マタイによる福音書538節~48

完全な愛

 

 『目には目を、歯には歯を』と始めにありますように、今お読みしましたところは聖書の中でも特によく知られた箇所です。『だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』とは衝撃的です。新共同訳聖書の標題には「復讐してはならない」とありますが、これはキリスト教を特徴付ける主イエスの教えの代表的なものとされています。この教えは44節にあります「敵を愛せ」という愛敵の教えと結びつきます。復讐の禁止命令は、裏を返せば「愛しなさい」という積極的な教えになります。このことを念頭に、今朝の御言葉を共に確かめたいと思います。

 

 まずはここでは「復讐」が語られています。ともかくそのように見受けられます。けれども、注意したいことは、ここには「復讐」という語は現れていません。「悪人に手向かってはならない」というのが主イエスの命令でありまして、これは「復讐の禁止」というよりも「抵抗の禁止」です。

 少し文言に拘りますと、「目には目を」とありますのは、「目に対しては目を」という言葉遣いでして、それに合わせて、「悪に対抗してはならない」とあるわけです。相手に合わせるな、立ち向かうな、というのです。

 これが「復讐」と受け取られましたのは、「目には目を、歯には歯を」とある旧約聖書の教えを誤解したためと思われます。尤も、主イエスもその人々の誤解や誤った用い方を前提に、これを話しておられるようですが。

 今日でも「目には目を、歯には歯を」という原則は、「同害復讐法」もしくは「タリオ法」と呼ばれまして、復讐に関する古い法律だと理解されています。そして、あっさりと「野蛮だ」などと評価されてしまう傾向もあります。しかしこれは、「やられたらやりかえせ」と命ずる法ではないことは、旧約聖書をきちんと確かめれば分かります。

旧約では3箇所にこの文句が見出されますが、基本的には訴訟に関する文脈にありまして、人々の間で傷害事件が起こった場合の原則として示されます。その精神を最もよく表しているのはレビ記の記述ですけれども、17節以下にはこのようにあります。お聞きください。

 

人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。(17-20節)

 

これは復讐の方法ではなくて、法に基づいた償いの方法です。そして、この規定の根底には、目や歯ではなくして、「命には命をもって償う」という思想がありまして、人の命はモノでもっては贖えないという、命の尊厳を最大限に認める掟としてイスラエルの民に与えられたものです。

何故、人の命がそれ程、尊いのかといえば、そもそも人間は自然の中から偶然発生したのではなくて、神が特別な配慮をもって創られたのであり、さらに神がご自身のかたちを与えておられるからだ、と聖書は教えています。ですから、人間の命を損なう者は、人間にではなくて神に対して、命をもって償いをすることが要求されます。人の命は神のものなのです。

 また、「目には目、歯には歯、手には手、足には足」と、そこで被害を受けた隣人の身体と自分自身の身体を鏡に映す様に照らし合わせることによって、「自分自身のような隣人」をそこに見出すようにされます。レビ記という書物では、「目には目を、歯には歯を」という教えと、「隣人を自分のように愛せ」という教えが密接に結び合っています。

 そのように、「目には目を、歯には歯を」という規則は、第一に、決して恨みを晴らすための手立てではなくて、世の中に正義を実現するための、神から示された、人道的な教えでありました。これを個人的な復讐を正当化するために人が勝手に用いる、ということは幾らでも起こり得ます。

 ただし、この教えが復讐と無関係だということでもありません。復讐を承認するのではなくて、むしろ抑制することがこの掟の社会的機能だといえます。つまり、仕返しをしたいのは人情ですから、あらゆる場面で「復讐」が起こりうるのですけれども、おおよそこの復讐心が自尊心や権力と結びつくと手に負えないものになりまして、際限のない復讐にまで及びます。創世記章にはカインとアベルの話がありまして、その二人の間で人類初の殺人が犯されます。そこから続く人類の歩みは、文明の発展と共に進んで行きますが、罪の故に降りかかった呪いが深く根を下ろしていく様子が同時に描かれます。そして、殺人者となったカインの子孫にレメクという人物が登場しますが、文明の父とも言えるこの人物は妻たちに向かって次のように歌った、と23節に記されています。

 

レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

 

殺人を犯したカインに対して、神は憐れみをもって保護を約束されまして、さらにカインの命を奪おうとする者には7倍の復讐をするとまで言われました。そこで復讐は神のなさることと明確に告げられていたのですけれども、文明の発展した時代に生きるレメクに至って、もはや復讐は自分のすることとされてしまいまして、己が思いのままに、敵対する者への徹底的な攻撃が高らかに歌われるまでになっています。これは聖書が現代に突きつけるところの文明批判と言えますから、私たちはその呪いの重さを思わざるをえません。

これに対して、モーセは「目には目を、歯には歯を」という主の掟をイスラエルに与えました。この「タリオ法」は、周辺世界でもよく知られた古からの法的な伝統でしたけれども、主なる神はそれをご自身の意に適ったものとして、モーセに示されたのでした。そこで、際限のない復讐心に歯止めをかけると共に、先に述べましたような、隣人の命を守る精神をもって復讐の呪いを克服する道が備えられました。

 主イエスが引用されている、「目には目を、歯には歯を」という古からの教えは、決して野蛮な復讐法ではなくして、主なる神がモーセを通して教えられた、義に生きる人の道です。

 

 そこで主イエスが語っておりますのは、その旧約の教えに込められた神の御旨を、いっそう鮮やかに、人の思いもよらぬ仕方で明らかにされた、神の国の教えです。

 「悪人に手向かってはならない」と言われます。こちらは禁止命令ですが、これと対になっているのは「求める者には与えなさい」という積極的な命令です。この二つで一つのことを主は弟子たちにお命じになります。つまり、「愛しなさい」ということです。

 三つの具体的な教えが最初の命令に続きます。まず、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という有名な御言葉です。有名なだけに解釈も多様です。しかし、カルヴァンも指摘しますように、あまりに細かいことに拘りすぎますと本来の意味を掴みそこねます。例えば、「何故右なのか」ということを問題にする人があります。普通は右利きですから、そこで頬を打つとすれば自然と左側になりますね。敢えて右を打とうとすると、返しになってしまう。けれども、手の甲で頬を打つことに意味がある、と見出した学者はないようです。

ここで注意すべきは、右と左とで対になっていること、そして、通常右が最初に挙がるということで十分だと思います。そして、ここで言うのは「平手打ち」ですから、これは痛みよりも屈辱を相手に与える行為です。そうしますと、「屈辱に耐えなさい」というのが、主イエスが命じておられることになるでしょう。

 

 二番目は裁判の事例でして、おそらくここで言われているのは借金か何かで持ち物が差し押さえられる状況かと思われますが、下着を取られてしまうなら、上着も与えてしまいなさい、と言われます。財産の半分を取られそうになったら、残る半分もとられる覚悟をしておくのがキリスト者である、とカルヴァンは説明していますが、ここでもまた「上下」という対であることで十分です。これは第三の例でよく理解できますが、つまり「倍」ということが問題になっているようです。

 

 三つ目は、強制労働についてでして、軍隊などに徴用されて、荷運びですとか、危険地帯の行軍に参加する場合を指しているようです。1ミリオンですと、およそ1.5kmの道のりです。1ミリオン行けと言うのなら、その倍の距離を歩きなさい。

 

 この三つの事例には、何故そうするのか、どうしてこうも無抵抗にならねばならないのか、理由が述べられていません。また、そうするとどうなるのか、どういう益があるのか、と説明してはくれません。例えば、悪の力に逆らっても弱い者は何もできやしないから諦めなさい、ということで弱さに留まれということなのか。或いは、無抵抗でいれば、相手が同情心を起こして、敵が友となるという奇跡みたいなことが起こるかもしれない、というようなことなのか。そうしたことは何も付け加えられていません。

 主イエスは、これら三つの事例を掲げまして、「悪に対抗するな」と言われます。「非暴力・無抵抗」の抵抗でありましても、そのような意図の下で行われるならば、やはり「立ち向かうこと」に違いありません。戸惑いますのは、悪に立ち向かうことを止めてしまうのならば、私たちの社会は滅茶苦茶になってしまうのではないか、正義も公平も全く実現されないではないか、という当然の疑問がわくからです。

そこで思い起こしたいことは、この山上の説教の性格です。皆さんと一緒にこれまで数度に亘って今日まで聞いてきた御言葉ですが、これは初めから世の常識に適った倫理を伝えようとしている説教ではありませんでした。悪をもって悪に返さず、ということならば、ギリシャの哲学者のプラトンでも、「目には目を」という教えを大切にしてきたユダヤ教のラビたちも、同じように語っています。「不正に耐え忍ぶ」ということと、「正しい復讐を承認する」ことは、互いに対立するような内容に思えますが、実際はこの二つが両立して人間社会は保たれています。しかし、主イエスは、こういうジレンマには関わらずに、天から遣わされた御子として、「抵抗するな」と一方的に語ります。ここでは、「目には目、歯には歯」という原則が、主イエスの言葉と業によって全く新しく語りなおされます。すなわち、片目を奪われたらもう一つの目を差し出しなさい、上の歯を奪われたら、下の歯も差し出しなさい、ということでして、相手が受けるべき神の報いを、自分のものとして積極的に受けなさい、ということです。現実的には、屈辱に耐えることとして私たちには経験されうることですが、主が言われるのはそういうネガティブな勧めをしているのではなくて、もっと大胆に、積極的に、不正を背負いなさい、というのでしょう。

つまり、ここで意図されているのは、私たちがそれをできるかできないかということではなくして、まず主イエス御自身がそうなさるのです。私たちが創造主である神に与えた屈辱や、神から強奪した財産や労役に対して、私たちが受けるべき報いを神は私たちの上に報復なさることはせず、ご自分の子であるイエスに負わされました。主イエスは悪に立ち向かいませんでした。反抗する必要はなくて、神の御子として、神から与えられた善をもって積極的にご自分の御業を果たされました。主イエスにおいて、悪と善はぶつかって火花を散らしはしません。むしろ、十字架に向かう主イエスの忍耐と服従は、そのまま悪を飲み込むのであって、触れてくるすべての者にすべてを与えて、救いの御業を果たされました。

右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい、などとは全く浮世離れした呼びかけです。しかし、それは当然です。主イエスはこの世界の原則に従ってはおられないからです。ここにあるのは天に属するものの倫理であって、神の国における人のありようです。ですから、この世の実情に合わせた理解では、到底近づけない教えなのでして、主イエスだけがまずは辿りえた、神の義の道筋です。

主イエスは「求めるものには与えなさい」と言われます。抵抗しないということは与えることです。目には目を与え、歯には歯を与え、命には命を与える。「借りようとする者に、背を向けてはならない」とここで初めて、私たちの分かる範囲で、憐れみ深くあるようにとの勧めが与えられます。しかし、これも、主イエスならばそうなさるはずである、という同じ深さにおいて、一切拒まないことが求められてきます。それは、私たちには辿りえない神の義の在りようです。私たちは、ここに躓きさえ覚えます。

ですから、ここに与えられた命令は、言われた通りにすればよいというような律法主義では果たされません。ここにあるのは、生ける言葉の働きです。主イエスが実現し、私たちを招く、新しい人の生き方に、徐々に見えてくる聖霊の業です。原理ということで言いますと、この言葉に表された主イエスの主張は完全に平和主義であり、完全に非暴力なのであって、それをこの世界の実情に合わせて割り引いて捉えようとするのは誤りです。私たちはこの言葉をいただいて、ここに表された義を既に果たしたものとさえ認めていただいて、この言葉を命として、ここに憩い、ここに生かされるようにされます。それが、私たちの信じた信仰です。罪から逃れられないでもがくこの肉体に、主イエスのこの言葉が宿って、行く道を示してくださいます。この過激な神の国の教えが、どう私を生かし、どう私たちの教会を動かし、どのように社会に光をもたらすかは、すべてが明らかであるわけではありません。ただ私たちが覚えたいのは、この言葉によって、私たちは、この世界に何とか秩序を保っていくための妥当な知恵を与えられているのではなくて、私たちのうちに宿るこの言葉が、社会と生活を絡め取っている復讐と暴力の連鎖を断ち切る楔として、機会をうかがっているのだということです。

悪に立ち向かわないこと。その積極面としての与えること。合わせて、これを「犠牲」と呼ぶことができるでしょう。キリストが、私たちのためにささげられた命の犠牲です。これが、私たちに示された根源的な愛の姿であり、私たちキリスト者の倫理を形作ります。そして、犠牲は強いることができません。キリストの犠牲は、喜んで神の御旨に従うことでした。限りのない屈辱と苦痛が伴う犠牲に違いありませんが、それでも喜んで主は私たちのために命をささげられたのです。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とは神ご自身の御旨です。罪を犯した人間は神に敵対しています。普通に生活できているかもしれませんが、それは、神の寛大さに支えられているからです。そして、その罪人のために、神は真の子であるキリストを十字架に送られました。神自ら犠牲を払って、敵対する私たちを愛し、命を贖うことにされました。この神のもとで愛は完全です。そして、その愛がキリストに実っています。私たちはあるべき本来の愛のかたちをキリストに見ています。

聖書の中から一つの例が思い起こされます。ルカ福音書に記された徴税人ザアカイのことです。ザアカイはキリストに出会って、罪の孤独から救われました。その喜ぶ様子が印象的です。彼は自分が不正を働いた相手に対して4倍の償いを自分から申し出ました。そして、財産の半分を貧しい人々に分け与える決心をしました。罪の償いとはいえ、大きな犠牲に違いありませんが、強いられてではなくて、喜んでこれをするようにされました。「求めるものには与えなさい」という主の命令は、こういうふうに私たちのところに実るものではないでしょうか。

 今日、私たちに呼びかけられているのは、この愛の完全さを知ることです。人間社会の中でちらほらと姿を現す愛は陰に過ぎません。その本体は、神ご自身です。ですから、人を愛することは虚しいことではないのです。所詮人間の愛なんて、と投げやりになる必要はありませんし、人の壊れやすい愛を絶対視してしがみつく必要もありません。神が愛の根源であられて、願うならば、その愛を限りなく私たちの内に溢れるほどに、注いでくださいます。

 

 

天の父なる御神、私たちの思いは愛と憎しみが裏腹で、昨日の友は今日の敵と、いともたやすく相なり果ててしまうのですが、あなたの愛は完全であられ、キリストを通して、それを保証してくださっています。どうか、主イエスにあって、私たちがあなたを信頼し、あなたの愛に希望をもって、隣人に向かうことができますように。人と敵対関係に陥ってしまったときに、どうか憐れんで下さって、私たちの罪を赦し、忍耐しながら互いに愛しあう関係へと立ち戻らせてください。今週も主イエスと共に、あなたの子としての信仰の歩みを私たちになさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。