マタイによる福音書1924

心はどこに?

 

 「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい」。これが、主イエスが弟子たちにお求めになったことです。「富」とは「宝」「財産」のことです。世の中で価値のあると認められた金銀財宝に心を奪われてはいけないと、主イエスは教会に警告なさっています。

 そういうことは世の中の常識だと私は思っていました。子供のころ祖母から聞いた昔話でも、強欲爺さんは最後に厳しいしっぺ返しを食うことになっていました。正直に慎ましく生きていれば、思いがけない宝が畑で見つかることもある、という教訓が心に沁みつきました。

 けれども、いつしかそんな常識など通用しない世の中になってしまったことに気がついて愕然としました。テレビで高校生たちの討論会を見ていた時に、「一番大切な者はお金。一流の大学を出て社長になるのが夢。お金がなければ友達もできない」と言いきる青年がいて、他の学生たちは皆反論しはしたのですけれども、どうも彼の発言が最も率直で説得力があったようでした。

 「夢が大切」とか「友達が大切」とか言っているけれども、お金がなければ君たちは何もできないじゃないか、という彼の強い主張に押されて、他の高校生たちは皆黙ってしまった。私は彼が特別に強欲なのだとは思いませんでした。マモンの支配する時代の中で、私たちはこういう青年を育てて来てしまった。それは、私たちも同様に、同じ時代の空気を吸っているからで、キリスト者ではあっても地上の富のしがらみから逃れられないでいるからに違いないと思いました。かつてサタンが主イエスを試みた言葉が、教会をも含む私たちの社会に響きます。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。

 主イエスは今朝、私たちにこう問いかけます。「あなたがたの富のあるところに、あなたの心もある」。はたして、わたしの心は今、どこにあるのでしょうか。

問題は、「富を積む」という行為にあるというよりも、その富の所在です。それはまた同時に、その富とは何か、ということでもあります。

地上の富は、将来を案じて銀行口座に蓄えられている貯蓄でありましょうし、長年積み上げて来た家財一式であるかも知れません。親から譲り受けて来た土地や会社があるかも知れません。また、金銭ではなくとも、ひたすら勉強精進して確保してきたキャリアや現在の社会的地位があり、自己管理を怠らずに鍛えて保持してきた健康な体がある。健康が一番という声は時折教会の中でも聞かれます。

私たちはこうした地上の富にほとんどすべての時間を費やして毎日の生活を送っています。地上に対置されるところの天を持たないのであれば、人生はそうしたものでしかないのかも知れません。消費生活が私の生きるすべてとなって、自分自身もまた世の中の仕組みに消費されるものとして消えていく他ない。

「マモン」とは聖書にある言葉です。24節にある「富」という言葉は、アラム語で「マモン」とそのまま書いてありまして、本来の意味は「所有物」という程のことを意味します。けれども、それが敢えてギリシア語に訳されずにそのまま「マモン」とあるのは、そこに特別な意味が認められているからでしょう。それは、遡ればシリアの神の名前であって、聖書の文脈では「偶像」を含意します。そして、この偶像には現実の力があるわけです。人と社会とを虜にし、自らと一緒に滅ぼします。

現代の教会に及んでいるマモンの力は十分に検証済みとはいきませんが、かなり自覚されてきていると思います。ある米国の神学者が次のような反省をしています。私たちはマモンにではなく神に仕えることを信仰によって確信しているけれども、毎日の生活の中ではマモンによって優先順位を決め、行動の決断をしている。私たちは貧しい人々にもっと十分な配慮をしたいと願っているけれども、自分自身のための必要が多すぎて、それが実行できないでいる。私たちはもっと憐れみ深く振舞いたいと将来の見通しを立てるけれども、今のところは買いたいものが山ほどある。二人の主人に仕えることは出来ない―その通りだけれども、それは、「マモンのものはマモンに、神のものは神に返しなさい」ということで、日曜日の礼拝の時間は神にささげるけれども、その間、マモンが休息をとっているのに過ぎない。

主イエスはこれまでも十戒の教えを通して、私たちの心の内を見つめるように促しておられました。施しや祈りや断食という信仰の行いについても、同じように神に対する心の純粋が問われました。今日の教えでも同じことが当てはまります。私たちの所有について、私たちの心と神との本当の結びつきが問われます。この世で安楽に生きたい、けれども、天の恵みにも与りたい、という自分に都合の良い二心では信仰は成り立たない、ということです。

 22節で「体のともし火は目である」と言われます。素直な眼差しはその人が心身ともに健康であることを表し、「濁った眼」すなわち「邪な眼差し」はその人の不健全さを表す。「全身」とありますが、肉体ばかりではなくて、その人の生活や考え方をも含めたその人そのものを指しています。また、ともし火は人の命や生命力を表しますが、旧約の詩篇には次のような祈りの言葉が書き留められています。

 

  主よ、あなたはたわたしの灯を輝かし

  神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。(18:29

 

私の命の炎を燃え立たせてくださるのは神であって、それによって私を取り囲む闇が取り払われる。逆に、ともし火が吹き消されてしまえば、私の命は闇の中に閉ざされる。ヨブ記では次のように言われています。

 

  神に逆らう者の灯はやがて消え、その火の炎はもはや輝かず、

  その天幕の灯は暗黒となり、彼を照らす光は消える。

 

「ともし火」や「光」で表されるのは、生まれつき誰しもに備わっている身体的な生命ばかりではありません。それは神のもとから人に与えられる恵みであり、特に暗い道に迷わず正しい道を歩むことができるように示される御言葉です。詩編119編の有名な聖句を想い起すことができるかと思います。

 

  あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。(105節)

 

地上の宝に目を奪われて、天の父のもとに蓄えられている豊かな財宝のことを忘れる時、人の命の輝きは鈍くなり、暗闇の中を出口なく彷徨い歩くことになる。この世の宝が虫に食われ、錆に覆われ、悪人に奪われてしまうのと同じように、そのモノに支配された人の命も儚く消え去る他はない。もとより、天の神が御自分から知らせてくださるのでなければ、人はその光のありかに気づくこともありませんでした。しかし、天にある命の光は、聖書の言葉によって神がお選びになった民に特別に示されて、罪のために闇に覆われた世界にも、ともし火が灯されました。

 「富は、天に積みなさい」とは、天の父のもとにあって、この地上では決して得ることのできない、神の恵みを自分のものとすることです。それは天とは言いましても、手の届かないところにあるのではなくて、私たちの手元にある聖書を通して近づくことができるものです。この御言葉によって、私たちは天に心の預け場所をようやく見出すのでして、その御言葉を聞くことによって全身を明るくしていただき、マモンの暗い束縛からも解放されます。

 積極的な行為としては、「富を天に積む」ことは、御言葉を実行することになります。天に功績を積み上げるために善行に励むという意味ではなくて、天にある豊かな恵みに養われながら隣人に接することが、マモンから解放された自由に生かされることですし、光に照らされた道を歩む清々しさにつながるということです。天にとって置かれている富とは、神が教会に約束なさっている神の国に他なりません。それを文字通り手にするのは、終末に至ってのことでしょう。けれども、それまで私たちの「富」は約束手形に過ぎないのであって、ただひたすら忍耐して生涯を送らねばならないのかと言いますと、信仰とはそういうことでもないわけです。天を一途に見上げて生きるということは、この世と積極的な関わり持たないどころか、むしろ光のあるところでこの世界に関わって行くことを意味します。主人はただ一人しかおられません。神だけが真に私たちの命を明るく照らし出すことのできる主人です。そのお方に仕えるということは、神が御自分の創造なさったこの世界を修復しようとされる、そのお働きに私たちが召されるということです。経済生活が否定されて、キリスト者全員が隠遁者になることが救いではなくて、モノをモノとして正しく用いながら、神の恵みに基づく働きをしていくことへと私たちは遣わされます。

 「天に富を積む」弟子たちの働きはマタイの19章で再び取り上げられます。金持ちの青年が、聖書の教えを完全に守ったと思って、永遠の命という天の宝を報償としていただこうと願ったのですけれども、主イエスは彼に対して、次のように言われました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。本当に一途に天の報償を思うならば、地上の富はもはや道具に過ぎません。ですから、それは神の御旨に従って自由に用いることができるはずです。貧しい隣人がいれば、共に持ち物を分かち合うのが神の御旨に違いありません。神は御自身から、御自分に背いた人間に対して憐れみを注がれて、最も尊い御子の命を与えるのですから、その御旨を知って自分も行うことが、弟子たちの自由な振る舞いになります。金持ちの青年は、資産家であったがために、主イエスの「私に従え」との招きに応えることができなかったわけですが、しかし、御言葉によって本当にマモンから解き放たれた時は、自由に従うことができます。主イエスに従った使徒たちは皆そうした者たちでした。

 基本的には私たちに対する招きも同等です。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と主イエスは語っておられます。私たちは心が定まらないまま「神と富とに同時に仕えることは」できません。

 とはいえ、一旦、この世の富に慣れ親しんだ生活から人が自由になるのは容易ではないことは、主イエスもよくご存じでした。一体誰が救われるのか、といぶかしむ弟子たちを主はたしなめようとはなさらず、「それは人間に出来ることではないが、神は何でもできる」とお答えになりました。マモンに対する私たちの弱さは絶望的な程です。けれども、それを知った上で、そうした弱い弟子たちを自由にするために主イエスは十字架に上られました。そして、死んで三日目に甦って、天の宝の保証を弟子たちにお示しになって、御自分の歩まれた道へ彼らを召されました。

神は主イエス・キリストの復活によって、天にある富の豊かさを私たちに示してくださいました。隣人と分け合う生活によって今の豊かな生活が破たんしたら私たちは惨めな生涯を終えることになるのでしょうか。そうはならない、ということを神は主イエス・キリストを通して私たちに教えてくださっています。金銭が悪だなどと主は言っておられません。それを神の御心に沿って有効に用いることができるかどうか、という私たちの心と生活の問題です。

 神に従う生活は、金銭に対する自由を私たちにもたらしてくれます。聖書の言葉を生きる知恵としていただいて、たとえどんな状況に陥っても神が共にいてくださることに励まされて、この世の良いモノを皆で分かち合っていく、実りのある生活が生じます。実際にはそうした生活の中に葛藤もあります。神の支配とマモンの支配が私の生活の中でせめぎ合っている。だからこそ、キリストは「天に富を積む」ようにと私たちを励ましてくださっています。私たちの主は、イエス・キリスト、ただお一人です。今、豊かに与えられているならば、豊かに分け与えることができるように、今欠乏に苦しんでいるならば、今はそうであっても天には自分のわけ前があるということに確信を持てるように、信仰の実りを願い求めてまいりましょう。

 

祈り

天の父なる御神、あなたが私たちに約束してくださっている、この世のものとは比較にならない天の宝を忘れて、身の回りの必要に追われてしまう弱さをもった私たちでありますけれども、あなたは御言葉を通して私たちの目に光を回復させ、あなたの御存在と私たちの上に注がれている憐れみとを仰がせてくださいます。どうぞ、素直にあなただけを見つめて、この世の富に惑わされないように、私たちの心を守ってください。御言葉に従って敏く時代を見分けることができるように、教会の歩みをも正しく導いてください。金銭こそが価値があると思われている暗い時代に、教会に召された私たちを通して、あなたの愛の光を輝かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。