるときに、文字面で捉えるわけにはいきません。その御言葉が私たちをどのように生かそうとするのか、また、私たちとキリストとの関係をどのように結ぶのか、ということを考えて、その都度判断することが求められます。苦しみを担うのも強いられてであってはならないはずです。聖霊の促し以外に十字架を負う選択をすることは誰にもできません。

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互いに相手を愛して当然と思われる結婚の関係においてすら、人が正しく愛情を保つことは容易ではありません。それが主イエスのように律法の原則を心の奥底にまで適用されるのならば、私たちは決して罪から逃れることはできず、むしろ神の前に結婚を誓うなどということは無謀な企てであったと言わずにはおれません。しかし、罪人である私たちは、そこから神の御前にある生活へと招かれます。心で姦淫を犯す罪を、心から罪と認めて神の前に進み出るのであれば、キリストがその罪の裁きを十字架において受けてくださり、もう一度、愛する試みへと向かわせてくださいます。

主イエスが備えておられる完全な道は、赦されて歩む道です。「姦淫」という自分の欲望のために隣人関係を破壊してしまう衝動を心に宿した者が、信仰によって進んでいく愛の道です。キリストが描かれた完全さは天に至る遠い目標です。しかし、信じる者は赦されて、そして聖霊に促されて、その目標を目指します。キリストの道を歩む教会にパウロは次のように告げています。

 

人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。(ローマ13:8)

 

愛を制度化することはできませんが、それは神の自由な賜物ですから、願い求めるならば与えられます。愛されることを願う人は、人がそれに応じてくれないので、心の傷を深めます。しかし、愛することを願う人は、その愛することを通して癒されます。家庭は神の賜物です。誰もが夫婦の円満を願いつつ、しかしそれが果たされないで傷ついていますが、主イエスは信仰によって私たちにその辛さを乗り越えさせてくださいます。信仰によって実る家庭の祝福が皆さんの上にありますように心から願います。

 

祈り

父なる御神、あなたが結び合わされた夫婦の絆が罪に脅かされて、あなたの愛に対する信頼が、失われてしまいそうな時代に私たちは置かれています。どうか、憐れんでくださって、主イエス・キリストの十字架に示されたあなたの愛によって、私たちの心に棲む、罪の暗闇を取り除いてください。あなたの繋いでくださる人と人との交わりが、聖霊によって清められて、キリストにある真の一致に至りますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。